上 下
12 / 24

9.紫雲英の原(1)

しおりを挟む
 静かなノックが響いた。
「入っていい」
 パソコンから目を挙げた周一郎の声に、ドアが開いて以前よりも痩せた高野が現れる。相変わらず喪服を思わせる黒スーツの執事は、足元を擦り抜け、部屋に走り込んだ青灰色の猫を止めもしない。
「参りました」
 穏やかな笑みに思った以上に安堵した。
「ルト」
「なう」
 周一郎の声に猫は人のように応じて、しなやかにソファに飛び乗った。すぐに足で踏みつけた一冊の小説に鼻を落とす。
「やっぱりそいつか?」
「にゃ」
 真珠色の歯を剥き出して見せたから、周一郎はその本をルトの足の下から拾い上げた。
『紫雲英の原』
「……古めかしいタイトルをお使いですね」
 いつの間に隣室へ入ったのか、豊かな香りを漂わせながら、高野がコーヒーを準備してくれた。
「雲霧ですか」
「知っているのか?」
「私どもにはよく知られた名前でしたが」
 高野は苦笑した。
「書かれた方は昔の小説がお好きなのでしょうか」
「さあな」
 周一郎は冷ややかに作者の名前を見つめる。
 石路技鷹。
「今は滝さんの担当編集者だよ」
「とすると、お若い方ですね」
「ちなみに、滝さんは石路技が以前作家だったとは知らない……いや、作家志望だったと言い換えるか」
 石路技鷹の名前で出したのはこの1冊切りだ。蓮華畑で出会った男女の恋愛を書いた平凡な小説、けれどもそこかしこに真実が匂う作品。
「なるほど」
 高野はくすりと笑った。
「そう言う編集者ならば、滝様と言う作家は不愉快でしょうね」
「だろうな」
 滝に関わる人間は基本誰でも最低限度は調べてある。朝倉家に障害となるか、佐野に関わりがあるか、滝に害を為さないか。もっとも調べたところで、関わりに介入することはほとんどないし、よほどの危険がない限り、見守るだけだ、消去することもない。
 だが、今回はそれでは甘すぎたのか。
「この内容はほぼ事実だ。石路技には笠間美津子と言う幼馴染が居た。レンゲ畑で将来を誓い合うような甘ったるい友人だ。だが、彼女は心臓病を患い、余命数ヶ月と宣告される。石路技は作家となって成功し、彼女を迎えに行くと約束するが、作家としての才能はなく、編集者として身を立たせる。もちろん、彼女を救うほどの財産は準備できない」
 周一郎はコーヒーを含む。いつもの慣れた香りに気持ちが安らいだ。
「心臓移植はまだまだ資金が必要ですね」
「ただのサラリーマンが準備できる額じゃない」
「なあーうー」
 ルトは匂いを嗅ぎながら甘い声を上げた。視線を向けて、爪で押さえつけている高王ヒカルの『月の魔法陣』を見下ろす。滝の匂いが付いているのかも知れないが、それでも。
「それを選ぶのが、お前らしいよ」
「にゃ」
「『いしろぎリネンサプライ』を入宮病院から傘下に変更したのがきっかけでしょうか」
「…不正に関わっていたのを暴かなかっただけでも親切だと思うが」
「契約者数は急激に減っていますね。こちらも数ヶ月内には傘下のものに変わります」
 周一郎はカップを傾ける。
「…『いしろぎリネンサプライ』が保持できていたら、『高王ヒカル』に拘る必要も、滝さんを抑える必要もなかったかも知れないな」
 石路技にとって、滝志郎と言う書き手は、絶対失うわけにはいかない作家となってしまった。失ってはならないが、売れてもならない作家だ。
「…どうして滝さんを選んだのかな」
 周一郎は嘆息した。
「それは簡単なことでございます」
 高野が意外そうに瞬きし、微笑む。
「滝様が厄介事に飛び込まれる方だからです」
「…違いないな」
 周一郎はくすくす笑う。
 そもそも、石路技鷹が『いしろぎリネンサプライ』の後継者で作家を副業としており今は編集者となっていること、『いしろぎリネンサプライ』が入宮病院の薬物横流しのルート確保に関わっていたこと、石路技の幼馴染笠間美津子は入宮病院に入院していて心臓移植を待っていたが、『いしろぎリネンサプライ』を外したことと当局の追及が始まって業績が悪化、心臓移植の費用がそちらで準備できなかったこと、同じく美津子に横恋慕していた入宮病院の一人息子の司が、事の展開に慌てて美津子にアプローチをかけたせいで負担のかかった彼女が死亡したこと、それを石路技が自分のせいだと思ったこと、そうしてその石路技が滝と周一郎が一緒に居るのを見つけたこと……などなどの理由を滝が知るわけも気づくわけもなく、今も何が何だかわからぬままに、ホテルのどこかで監禁されているのかも知れない。
「あるいは…滝様に、ハマられた、か」
 高野がぽつりと呟いて、周一郎は笑みを止めた。
「…不愉快だ」
「ご存知のはずです」
 冷静な高野の声に視線をそらせる。
「幾人もそう言う方がおられました」
「わかっている」
 周一郎は舌打ちしそうなのを堪えた。
 滝には時々妙な人種が魅かれてくる。どこに価値を認めるのか、まるで懐かしい友人のように、かけがえのない家族のように振舞おうとする輩だ。そう言う人間は、滝が滝の人生を歩むのを許さない。自分の隣に座り、自分のことを案じ、自分のためだけに生きろと望む、滝が臨もうと望むまいと。
 周一郎はそう言うものになりたくない。
「石路技は違う。滝さんの小説を盗用し、うまい汁を吸い続けたいだけだ。だから次の作品を際限なく強請る、出版するつもりもないのに」
「ならば、拉致する意味がありません。滝様には安全に作品を仕上げて頂き、それを利用すればいいだけの話です。滝様は気づかれていないのですから」
 高野は静かに高王ヒカルの『作家の舞台裏』を取り上げた。
「こんな風に、自分がこのような書き手であると必死に訴えなくとも良いはずです」
「……拉致は、入宮病院とは関係がない、と?」
 高野は静かに頷き、微笑んだ。
「ずっと一緒に居て欲しいのでしょう」
 坊っちゃまのように。
「…っ」
 ことばにされなかった声を察して、周一郎は顔が熱くなった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

薔薇と少年

白亜凛
キャラ文芸
 路地裏のレストランバー『執事のシャルール』に、非日常の夜が訪れた。  夕べ、店の近くで男が刺されたという。  警察官が示すふたつのキーワードは、薔薇と少年。  常連客のなかにはその条件にマッチする少年も、夕べ薔薇を手にしていた女性もいる。  ふたりの常連客は事件と関係があるのだろうか。  アルバイトのアキラとバーのマスターの亮一のふたりは、心を揺らしながら店を開ける。  事件の全容が見えた時、日付が変わり、別の秘密が顔を出した。

臓物爆裂残虐的女子スプラッターガール蛇

フブスグル湖の悪魔
キャラ文芸
体の6割強を蛭と触手と蟲と肉塊で構成されており出来た傷口から、赤と緑のストライプ柄の触手やら鎌を生やせたり体を改造させたりバットを取り出したりすることの出来るスプラッターガール(命名私)である、間宮蛭子こと、スプラッターガール蛇が非生産的に過ごす日々を荒れ気味な文章で書いた臓物炸裂スプラッタ系日常小説

常夜の徒然なる日常 瑠璃色の夢路

蒼衣ユイ/広瀬由衣
キャラ文芸
瑠璃のたった一人の家族である父・黒曜が死んだ。 瑠璃に残されたのは黒曜が教えてくれた数珠造りとその道具だけだった。 一人になった瑠璃の元に、宙を泳ぐ鯉を連れた青年が現れる。 青年は魂の住む世界『常夜(とこよ)』にある『鯉屋』の若旦那で黒曜の知り合いだと言った。 黒曜の仕事は魂の理を守る道具を作ることで、教え込まれた数珠造りがその技術だった。 常夜には黒曜の力が必要だから黒曜の仕事を引き継いでほしいと頼まれる。 孤独になった瑠璃は未知の世界で新たな生活に踏み出すことになった。

Even[イーヴン]~楽園10~

志賀雅基
キャラ文芸
◆死んだアヒルになる気はないが/その瞬間すら愉しんで/俺は笑ってゆくだろう◆ 惑星警察刑事×テラ連邦軍別室員シリーズPart10[全40話] 刑事の職務中にシドとハイファのバディが見つけた死体は別室員だった。死体のバディは行方不明で、更には機密資料と兵器のサンプルを持ち出した為に手配が掛かり、二人に捕らえるよう別室任務が下る。逮捕に当たってはデッド・オア・アライヴ、その生死を問わず……容疑者はハイファの元バディであり、それ以上の関係にあった。 ▼▼▼ 【シリーズ中、何処からでもどうぞ】 【全性別対応/BL特有シーンはストーリーに支障なく回避可能です】 【ノベルアップ+にR無指定版/エブリスタにR15版を掲載】

超絶! 悶絶! 料理バトル!

相田 彩太
キャラ文芸
 これは廃部を賭けて大会に挑む高校生たちの物語。  挑むは★超絶! 悶絶! 料理バトル!★  そのルールは単純にて深淵。  対戦者は互いに「料理」「食材」「テーマ」の3つからひとつずつ選び、お題を決める。  そして、その2つのお題を満たす料理を作って勝負するのだ!  例えば「料理:パスタ」と「食材:トマト」。  まともな勝負だ。  例えば「料理:Tボーンステーキ」と「食材:イカ」。  骨をどうすればいいんだ……  例えば「料理:満漢全席」と「テーマ:おふくろの味」  どんな特級厨師だよ母。  知力と体力と料理力を駆使して競う、エンターテイメント料理ショー!  特売大好き貧乏学生と食品大会社令嬢、小料理屋の看板娘が今、ここに挑む!  敵はひとクセもふたクセもある奇怪な料理人(キャラクター)たち。  この対戦相手を前に彼らは勝ち抜ける事が出来るのか!?  料理バトルものです。  現代風に言えば『食〇のソーマ』のような作品です。  実態は古い『一本包丁満〇郎』かもしれません。  まだまだレベル的には足りませんが……  エロ系ではないですが、それを連想させる表現があるのでR15です。  パロディ成分多めです。  本作は小説家になろうにも投稿しています。

『元』魔法少女デガラシ

SoftCareer
キャラ文芸
 ごく普通のサラリーマン、田中良男の元にある日、昔魔法少女だったと言うかえでが転がり込んで来た。彼女は自分が魔法少女チームのマジノ・リベルテを卒業したマジノ・ダンケルクだと主張し、自分が失ってしまった大切な何かを探すのを手伝ってほしいと田中に頼んだ。最初は彼女を疑っていた田中であったが、子供の時からリベルテの信者だった事もあって、かえでと意気投合し、彼女を魔法少女のデガラシと呼び、その大切なもの探しを手伝う事となった。 そして、まずはリベルテの昔の仲間に会おうとするのですが・・・・・・はたして探し物は見つかるのか? 卒業した魔法少女達のアフターストーリーです。  

セブンスガール

氷神凉夜
キャラ文芸
主人公、藤堂終夜の家にある立ち入り禁止の部屋の箱を開けるところから始まる、主人公と人形達がくりなす恋愛小説 ※二章以降各々ヒロイン視線の◯◯の章があります 理由と致しましてはこの物語の完結編が○○の章ヒロイン編と◯◯章の前半のフラグを元にメインストーリーが完結の際の内容が若干変化します。 ゲーム感覚でこの物語を読み進めていただければ幸いです。

胡蝶の夢に生け

乃南羽緒
キャラ文芸
『栄枯盛衰の常の世に、不滅の名作と謳われる──』 それは、小倉百人一首。 現代の高校生や大学生の男女、ときどき大人が織りなす恋物語。 千年むかしも人は人──想うことはみな同じ。 情に寄りくる『言霊』をあつめるために今宵また、彼は夢路にやってくる。

処理中です...