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9.紫雲英の原(2)
しおりを挟む「紫雲英、紫雲英、どこまでも広がる、その原で」
ごろごろ転がって出口に向かったはずだが、どうしてもうまく転がれなくて目眩と吐き気がしたてきたから、俺は少し休むことにした。
口を突いたのは昔読んだ小説の一章だ。確か幼馴染の男女がれんげ畑で転がって遊ぶ場面で、読んでいるだけで目の前に紫と白の花が揺れ、青い空ときらきら散る光が目に飛び込むような気がしたものだ。
だが、作者の名前は覚えていない。
「…そういうもんだよなあ」
溜息を吐く。
俺だって我を忘れて読み込んだ小説の一つや二つはあるが、作品名は覚えていても、作家名まではなかなか覚えなかった。1冊だけでは物足りなくて、他にも作品はないかと探し始めてようやく、書き手の名前が目に入る。そんな作品は、そう多くない。
そういう作家になりたいものだと思っていたし、『猫たちの時間』を出した時には、そういう作家だと信じていたような気がする。
けれど鳴かず飛ばずの時間が重なり、書くもの書くものが認められず、そもそも書いていて楽しいとさえ思えなくなって、多くはそこで筆を置くのだろう。俺が書くのをやめなかったのは、どちらかと言うとただ、周一郎との関わりを形にしておきたかっただけかも知れない。
猫の目でものが見える少年。
猫の視界と人の視界を併せ持って世界を眺め、しかもそこに自分は受け入れられず、ただただ惨劇も悪夢も眺めるだけ、痛みも苦しみも降りかかるだけの場所に閉じ込められて、嬉しいとか楽しいとか幸せだとか気持ちいいとか、そう言うものを感じたことも味わったこともない生活に、たまたま滝が飛び込んでしまって、周一郎が見る見る変わっていくのが目を見張るほどの出来事だった。
凍りついてるわけじゃないんだ。
感覚が死んじまってるわけでもないんだ。
ただ諦めてるだけなんだ、無理だよなって。
滝は普通に味わってるのに。
滝は当たり前に受け取ってきたのに。
なんか、辛いよな。切ないよな。
なんで、こいつには何にもなしなんだ?
なら、いいじゃねえか、ちょっとぐらいわけっこしたって。
こいつが悪いわけじゃねえだろ。
確かにちょっとばかり捻くれてたり意地っ張りだったりするけどさ。
けれど、こいつだって必死に頑張ってきたじゃねえか。
持ってない分をなんとかやりくりして、人の間で生きてこうとしてたじゃねえか。
神様、あんた見えてんだろ?
なのに、こいつに何にもやらねえのは、きっと、関わったやつがわけてやれるか、見てるんだよな?
つまりはあんたからの挑戦状ってわけだ?
サイコロ振って人の運命決めてる奴に、あーだこーだ言われる筋合いはねえよな。
だから滝は滝のやり方で、周一郎に少しばかり、分けようと思った。
少し眠れ、その間外を見ててやるから。
少し安心しろ、その間他の相手をしててやるから。
で、少し笑え、そんなことぐらいで世界は壊れやしねえから。
なあ、周一郎?
「……書けてるかなあ…」
俺は呟いた。
「ひょっとして、書けてねえのかなあ」
だからこうして、書く機会も発表する機会も奪われてしまうのか。
それとも滝は、分けたつもりでその実、一欠片も周一郎に差し出せなかったのか、真実を。
「…真実、か」
ことばには命が宿るものだと思っている。
魔力とか磁力とかのそう言う『力』と言うよりは『種』のようなもの。
発した口から指先から、空気を通して紙を介して瞳を伝って染み込むもの。
人の胸の奥に辿り着き、密かに芽吹き、次の物語を生み出すもの。
それが『物語の真実』だと思う。
「……ふむ」
なぜ書くのかと聞かれたことがあった。売れもしない、本にもならない、読み手もほとんどいない、なのになぜ。
「…たぶん、それだけじゃないから…だな」
売れることではなく、本にすることではなく、読まれることでさえなく、それはひょっとすると物語というものの意味を全部否定するようなものかも知れないが、ただ『語る』こと。
「あー…書きてえなあ」
ちら、と再び『いしろぎリネンサプライ』と書かれたロゴを見やる。
「もし、石路技が俺を捕まえたとする。捕まえられても、俺は書くぞ? 書かせたくないなら殺すよなあ? 殺してないってことは書いていいってことだよな?」
俺が書くのは問題がない。けれど、発表するのは問題がある、のか?
「……いや……まさか……なあ……?」
思い浮かんだのは『月下魔術師』のランティエだ。絵画の贋作を仕事にする男は、かつて自分の絵画を描いていた。俺は『書く』ことを望むが『本にする』こと『売れる』ことだけを望む場合もあるとしたら。
『物語は全て掌で踊る。その踊りに魅せられた読者の賞賛は美酒だ。その酔いが、作家を明日の物語へと奮い立たせるのだ』
「石路技……じゃ、ねえ、とか?」
高王ヒカルは、誰、なのか?
「まさか……まさかだよなあ………」
ゴッ、ゴン。
「っ」
不意にドアが重い音を響かせて開けられる。
今更逃げるわけにも、いや逃げられる状況でもない。
滝は息を詰めて、開くドアを見守った。
ごろごろ転がって出口に向かったはずだが、どうしてもうまく転がれなくて目眩と吐き気がしたてきたから、俺は少し休むことにした。
口を突いたのは昔読んだ小説の一章だ。確か幼馴染の男女がれんげ畑で転がって遊ぶ場面で、読んでいるだけで目の前に紫と白の花が揺れ、青い空ときらきら散る光が目に飛び込むような気がしたものだ。
だが、作者の名前は覚えていない。
「…そういうもんだよなあ」
溜息を吐く。
俺だって我を忘れて読み込んだ小説の一つや二つはあるが、作品名は覚えていても、作家名まではなかなか覚えなかった。1冊だけでは物足りなくて、他にも作品はないかと探し始めてようやく、書き手の名前が目に入る。そんな作品は、そう多くない。
そういう作家になりたいものだと思っていたし、『猫たちの時間』を出した時には、そういう作家だと信じていたような気がする。
けれど鳴かず飛ばずの時間が重なり、書くもの書くものが認められず、そもそも書いていて楽しいとさえ思えなくなって、多くはそこで筆を置くのだろう。俺が書くのをやめなかったのは、どちらかと言うとただ、周一郎との関わりを形にしておきたかっただけかも知れない。
猫の目でものが見える少年。
猫の視界と人の視界を併せ持って世界を眺め、しかもそこに自分は受け入れられず、ただただ惨劇も悪夢も眺めるだけ、痛みも苦しみも降りかかるだけの場所に閉じ込められて、嬉しいとか楽しいとか幸せだとか気持ちいいとか、そう言うものを感じたことも味わったこともない生活に、たまたま滝が飛び込んでしまって、周一郎が見る見る変わっていくのが目を見張るほどの出来事だった。
凍りついてるわけじゃないんだ。
感覚が死んじまってるわけでもないんだ。
ただ諦めてるだけなんだ、無理だよなって。
滝は普通に味わってるのに。
滝は当たり前に受け取ってきたのに。
なんか、辛いよな。切ないよな。
なんで、こいつには何にもなしなんだ?
なら、いいじゃねえか、ちょっとぐらいわけっこしたって。
こいつが悪いわけじゃねえだろ。
確かにちょっとばかり捻くれてたり意地っ張りだったりするけどさ。
けれど、こいつだって必死に頑張ってきたじゃねえか。
持ってない分をなんとかやりくりして、人の間で生きてこうとしてたじゃねえか。
神様、あんた見えてんだろ?
なのに、こいつに何にもやらねえのは、きっと、関わったやつがわけてやれるか、見てるんだよな?
つまりはあんたからの挑戦状ってわけだ?
サイコロ振って人の運命決めてる奴に、あーだこーだ言われる筋合いはねえよな。
だから滝は滝のやり方で、周一郎に少しばかり、分けようと思った。
少し眠れ、その間外を見ててやるから。
少し安心しろ、その間他の相手をしててやるから。
で、少し笑え、そんなことぐらいで世界は壊れやしねえから。
なあ、周一郎?
「……書けてるかなあ…」
俺は呟いた。
「ひょっとして、書けてねえのかなあ」
だからこうして、書く機会も発表する機会も奪われてしまうのか。
それとも滝は、分けたつもりでその実、一欠片も周一郎に差し出せなかったのか、真実を。
「…真実、か」
ことばには命が宿るものだと思っている。
魔力とか磁力とかのそう言う『力』と言うよりは『種』のようなもの。
発した口から指先から、空気を通して紙を介して瞳を伝って染み込むもの。
人の胸の奥に辿り着き、密かに芽吹き、次の物語を生み出すもの。
それが『物語の真実』だと思う。
「……ふむ」
なぜ書くのかと聞かれたことがあった。売れもしない、本にもならない、読み手もほとんどいない、なのになぜ。
「…たぶん、それだけじゃないから…だな」
売れることではなく、本にすることではなく、読まれることでさえなく、それはひょっとすると物語というものの意味を全部否定するようなものかも知れないが、ただ『語る』こと。
「あー…書きてえなあ」
ちら、と再び『いしろぎリネンサプライ』と書かれたロゴを見やる。
「もし、石路技が俺を捕まえたとする。捕まえられても、俺は書くぞ? 書かせたくないなら殺すよなあ? 殺してないってことは書いていいってことだよな?」
俺が書くのは問題がない。けれど、発表するのは問題がある、のか?
「……いや……まさか……なあ……?」
思い浮かんだのは『月下魔術師』のランティエだ。絵画の贋作を仕事にする男は、かつて自分の絵画を描いていた。俺は『書く』ことを望むが『本にする』こと『売れる』ことだけを望む場合もあるとしたら。
『物語は全て掌で踊る。その踊りに魅せられた読者の賞賛は美酒だ。その酔いが、作家を明日の物語へと奮い立たせるのだ』
「石路技……じゃ、ねえ、とか?」
高王ヒカルは、誰、なのか?
「まさか……まさかだよなあ………」
ゴッ、ゴン。
「っ」
不意にドアが重い音を響かせて開けられる。
今更逃げるわけにも、いや逃げられる状況でもない。
滝は息を詰めて、開くドアを見守った。
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