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01.僕が手料理を食べられなくなった理由
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突然だが、高宮 恭一は手料理が食べられない。
それは飲食店なら何も感じないとか、作った人間の普段の生活態度や身嗜みを考慮して「こいつのは厳しいな……」と言うものでも、よくある友達のお母さんのおにぎりは無理とかそう言った類のものでも無く、本当に食べられない。
なんなら、自分自身の自炊で作った物ですら駄目である。
でもまあ……飲み物なら、ギリいけるかな? と言う感じだ。
「僕、手料理無理なんだ」
そう言うとほぼ全ての人間が恭一の事を潔癖症なのかと問うがそうじゃない。別に多少の汚れなんて気にしない方だし、その証拠に部屋も全く綺麗じゃない。
当然生まれた時からそうだったわけではない――が、それを掘り下げることは恭一の心の傷をダイレクトに抉る行為だ。
レトルトやインスタントの類ばかりを食べているとよく友人達は「お前長生き出来ないぞ」と言った。
でも、長生きして一体何になるのだろう?
皆毎日愚痴と不満に包まれてストレスフルで生きているくせに、どうして長生きしたがるのだろう。問うてもきっと困らせるか呆れられるかのどちらかだろうから言葉にはしないけれど。
「……――」
手頃な雨宿り出来る軒先を見付けて足を止め、恭一はぽろぽろと泣き出した梅雨の空を軽く睨む。
朝天気予報のアプリで確認した今日の降水確率は四十パーセントだった。外出時にも空を見上げてこれならきっと大丈夫だろうと思って出掛けて、用事を済ませさっさと帰宅の途についたのにどうやらギリギリアウトみたいだ。
ぽつぽつとアスファルトに落ちる大き目の雫が梅雨特有の匂いとじっとりと纏わりつくような空気を連れて来て早くも不快指数は急上昇する。
家まであと少し。本降りになる前に走った方が却って良いのかも知れない。
――リリンッ
少し離れた位置で澄んだ音がした。
よく店の入り口に取り付けられているドアベルの音だろう。その証拠に香しい珈琲の匂いが強くなる。
恭一が今一時的に雨から守って貰う為に身を寄せたこの店はどうやら喫茶店のようだ。敢えて音がした方を見ずに過ごしていると、声が聞こえる。
「ねえ、キミ。キミよ、そこのキ・ミ」
「――え?」
まさか話しかけられるとは思ってなかった恭一がそちらを見ると、背が高く肩幅の広い大人の男が立っていた。
口調が女性的であることを自身のルックスを武器に問答無用で黙らせるほどの独特な強いオーラを持つ男は店の関係者なのだろう。
清潔感を感じさせる皺一つないモスグリーンのエプロンをして緩いパーマの掛かった長めの髪をハーフアップで括っている。
「すみません、すぐに離れますね」
店の入り口で突っ立ってられると困る。
そんなことを言われると思った恭一がさらに粒を大きくした雨を地上に降らせる雲をちらりと見ると、男は緩く首を振った。
「違うわよ、誰も追い払いなんてしないわ。――良かったら中に入らない? もうランチタイムも終わりだけど昼食は取った? もしまだなら軽食位は出せるから、ゆっくり中で休んで行ってちょうだい」
――雨の日はどうしてもお客さんが少なくて暇なのよ。
そう優しい穏やかな声で言って困ったように微笑む男の声を聞いて、恭一の脳裏に記憶がフラッシュバックする。
エプロン。
括った髪。
食欲をそそる香り。
温かな湯気を上げる美味しそうな手料理たち。
ズキン、と疼いた心の傷を咄嗟に庇うように強く拳を握り締めて恭一は硬い表情のまま口をほとんど動かさず機械的に言葉を紡いだ。
「すみません。僕は、手料理が食べられないんです」
「あっ、ちょっと?!」
そして反射的にすっかり本降りの域に突入した空の真下に飛び出す。
びしょ濡れだ。
何もかも、びしょ濡れである。最悪だ。
それでもあそこに居るよりは良いと思ったのは事実なので恭一はコンビニに寄って傘を買うこともせず自宅までの道を走った。
***
恭一の母は若くして……そう、とんでもなく若くして恭一を産んだ。
幼い頃から「お父さんはお星さまになったのよ」と言われて育てられたので「そうか」と思って成長した。
ある程度まで大きくなるとお星さま=死んだ、と理解出来たので母に父親がどんな人間かを問うことも無く日々を過ごした。祖父母が金銭に余裕のある資産家だったこともあって特に苦労をすることも無く成長出来たことにはとても感謝しているが、そんな記憶も今では疎ましい。
「さあ恭一、ご飯にしましょう」
授業参観などで恭一の母を知る幼い頃の同級生達は母では無く姉だと誰もが口を揃えて言うほど母は事実として若く、そして童顔だった。
そして料理がとても上手で今思えばよく朝からあんなに手を掛けたものを毎日毎日十数年一日も欠かすことなくやってくれたなと思うほど毎日の手作りの食卓は彩と品数に溢れていた。
おやつも全部素人が手作りしたとは思えない店で売れるレベルの物が毎日当然のように並んで、それがどれだけ貴重なことなのかを知らない恭一が小学校低学年の時の七夕の短冊に「れいとうしょくひんがたべてみたい」と書いたくらいだ、と言えばその徹底ぶりがなんとなくでも伝えられるだろうか。
祖父母と母との四人暮らし。
恭一は高校二年生になって、目指す大学も決まってさあ頑張ろうと言うある金曜日の夜。「話があるの」と母に呼び止められた。
普通だったら反抗期真っただ中でもおかしくない年齢ではあったが恭一の心はその頃も一貫してとても穏やかで、やっと三十代に突入したにも関わらず二十代前半のようないっそ少女の面影すら残している母の言葉に素直に頷いて祖父母とともに話のテーブルに着く。
「結婚したい人がいるの」
深刻そうな母の顔から、どんな不幸が飛び出るかわからないと身構えていた恭一に掛けられた言葉はそれだった。
「良いじゃない、おめでとう。どんな人なの? 僕も会ってみたい」
恭一は素直に、自分の胸の内を言葉にした。
だってそうだろう?
戸籍を見て確認まではしていないけれど、死別した父とは年齢的なものでもしかしたら籍を入れていないかも知れないと言うこと位は理解できる年齢に到達していた恭一は心の底からそう思った。
まだ若く、そして何より可愛らしい母がモテない筈がないのだ。
母を知る同級生達の中には「お前の母ちゃんって花の妖精みたいだよな」と言う人間もいたのだが恭一もそれは全面的に同意出来る位母は可愛らしい。
素直に同意した恭一を見て母は自分のお腹をさすった。きっとそれは無意識のうちに出た行動だったのだろう、嬉しさから感極まった表情の母の口からぽろりとこんな言葉が零れ落ちる。
――やっと、やっと私に『家族』が出来るのよ。
それが純度百パーセントの母の本音であり、本来は絶対に言うつもりが無かった失言であったことは……悲しいことに母自身の「しまった!」と言う表情が全てだった。
そして母の言葉を聞いた祖父母の態度も今思えば良くなかった。何馬鹿なこと言ってんのよアンタは、恭一と私達をなんだと思ってるのよ! と笑い飛ばしてくれれば良かったのに、二人は青褪めて即座に母をかなり強く叱りつけたのだ。見たことも無いくらい、恐ろしい顔をして。
「……ねえ、今のどういうこと? 絶対に何かあるんでしょう? やっぱり僕に、隠していることがあるんでしょう?」
「「「……――」」」
ぐるぐると今まで「そうか」と流して敢えて考えないようにしていた疑問が頭の中を支配する。
父親がいないのは、しょうがない。
でも父親が居た痕跡さえないのはいくらなんでもおかしいだろう?
誰も名前すら呼ばない。思い出話の一つも無い。命日に祈ることも無い。一緒に写った写真の一枚も無い。
おかしいだろう?
そんなの、とっくの昔に気付いていた。
でも、でも敢えて聞かなかったんだ。敢えて言葉にしなかった!誰も自分の出生に訳があるなんて思いたくないだろう? 考えたくもないだろう?
だから、だから聞かなかったのに! もし話すべき事情が本当に何処かにあったならいつか! 信じて待ってさえいれば母の方から話してくれるって、そう思って信じて待っていたのに!!!
ねえ母さん。
――『家族』じゃなかったなら、僕は一体何なんだよ。
ぽろぽろと大きな瞳から涙を零しつつ「ごめんなさい違うの」とまたしても無意識にお腹を庇うように手を置いて謝罪を繰り返す母を見て、恭一は人生最大級の怒りを覚えた。
目の前に置かれた湯気を上げる母の好きなノンカフェインのハーブティー。
添えられた恭一の一番好きな母の手製のマドレーヌ。
しあわせの、象徴。
「「きゃあっ!」」
「恭一、落ち着きなさい!」
思い切り片腕でテーブルの上にあったそれらを薙ぎ払うととても大きな音が出た。母と祖母はとっさに悲鳴を上げて、祖父は恭一を責めるのではなく落ち着かせるような口調で言う。
綺麗に細部まで掃除が行き届いたフローリングに散らばったティーカップの破片を冷めた気持ちで見て家を飛び出した恭一は役所に駆け込んだ。
しかし時間は金曜日の二十三時過ぎ。
当然のように役所は閉まっていて、明かりに誘われて時間外受付窓口に「戸籍の書類が欲しい」とどうにか告げると今の時間帯は住民票なら取れるけれど戸籍全部事項証明書、所謂戸籍謄本は発行できないと優しく教えられた。
個人認証カードを持っていれば対応のコンビニで土日や時間外でも取れるけれどそれも毎日六時半から二十三時までしか出来ないそうだ。
明らかに思いつめた顔で説明を聞いた恭一にそれとなくだが事情を聞こうとする担当者に「そうですか、出直します。ちゃんとすぐに家に帰ります」と機械的に返して恭一はまたそこから離れた。だって警察とかを呼ばれても困るから。
個人認証カードは失くさないように自宅で保管しているし、それに加えて時間外と言われてしまえばどのみち今すぐ手には入らない。
――さてどうしよう。
役所から少しだけ離れた場所で立ち尽くした恭一は、迎えに来た祖父に見付かった。
「お前が探している物は、ちゃんと家にあるから一緒に帰ろう。きちんと説明する」
「……」
なんかもう、色々とどうでも良かった。
家に戻ると恭一が壊したティーカップや色々撒き散らした痕跡は綺麗に片付けられていた。でももう、表面上いくら取り繕っても見える景色が違う。
祖父は聞いてもいないのに祖母と母は別室にいると言って恭一の前に少し古びた一枚の紙を広げて事実を教えてくれた。
時折表現をマイルドにしてはくれたが、纏めるとこんな感じだ。
なんと恭一はこの辺りで評判の美少女だった母を三人がかりで輪姦した大学生の『誰か』一人の子供らしい。
そいつらは事件発覚時もう成人していて、とかかなりの数の別件にも関与していて実刑が、とか言ってたけどよく覚えていない。DNA検査の有無なんて死ぬほどどうでも良い。
何より、恭一は戸籍上祖父と祖母の子供として届けられていた。
恭一がずっと母だと思っていた女性は『国に届けられている正式な情報』で言うと『姉』だったのだ。
ははは、と恭一は自覚無く笑っていた。
笑って、自分を痛ましげに見る祖父を見るでもなく先ほど自分が散らかしたフローリングの床を見て――叫んだ。
「だったら! ――だったら最初からそう育てろよ! 中途半端な真似してんじゃねえよ!!!」
叫んで自室に閉じこもり、一睡も出来なかった。
土曜の朝になりいつもの朝食の時間に部屋のドアが遠慮がちに叩かれて、昨日までずっと母だと思っていた女の声がする。
それが酷く煩わしくて思い切りドアに向かって半ば飾りのように机の上に置いてあった辞書を投げつけると「ご飯置いておくから」とだけ言い置いて女はいなくなったようだ。
叶うなら寿命が来るまで閉じこもっていたいのが本音だが、尿意には勝てない。ドアの向こうに気配が無いことを確認してドアを開けると一脚の背の低い椅子の上にトレーが置いてあった。
どんな感情で女がそれを用意したのかは知らないがまるで機嫌を取るように並んだ自分の好物達を見て、彼は咄嗟に口元を押さえる。
――吐き気がする。とんでもない、初めて経験する強烈な吐き気だ。
胃の中は空っぽなので汚く嘔吐いても胃液しか出ないがそれでも吐いた。
「恭一!」と泣くように叫んだ女が隣の部屋から飛び出して来て背中を撫でてこようとしたのを、恭一はなんの手加減も無く渾身の力で振り払う。
華奢な身体があっさりと尻もちをついたがそんなことは心の底からどうでも良かった。
心底驚いたように目を見開いたその顔が、恭一が最後に見た女の顔だった。
それから恭一は然程間を置かず家を出た。
祖父母は最初まだ高校生である恭一が一人で暮らすことをとても渋ったが、手料理を見るだけで必ず吐いてしまう恭一と妊娠中であった女の体調を考慮して祖父母が指定したマンションの一室ならばと折れた。そして祖父母は毎日の連絡を欠かさず、週末には必ず二人揃って会いに来た。
女も夫となる男に連れられて何度も訪ねて来たが恭一は一度も会わなかった。それに関してはもう、意地だった。
あの一件が起きるまでは自宅から通える大学を志望していたが当然のように進路を変更し地元から遠く離れた東京の大学に進学。
その際大学から程近い立地のとても良い新築マンションの一室を祖父母は「生前贈与だから」と恭一に買い与えた。名義も恭一だった。
恋人や家族が出来ても長く暮らせるようにと選ばれた質の良い2LDKの広い部屋は一人暮らしの恭一にとってはがらんどうで孤独をとても強く煽った。だから、大学を卒業し就職したのを機にそのマンションを売り払って自分で契約した別の賃貸の部屋に転居した。
引っ越し先は祖父母にも教えていないし、誰になんと言われようと地元にももう何が起きても帰るつもりはない。
『やっと出来た家族兼本物の初孫』を慈しんで勝手に幸せになってくれればもうそれで良いと恭一は自分の心に区切りを付けたのだ。
***
それは飲食店なら何も感じないとか、作った人間の普段の生活態度や身嗜みを考慮して「こいつのは厳しいな……」と言うものでも、よくある友達のお母さんのおにぎりは無理とかそう言った類のものでも無く、本当に食べられない。
なんなら、自分自身の自炊で作った物ですら駄目である。
でもまあ……飲み物なら、ギリいけるかな? と言う感じだ。
「僕、手料理無理なんだ」
そう言うとほぼ全ての人間が恭一の事を潔癖症なのかと問うがそうじゃない。別に多少の汚れなんて気にしない方だし、その証拠に部屋も全く綺麗じゃない。
当然生まれた時からそうだったわけではない――が、それを掘り下げることは恭一の心の傷をダイレクトに抉る行為だ。
レトルトやインスタントの類ばかりを食べているとよく友人達は「お前長生き出来ないぞ」と言った。
でも、長生きして一体何になるのだろう?
皆毎日愚痴と不満に包まれてストレスフルで生きているくせに、どうして長生きしたがるのだろう。問うてもきっと困らせるか呆れられるかのどちらかだろうから言葉にはしないけれど。
「……――」
手頃な雨宿り出来る軒先を見付けて足を止め、恭一はぽろぽろと泣き出した梅雨の空を軽く睨む。
朝天気予報のアプリで確認した今日の降水確率は四十パーセントだった。外出時にも空を見上げてこれならきっと大丈夫だろうと思って出掛けて、用事を済ませさっさと帰宅の途についたのにどうやらギリギリアウトみたいだ。
ぽつぽつとアスファルトに落ちる大き目の雫が梅雨特有の匂いとじっとりと纏わりつくような空気を連れて来て早くも不快指数は急上昇する。
家まであと少し。本降りになる前に走った方が却って良いのかも知れない。
――リリンッ
少し離れた位置で澄んだ音がした。
よく店の入り口に取り付けられているドアベルの音だろう。その証拠に香しい珈琲の匂いが強くなる。
恭一が今一時的に雨から守って貰う為に身を寄せたこの店はどうやら喫茶店のようだ。敢えて音がした方を見ずに過ごしていると、声が聞こえる。
「ねえ、キミ。キミよ、そこのキ・ミ」
「――え?」
まさか話しかけられるとは思ってなかった恭一がそちらを見ると、背が高く肩幅の広い大人の男が立っていた。
口調が女性的であることを自身のルックスを武器に問答無用で黙らせるほどの独特な強いオーラを持つ男は店の関係者なのだろう。
清潔感を感じさせる皺一つないモスグリーンのエプロンをして緩いパーマの掛かった長めの髪をハーフアップで括っている。
「すみません、すぐに離れますね」
店の入り口で突っ立ってられると困る。
そんなことを言われると思った恭一がさらに粒を大きくした雨を地上に降らせる雲をちらりと見ると、男は緩く首を振った。
「違うわよ、誰も追い払いなんてしないわ。――良かったら中に入らない? もうランチタイムも終わりだけど昼食は取った? もしまだなら軽食位は出せるから、ゆっくり中で休んで行ってちょうだい」
――雨の日はどうしてもお客さんが少なくて暇なのよ。
そう優しい穏やかな声で言って困ったように微笑む男の声を聞いて、恭一の脳裏に記憶がフラッシュバックする。
エプロン。
括った髪。
食欲をそそる香り。
温かな湯気を上げる美味しそうな手料理たち。
ズキン、と疼いた心の傷を咄嗟に庇うように強く拳を握り締めて恭一は硬い表情のまま口をほとんど動かさず機械的に言葉を紡いだ。
「すみません。僕は、手料理が食べられないんです」
「あっ、ちょっと?!」
そして反射的にすっかり本降りの域に突入した空の真下に飛び出す。
びしょ濡れだ。
何もかも、びしょ濡れである。最悪だ。
それでもあそこに居るよりは良いと思ったのは事実なので恭一はコンビニに寄って傘を買うこともせず自宅までの道を走った。
***
恭一の母は若くして……そう、とんでもなく若くして恭一を産んだ。
幼い頃から「お父さんはお星さまになったのよ」と言われて育てられたので「そうか」と思って成長した。
ある程度まで大きくなるとお星さま=死んだ、と理解出来たので母に父親がどんな人間かを問うことも無く日々を過ごした。祖父母が金銭に余裕のある資産家だったこともあって特に苦労をすることも無く成長出来たことにはとても感謝しているが、そんな記憶も今では疎ましい。
「さあ恭一、ご飯にしましょう」
授業参観などで恭一の母を知る幼い頃の同級生達は母では無く姉だと誰もが口を揃えて言うほど母は事実として若く、そして童顔だった。
そして料理がとても上手で今思えばよく朝からあんなに手を掛けたものを毎日毎日十数年一日も欠かすことなくやってくれたなと思うほど毎日の手作りの食卓は彩と品数に溢れていた。
おやつも全部素人が手作りしたとは思えない店で売れるレベルの物が毎日当然のように並んで、それがどれだけ貴重なことなのかを知らない恭一が小学校低学年の時の七夕の短冊に「れいとうしょくひんがたべてみたい」と書いたくらいだ、と言えばその徹底ぶりがなんとなくでも伝えられるだろうか。
祖父母と母との四人暮らし。
恭一は高校二年生になって、目指す大学も決まってさあ頑張ろうと言うある金曜日の夜。「話があるの」と母に呼び止められた。
普通だったら反抗期真っただ中でもおかしくない年齢ではあったが恭一の心はその頃も一貫してとても穏やかで、やっと三十代に突入したにも関わらず二十代前半のようないっそ少女の面影すら残している母の言葉に素直に頷いて祖父母とともに話のテーブルに着く。
「結婚したい人がいるの」
深刻そうな母の顔から、どんな不幸が飛び出るかわからないと身構えていた恭一に掛けられた言葉はそれだった。
「良いじゃない、おめでとう。どんな人なの? 僕も会ってみたい」
恭一は素直に、自分の胸の内を言葉にした。
だってそうだろう?
戸籍を見て確認まではしていないけれど、死別した父とは年齢的なものでもしかしたら籍を入れていないかも知れないと言うこと位は理解できる年齢に到達していた恭一は心の底からそう思った。
まだ若く、そして何より可愛らしい母がモテない筈がないのだ。
母を知る同級生達の中には「お前の母ちゃんって花の妖精みたいだよな」と言う人間もいたのだが恭一もそれは全面的に同意出来る位母は可愛らしい。
素直に同意した恭一を見て母は自分のお腹をさすった。きっとそれは無意識のうちに出た行動だったのだろう、嬉しさから感極まった表情の母の口からぽろりとこんな言葉が零れ落ちる。
――やっと、やっと私に『家族』が出来るのよ。
それが純度百パーセントの母の本音であり、本来は絶対に言うつもりが無かった失言であったことは……悲しいことに母自身の「しまった!」と言う表情が全てだった。
そして母の言葉を聞いた祖父母の態度も今思えば良くなかった。何馬鹿なこと言ってんのよアンタは、恭一と私達をなんだと思ってるのよ! と笑い飛ばしてくれれば良かったのに、二人は青褪めて即座に母をかなり強く叱りつけたのだ。見たことも無いくらい、恐ろしい顔をして。
「……ねえ、今のどういうこと? 絶対に何かあるんでしょう? やっぱり僕に、隠していることがあるんでしょう?」
「「「……――」」」
ぐるぐると今まで「そうか」と流して敢えて考えないようにしていた疑問が頭の中を支配する。
父親がいないのは、しょうがない。
でも父親が居た痕跡さえないのはいくらなんでもおかしいだろう?
誰も名前すら呼ばない。思い出話の一つも無い。命日に祈ることも無い。一緒に写った写真の一枚も無い。
おかしいだろう?
そんなの、とっくの昔に気付いていた。
でも、でも敢えて聞かなかったんだ。敢えて言葉にしなかった!誰も自分の出生に訳があるなんて思いたくないだろう? 考えたくもないだろう?
だから、だから聞かなかったのに! もし話すべき事情が本当に何処かにあったならいつか! 信じて待ってさえいれば母の方から話してくれるって、そう思って信じて待っていたのに!!!
ねえ母さん。
――『家族』じゃなかったなら、僕は一体何なんだよ。
ぽろぽろと大きな瞳から涙を零しつつ「ごめんなさい違うの」とまたしても無意識にお腹を庇うように手を置いて謝罪を繰り返す母を見て、恭一は人生最大級の怒りを覚えた。
目の前に置かれた湯気を上げる母の好きなノンカフェインのハーブティー。
添えられた恭一の一番好きな母の手製のマドレーヌ。
しあわせの、象徴。
「「きゃあっ!」」
「恭一、落ち着きなさい!」
思い切り片腕でテーブルの上にあったそれらを薙ぎ払うととても大きな音が出た。母と祖母はとっさに悲鳴を上げて、祖父は恭一を責めるのではなく落ち着かせるような口調で言う。
綺麗に細部まで掃除が行き届いたフローリングに散らばったティーカップの破片を冷めた気持ちで見て家を飛び出した恭一は役所に駆け込んだ。
しかし時間は金曜日の二十三時過ぎ。
当然のように役所は閉まっていて、明かりに誘われて時間外受付窓口に「戸籍の書類が欲しい」とどうにか告げると今の時間帯は住民票なら取れるけれど戸籍全部事項証明書、所謂戸籍謄本は発行できないと優しく教えられた。
個人認証カードを持っていれば対応のコンビニで土日や時間外でも取れるけれどそれも毎日六時半から二十三時までしか出来ないそうだ。
明らかに思いつめた顔で説明を聞いた恭一にそれとなくだが事情を聞こうとする担当者に「そうですか、出直します。ちゃんとすぐに家に帰ります」と機械的に返して恭一はまたそこから離れた。だって警察とかを呼ばれても困るから。
個人認証カードは失くさないように自宅で保管しているし、それに加えて時間外と言われてしまえばどのみち今すぐ手には入らない。
――さてどうしよう。
役所から少しだけ離れた場所で立ち尽くした恭一は、迎えに来た祖父に見付かった。
「お前が探している物は、ちゃんと家にあるから一緒に帰ろう。きちんと説明する」
「……」
なんかもう、色々とどうでも良かった。
家に戻ると恭一が壊したティーカップや色々撒き散らした痕跡は綺麗に片付けられていた。でももう、表面上いくら取り繕っても見える景色が違う。
祖父は聞いてもいないのに祖母と母は別室にいると言って恭一の前に少し古びた一枚の紙を広げて事実を教えてくれた。
時折表現をマイルドにしてはくれたが、纏めるとこんな感じだ。
なんと恭一はこの辺りで評判の美少女だった母を三人がかりで輪姦した大学生の『誰か』一人の子供らしい。
そいつらは事件発覚時もう成人していて、とかかなりの数の別件にも関与していて実刑が、とか言ってたけどよく覚えていない。DNA検査の有無なんて死ぬほどどうでも良い。
何より、恭一は戸籍上祖父と祖母の子供として届けられていた。
恭一がずっと母だと思っていた女性は『国に届けられている正式な情報』で言うと『姉』だったのだ。
ははは、と恭一は自覚無く笑っていた。
笑って、自分を痛ましげに見る祖父を見るでもなく先ほど自分が散らかしたフローリングの床を見て――叫んだ。
「だったら! ――だったら最初からそう育てろよ! 中途半端な真似してんじゃねえよ!!!」
叫んで自室に閉じこもり、一睡も出来なかった。
土曜の朝になりいつもの朝食の時間に部屋のドアが遠慮がちに叩かれて、昨日までずっと母だと思っていた女の声がする。
それが酷く煩わしくて思い切りドアに向かって半ば飾りのように机の上に置いてあった辞書を投げつけると「ご飯置いておくから」とだけ言い置いて女はいなくなったようだ。
叶うなら寿命が来るまで閉じこもっていたいのが本音だが、尿意には勝てない。ドアの向こうに気配が無いことを確認してドアを開けると一脚の背の低い椅子の上にトレーが置いてあった。
どんな感情で女がそれを用意したのかは知らないがまるで機嫌を取るように並んだ自分の好物達を見て、彼は咄嗟に口元を押さえる。
――吐き気がする。とんでもない、初めて経験する強烈な吐き気だ。
胃の中は空っぽなので汚く嘔吐いても胃液しか出ないがそれでも吐いた。
「恭一!」と泣くように叫んだ女が隣の部屋から飛び出して来て背中を撫でてこようとしたのを、恭一はなんの手加減も無く渾身の力で振り払う。
華奢な身体があっさりと尻もちをついたがそんなことは心の底からどうでも良かった。
心底驚いたように目を見開いたその顔が、恭一が最後に見た女の顔だった。
それから恭一は然程間を置かず家を出た。
祖父母は最初まだ高校生である恭一が一人で暮らすことをとても渋ったが、手料理を見るだけで必ず吐いてしまう恭一と妊娠中であった女の体調を考慮して祖父母が指定したマンションの一室ならばと折れた。そして祖父母は毎日の連絡を欠かさず、週末には必ず二人揃って会いに来た。
女も夫となる男に連れられて何度も訪ねて来たが恭一は一度も会わなかった。それに関してはもう、意地だった。
あの一件が起きるまでは自宅から通える大学を志望していたが当然のように進路を変更し地元から遠く離れた東京の大学に進学。
その際大学から程近い立地のとても良い新築マンションの一室を祖父母は「生前贈与だから」と恭一に買い与えた。名義も恭一だった。
恋人や家族が出来ても長く暮らせるようにと選ばれた質の良い2LDKの広い部屋は一人暮らしの恭一にとってはがらんどうで孤独をとても強く煽った。だから、大学を卒業し就職したのを機にそのマンションを売り払って自分で契約した別の賃貸の部屋に転居した。
引っ越し先は祖父母にも教えていないし、誰になんと言われようと地元にももう何が起きても帰るつもりはない。
『やっと出来た家族兼本物の初孫』を慈しんで勝手に幸せになってくれればもうそれで良いと恭一は自分の心に区切りを付けたのだ。
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