神様は僕に笑ってくれない

一片澪

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02.行き倒れてオネェさんに拾って貰った

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身体は弱い方ではないと思っていたのに、梅雨の雨に濡れたせいで風邪を引いたようだ。
週末を挟んでいる上に溜まった代休の消費でさらに二日続けての休みを入れていて良かったなと思いつつ怠い身体をベッドの上で動かす。体温計なんてこの家には無いし、薬の類も常備なんて一切していない。

「あーだる……」

目の前には昨日の夜少しだけ齧ったネットで箱買いした固形タイプのバランス栄養食の残り。
ゼリータイプも、シリアルバータイプも全部箱で揃えているし、水もあるからそこは問題無い。サプリメントもちゃんと飲んでいるのに何が悪かったのだろうか?
仕事の納期にかまけて睡眠をおざなりにしていた所にあの雨が悪かったのだろうと結論付けて恭一は冷凍庫の中身を思い描く。

冷凍のワンプレート弁当もまだ少し残っていた筈だけどなんだかとてもアイスクリームが食べたい。
あと、水でも珈琲でもなくスポーツドリンクも欲しい。冷えピタも欲しい。……そこまで考えると買いに行った方がやはり早いなとここでようやく身体を起こした。最寄りのドラッグストアまで徒歩十分、なんてことは無いだろう。

風邪薬、アイス、冷えピタ、体温計、スポドリ。取り敢えずはそれだけで良い。体調が回復したら今後こんな事が起きた時の為に少しだけ物を置いておこう。
そう考えて恭一は咳き込みながら靴を履いて、家を出た。

しかし、それはどうやら悪手だったようだ。
ゲホゲホと痰が絡んだ大きな咳が止まらなくなって、眩暈までついて来た。とんでもなく寒いし、真っすぐ歩こうとしてもふら付いてしまう。

――あー、クソ。ここで良いや、座ろう。

人目なんてどうでも良いし、実際に今周りには人はとても疎らだと道の端っこに座り込む。
少し休憩すれば大丈夫だ。大丈夫じゃなくても、大丈夫だ。
そう思って目を瞑った時瞼を閉じていても差し込んでいた梅雨の合間の僅かな日光がすっと暗くなる。そしてそれとほぼ同じタイミングで低くて優しい角の無い言葉が落ちて来た。

「ねえキミ、この間の子じゃない? やだぁ、あんな雨の中濡れて帰って風邪引いたんでしょう? 馬鹿ねえ」
「……――?」

意識が曖昧になって、喋ることも億劫だった恭一が仕草だけでうざったそうにしても声の主は僅かにも苛立ちを出さず、呆れた様に息を吐く。

「ココ、私のお店兼自宅のま・え。真・ん・前。こんな所で野垂れ死にされたら大変だから……ちょっと失礼するわよ」
「……」
「あら、随分熱いわね?! なんでこんなに熱出てるくせに外を歩いているのよ。病院に行きたいならタクシーくらい呼びなさいな」

ふわっと身体が浮いた。それは、子供の時に祖父に抱き上げて貰って以来の感覚だ。
いくら恭一がギリの平均身長と低体重気味だろうと力が抜けた人間一人を持ち上げるのは大変なはずなのに声の主は意にも介していないようで、全てにおいて余裕がある。

「軽いわねぇ。それにちょっとやせ過ぎよー、コレ骨が浮いてるんじゃないかしら」

リリンッ。
澄んだ音がして、何処かに寝かされた気がする。
ぼんやりと薄く目を開いた恭一に、エプロンも無い髪を括ってもいない落ち着いた大人の男が笑い掛けた。

「安心して寝ていなさいな。知り合いの医者を呼んであげるわ」
「――?」

頭が回らず小さく首を傾げた恭一の目元をその大きな手で優しく覆って、男はもう一度「寝ていなさいな」と優しく言った。
その声を合図にすとん、と睡魔がやって来て恭一の世界は真っ暗になった。




「……――」

目が覚めた恭一はぼんやりと見覚えの無い天井を見上げた。
暖色系の照明が見えるから、もう夜になっているのかも知れないな。そんなことを思いながらゆるゆると身体を起こすと少し離れた位置から声が掛けられる。

「あら起きた? 気分はどうかしら、それとアナタ普段何食べてるのー? 医者が一度血液検査するから日中病院に来いって怒ってたわよ」
「……ええと?」

意味が分からず首を捻った。
誰だ? こんな知り合いいない……そう思ってちらりと見回した内装と男の口調から一つだけあった心当たりを思い出した。

――まさか。あの、喫茶店の店員? 何故? どういう事だ?

混乱し少し慌てた恭一を見て男はキッチンであろう方向から何故か小さな片手鍋を持って出て来る。

「あ、動かないで。検査してないから何とも言えないけれど結構酷い貧血の恐れアリらしいから倒れちゃうかもしれないわ」
「ええと、僕……すみません。ご迷惑をお掛けしたんですよね?」

事情は全く分からないがそうに違いないと頭を軽く下げると、男はあははと笑って傍まで来た。
やっぱり持っている片手鍋の中には中身のお湯だけシンクについ今しがた捨てました! と言った感じでレトルトの白がゆが未開封の状態で濡れて入っている。

「良いのよ良いのよ。ねえ、アナタ確か『手料理が駄目』って言ってたわよね? コレなら大丈夫でしょ? 食器とかも使い捨てじゃないと無理なタイプなのかしら?」
「いえ……別に潔癖症とかじゃなくて」
「そう? じゃあアレルギー持ちなのかしら? 栄養的に玉子がゆを食べさせたかったんだけど念の為コレにしたのよね」
「アレルギーは……花粉症くらい、です」
「りょうかーい」

恭一がそれ以上何かを言う前に男はまた立ち上がってさっとキッチンの中に消えて、また直ぐに戻って来る。
その手には食器と木製のスプーン、そして何かパウチ状の物があった。

「鮭フレークも手料理カウントになる? まだ開けてない物を自分で開封して混ぜたらセーフかしら?」
「あ……」

いらないです。おかゆも、鮭フレークも。
いつもの恭一ならそう迷う事無く言っただろうが、迷惑を掛けた負い目と本当に心配そうにこちらを見てくれる男へのなんとも言えない気持ちから「頂きます」と返していた。

男は恭一の返事に嬉しそうに微笑んで、多分敢えてだろうが目の前でおかゆを皿に入れてぴーっと手で裂いて開けやすいようにした鮭フレークのパウチを渡してくれる。

「ゆっくり食べてねー、食べたらお薬よ」
「あ、有難うございます」

ささっと去って行った男に礼を言って恭一は鮭フレークを気持ち程度添えて大丈夫だとは思いつつ少し意気込んでスプーンを口に入れた。
吐いたらどうしようと言う心配も当然あったが大丈夫だった。それどころか食べ物を口に入れて久し振りに「美味しいな」とすら思えた。

丁度食べ終えるいいタイミングで男からペットボトルの水ときちんと分包された昔病院で処方されたことのある懐かしい顆粒状の総合風邪薬を渡される。

「ご馳走様でした。……すみません、何から何まで」
「良いのよー。コレ、あそこの角にある個人医院分かる? あそこの医者が知り合いだから往診を頼んでそれで貰ったの。きちんとした正規品だけど心配ならネットとかで調べてから飲んで良いわよ」
「大丈夫です。これ、昔飲んだことある知ってる薬です」

はいどうぞ、と渡された薬を恭一は疑うことも無く飲む。
男はまた実に朗らかな声で「お水は多めに飲んでね」と笑った。

仕事はしているけれどほぼほぼ在宅ワークだし、そもそも就職した先は大学の先輩達が起業したまだまだ小さい会社なので週一オフィスに顔を出す時も服装は自由だ。熾烈な就活を経験した事も無い。

だから正直言うと自分が持っている常識には自信が無い。しかし自信が無くとも最低限自分がしなければいけないことが何なのかは恭一も理解しているので気持ち姿勢を正した。

「お薬までありがとうございます。僕は高宮 恭一と申します。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。……あの、お医者さんを呼んでくれたんですよね? 諸々含めてお金をお支払いしたいのですが、おいくらでしょうか?」

基本的に使用するのはスマホを利用したキャッシュレス決済だから手元にあるのは数千円程度だ。
この人はきっと今の所悪人には見えないから足りない場合は身分証を預けてコンビニに下ろしに行けば良いだろう。この人が許してくれるならついて来てもらっても良い。
頭を下げて自分なりに精いっぱい丁寧に言った恭一に、目の前の男は優しく息を吐いて言った。

「私は神室 李壱カムロ リイチよ。スモモのリに、ご祝儀とかで書く画数が多い方のイチね。……私に対してのお金はいらないけど、医者を呼んでタダは流石に無理だから出来るだけ早くあそこの病院に行ってくれるかしら?」
「はい、それは勿論です」

その時恭一は今回往診に来て貰った代金の清算を求められていると思ったので当然だと強く頷いた。
李壱が本当に求めているのは見るからに不健康そうな恭一の血液検査だなんてことは想像もしていない。

「アナタ、学生さん? それとも社会人?」
「……一応社会人です」

お金の話を聞いてはいおしまいお世話になりましたさようなら、だと思っていた恭一は話を続けようとする李壱にちょっと戸惑った。だってこんな世間話随分していないから何を話せばいいか分からない。仕事の時は仕事の話をしていれば良いだけだから何も困らないが雑談はちょっと無理だ。
誰かと当たり障りの無い話題で楽しく会話をするなんてとても難易度が高い事である。

緊張して上手く喋れなかっただけなのに、李壱はそうは取らなかったのだろうか? それともただの冗談だろうか。くすり、と優雅さすら感じさせる顔で笑って言った。

「あらぁ? 私がこんなんだからもしかして怯えてる? 安心して良いわよ、行き倒れの子猫ちゃんを誑かすほど落ちぶれちゃいないわ」

李壱は確かに笑顔で言った。
しかし恭一は何故かその笑顔に一瞬感情の揺れが混じったような気がして、自分でも驚く程ハッキリと言い返していた。

「――違います! 僕は、神室さんをそんな風に思ってはいません。僕なんかを拾ってくれたとても親切な方だと思っています!」
「…………あ、そうなのね。どうもありがとう」
「す、すいません……」

どうしよう。
咄嗟に否定してしまったから言葉が強くなってしまった。

恭一はふと訪れた沈黙の中で困った。こういう時に自然な流れで会話を元に戻す力を自分は持っていないと強く理解している。
どうしよう、が脳内をぐるぐる回って硬直していると李壱はあはは、と柔らかく朗らかに笑った。

「そこに体温計があるからもう一回熱を計ってごらんなさい。動けそうならタクシーを呼ぶから、この薬を持って帰ってゆっくり休みなさいな」
「あ、はい……ご、ご馳走様でした」
「はぁい、お粗末様ー」

言われた通り傍にあった体温計を脇に挟んで、ささっとトレーを持ってきて食事に使った全ての物を綺麗に目の前から引きあげた男の背中をなんとなく見遣る。
背筋が凛と伸びていて、広い背中が逞しい。
背も然程伸びず筋肉も無く日焼けとは無縁の自分とは全く別世界の人間だ、と恭一は思った。

ピピッと体温計が鳴る。
心地良い静寂で満たされているこの空間でその音は思った以上に響いた。

「何度だったー?」

洗い物を後回しにして戻ってきた李壱の顔がなんとなく見られなくて恭一は自然な動きになるように意識しつつ視線を下げる。

「三十七度です」
「あらまあ若いってすごいわ! さっきまで八度越えだったのに……すごいわねえ」

心底感心した様に笑った李壱を見て、恭一はなんだかとてもほっとした。
幸い明日も休みだ。
約束通り病院に行って支払いを済ませて、何かお土産でも買ってちゃんと挨拶に来よう。

――それで終わりだ。
その時の恭一は本気でそう思っていたけれど、何故だか李壱のお店は居心地がすごく良かった。

珈琲は香りはすごく好きだけど、飲むとなんか違うと最初に飲んだ時そう思った。
味覚の好み的に甘い飲み物は得意じゃないから砂糖をガンガン入れてでも飲みたい! と言うほど珈琲が好きなわけでも無い。

しかし仕事で誰かと関わる時はなんでか珈琲がセットで出て来るから取り敢えず飲める様にはなったけど、別に好きではない。アレは味わって楽しむ物ではなく眠気を払う為の薬だとすら恭一は思っている。
何年も口にして最近ようやくホットよりアイスなら一気飲みが出来るのでまだ好きかな、と言う程度だ。
そんな恭一でも李壱の淹れる珈琲は素直に美味しいと感じた。

だから気付いた時には週一回の出社日の帰りにこの喫茶店によって、一杯の珈琲を飲むのが何故か習慣になった。

「ゆっくりして行けばいいじゃなーい。空いてるんだから」

珈琲一杯で粘るのは回転率を下げて営業妨害になると考える恭一がさっさと席を立つことに気付いたのか李壱にある日そう言われて、気付いた時には恭一は自宅での作業に行き詰まると気分転換を兼ねてパソコンを抱えこの店にやって来て仕事をするようになった。

来るたびに注文するのは「おススメ」の一杯。だから豆の種類なんて知らないし、好みの煎り方? も知らない。
ただ「珈琲ください」と言えば、なんだかすごく美味しい一杯がいつも必ず出て来る。


「アナタの舌は把握したわ」


そうやって朗らかに笑う李壱との短い会話が、気付いたら日常の一部になっていた。
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