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第三章
1 彼女は仲間達を振り返った
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レナリア王国の南西には巨大な山林がある。
歩くには困難を極める険しい山々と、幾年も樹齢を重ねた巨木が立ち並ぶ森。それらの深い自然が人間の侵入を拒んでいる。大陸を南北に分断するこの山岳地帯は、東西の海に近い所を通る山道以外に道は整備されておらず、中央部は一般的に未開の地とされていた。
秘境とも言うべきその場所に、目指すべきフィルナーナの国、フレイアはある。
ハイルナックを発ってから既に半月以上が経っていた。
会談の時には「明日にでも発ちたい」と言ったが、流石に無理があった。翌日は護衛として同行していたマラーナという女性の将軍と配下数名がやってきて、ほぼ一日がかりで「知りうること」を話した。
フレイアの事、風の民の事、嵐の民の事。地形、地理、気候、植生。軍事機密に該当する内容もあったが状況を考えれば仕方ない。援軍を派遣してくれたとしても、即座に戦えないのであれば意味がない。予備知識があるのと無いのでは雲泥の差が出るものだ。
道についても説明した。東西海沿いに通る山道からは、実は中央部に侵入する事ができない。深い渓谷、絶壁に阻まれており、徒歩で移動できるような場所ではないのだ。
ハイルナックからだと、ハームの村から山に入るのがもっとも近い。村の狩人たちに道案内の協力を仰げるよう、手配することにした。
これらの情報提供や旅の準備などに時間を取られ、結局出発までに二日の時間を要した。
変わりではないが資金や物資を融通してもらえた。馬も提供してもらった。万が一の際に身分を証明する、通行許可証も用意してもらう事ができた。
ハイルナックを発つ前。往路で護衛してくれた仲間達が同行を申し出てくれた。
ホルムヘッドはカフェル直々の命令があったが、他の三人は本来ついてくる必要はない。
戦地に向かうので危険性もより高くなるのだが、皆、同行するのが当たり前という顔をしていた。ありがたかった。
この仲間に出会えた事を、風の神に感謝した。
レナリア王の配慮と仲間のおかげで、ハイルナックからハームの村まで、ほぼ最短で戻ることが出来た。村では村長に事情を説明し、いずれ来るレナリア軍を案内してもらう為に腕利きの狩人を数人、紹介してもらう。翌日から彼らとともに山に入る。往路は追手を巻くために無作為な方向へ移動して、短距離だけの飛行を繰り返したので時間がかかったが、最短距離を歩けばフレイアまでは十日程だと考えられる。途中までは村人が使っている登山道があるが、一日も進めばそれも消える。あとはあっても獣道程度で、道なき道を進む事になる。
村からおおよそ三日歩くと植生が一変する。数百年、ことのよると千年以上、人の手が入っていない原始の森だ。狩人達も存在は知ってはいたが、これ以上奥には入ってはならないという掟があるそうだ。
古い伝承によると、風の民は南大陸で大きな勢力を持っていた。ある時争いに破れ、嵐の民と共にこの山岳地帯に逃げ込んだ。元々、北大陸と南大陸は、海と、陸地はこの山々で分断されており、交流は少ない。祖先たちは山岳地帯中央部に集落を築き、北部はあえて手を付けなかったのだと思う。原始林を維持することで、「ここより奥には人はいない」という、北大陸の人間に対する心理的な城壁のような役割を期待したのだろう。
以来数百年。歴史を見れば試みは成功したと言える。北大陸でフレイアの実在を知っている人間は、ごく僅かだ。
先祖たちがこの森に何を託したのか。今となってはわからないが、その祈りは間もなく終焉を迎えることになる。レナリアの援軍はここを通る。どのような規模であれ、軍隊が通れば只では済まない。
戦に勝利したとして、フレイアはレナリアの傘下に入る。そうなれば、ここは軍事物資を運ぶ為の道となり、いずれ交流の為にも使われるようになるだろう。
もし、戦に敗北したとしたら。ガスティールは当然北侵を考えるはずだし、レナリアも敗北したので様子を見るというわけにはいかない。砦や物見台が作られたり、関所が作られたり。最悪の場合、山は戦場になる。
いずれにしても、森の歴史は幕を閉じる。遠い未来の話ではない。
切欠を作ったのは自分自身だ。
責任があるわけでは無いし、誰かに指摘されることも無いだろう。
ただ、恐らく私が、この森の、この姿を見た最後の風の民になる。もう二度と戻らない。
忘れないでおこう。
一歩一歩、噛みしめるように、フィルナーナは原始の森を歩いた。
森は二日ほどで抜けた。目的地である王都まで、半分ほど来たことになる。この辺りから支配地域としては既にフレイアの領域内だ。戦場は南側だが、遊撃部隊が潜んでいる可能性があり、危険性は格段に上がる。
ハームの狩人達は元々この辺りまで、という約束だった。この先の大まかな道順を説明すると、彼らは旅の安全を祈り、来た道を引き返していった。
この先、王都までの道程はいくつかあるが、最短距離の稜線上を行く事にした。
一刻ほどかけて一つ目の山頂に到達する。休憩中リウィーが残りの距離を尋ねてきた。
四日と少しと、頭の中で計算して答えた。
「結構遠いね。いっその事フィナだけ飛んで行けば、すぐに着くんじゃないの?」
「それは……無理ですね」
翼はそこまで万能ではない。少女が悪いわけではないが、飛ぶという行為を誤解している。飛ぶ事は想像以上に消耗する。上昇するのが最も大変で、陸上だと全力疾走ぐらいの感覚だろうか。当然荷物が重いと消耗は激しくなる。
高い位置で風に乗れば滑空するだけなので疲れないが、そこまで昇るのは大変だし、上空は寒い。防寒として厚着をすると重くなり、風の影響を受けやすくなる。
さらに風向きは気まぐれなので、望む方角に吹いているとは限らない。祝福の力である程度、風を操作する事が出来るが、長時間は続かないし精神的に消耗する。
風の民にとって「飛ぶ」という行為は、こういった矛盾に対して、その時々に折り合いをつけた結果だと言える。
それに比べると、嵐の民の飛行能力は大きく上回っている。発見されれば確実に追いつかれてしまうだろう。敵は当然、自分が飛べる事を知っており、警戒は厳重なはずだ。
今の状況から判断すると、仲間と一緒の方が格段に安全だと言える。
説明を受けたリウィーは納得したようだった。山頂を歩き回り、何か飛んでいないか確認している。小柄でも他の人とそう変わらない荷物を背負っているが、全く平気そうだ。
風の民は飛べることの恩恵か、心肺機能は比較的高い。だから体力はある方だと思うが、この少女には及ばない。
二人の戦士は流石に鍛えられており、全く問題ない。特にクレッドは金属製の鎧に盾といった重装備だが、平然としていた。
いつからか、毎日二人で剣の稽古をしている。それは山中でも変わらない。訓練と言っても、素人にはほとんど実戦に見えるほどの激しい物だ。
自分には戦士としての実力を測ることは出来ないが、体力も、技術も、精神的にも成長しているのだろうと思った。
この山道で最も疲労していたのはホルムヘッドだった。彼は「自慢ではないが体力はない」と自己申告している。とは言え、実際には言うほどではない。周囲にいる人と比べて劣って見えるだけだろう。
しばらく休憩していたが、山頂にあまり長時間いるのは避けたい所だ。
今の所、上空を飛ぶ影は見当たらないが、出来るだけ早く稜線を抜けたい。出発をお願いすると、座り込んでいた彼は槍を杖にして立ち上がった。
*
幸いに発見される事はなく、稜線は一日弱で抜けることが出来た。その後数日間、山の登り降りを繰り返し、いつしか木々の生い茂る領域に踏み込んでいだ。昼間でも視界が極端に悪い。空も余り見えないし、周りはどこを見ても木、ばかり。地面は日が余り当たらないせいか、草が短い。時折、岩が露出している程度の変化しかなかった。
この何日か、ずっと同じ景色が続いている。上空から発見される危険が無いのはありがたいが、変化のない道を延々と歩くのは、分かっていても辛い。
ただ、それも後少しのはずだ。
目の前に明らかに傾斜のきつい斜面が現れた。だが、それほど距離があるわけではない。坂の頂点で木々が途切れているのがわかる。見覚えのある地形。
「あそこまでいけば登りも終りです。もうすぐ、です」
皆に明るく呼びかけた。
リウィーが喜び勇んで、駆け上がっていった。
――その時。
少女が不意に後ろに飛びのいた。不自然な動き。全員に緊張が走った。
「誰だ! 隠れているのはわかってるんだからねっ!」
甲高い声が木々を縫って響く。いつの間にか抜いた小剣を構えていた。
少しの沈黙の後、上から人影が現れた。
「ウィーナ……」
声が険しくなった。戸惑いも感じられる。
ウィーナ。聞き覚えがある。ネートンの街で、夜に襲撃を受けた時。口にしていた名前が、確かそうだった。あの時は、逃げ出すように宿を後にしたので確認する余裕はなかったが。
リウィーと同じ顔をしている。只の知り合い、ではないだろう。
ゆっくりと下って来る。全員が、身構えたまま動かなかった。
ウィーナと呼ばれた少女は、半分ほどの距離を下ってから口を開いた。
「今すぐ投降するなら、受入れてやる」
「……応じると思う?」
「……思わないな」
「分かってて聞いてるよね、それ」
そうだな、と軽口を叩くその目は、既に冷酷な空気をはらんでいた。
「あなた達には、ここで死んでもらう」
「来るわよ!」
クリスティーネの警告と同時に矢が飛来した。
クレッドが前に出て、盾で矢を弾く。リウィーは一気に距離を詰めていた。
そうする間に、左右の茂みに潜んでいた敵が姿を表す。
「矢は私が防ぎます!」
前方に向かって叫ぶと、精神を集中させ祝福の力を行使した。風を操作し空気の断層を作る事で飛び道具を無効化する。風の祝福の中でも高位の力で、精神力を大幅に消耗する。
変わりに効果は絶大で、立て続けに飛来する矢を全て弾いた。
左右から現れた者達に対して二人の戦士が応対する。それぞれ四人ずつ。右手はクリスティーネが一人で受け持つ。左手はクレッドと、ホルムヘッドが牽制に入った。
赤鱗の女戦士は圧倒的だった。地形が有利に働いている点もあるだろうが、差し引いたとしても勝負になっていない。クレッドもまた、驚くほど成長していた。援護がついているとはいえ、危なげのない戦いを展開している。
大丈夫と判断し、一人前に出た少女の姿を追った。
一対一で戦っていた。その戦いをまじまじと見るのは初めてだが、とても速い。剣の振りも鋭いが、脚力が凄いというのか、非常に俊敏だ。傾斜地ということを忘れるほどの動き。敏捷性だけなら一番なのではないかと感じた。しかし、それを言うなら相手も凄い。早さに全く遅れを見せず、互角の戦いを演じている。
これは、早すぎる。
借り受けている弓矢で援護しようかと思っていたが、当たらないどころか最悪、誤射してしまう危険性がある。戦いの推移を見守るしか出来なかった。
二人の戦いは、互いに譲らず平行線を辿っていたが、事態は周りから動いた。
クリスティーネが四人を切り倒した。クレッドも一人を倒していた。
そうなると、残るは三人。圧倒的な強さの前に怖気づき、背中を見せて逃げ出し始める。
その頃には矢を射っていた者も、遠距離攻撃は諦めて坂の上に姿を見せた。
道の中腹で戦っている二人の様子を見て、同じ感想を抱いたのだろう。弓に矢をつがえたまま戦いを見守っていた。
「クリス、援護を」
クリスティーネは二人の戦いを見つめていた。焦れた思いでもう一度呼びかける。
一瞬だけ視線を此方に向けると「間もなく決着がつきます」とだけ応えた。
そんな、と言いかけた時。金属がぶつかり合う激しい音が響いた。
視線を戻すと、空中で回転する短剣が視界に入った。あれは相手の剣か。
勝ったと一瞬思ったが、同時に繰り出された蹴りがリウィーの胸を捉えていた。
後ろに蹴り飛ばされ、転げ落ちた体を、剣を捨てたクレッドが受け止めた。
「リウィー!」
すぐさま飛びつき、様子を確認した。ぱっと見た感じ、斬られてはいないが転げ落ちた影響で擦り傷と埃まみれになっていた。
「大丈夫!?」
目は開いていた。問いかけに頷きが返ってくる。ほっとしたのち正面を確認すると、いつの間にか前に出ていたクリスティーネが、上を睨みつけていた。
数瞬のち矢が飛来したが、始めに行使した空気の断層はまだ効果を保っており、全て弾いた。ただ、それは牽制だったようだ。一瞬気を取られた僅かな間に敵は大きく距離を取り、そのまま撤退していった。
ホルムヘッドが座り込む。フィルナーナもしばらく動けなかった。
「負けた、のかな?」
リウィーがポツリと呟いた。
「勝ってたよ」
支えていた戦士が正面を見たまま、ボソリと返す。少女の手をそっと握った。
埃を払い、擦り傷の治療をした後、残りの道を一気に登った。登りきった所で視界が開ける。目の前は二重のカルデラになっており、今は外側の外輪山山頂に立っていた。下った先は森。内側のカルデラ内には街が収まっている。中央には塔のような建物が見えた。
二ヶ月ぶりの家であり、故郷だ。誰とはなしに声を上げる。
「あれが、フレイアの王都『アポソリマ』です」
街は出立した頃と変わらないように見える。よかった。ひとまず、間に合った。
フィルナーナは纏っていた外套を外すと、少しだけ先行し、ここまで来てくれた仲間達を振り返った。久しぶりに翼を大きく広げた。晩夏の日差しを、翼に感じた。
「歓迎します。ようこそ『翼の王国』へ!」
歩くには困難を極める険しい山々と、幾年も樹齢を重ねた巨木が立ち並ぶ森。それらの深い自然が人間の侵入を拒んでいる。大陸を南北に分断するこの山岳地帯は、東西の海に近い所を通る山道以外に道は整備されておらず、中央部は一般的に未開の地とされていた。
秘境とも言うべきその場所に、目指すべきフィルナーナの国、フレイアはある。
ハイルナックを発ってから既に半月以上が経っていた。
会談の時には「明日にでも発ちたい」と言ったが、流石に無理があった。翌日は護衛として同行していたマラーナという女性の将軍と配下数名がやってきて、ほぼ一日がかりで「知りうること」を話した。
フレイアの事、風の民の事、嵐の民の事。地形、地理、気候、植生。軍事機密に該当する内容もあったが状況を考えれば仕方ない。援軍を派遣してくれたとしても、即座に戦えないのであれば意味がない。予備知識があるのと無いのでは雲泥の差が出るものだ。
道についても説明した。東西海沿いに通る山道からは、実は中央部に侵入する事ができない。深い渓谷、絶壁に阻まれており、徒歩で移動できるような場所ではないのだ。
ハイルナックからだと、ハームの村から山に入るのがもっとも近い。村の狩人たちに道案内の協力を仰げるよう、手配することにした。
これらの情報提供や旅の準備などに時間を取られ、結局出発までに二日の時間を要した。
変わりではないが資金や物資を融通してもらえた。馬も提供してもらった。万が一の際に身分を証明する、通行許可証も用意してもらう事ができた。
ハイルナックを発つ前。往路で護衛してくれた仲間達が同行を申し出てくれた。
ホルムヘッドはカフェル直々の命令があったが、他の三人は本来ついてくる必要はない。
戦地に向かうので危険性もより高くなるのだが、皆、同行するのが当たり前という顔をしていた。ありがたかった。
この仲間に出会えた事を、風の神に感謝した。
レナリア王の配慮と仲間のおかげで、ハイルナックからハームの村まで、ほぼ最短で戻ることが出来た。村では村長に事情を説明し、いずれ来るレナリア軍を案内してもらう為に腕利きの狩人を数人、紹介してもらう。翌日から彼らとともに山に入る。往路は追手を巻くために無作為な方向へ移動して、短距離だけの飛行を繰り返したので時間がかかったが、最短距離を歩けばフレイアまでは十日程だと考えられる。途中までは村人が使っている登山道があるが、一日も進めばそれも消える。あとはあっても獣道程度で、道なき道を進む事になる。
村からおおよそ三日歩くと植生が一変する。数百年、ことのよると千年以上、人の手が入っていない原始の森だ。狩人達も存在は知ってはいたが、これ以上奥には入ってはならないという掟があるそうだ。
古い伝承によると、風の民は南大陸で大きな勢力を持っていた。ある時争いに破れ、嵐の民と共にこの山岳地帯に逃げ込んだ。元々、北大陸と南大陸は、海と、陸地はこの山々で分断されており、交流は少ない。祖先たちは山岳地帯中央部に集落を築き、北部はあえて手を付けなかったのだと思う。原始林を維持することで、「ここより奥には人はいない」という、北大陸の人間に対する心理的な城壁のような役割を期待したのだろう。
以来数百年。歴史を見れば試みは成功したと言える。北大陸でフレイアの実在を知っている人間は、ごく僅かだ。
先祖たちがこの森に何を託したのか。今となってはわからないが、その祈りは間もなく終焉を迎えることになる。レナリアの援軍はここを通る。どのような規模であれ、軍隊が通れば只では済まない。
戦に勝利したとして、フレイアはレナリアの傘下に入る。そうなれば、ここは軍事物資を運ぶ為の道となり、いずれ交流の為にも使われるようになるだろう。
もし、戦に敗北したとしたら。ガスティールは当然北侵を考えるはずだし、レナリアも敗北したので様子を見るというわけにはいかない。砦や物見台が作られたり、関所が作られたり。最悪の場合、山は戦場になる。
いずれにしても、森の歴史は幕を閉じる。遠い未来の話ではない。
切欠を作ったのは自分自身だ。
責任があるわけでは無いし、誰かに指摘されることも無いだろう。
ただ、恐らく私が、この森の、この姿を見た最後の風の民になる。もう二度と戻らない。
忘れないでおこう。
一歩一歩、噛みしめるように、フィルナーナは原始の森を歩いた。
森は二日ほどで抜けた。目的地である王都まで、半分ほど来たことになる。この辺りから支配地域としては既にフレイアの領域内だ。戦場は南側だが、遊撃部隊が潜んでいる可能性があり、危険性は格段に上がる。
ハームの狩人達は元々この辺りまで、という約束だった。この先の大まかな道順を説明すると、彼らは旅の安全を祈り、来た道を引き返していった。
この先、王都までの道程はいくつかあるが、最短距離の稜線上を行く事にした。
一刻ほどかけて一つ目の山頂に到達する。休憩中リウィーが残りの距離を尋ねてきた。
四日と少しと、頭の中で計算して答えた。
「結構遠いね。いっその事フィナだけ飛んで行けば、すぐに着くんじゃないの?」
「それは……無理ですね」
翼はそこまで万能ではない。少女が悪いわけではないが、飛ぶという行為を誤解している。飛ぶ事は想像以上に消耗する。上昇するのが最も大変で、陸上だと全力疾走ぐらいの感覚だろうか。当然荷物が重いと消耗は激しくなる。
高い位置で風に乗れば滑空するだけなので疲れないが、そこまで昇るのは大変だし、上空は寒い。防寒として厚着をすると重くなり、風の影響を受けやすくなる。
さらに風向きは気まぐれなので、望む方角に吹いているとは限らない。祝福の力である程度、風を操作する事が出来るが、長時間は続かないし精神的に消耗する。
風の民にとって「飛ぶ」という行為は、こういった矛盾に対して、その時々に折り合いをつけた結果だと言える。
それに比べると、嵐の民の飛行能力は大きく上回っている。発見されれば確実に追いつかれてしまうだろう。敵は当然、自分が飛べる事を知っており、警戒は厳重なはずだ。
今の状況から判断すると、仲間と一緒の方が格段に安全だと言える。
説明を受けたリウィーは納得したようだった。山頂を歩き回り、何か飛んでいないか確認している。小柄でも他の人とそう変わらない荷物を背負っているが、全く平気そうだ。
風の民は飛べることの恩恵か、心肺機能は比較的高い。だから体力はある方だと思うが、この少女には及ばない。
二人の戦士は流石に鍛えられており、全く問題ない。特にクレッドは金属製の鎧に盾といった重装備だが、平然としていた。
いつからか、毎日二人で剣の稽古をしている。それは山中でも変わらない。訓練と言っても、素人にはほとんど実戦に見えるほどの激しい物だ。
自分には戦士としての実力を測ることは出来ないが、体力も、技術も、精神的にも成長しているのだろうと思った。
この山道で最も疲労していたのはホルムヘッドだった。彼は「自慢ではないが体力はない」と自己申告している。とは言え、実際には言うほどではない。周囲にいる人と比べて劣って見えるだけだろう。
しばらく休憩していたが、山頂にあまり長時間いるのは避けたい所だ。
今の所、上空を飛ぶ影は見当たらないが、出来るだけ早く稜線を抜けたい。出発をお願いすると、座り込んでいた彼は槍を杖にして立ち上がった。
*
幸いに発見される事はなく、稜線は一日弱で抜けることが出来た。その後数日間、山の登り降りを繰り返し、いつしか木々の生い茂る領域に踏み込んでいだ。昼間でも視界が極端に悪い。空も余り見えないし、周りはどこを見ても木、ばかり。地面は日が余り当たらないせいか、草が短い。時折、岩が露出している程度の変化しかなかった。
この何日か、ずっと同じ景色が続いている。上空から発見される危険が無いのはありがたいが、変化のない道を延々と歩くのは、分かっていても辛い。
ただ、それも後少しのはずだ。
目の前に明らかに傾斜のきつい斜面が現れた。だが、それほど距離があるわけではない。坂の頂点で木々が途切れているのがわかる。見覚えのある地形。
「あそこまでいけば登りも終りです。もうすぐ、です」
皆に明るく呼びかけた。
リウィーが喜び勇んで、駆け上がっていった。
――その時。
少女が不意に後ろに飛びのいた。不自然な動き。全員に緊張が走った。
「誰だ! 隠れているのはわかってるんだからねっ!」
甲高い声が木々を縫って響く。いつの間にか抜いた小剣を構えていた。
少しの沈黙の後、上から人影が現れた。
「ウィーナ……」
声が険しくなった。戸惑いも感じられる。
ウィーナ。聞き覚えがある。ネートンの街で、夜に襲撃を受けた時。口にしていた名前が、確かそうだった。あの時は、逃げ出すように宿を後にしたので確認する余裕はなかったが。
リウィーと同じ顔をしている。只の知り合い、ではないだろう。
ゆっくりと下って来る。全員が、身構えたまま動かなかった。
ウィーナと呼ばれた少女は、半分ほどの距離を下ってから口を開いた。
「今すぐ投降するなら、受入れてやる」
「……応じると思う?」
「……思わないな」
「分かってて聞いてるよね、それ」
そうだな、と軽口を叩くその目は、既に冷酷な空気をはらんでいた。
「あなた達には、ここで死んでもらう」
「来るわよ!」
クリスティーネの警告と同時に矢が飛来した。
クレッドが前に出て、盾で矢を弾く。リウィーは一気に距離を詰めていた。
そうする間に、左右の茂みに潜んでいた敵が姿を表す。
「矢は私が防ぎます!」
前方に向かって叫ぶと、精神を集中させ祝福の力を行使した。風を操作し空気の断層を作る事で飛び道具を無効化する。風の祝福の中でも高位の力で、精神力を大幅に消耗する。
変わりに効果は絶大で、立て続けに飛来する矢を全て弾いた。
左右から現れた者達に対して二人の戦士が応対する。それぞれ四人ずつ。右手はクリスティーネが一人で受け持つ。左手はクレッドと、ホルムヘッドが牽制に入った。
赤鱗の女戦士は圧倒的だった。地形が有利に働いている点もあるだろうが、差し引いたとしても勝負になっていない。クレッドもまた、驚くほど成長していた。援護がついているとはいえ、危なげのない戦いを展開している。
大丈夫と判断し、一人前に出た少女の姿を追った。
一対一で戦っていた。その戦いをまじまじと見るのは初めてだが、とても速い。剣の振りも鋭いが、脚力が凄いというのか、非常に俊敏だ。傾斜地ということを忘れるほどの動き。敏捷性だけなら一番なのではないかと感じた。しかし、それを言うなら相手も凄い。早さに全く遅れを見せず、互角の戦いを演じている。
これは、早すぎる。
借り受けている弓矢で援護しようかと思っていたが、当たらないどころか最悪、誤射してしまう危険性がある。戦いの推移を見守るしか出来なかった。
二人の戦いは、互いに譲らず平行線を辿っていたが、事態は周りから動いた。
クリスティーネが四人を切り倒した。クレッドも一人を倒していた。
そうなると、残るは三人。圧倒的な強さの前に怖気づき、背中を見せて逃げ出し始める。
その頃には矢を射っていた者も、遠距離攻撃は諦めて坂の上に姿を見せた。
道の中腹で戦っている二人の様子を見て、同じ感想を抱いたのだろう。弓に矢をつがえたまま戦いを見守っていた。
「クリス、援護を」
クリスティーネは二人の戦いを見つめていた。焦れた思いでもう一度呼びかける。
一瞬だけ視線を此方に向けると「間もなく決着がつきます」とだけ応えた。
そんな、と言いかけた時。金属がぶつかり合う激しい音が響いた。
視線を戻すと、空中で回転する短剣が視界に入った。あれは相手の剣か。
勝ったと一瞬思ったが、同時に繰り出された蹴りがリウィーの胸を捉えていた。
後ろに蹴り飛ばされ、転げ落ちた体を、剣を捨てたクレッドが受け止めた。
「リウィー!」
すぐさま飛びつき、様子を確認した。ぱっと見た感じ、斬られてはいないが転げ落ちた影響で擦り傷と埃まみれになっていた。
「大丈夫!?」
目は開いていた。問いかけに頷きが返ってくる。ほっとしたのち正面を確認すると、いつの間にか前に出ていたクリスティーネが、上を睨みつけていた。
数瞬のち矢が飛来したが、始めに行使した空気の断層はまだ効果を保っており、全て弾いた。ただ、それは牽制だったようだ。一瞬気を取られた僅かな間に敵は大きく距離を取り、そのまま撤退していった。
ホルムヘッドが座り込む。フィルナーナもしばらく動けなかった。
「負けた、のかな?」
リウィーがポツリと呟いた。
「勝ってたよ」
支えていた戦士が正面を見たまま、ボソリと返す。少女の手をそっと握った。
埃を払い、擦り傷の治療をした後、残りの道を一気に登った。登りきった所で視界が開ける。目の前は二重のカルデラになっており、今は外側の外輪山山頂に立っていた。下った先は森。内側のカルデラ内には街が収まっている。中央には塔のような建物が見えた。
二ヶ月ぶりの家であり、故郷だ。誰とはなしに声を上げる。
「あれが、フレイアの王都『アポソリマ』です」
街は出立した頃と変わらないように見える。よかった。ひとまず、間に合った。
フィルナーナは纏っていた外套を外すと、少しだけ先行し、ここまで来てくれた仲間達を振り返った。久しぶりに翼を大きく広げた。晩夏の日差しを、翼に感じた。
「歓迎します。ようこそ『翼の王国』へ!」
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