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第一章
4 少女は昔の事を思い出した
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夜の山林を歩いていると、昔の事を思い出す。故郷の事、姉の事。
リウィーには双子の姉がいる。物心ついた頃には既に両親はいなかったが、そういった子どもは大勢いた。皆で一緒に生活していたので、寂しいという事はなかった。
集落の人達は、自分達のことを「狼の民」と呼んでいた。狼に変身する能力を持つ一族なので、そういう名前だったのだろう。
大人達は、子ども達に様々な事を教えてくれた。狼に変身する能力が「神の祝福」と言われるものである事。変身能力はとても特別なものだという事。これによって「狼の民」は迫害されてきたという事も教わった。その時は「迫害」という言葉の意味は、よく理解出来ていなかった。
ある日、突然やってきた軍隊が集落を襲った。戦えない者は森に逃れたが、人間達は追いかけてきた。何日も森の中を逃げ惑い、見つかり、また逃げてを繰り返し、気づいた時には姉と二人きりになっていた。
あの頃の記憶はハッキリとしないが、姉と二人行く宛もなく、一ヶ月近く山奥を彷徨っていたと思う。執拗に追いかけてきた人間達に発見され、逃げようとして川に落ちて……気がついた時には、どこかの村の一室で寝かされていた。一人になっていた。姉がどうなったのかはわからない。
村でしばらく安静にした後、事情を尋ねられ、全部話したのがまずかった。納屋に放り込まれ、軟禁されてしまった。幸いなのか、そこの村人は「狼の民」の事をよくわかっていなかった。夜間に祝福の力を使って脱出した。
それからは山野をあてもなくさまよい、時に街に入り、食べ物や衣服を盗み、街から逃げる、を繰り返した。そこから「人間の街」の仕組みや郷との違いを学んでいった。姉を探そうともしたが、生まれ育った集落がどこにあったのか、どこの川で流されたのか、保護され軟禁された村がどこなのかすら、わからなかった。ひと所に長く住む気は起きず、同じ場所には長くとも半年、短いと十日と居付くことはなく、移動を繰り返し、三年と少し前にハームの村に辿り着いた。
この村も、長居するつもりはなかった。冬場に野外で過ごすのは大変なので、一冬越すぐらいのつもりだった。その頃にクレッドとホルムヘッドに出会った。
*
一年ほどたった頃、ちょっとした油断で、祝福の事をホルムヘッドに知られてしまった。ここでの生活もこれまでかと思ったが、ヒゲの反応は想定外だった。
奴にとって「神の祝福」は興味の対象。全身が狼に変身する力は気味悪がられるのだが、むしろそれまで見たことのない満面の笑みで「感覚が鋭いから何か力を持っているとは思ったけど、これ程とは!」と大喜びされてしまった。そして質問攻め。最高にウザかった。
力の事を秘密にしてもらう変わりに、妙な協定を結ばされてしまった。ざっくり言うと、質問に(答えられる範囲で)答える、変わりに、祝福について調べてわかった事を教えてくれる。その他、知りたい事。例えば今いる国の事や、故郷があるはずの南大陸の国々の事を教えてもらう、という内容だ。
誰にも言わないというはずの協定は、わずか半刻で破られてしまった。クレッドは例外だと思っていたようだ。戒めに足が痛くなる位、蹴りをくれて、これ以上は絶対誰にも言わないように、言ったら本気で殺すと脅した。
それから二年。奴は少しずつ「研究」を進めた。時折成果と称して、考察を語ってくれた。基本的には聞き流していたが。
それによると自分の感覚は、変身する前から人より優れており、人間と狼の「いいとこ取り」のような感じらしい。例えば狼などの犬科の動物は、視力や色彩感覚は人間に劣るが、動体視力は優れ、暗視能力もある。リウィーは、視力や色彩は普通の人間の範囲内。これは狼目線で見れば優れているといえる。動体視力や暗視能力は狼目線で見れば普通、人間目線で見れば優れている、といった感じだ。
聴覚も触覚も人より鋭敏だ。睡眠時も眠りが浅いというより、直感が鋭く、危険な徴候に対し即座に覚醒するといった所か。
だからこそというべきか、当然というべきか。声に、先に反応した。もう一人は眠ったままだった。もっとも感覚差を差し引いてもアレの寝起きは悪いけど。
見張りをしているはずが、いなくなっていた事にはすぐに気がついた。
何度呼んでも起きなかったので蹴り飛ばし、事情を説明し、すぐに探しに行こうと主張した。普通の人間にとって夜の山林で人を探すのはほぼ不可能だが、リウィーは普通ではない。特によく見知った人間を追いかける事は、さして難しい事ではないのだ。
追いかける事は直ぐに決まったが、準備と焚き木の始末に時間を取られてしまい、出発するまでに少し時間がかかってしまった。飛び起きてから今に至るまで四半刻程度は経っているかも。なかなか起きなかったヒゲが悪い。
主に匂いを辿ってクレッドを追いかけた。いつもの嗅ぎ慣れた匂い。その事を意識すると恥ずかしくなってしまう。これもヒゲのせいだ。
自覚はないが、自分は普段、嗅覚を最優先にしているそうだ。具体的に言うと人間の好みについて、もっと言うと男の好みについて。そうしている節があると聞かされた。
「異性の好みについて、人間も無意識のうちに嗅覚を使っている。『良い』と感じる体臭は遺伝的に遠く、『臭い』と感じる体臭は遺伝的に近い傾向にあり、年頃の娘が父親の事を臭いと感じるのは、本能的に近親相姦を防ごうとするためだと言われている。とはいえ、それらはあくまで傾向であって、大多数の人間は見た目を優先する。俺の研究によると、リウィーは、外見はあまり優先しておらず、匂いで人の好き嫌いを判断しているよな」
研究というか観察しただけだろ、と突っ込んだら、お前にとってクレッドは相当良い匂いがするんだな、と反撃された。腹が立ったので数発蹴った。
言われてみれば、匂いで判断している事は多いと思う。クレッドが「良い匂い」なのも、認める。けど、異性として好きとか、そう言うのは良くわからない。ホルムヘッドの匂いも別に嫌いではないが、奴は基本的に不潔なのでそれ以前の問題だ。
それに。実は、匂いで人が抱いている感情をある程度感じ取れる。好意や親切、逆に悪意や攻撃的な感情……上手く説明は出来ないが人は「そういう匂い」を発する。初めて接した人間が発する匂いは、大抵は不信感だ。子どもが何故一人で、という事だろう。戸惑い、疑問、警戒。特に変身について知られてしまった時は、決定的なものになった。
二人は違った。ホルムヘッドは驚嘆に続いて歓喜、好奇心。クレッドは納得、関心、尊敬、といった感じか。初めて向けられたそれらの匂いに逆に戸惑ったものだ。今思えば、ハームの村に長く留まっている理由はこれかもしれない。知られてしまうのは気恥ずかしいので、この能力について特に説明はしていない。
良い匂い。好きかと言われれば好き。異性としてとか、そういうのは良くわからない。
(あのバカ。一人で勝手にどこに行ったんだよ)
昔の事を考えていたら、思考が恥ずかしい方向で回りだしたので、心の中で悪態をつく事で断ち切った。帰ってきたら何と言おう。勝手な行動をとるな、と怒鳴ってやらないと。戒めに一発、蹴りを入れよう。ついでにヒゲも蹴っておこう。こっちは、二、三発。
そんな事を考えていると、前方からこちらに向かってくる人影を見つけた。
すぐさま怒鳴ってやろうと思った。しかし、その言葉はすんでの所で飲み込まれる事になった。帰ってきたのは一人ではなかったからだ。
クレッドは、女の人を背負っていた。只の人ではない。
背中に翼が生えている。
よくわからなかったが、一般的ではないことだけはわかった。
もう一人。長身の、こちらも女。むき出しの肩や腕に鱗らしきものが見える。それ自体は気にならなかったが、そこから感じる匂いに戸惑いを覚えた。
人間の匂いに、何か異質な、爬虫類のような匂いが混ざっている感じ。目を瞑れば、目の前にいるのが人間なのかトカゲなのか、わからなくなる。
クレッドはあちらこちらに傷を受けている。翼の人も傷だらけだ。でも、トカゲは無傷。これと戦ったのだろうか、だったらコイツは敵だな、いや、それなら一緒に仲良く歩いているわけがないな。頭の中で自問自答の言葉が展開した。
さらにホルムヘッドは話しかけている。翼がある人間やトカゲ人間がいるだけでビックリ仰天なのに、さらに話をしようというのか。このヒゲはどう言う神経をしているのだろうか。世間的には「狼に変身する」方が明らかに異質なのだが、もちろんそんな発想には至らない。
ああそうか。驚き過ぎて、気が動転してるんだ、そうに違いない。私がこんなに狼狽しているのに、ヒゲごときがあんなに冷静でいられるわけがない。驚きのあまり、トカゲに話しかけるような、おかしな行動をとっているんだ。
無理矢理そう結論づける事にした。
ところが、そこにさらに追い討ちをかけるような出来事が起こる。
「私の名はクリス」
……そんな言葉が耳に入った。今の声は誰のものだろう。男の声ではなかった。
私はしゃべってないし、翼の人はまだ意識がないみたいだ。まさか、と一つの仮定が浮かぶ。いや、そんなわけはない。きっと疲れているんだ。今のは幻聴だ。
「話が聞きたかったので、同行させていただいた」
目の前で話していた。認めたくないが見てしまった。聞いてしまった。今の声はトカゲの声だ。爬虫類のくせに人間の言葉を話している。
ああわかった。これはきっと夢だ。歩き疲れて眠ってしまったんだ。疲れていたから、変な夢を見ているんだ。夢だから、ほっぺたをつねっても痛くない筈なんだ。
そう思って、思いっきりつねった頬には、痛みが残った。
「トカゲが喋ってる……」
リウィーは呆けたように呟いた。
その後、ホルムヘッドに思い切り怒られた。コレは、たまに本気で怒る。というか、説教してくる。いろいろと説明を受けた。
翼の人は「風の民」、トカゲは「鱗の民」という。翼はヒゲも初めて見たと興奮していた。鱗は一度だけ見た事があるらしいが、この辺では珍しい。いずれも祝福の力が身体的特徴となって現れる一族で、そういった人達は人口が少ない。特殊、という意味では「狼の民」も、あの集落はそれほど大勢いなかったような気がする。
いずれにしても同じ人間であり、見た目で差別するようなものではない、見た目というならどちらかと言うとお前の、の行で蹴りをお見舞いして黙らせた。
まぁ、確かに差別は駄目だ。それは誰よりも、よくわかっている。そこは素直に謝罪しておいた。
謝罪はした。反省もした。したが、匂いというのは本能的なものだ。違和感は頭でわかっていてもどうにもならない。目の前の、焼かれた肉から魚の匂いがしたら、平気で食べられる人はどれぐらいいるだろうか。そういう事だ。
最初に野営をした場所まで戻り、傷の応急手当をした。合間にホルムヘッドがこれまでの事情を聞き出していった。
「たぶん、ここにきた切欠も、この人が関係しているのだろうな」
山が騒がしい、とかいうアレの事だ。その意見には賛成だ。関係しているという方が自然だし、万一無関係だったとしても今の状況はそれどころではない。
今後の事は、この人。フィルナーナが目を覚ましてから話し合おうという事になった。ヒゲの話が趣味の方に移ったので、彼女の様子を見ていることにした。個人的には、鱗の民に興味は持てない。
見た目としては「鱗」も「翼」も大差ないが、匂いは全く違う。違うというか、風の民は普通だ。翼の香りは、髪の毛の匂いとあまり変わらない。厳密に言えば違うのだけど、誤差の範囲だ。
目覚めるのを待つ間、何気に翼を眺めていた。
元より人の見た目に拘りはないので、翼があると言っても気にはならない。外見重視の人から見ても、目立ちはするだろうが、この白い翼なら嫌悪の対象にはならないと思う。
翼があると言う事は飛べると言う事だ。一応ヒゲに確認したが、短時間ではあるが飛行可能との事だ。「生物学的には、翼の大きさや肩周りの筋肉、体重から考えて飛べるわけがないのだけど、彼らは実際に飛行できる。これは祝福の超常的な力が働いていると考えられていて……」と聞いてもいないうんちくが始まったので、聞き流しておいた。
空を飛ぶ、というのはどういう感覚なのだろうか。聞いて見たいとも思った。そんな事を聞いたとして、この人は話してくれるだろうか。
綺麗な容姿に白い翼。見た目は美しく、とても優しげに見える。けれど、印象と性格が同じとは限らない。そんな実例を、自身で何度も経験した事があるから。
匂いは好きだ。クレッドとは違うが、落ち着くというか、優しい感じがする。この人が私の事を知った時、どんな反応をするだろうか。クレッドやホルムヘッドと同じだったらいいな。
いや、この見た目でヒゲと同じだったら引いてしまうな。
そっと手を伸ばして、翼に触れてみた。それはとても柔らかく、少し暖かかった。
小さな呻き声が聞こえた。顔を覗き込む。うっすらと目が開く。視線が合った。
同性から見ても、吸い込まれるような綺麗な瞳。
「……あなたは」
「わたし? わたしはリウィーだよ」
思わず名前を答えていた。少し戸惑っているようだった。置かれている状況がよく分かっていないのだろう。おかしな返事をしてしまったと、少し後悔した。
表情を読み取ったのか、その人は柔らかく微笑んだ。
「そう。いい名前、ですね……」
良い香りがした。嬉しくなった。
この人を、好きになれると思った。
リウィーには双子の姉がいる。物心ついた頃には既に両親はいなかったが、そういった子どもは大勢いた。皆で一緒に生活していたので、寂しいという事はなかった。
集落の人達は、自分達のことを「狼の民」と呼んでいた。狼に変身する能力を持つ一族なので、そういう名前だったのだろう。
大人達は、子ども達に様々な事を教えてくれた。狼に変身する能力が「神の祝福」と言われるものである事。変身能力はとても特別なものだという事。これによって「狼の民」は迫害されてきたという事も教わった。その時は「迫害」という言葉の意味は、よく理解出来ていなかった。
ある日、突然やってきた軍隊が集落を襲った。戦えない者は森に逃れたが、人間達は追いかけてきた。何日も森の中を逃げ惑い、見つかり、また逃げてを繰り返し、気づいた時には姉と二人きりになっていた。
あの頃の記憶はハッキリとしないが、姉と二人行く宛もなく、一ヶ月近く山奥を彷徨っていたと思う。執拗に追いかけてきた人間達に発見され、逃げようとして川に落ちて……気がついた時には、どこかの村の一室で寝かされていた。一人になっていた。姉がどうなったのかはわからない。
村でしばらく安静にした後、事情を尋ねられ、全部話したのがまずかった。納屋に放り込まれ、軟禁されてしまった。幸いなのか、そこの村人は「狼の民」の事をよくわかっていなかった。夜間に祝福の力を使って脱出した。
それからは山野をあてもなくさまよい、時に街に入り、食べ物や衣服を盗み、街から逃げる、を繰り返した。そこから「人間の街」の仕組みや郷との違いを学んでいった。姉を探そうともしたが、生まれ育った集落がどこにあったのか、どこの川で流されたのか、保護され軟禁された村がどこなのかすら、わからなかった。ひと所に長く住む気は起きず、同じ場所には長くとも半年、短いと十日と居付くことはなく、移動を繰り返し、三年と少し前にハームの村に辿り着いた。
この村も、長居するつもりはなかった。冬場に野外で過ごすのは大変なので、一冬越すぐらいのつもりだった。その頃にクレッドとホルムヘッドに出会った。
*
一年ほどたった頃、ちょっとした油断で、祝福の事をホルムヘッドに知られてしまった。ここでの生活もこれまでかと思ったが、ヒゲの反応は想定外だった。
奴にとって「神の祝福」は興味の対象。全身が狼に変身する力は気味悪がられるのだが、むしろそれまで見たことのない満面の笑みで「感覚が鋭いから何か力を持っているとは思ったけど、これ程とは!」と大喜びされてしまった。そして質問攻め。最高にウザかった。
力の事を秘密にしてもらう変わりに、妙な協定を結ばされてしまった。ざっくり言うと、質問に(答えられる範囲で)答える、変わりに、祝福について調べてわかった事を教えてくれる。その他、知りたい事。例えば今いる国の事や、故郷があるはずの南大陸の国々の事を教えてもらう、という内容だ。
誰にも言わないというはずの協定は、わずか半刻で破られてしまった。クレッドは例外だと思っていたようだ。戒めに足が痛くなる位、蹴りをくれて、これ以上は絶対誰にも言わないように、言ったら本気で殺すと脅した。
それから二年。奴は少しずつ「研究」を進めた。時折成果と称して、考察を語ってくれた。基本的には聞き流していたが。
それによると自分の感覚は、変身する前から人より優れており、人間と狼の「いいとこ取り」のような感じらしい。例えば狼などの犬科の動物は、視力や色彩感覚は人間に劣るが、動体視力は優れ、暗視能力もある。リウィーは、視力や色彩は普通の人間の範囲内。これは狼目線で見れば優れているといえる。動体視力や暗視能力は狼目線で見れば普通、人間目線で見れば優れている、といった感じだ。
聴覚も触覚も人より鋭敏だ。睡眠時も眠りが浅いというより、直感が鋭く、危険な徴候に対し即座に覚醒するといった所か。
だからこそというべきか、当然というべきか。声に、先に反応した。もう一人は眠ったままだった。もっとも感覚差を差し引いてもアレの寝起きは悪いけど。
見張りをしているはずが、いなくなっていた事にはすぐに気がついた。
何度呼んでも起きなかったので蹴り飛ばし、事情を説明し、すぐに探しに行こうと主張した。普通の人間にとって夜の山林で人を探すのはほぼ不可能だが、リウィーは普通ではない。特によく見知った人間を追いかける事は、さして難しい事ではないのだ。
追いかける事は直ぐに決まったが、準備と焚き木の始末に時間を取られてしまい、出発するまでに少し時間がかかってしまった。飛び起きてから今に至るまで四半刻程度は経っているかも。なかなか起きなかったヒゲが悪い。
主に匂いを辿ってクレッドを追いかけた。いつもの嗅ぎ慣れた匂い。その事を意識すると恥ずかしくなってしまう。これもヒゲのせいだ。
自覚はないが、自分は普段、嗅覚を最優先にしているそうだ。具体的に言うと人間の好みについて、もっと言うと男の好みについて。そうしている節があると聞かされた。
「異性の好みについて、人間も無意識のうちに嗅覚を使っている。『良い』と感じる体臭は遺伝的に遠く、『臭い』と感じる体臭は遺伝的に近い傾向にあり、年頃の娘が父親の事を臭いと感じるのは、本能的に近親相姦を防ごうとするためだと言われている。とはいえ、それらはあくまで傾向であって、大多数の人間は見た目を優先する。俺の研究によると、リウィーは、外見はあまり優先しておらず、匂いで人の好き嫌いを判断しているよな」
研究というか観察しただけだろ、と突っ込んだら、お前にとってクレッドは相当良い匂いがするんだな、と反撃された。腹が立ったので数発蹴った。
言われてみれば、匂いで判断している事は多いと思う。クレッドが「良い匂い」なのも、認める。けど、異性として好きとか、そう言うのは良くわからない。ホルムヘッドの匂いも別に嫌いではないが、奴は基本的に不潔なのでそれ以前の問題だ。
それに。実は、匂いで人が抱いている感情をある程度感じ取れる。好意や親切、逆に悪意や攻撃的な感情……上手く説明は出来ないが人は「そういう匂い」を発する。初めて接した人間が発する匂いは、大抵は不信感だ。子どもが何故一人で、という事だろう。戸惑い、疑問、警戒。特に変身について知られてしまった時は、決定的なものになった。
二人は違った。ホルムヘッドは驚嘆に続いて歓喜、好奇心。クレッドは納得、関心、尊敬、といった感じか。初めて向けられたそれらの匂いに逆に戸惑ったものだ。今思えば、ハームの村に長く留まっている理由はこれかもしれない。知られてしまうのは気恥ずかしいので、この能力について特に説明はしていない。
良い匂い。好きかと言われれば好き。異性としてとか、そういうのは良くわからない。
(あのバカ。一人で勝手にどこに行ったんだよ)
昔の事を考えていたら、思考が恥ずかしい方向で回りだしたので、心の中で悪態をつく事で断ち切った。帰ってきたら何と言おう。勝手な行動をとるな、と怒鳴ってやらないと。戒めに一発、蹴りを入れよう。ついでにヒゲも蹴っておこう。こっちは、二、三発。
そんな事を考えていると、前方からこちらに向かってくる人影を見つけた。
すぐさま怒鳴ってやろうと思った。しかし、その言葉はすんでの所で飲み込まれる事になった。帰ってきたのは一人ではなかったからだ。
クレッドは、女の人を背負っていた。只の人ではない。
背中に翼が生えている。
よくわからなかったが、一般的ではないことだけはわかった。
もう一人。長身の、こちらも女。むき出しの肩や腕に鱗らしきものが見える。それ自体は気にならなかったが、そこから感じる匂いに戸惑いを覚えた。
人間の匂いに、何か異質な、爬虫類のような匂いが混ざっている感じ。目を瞑れば、目の前にいるのが人間なのかトカゲなのか、わからなくなる。
クレッドはあちらこちらに傷を受けている。翼の人も傷だらけだ。でも、トカゲは無傷。これと戦ったのだろうか、だったらコイツは敵だな、いや、それなら一緒に仲良く歩いているわけがないな。頭の中で自問自答の言葉が展開した。
さらにホルムヘッドは話しかけている。翼がある人間やトカゲ人間がいるだけでビックリ仰天なのに、さらに話をしようというのか。このヒゲはどう言う神経をしているのだろうか。世間的には「狼に変身する」方が明らかに異質なのだが、もちろんそんな発想には至らない。
ああそうか。驚き過ぎて、気が動転してるんだ、そうに違いない。私がこんなに狼狽しているのに、ヒゲごときがあんなに冷静でいられるわけがない。驚きのあまり、トカゲに話しかけるような、おかしな行動をとっているんだ。
無理矢理そう結論づける事にした。
ところが、そこにさらに追い討ちをかけるような出来事が起こる。
「私の名はクリス」
……そんな言葉が耳に入った。今の声は誰のものだろう。男の声ではなかった。
私はしゃべってないし、翼の人はまだ意識がないみたいだ。まさか、と一つの仮定が浮かぶ。いや、そんなわけはない。きっと疲れているんだ。今のは幻聴だ。
「話が聞きたかったので、同行させていただいた」
目の前で話していた。認めたくないが見てしまった。聞いてしまった。今の声はトカゲの声だ。爬虫類のくせに人間の言葉を話している。
ああわかった。これはきっと夢だ。歩き疲れて眠ってしまったんだ。疲れていたから、変な夢を見ているんだ。夢だから、ほっぺたをつねっても痛くない筈なんだ。
そう思って、思いっきりつねった頬には、痛みが残った。
「トカゲが喋ってる……」
リウィーは呆けたように呟いた。
その後、ホルムヘッドに思い切り怒られた。コレは、たまに本気で怒る。というか、説教してくる。いろいろと説明を受けた。
翼の人は「風の民」、トカゲは「鱗の民」という。翼はヒゲも初めて見たと興奮していた。鱗は一度だけ見た事があるらしいが、この辺では珍しい。いずれも祝福の力が身体的特徴となって現れる一族で、そういった人達は人口が少ない。特殊、という意味では「狼の民」も、あの集落はそれほど大勢いなかったような気がする。
いずれにしても同じ人間であり、見た目で差別するようなものではない、見た目というならどちらかと言うとお前の、の行で蹴りをお見舞いして黙らせた。
まぁ、確かに差別は駄目だ。それは誰よりも、よくわかっている。そこは素直に謝罪しておいた。
謝罪はした。反省もした。したが、匂いというのは本能的なものだ。違和感は頭でわかっていてもどうにもならない。目の前の、焼かれた肉から魚の匂いがしたら、平気で食べられる人はどれぐらいいるだろうか。そういう事だ。
最初に野営をした場所まで戻り、傷の応急手当をした。合間にホルムヘッドがこれまでの事情を聞き出していった。
「たぶん、ここにきた切欠も、この人が関係しているのだろうな」
山が騒がしい、とかいうアレの事だ。その意見には賛成だ。関係しているという方が自然だし、万一無関係だったとしても今の状況はそれどころではない。
今後の事は、この人。フィルナーナが目を覚ましてから話し合おうという事になった。ヒゲの話が趣味の方に移ったので、彼女の様子を見ていることにした。個人的には、鱗の民に興味は持てない。
見た目としては「鱗」も「翼」も大差ないが、匂いは全く違う。違うというか、風の民は普通だ。翼の香りは、髪の毛の匂いとあまり変わらない。厳密に言えば違うのだけど、誤差の範囲だ。
目覚めるのを待つ間、何気に翼を眺めていた。
元より人の見た目に拘りはないので、翼があると言っても気にはならない。外見重視の人から見ても、目立ちはするだろうが、この白い翼なら嫌悪の対象にはならないと思う。
翼があると言う事は飛べると言う事だ。一応ヒゲに確認したが、短時間ではあるが飛行可能との事だ。「生物学的には、翼の大きさや肩周りの筋肉、体重から考えて飛べるわけがないのだけど、彼らは実際に飛行できる。これは祝福の超常的な力が働いていると考えられていて……」と聞いてもいないうんちくが始まったので、聞き流しておいた。
空を飛ぶ、というのはどういう感覚なのだろうか。聞いて見たいとも思った。そんな事を聞いたとして、この人は話してくれるだろうか。
綺麗な容姿に白い翼。見た目は美しく、とても優しげに見える。けれど、印象と性格が同じとは限らない。そんな実例を、自身で何度も経験した事があるから。
匂いは好きだ。クレッドとは違うが、落ち着くというか、優しい感じがする。この人が私の事を知った時、どんな反応をするだろうか。クレッドやホルムヘッドと同じだったらいいな。
いや、この見た目でヒゲと同じだったら引いてしまうな。
そっと手を伸ばして、翼に触れてみた。それはとても柔らかく、少し暖かかった。
小さな呻き声が聞こえた。顔を覗き込む。うっすらと目が開く。視線が合った。
同性から見ても、吸い込まれるような綺麗な瞳。
「……あなたは」
「わたし? わたしはリウィーだよ」
思わず名前を答えていた。少し戸惑っているようだった。置かれている状況がよく分かっていないのだろう。おかしな返事をしてしまったと、少し後悔した。
表情を読み取ったのか、その人は柔らかく微笑んだ。
「そう。いい名前、ですね……」
良い香りがした。嬉しくなった。
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