微熱でさよなら

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「来い。お前の裁量で決めねばならないことがある」

そう声をかけられ、リーヌスは視線を戻した。テオフィルはくるりと背を向け、部屋を出ていく。

「どこへ?」

返答はない。ふり返りもしない。行けばわかるということか。
ふたりは一階へと降りた。中庭に続く扉は大きく開け放たれている。そこから装飾の搬入が行われていた。
テオフィルは慌ただしく動く使用人たちに目もくれず、長い回廊を歩いていく。そして邸宅の玄関口近く、衛兵たちの詰所らしき部屋の前で立ち止まる。部屋といっても扉はない。
上部がアーチ型になった入り口から中を覗くと、衛兵の制服を着た男たちが広い卓上に大きな紙を広げて話し込んでいた。

「鍵を」
「はい」

テオフィルが部屋の中に向かって声をかけると、衛兵の一人が奥の扉に入っていった。しばらくすると、大ぶりな鍵を手に持って出てくる。
テオフィルが鍵を受け取るまでの間、リーヌスは詰所の様子を観察していた。卓上の紙に書かれているのは邸宅の図面で、様々な記号や矢印が赤色のインクで書き足されている。警備の計画と思われた。

鍵を受け取り詰所を後にすると、テオフィルはまた回廊を進んだ。突き当たりまで進むと、壁の陰になった見えにくい場所に地下へと続く階段がある。
リーヌスは足を止めた。

「……僕は、……僕からはもう何も言えない。あなたに任せる」

先行するテオフィルが振り向く。手で促され、仕方なく階段に重い足を踏み出す。邸の端にある地下へと続く階段の先など、地下牢以外に考えられない。

「ゲートハイルの次男ではない」
「え?」
「お前の元側仕えだ」

てっきりアルブレヒトとまた相見えることになると思っていたリーヌスは、ふたたび立ち止まった。テオフィルは構わずに階段を下っていく。

「ベティーナが……?」
「昨夜の侵入の手引きをした。本人も自供している」

遠ざかる声に我に返って、慌ててテオフィルの背中を追った。壁に手をついて進みながら、アルブレヒトの言葉を思い出す。
__きみの側仕えが外で待ってる。
アルブレヒトはそう言った。自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
石の壁は冷たく、リーヌスの指先を冷やしていく。

「お前の元婚約者候補なら昨日のうちに帰した。ゲートハイル伯爵家は今後の顧客になり得るからな」

階段を下った先にはやはり牢が並んでいた。ふたりは頭を下げる衛兵の前を通って、ひとつの牢の前に立った。

「ベティーナ……」

格子の奥で簡易の寝台に座っていたベティーナは、こちらに気づいて立ち上がるなり、リーヌスの前でこうべを垂れた。結んだ髪がほつれて、召使の服には皺が寄っていた。手酷い扱いはされていないようだが、心労が窺えた。

「お助けできず、申し訳ございません……!」

苦しげな声が胸を締め付ける。
ベティーナは悪くない、とは口にすることはできなかった。だが、彼女にアルブレヒトを手引きする決意をさせたことはリーヌスの責だ。

「違う。謝るのは僕だ。こんなことをさせてすまなかった」
「いいえ、いいえ……」

恐縮するベティーナの姿に罪悪感が込み上げ、息が詰まる。荒波の上に顔を出して息をするように、リーヌスはなんとか言葉を紡いだ。

「アルブレヒトにも話したけれど、僕はもう婚約した身だ。レーヴェンタールに戻ることはない」
「ですが……」
「僕は自分の意思でここにいる」
「……しかし、貴い公子さまが商家の者に斯様な扱いをされるなど耐えられません。ほとんど部屋の外に出られないのでしょう。それが公子さまの意思ですか」
「そうだ」
「公爵閣下も、公爵夫人も、心配していらっしゃいます」

ぐっと喉の奥で感情がつかえる。言葉にしたくなかったことを、言葉にしなければならなかった。

「父上と母上は……あの人たちは、心配なんてしてないよ」

ベティーナが今にも泣き出しそうになったので、リーヌスは慌てた。言葉にする前は自分が泣いてしまうのではないかと思ったけれど、案外そんなことはなかった。

「いいんだ。あの人たちも苦労してきたし、肩身の狭い思いをすることが少なくなるなら」
「差し出がましいことを申しますが、アルブレヒト様ではだめですか。あの方なら、きっと公子さまを大切にしてくださいます」
「僕にはもったいない人だし、……そもそも気が合っていたわけじゃないから」

ベティーナが目を見開く。リーヌスは少し笑った。

「そうなのですか」
「うん。実はちょっと、気まずかった。嫌いではなかったけれど」
「わたしはてっきり……」
「もっと僕自身の話をすればよかった。きみの話も聞けばよかった」

言葉にして初めて、自分の中で腑に落ちた。今まで、まともに他者と向き合ってこなかった。アルブレヒトにも、ベティーナにも、両親にも。
ベティーナの瞳からみるみる涙が溢れていく。

「たくさん心配してくれてありがとう。僕は大丈夫。もうここに残るって決めたから」


「……そういうことだ。諦めるんだな」

腕を組んで壁に背を預けた姿で、テオフィルが横から口を挟んだ。

「では公爵家に戻れ。紹介状を書いてやる」

そう言うとあっさり牢の鍵を開く。疑わしげな顔をしつつもベティーナが外に出ると、テオフィルは再び鍵を閉めて歩き去った。
想定外に軽い処分だった。リーヌスはベティーナを抱きしめて、別れを惜しんだ。

地下牢から引き上げたところで、ベティーナは他の使用人に連れられて立ち去った。リーヌスはテオフィルの背中を追いかけて、彼の執務室に立ち入った。

「初めに僕の裁量で決めると言ったのは……?」
「お前の説得次第だった。彼女がおとなしく納得すれば紹介状を書き、納得せずお前を連れ戻そうとするようなら紹介状は書かない」
「……」

使用人にとって、紹介状というものは命綱とも言うべき存在だ。いくら公爵家と既知とはいえ、一般的に紹介状をもらえず解雇された使用人は問題を抱えていると見做される。紹介状がなければ、ふたたび公爵家で雇ってもらうことは難しくなるかもしれなかった。

「……ありがとう。紹介状を書いてくれて」
「新しい邸に入って二日で、警備を掻い潜って侵入の手引きができる手腕と度胸がある。なかなか優秀な人材だ。こちらで再雇用することも考えたが、さすがに部下から反発があってな」

ひとりごとを呟くようにそう返して、テオフィルが椅子に腰掛ける。そして目の前の資料を引き寄せると、リーヌスの感傷をすっぱり切り捨てるように扉を示した。

「俺はまだ仕事がある。部屋に帰っていろ」
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