鬼の国で花が散る

紫草 友紀子

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第五章 光秀

第三十四話 昔の話

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 夏の冷えた夜風が草原を駆け抜けた。

 耳に草が掠れる気持ちの良い音が後に続き、あたりの空気に命の息吹が宿るようだった。先日まで肥えていた月は既に下弦になっており、今夜は群雲もある。夜空を見ながら、これでは胸になんのときめきもないと金太は思った。
こういう日、誰かを、特に目上の人物を訪ねることは、金太の世界では失礼に当たるので控えることになっていた。本来であれば、満月の夜に腹を叩きながら参上することが金太の一族の礼儀なのである。
けれども今夜は事情が違う。なにしろ金太は祖父の太三郎と、もう何十日ものあいだ、その人物に会うために旅をしてきたのだ。その上、事は一刻を争う。だから自分の祖父が満月を待たずしてその方に会いに行くを決めた時、金太にはなんの疑問も持たなかった。
金太はまず祖父と共に渡川で身体を清めた。神にも等しいその人物に挨拶に行くのに、まさか旅の汚れを伴うわけにはいかない。さらに手土産も用意していた。昼間に中村の城下町に行き、材料を買い求めて皮と甘いあんこから丹精を込めて作った饅頭だ。少し味見したが、頬がとろけるように甘く美味しい饅頭である。これは金太の家の秘伝の饅頭で、特別な時にしか金太も食べたことがない。
 金太とその祖父が向かったのは、ある寺だった。もうずっと前に廃寺になったらしく、本堂はおろか庭の至る所に蜘蛛の巣がはり、なんだかよくわからないがらくたが積み重なっている。障子はとうの昔に剥がれ、戸も外れていてかつての面影は全く見られない。寂しげな冷たい風も吹いていて、まるで鬼でも出てきそうな風情だった。
 金太は最初、この場所にあの方がいると知った時、とても信じられなかった。伝説で語られるその人は、立派な御殿に住み、幾人もの家来に傅かれて玉座に座っているような大人物なのだ。だからこそ、こんな田舎の廃寺にいることが信じられない。

「爺ちゃん、ほんとにここにいらっしゃるんかなあ」

寺へと続く長い階段を上りながら、金太は先を行く祖父に向かって呟いた。

「おう、確かにここにいらっしゃる。この私がいうのだから、間違いはない」

金太はここに本当にあの方がいるのかどうかということより、祖父の荒い息づかいの方が気になった。
  祖父はもう若くはない。一族の中でも長老と呼ばれる年齢で、本当であればこんな長い旅に耐えられる身体ではないのだ。それでも家族が全力で止めても頑として思いを曲げないのだから、もうどうしようもなかった。金太の父は、妥協案として金太に伴をさせることで祖父を郷から送り出したのである。
だが、いざ旅に出てみれば今まで郷の外にほとんど出たことの無かった幼い金太は、祖父の世話をするどころか世話になりっぱなしで足を引っ張ってばかりいる。川に魚を捕りに出ようとすれば溺れそうになるわ、獲物を獲ろうとすれば猟師に撃たれそうになるわ、全く持って役に立たない。そんな時、祖父はいつもいち早く駆けつけて金太を助けてくれたが、これでは役目があべこべである。
 金太が唯一出来ることと言えば、祖父の身体を慮ることだった。ちょくちょく休憩や食事を提案したり、水を汲んできて、身体のあちこちを揉んでやる。祖父の体調管理だけが金太に出来る唯一大事な役目だった。

「爺ちゃん、もう下で待ってなよ。おいらが挨拶してくるからさ。あの方だって、事情と爺ちゃんの名前を聞いたら、爺ちゃんに会いに降りてきてくれるよ」

「なんじゃって!あの方にご来駕願うというのか。お前はあの方がどういう方か、なんにも分かっていないんじゃ」

「ちゃんと分かってるさ。昔この国に突然やってきて、妖怪たちを震え上がらせた大親分だろ」

金太の答えに不満そうに、祖父の太三郎は言った。

「ほら全く、お前は何にも分かっちゃいない。そんな安っぽいもんじゃないんだよ。あの御方は。あの方はなあ、かつて運命と戦ったのさ。数千年前、かつて大陸の・・・」

金太はまた始まったとばかりにため息をつき、両腕を頭の後ろに組むと、ぶすっとした顔で祖父の言葉を遮った。

「でも負けたんだろ。そんで日本に逃げてきたんだ」

すかさず太三郎のげんこつが飛んでくる。

「いってぇ。何すんだよ。爺ちゃん!」

「全く不敬なことを言う奴じゃ。そんなんじゃ一緒に連れていかんぞ」

「だってよ。本当の事じゃないか。あの方は凄い力を持っていたけど、結局は負けて、この国に来てからも将軍に退治されて、ずっと負けっ放しの狐じゃないかよ」

またもや太三郎のげんこつが飛んでくる。金太は痛ぇとその場で頭を抱え込んだ。

「いいか。こういうのは勝つとか負けるとか、狐とか狸だとか、赤とか緑とかが大事じゃねえんだよ。神様と喧嘩するっていうのは、そういうことじゃないのさ」

 金太の祖父は長い長い石の階段を上りながら、いつものように昔話を始めた。

「いいか金太。昔も昔、大昔。まだ地上に神も仙人も残っていた頃の話だ。その頃はまだまだ仙人やら妖怪がたくさんいて、地上はまだ人間たちのものではなかった。河が氾濫しては村が流され、病が流行っては為す術もなく人が死んでいく。あの頃の人間は、さぞや小さな生き物だったんだろうなあ。だから人間は神様にすがるしかなかった。今だって神様をたいせつにしている人間はいるが、あの頃は神様にしたってもっと直接、実体を持って人間を庇護していたんだ。
 けれどもあの頃は神様といっても、まだきちんとした方はそんなにいらっしゃらなくてな。結構みんな無茶苦茶やっていたんだ。人間の生贄をよこせという神々もいた。ん、そうだ妖怪じゃない。ちゃんとした神様がだ。でもその頃はそれが当たり前だったらしい。この国でも私のひい爺さんの時代にはもうそんな事は無かったようだが、今でも妖怪で人間を喰う奴いるだろ。あれはその名残だな。
とにかく、あの頃の地上には神様もいたし、妖怪も、人間もいて、一番力を持っていたのが神様だったんだ。ところがある時とてつもない変化が訪れた。だんだんと神様が地上に手出しが出来にくくなってきたんだ。これは遙か天空の、一等高いところで大きな決まりが変わってきたせいだったらしい。理由は分からない。けれども神様たちにもどうしようもなかったんじゃ。
この根本には、その決まりで善と悪が作られたというのと関係があるらしい。そう、お前にも術の基本である陰と陽を教えてたよな。ちょっと違うが、それみたいなもんだ。
 そして時を同じくして、人間が強く賢くなり出した。川の氾濫には堰を築くようになり、薬をたくさん作り始めて、たくさんの作物を始めた。だから段々と神様の言う事を聞かなくなったんだ。これが神様たちにとって、面白いわけがない。だいたい堰の作り方も、薬の作り方も全部教えたのは神様たちだったからな。
 そんな時、人間の中から仙人というのが出始めてきたんだ。仙人は不老不死で術を使う不思議な連中というのはお前も知っているだろう。彼らは最初とても少なかったんだが、徐々に数を増やして行ったんだ。そして段々と神様と肩を並べるようになっていった。
そんなある時、ついに仙人たちと神々が争う時が来た。
 神様は人間が賢くなり、いう事を聞かなくなったのは人間が悪に染まったからからだと主張した。だからよけいに、自分たちが導かなくてはならない、崇めよと命令した。
だが仙人は、人は善に染まったのだと言った。だからこそ、人はもっと自立しなければならないといった。

人は善なのか悪なのか。

さあ、ここで神様と仙人の衝突だ。といっても直接全面戦争が始まったわけではないぞ。仙人と神々は人間たちを使って間接的に戦った。
当時、神々に守護を約束されていた国があった。何百年も続いた大国だ。だが、この国の最後の王様は、とても聡明な人物で時代の流れを読み取って遂に神々への人間の生贄を廃止したんだ。これに神々は激怒した。神々との約束を破るその行為が、悪であると判断した。そこで王様が考えを善に導こうと、信頼できる使者を送り込んだ。
 一方で仙人たちは、その生贄こそが悪だと叫んだ。そのような悪に染まった国は滅びるべきだと、別の国に肩入れしてその国を滅ぼそうとした。
ここに神様と仙人の代理戦争が始まった。
しかし、ある時神々は仙人と和解した。神々はなんだか馬鹿馬鹿しくなって、仙人が出した折衷案を受け入れたんじゃ。そして、今まで守っていた国を見捨てた。
実は大きな流れによって、その国が滅亡する事は決まっていたらしい。神様と仙人はお互いの争いに国や人の善悪を建前にして利用していただけだったんじゃ。
本当ならばこの時点で使者は神様の元に帰ってくれば良かった。けれど使者は帰らなかった。なぜか。
使者は人が善なのか悪なのか最後まで知りたかったからさ。その国が滅ぶかどうかで、それを見極めたかったんだ。
その使者は必死で戦った。軍を指揮し、掟を破って介入してきた仙人や神様たち双方を相手にたった一人で。その使者こそ、今からお会いする白面の御方なんじゃ」

「でもさ、結局負けてその国も滅びちゃったんだろ。結局人って善なのか悪なのか分かったのかな」

金太は今度は数歩下がり、祖父の拳に注意を払ってから言った。

「そうじゃ。だが何度も言うが勝ち負けじゃないんだよ。御方だって仙人だ。あの時もうあの国が滅びる事は知っていたさ。おまけに敵国についた仙人たちはどれも凄腕ばかりで、一人一人が天地を揺るがすほどの力を持っていた。ところが御方の方は神様が手を引いていて、後ろ盾なんて誰もいないし、まず勝ち目がない。それでも御方は国を守るために戦った。強大な敵を前に、まさに神にも見捨てられ滅びる事が決まっている国を守って戦ったんだ。それはさっき言ったように、人が善なのか悪なのか知りたかったからだが、正直普通はそんなのはどうでもいいじゃないか」

「うん、そうだよ。俺ら人間じゃないもんな」

「でもそれでも知りたいというのは、愛するという事じゃ。実はな、金太、神様は御方にわざと人が悪であるところをたくさん見せた。絶対に悪であると信じ込ませようとしたんだ。でも、御方は、でも、しかしと人の善なる部分を探そうとした。だから戦った。お前にこの凄さが分かるか」

金太にはよく分からなかった。とても力の強い妖怪を、尊敬するのは分かる。自分はまだ尻尾なんて一つの狸だが、その尻尾が九本あるというだけでも凄い事である。けれども、祖父が尊敬をしているのは、その辺りではないらしい。どこが凄いのか、金太にはよく分からなかった。
 金太が思いを巡らせていると、二人はようやく階段を上りきった。太三郎も、いつもならここから御方の日本での大暴れする話が続くのだが、今は寺の本堂を見つめ目を輝かせている。
 寺はやはり昼間確認したとおりの廃墟である。その上今は夜だから、鬼ばかりか幽霊まで出てきそうな趣があった。
金太は怖くなって祖父の手を握ると、祖父は頭を優しく撫でてくれた。

「さ、金太、始めるぞ」

そう言って微笑むと、太三郎は真面目な顔になって息を大きく吸い込んだ。脚に力を入れて踏ん張り、右手を大きく挙げる力を込めて自分の腹に打ち込んだ。
 ポンっというまるで太鼓のような音が辺りに響き渡る。続けて太三郎は左の拳を腹に叩きつけ、後はこれの繰り返しだった。すぐに金太も続く。まだ祖父ほど見事に音を響かせる事は出来ないが、姿勢と形だけは一人前と褒めてもらえるものだった。
狸囃子がしばらく続くと、今度は一陣の風が吹き抜けた。そして外れかけた本堂の扉が一度ぴたっと元に戻ると、小さな音を立てて開いた。

「おおっ、会って下さるそうじゃ。さあ行こう」

ぼろぼろの本堂の入り口を一歩くぐると、金太は思わず声を上げた。
 そこは眩しいほど光輝く広間だったのである。金太は外から見たものとまるで違う空間に、あまりのまぶしさに目を押さえて、そのまま腰を抜かしそうになった。板が抜けたぼろぼろの座敷を想像していたのに、実際にはどこもかしこもまるで新築のように艶のある木が使われてある。そこかしこにある調度品も金太が見た事もない品々ばかりで、一体何なのかも分からなかったが、それでもこれらがとてつもなく貴重な品々という事だけは分かった。
 室内を照らす光の源は、天井に吊された不思議な物体で、いくつか灯された炎を周囲の透明な無数の石が光を増幅させているようだった。その燦然と輝く不思議な物体に、金太の目は指の隙間から釘付けになった。
そして光に照らされる本堂の奥、本来であれば仏像がある場所に、まるで本尊のように御方はいた。

「ふむ・・・一体何者だ・・・・」

今まで眠っていたらしく、その声はどこか虚ろである。御方は瀟洒な南蛮の椅子の上で、蹲っていた。
御方はとても綺麗な白狐だった。
金毛白面というからには、金色の毛並みで無かった事は金太にとって意外だったが、その声にはすでに相手の動きを封じてしまうほどの貫禄があった。

「はい、わたくしは屋島狸の太三郎です。金毛白面の御方。御方がお目覚めになったと聞いて、参上仕りました」

太三郎のしわがれた声を聞いて、御方はむくっと首をあげた。

「太三郎って・・・さぶちゃん、あんたさぶちゃんなの」

それまで平伏していた太三郎は、顔を上げて満面の笑みを浮かべた。

「はい、姐さん、お久しぶりです。太三郎です」

「姐さんは相変わらず、お元気そうで」

白は懐かしい顔に、思わず息を呑んだ。

「うそ・・・さぶちゃん・・・・。懐かしいわ。元気だった?もうあれから、何年になるの」

太三郎の答えを聞く前に、目を細めながら白は記憶を辿った。太三郎と別れたのは、自分が宮中に上がる時だったから、三百年以上前になる。大陸からこの国に渡り、自由気ままに暮らしていた時、一番の子分であり相棒であったのがこの太三郎なのである。
 初めて会った時はそれこそ四百年以上も前になる。あの頃、自然と自分が辺り一帯の妖怪を束ねる形になったので、毎日鬼やら天狗やら河童やら、様々な一族から訪問を受ける日々だった。誰もが恐れ敬い、我こそが一族の長だという事を白に認めて貰いに来ていたのだ。当然認めてもらった一族の長は白の子分という事になって、一族郎党ますます崇めてくる。身内や異なる種族で諍いがあれば公平な裁きを求められ、世継ぎが生まれれば名付け親になってくれとせがまれた。どうしてこんな事になってしまったのかと、頭を抱えたが自然になってしまったものはしょうがない。
 そんな中、一族の代表でもないのに突然やってきて、弟子入りを懇願してきたのが、狸の太三郎だった。それまで金毛白面九尾の狐に弟子入りなど、誰も思いつかなかったほどお恐れ多い申し出に、周囲はおろか白でさえも唖然とさせた。
あの頃の彼は、まだ幼さの残る、世間知らずな子狸だった。

「三百年以上になります。もうすっかり爺さんですわ」

そう言って太三郎は一度腹を叩いて、大きく笑った。

「しかし姐さんは相変わらずお綺麗です。あの日最後に見た時のまんまだ」

「・・・・・・」

「え、俺、何か失言でもしましたか」

かつての子分は白の微妙な顔色を見逃さなかった。

「いや、なんでもないのよ。ほんと。それより・・・」

「やっぱり俺の事を恨んでるんですか」

「え、なんで?」

「だって、俺、結局あの時に側を離れたっきりで、姐さんが東で都を追われて何万の兵や陰陽師と大戦してるって時にも、駆けつけなかった。結局それで姐さんは大けがを負って・・・。俺、今でも後悔してるんです」

なんだそんな事と、白は微笑んだ。

「あれは私の喧嘩だったのよ。あんたが来たって私は追い払ったと思うわ」

「でも」

「私の喧嘩は、いつもそういう喧嘩よ」

その言葉に、太三郎は白の目をじっと見つめた。

「でも、あいつは姐さんの事を裏切ったんだ。俺はそれを知ってから、今でもあいつが許せねえ」

「あの人の事をあんまり悪く言わないで。あの人も陰陽師の讒言に惑わされていただけなのよ」

「けど姐さん、愛するって言うのは、何があっても相手を信じるっていう事じゃないですか。俺は絶対に上手く行くわけないって思ってたんだ。ちょっと目をかけている手下になんだかんだ言われたからって、それで気持ちの冷めるものではないでしょう。そんなの本当の・・・」

途中まで言って、太三郎は自分の失言に気づいてはっとした。今自分が言った事は、白が信じた愛が本物ではなかったと言っている事になる。太三郎は慌てて額を床に叩きつけた。

「すみません、俺、また余計な事を!」

「いいの。私はちゃんと本当だったと思っているから。あんたには悪いけど、大親分の地位を捨てた事も少しも後悔してないわ。人間は、弱いのよ。いや、生き物全部が弱いの。たとえ人間の中で至尊の位にあったとしても、ちょっとしたすれ違いで生まれた心の隙間に、不安や欲が入って来て相手を信じられなくなる。信じるよりも疑う方が、自分を守れると思ってしまうのね」

白は目を閉じため息をつきながら、かつての子分の言葉を許した。

「そんな事より、さぶちゃんの近況を聞かせてちょうだいよ。私と都で別れた後、どうしたの」

白はわざと明るい声を出したことに太三郎は気づいていたが、そのまま近況を語りはじめた。
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