碧い入江の迷子たち

山田クロユリ

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碧い入江の迷子たち

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 ヴァーティゴという言葉がある。ダイビング中に平衡感覚や方向感覚を失うことらしい。水面に上がろうとしているのに、むしろより深く潜り込んでしまうのだ。じゃあ、人魚はどうしているのかしら。

 海深く潜ったときのような耳鳴りが消えない。「こんなはずじゃなかった」もう何度呟いたか分からない。でもきっと誰の耳にも届かない。私のようにならないで。私は、見知らぬ誰かのために海の中から水面に上がる方向を必死で示しているのだ。より深い海の中でもがきながら。

 「すぐにオフィスに来て」ヒカリさんからのメッセージは既読をつけたら1分以内に返す。そして、ボスの仰せのままにオフィスに向かうのだった、35度の雲ひとつない青空と都心部特有の熱風のなかで。毎回急かされる呼び出しに緊急性がないのはわかっている。


 Radient Blue のオフィスは、JR原宿駅から青山方向に徒歩10分。毎朝道すがらに立ち並ぶフォトジェニックなフードスタンドやカフェが視界に飛び込んでくる。それらは決して座って食べることを許さない広さしか持ち合わせていないので、オフィスアワーのランチには向いていない。平日だというよに一際混んでいる。こんな時にカメラを回して、インスタのストーリー用のショート動画を撮り溜めておくと賑やかな雰囲気が伝わるのだ。

 「サトミン、さすが早いね」毎日キレイに巻いた髪、新しくしたばかりのネイル、愛用のマノロブラニクをまとってヒカリさんは出迎えてくれた。いつも通りの美しさと華やかさ。いかにもキャリアウーマンのようないでたちだが、笑顔はチャーミングで喋り方は優しい。持って生まれた美しさと育ちの良さのなせる技だ。リーマンショックまでは有名な外資企業に勤めていたという。

 「今日はシュークリームだったの。最近銀座に新しく出来たお店だって。皆次から次へと目新しい差し入れ持ってきてくれるんだけど、全然分からないの。知ってる?」
箱を見るとフレデリック・カッセルだった。たしか銀座三越にしかない。ミルフィーユをイメージしたフランスの巨匠のスペシャリテであることを伝えると大袈裟に感心してくれた。
今日のシュークリームは1個¥540で全部で6個入りだ。賞味期限が短いから、と2人でハーブティーと一緒に1つずついただくことになった。残りはオフィスに持ち帰って山分け。こんなバニラの効いた濃厚なカスタードに合うのは間違いなくコーヒーだが、ヒカリさんはハーブティーしか飲まない。正確にいうとお金になる、つまりRadiant Blue のハーブティーしか飲まない。

 「美味しいシュークリームをうちのハーブティーといただきました」と投稿するのだろう。あるいはエルメスのカップに淹れたハーブティーの写真とハッシュタグだけかもしれない。テーブルのうえには無造作に置かれたセリーヌの16の金具を抜かりなく映りこませる。自分の商品価値を上げるために抜かりなく使用するが、ハッシュタグに#エルメスなんて入れることはしない。分かる人だけ分かってくれればいいのだから。

 毎週ミーティングはあるし、差し入れの度に呼び出されるけれど、未だにヒカリさんと会う時はドキドキする。40歳を過ぎているとは思えないほど、頭のてっぺんから指先、靴まで抜かりないし、それに見合うスタイルを維持している。肌は不自然に発光するビニールみたいな白さじゃなくて、均一でハリがある。よく見れば細かいシワもちゃんとある。ずっと憧れてきた人のアシスタントとして働いているのだ。

 エレベーターをおりたところで、岡野コウダイとすれ違った。会釈だけして立ち去ったが、相変わらず、ヒカリさんとは美男美女でお似合いだ。うちのCEO、大嶋ヒカリの「ビジネスの」パートナーで、マリンスポーツと前妻との息子を生き甲斐にしている。

 窓いっぱいに光が差し込むエントランスを抜けて、ビルの正面玄関の自動ドアから狭い歩道に出る。信号を渡って、2分歩いて、重たいガラス戸を開ければ、薄暗いエレベーターホールが出迎えてくれる。学習塾やクリニックがテナントに入っているからなのか、メンテナンスだけは入念にされている旧式のエレベーターに乗り込み、3のボタンを押す。隣のビルに景色を遮られて、天気の確認も危うい廊下を通って自分たちのオフィスに戻る。

 「あ~、サトミン、おかえり。早かったやん」関西まじりのアクセントとフレンドリーという名の図々しさで、30分前まで一緒にいたとは思えない熱量でユイさんが出迎えてくれた。私がこのオフィスで働き始めて半年が過ぎた。私の肩書きはジュニアアシスタント、彼女のはシニアアシスタントだ。関西出身の姉御肌。流行りのメークアップアーティストに似ていて、サバサバしているファッショニスタだ。オフィスの常勤はこの2人。時々、ボランティアのメンバーをよんだり、インターンの女の子が現れたりするからそれなりに賑わいはある。

 ヒカリさんが、我が社のCEOで、仕事は女性専門の起業コンシェルジュになる。ユイさんはオフィスに来てからは3年目だが、もともとヒカリさんとは「長い付き合い」らしい。二人とも、その辺のことを時系列にそって話そうとしないので、こちらも詮索することはない。時々、二人しか知らないレストランだのインフルエンサーだの大成功したプロジェクトだの、話に花を咲かせているが、そんな時はニコニコしながら相槌を打てばいいだけだ。

 インスタを開くとヒカリさんが早速インスタを更新していた。「スタッフちゃんとのMTG無事に終了」里見リアの名前が載ることはない。半年たっても呼び方は「スタッフちゃん」だ。ユイさんは、良い名前だと言ってくれたが、「リアだと外国人みたいで、近づきがたい」と言ったので、より日本人らしい里見をつかうようにしている。ツーショットで、同じ画面に映り込むことができたのは数えるほどだ。大抵は今日のように、「自分以外のニンゲンが存在していますよ」というアピールに使われるに過ぎない。それでも、この気まぐれな呼び出しのために、毎日メイクをして、カラコンをして、月に1回のネイルとマツエクを止めることはできない。「皆の憧れの仕事」をして、ヒカリさんの横に並ぶには少しでもキレイでいなければならない。

 19時を過ぎても原宿の風は熱を帯びている。耳の奥がキーンとする。痛くはないが、違和感が少しずつ積み重なる。18時半の定時とともに、タイムカードをきり、外国人で埋め尽くされた山手線の車両に乗って、スマホを開く。画面左端にヒビが入っている一昨年のモデルのiPhoneだ。カメラは問題なく使えるし、仕事中はオフィスのPCでやりとりすることがほとんどだから、困ることもないと自分に言い聞かせながら、新宿駅で中央線に乗り換える。ワイヤレスイヤホンが流行りの曲を響かせるが、歌詞が全く入ってこない。

 改札を通過して頭をよぎった28という数字が自分の年齢だったらどんなによかったか。28万円、というのが今現在の総資産だ。もちろん端数はあるのだが、怖くて銀行アプリを見るのをやめた。車も所有していないし、持ち家でもない。中央線に揺られて三鷹駅から5分歩いて、ようやく帰宅。最寄り駅は三鷹だが、吉祥寺に住んでいる、と言っている。吉祥寺徒歩圏内という条件で不動産サイトから見つけだした物件で、吉祥寺からは徒歩28分だった。家賃9万8500円の1Kの部屋の中から「こんなはずじゃなかった」という訴えをSNSの海の中に放り投げるが、その嘆きが水面に上がってくることはない。

 土曜日はカーテンを開けないので、晴れていようが、豪雨だろうが、かまいやしない。朝9時に目が冴えてしまうこともあるし、正午近くまでゴロゴロしていることもある。ネットでまとめて買った板チョコ4枚を溶かして、滑らかにする。3個分の卵黄と卵白を分けていれて、オーブントースターに入れる。8等分に切り分けて、一切れをコーヒーと食べる。残りは冷凍して今週のオヤツになる。差し入れは不定期だから3日続くこともあれば、何週間もない時もある。自分のために日持ちするオヤツを作る必要があった。

 工程は単純だし、見た目も普通に地味なので、写真に撮ることはない。この日常を上手く切り取れたらいいのに。手作りのお菓子の人気アカウントもあるが、私のレシピは個性がない。「どうすれば人を惹きつけるのか、戦略的に考えなきゃ」オーブントースターをアラジンのグラファイトトースターにするのはどうだろう。2枚用のトースターなら、1万円くらいで買える。色は一目で分かるグリーンがいい。アラビアのパラティッシのお皿があれば、出来上がったケーキも見映えがする。どうせなら、コーヒーカップとソーサーも揃えたい。Amazonで試しに思いついたものをカートに入れる。トースターが¥11,100。お皿が以前見た時より安くなっている。¥4,999だ。コーヒーカップとソーサーは¥4799、合計カートの最初の文字が2になったら諦める。少しずつ揃えればいいのに、耐えられない。どのみち揃えるのだから、一度に買っても同じはずだ。よりカンペキなものを、より早く手にしたほうがいいに決まっている。

 それでも、最初の1カ月、慣れない業務に気が滅入って、毎日寄り道していた頃と比べると落ち着いた方だ。ハンバーガー、コンビニのおにぎり、スーパーのお寿司。何一つ贅沢なものはなかったのに口座の残高は虚しさと反比例して減少した。数ヶ月全く足を踏み入れなかったジムの退会手続きをネットに救われる形で完了させた。Amazonプライムには未視聴の映画が山ほどあるが、観る気にもならないし、かといって、解約する気も起きない。

 世知辛い世の中で東京23区のオフィスで正社員として働くことができて、額面25万円の年間休日122日で、しかも30代後半の転職、社長は大嶋ヒカリだ。この条件なら、ヒカリさんの4万人のフォロワーなら誰でも飛びつくのではないだろうか。現に私だって、最初はフォロワーだったのだから。「頑張る女性をもっと輝かせる」というのがヒカリさんのミッションステートメントだ。それは自分の居場所を探してもがいている女性たちの一筋の希望だった。

 35度を超える日が続く。うだるくらいの青空の中で、霧雨のように吹き付ける風が吹き抜けるヒートアイランド。ヒカリさんはよく外国で暮らしたいと口にする。こんなに蒸し暑いと暮らしにくいからだという理由の時もあれば、東京の生活は忙しすぎるからだという理由のときもある。そうするとユイさんが必ず、「それならハワイに会社を作りましょうよ」と提案する。日本からも近いし、女性から人気だし、と力説する。ヒカリさんはハワイもイイかもね、と穏やかに受け止めるが、絶対に外国の選択肢がハワイしかないことを知っている。

 岡野は息子をハワイの寄宿学校に入れたがっているのだ。早ければ7年生から入れるから、高校卒業まで6年間かかる。下調べや準備にかける時間を入れれば8年くらいは日本とハワイを行き来することになる。そんな中でうちの会社、まったく私が関わっているとも思えないこの会社が、現地に法人をもっていれば心強いだろう。岡野本人が作ればいい話だが、彼が唯一ヒカリさんに釣り合わない点はその乏しい英語力だった。

 実際の仕事は、予想外にラクだった。映画みたいにイジワルされることもない。電話は滅多にならないし、1日デスクトップのモニターに張り付いていなければならないけれど、人気インフルエンサーのアシスタントの役割は想像よりずっと地味だった。まず一つ目は、オンラインサロンの会員たちのSNS巡りだ。10件に1回、できれば5件に1回コメントを残す。「素敵な投稿ですね」「参考になります」「美味しそうですね」なるべく他の人と被らないように細心の注意を払っている。オフィスの公式アカウントからイイね!を押すが、気をつけなければいけないのはヒカリさんの振りをしないこと。コメントを残すときは必ず自己紹介しなければならない。二つめの仕事は、オンラインストアの商品の発送。ノートやペンケース、ハーブティーのように日常で使える千円単位のものから、3万円のピンキーリングやら、2万円のパールモチーフピアスみたいなアクセサリーまである。

 10月には毎年の手帳が販売される。女性起業家たちはこぞって手帳を販売したがるが、ヒカリさんの手帳はいつも特別だ。今年は3色出すらしい。見本が届いたら、写真を撮って、活用例を書かなければいけない。3色販売するのは「お客様に最愛の色を選んでほしいから」と謳っているが、いかに客単価を上げるか、一人の人間に複数買ってもらえるか考えなければならない。

 10月に販売するには、8月には告知をしなければならない。期間限定にして、1色はロットを少なく注文して、早めに売り切らなければならない。PRのための戦略会議は毎週のために行われる。好きな色を1冊もらえるらしいが、残り2冊は自分で買わなければならないことを意味していた。

 ノートにアイデアを書き溜める作業は好きだった。ヒカリさんのセミナーでも自分の好きなことを掘り下げるワークの時間が設けられている。箇条書きにしたり、ブレインストーミング形式にしたり、ときには付箋も使う。ヒカリさんのオンラインストアに並ぶものは学校でもオフィスでも使えるデザインだ。コクヨのノートの方が丈夫だし、ボールペンならサラサのほうが書きやすいけれど、Radiant Blue がゴールドに光ることに意味があるのだ。アナログな道具に対する執着なんて、オンラインビジネスでは不要だ。

 「今年は3色にしちゃいました。迷ったら、全部買うのもアリ?!」社名にちなんで、毎年ブルーは必ず販売される。今年は、そこにペールオレンジと、ラベンダーが加わる。自然光のなかで撮るとブルーとラベンダーが分かりにくいので、間にオレンジを挟んだ。ハッシュタグを付けて投稿する。1冊目はシンプルに仕事用。これは誰もが手帳を欲しがる理由だから、納得させられると思ったが、ヒカリさんからストップがかかる。
「それは悪くないんだけど、もっと手帳を使ってキラキラした日常が手に入るイメージを持ってほしいんだよね」考えておいて、と締めくくられて、振り出しに戻る。結局また3種類の使い方を考えなければならない。

 3つ目の仕事はセミナーの資料作りだ。冊子上にして配っていたこともあったが、今は専らSDGsに配慮して、PDF化した資料を特別に提供している。ヒカリさんがセミナーをするにあたって「使い回している」という印象を与えるのはご法度だ。デザイン、順番、文言に気をつけて毎回準備する。ここだけは唯一この会社で磨かれたといっていい。

 「何の技術も学べない仕事」をしていた日々には辟易していた。西新宿のコールセンターに勤めて7年、業務は大分慣れたし、気の合う飲み仲間もいた。入れ替わりの激しい業界だったから、年単位で働いていれば上司からの信頼も厚くなる。休みも通りやすいし、趣味の時間は充実していた。何より、13時からの勤務は満員電車とは無縁だった。大都会で働いているワケじゃなくても快適だった。それでも、コールセンターのオペレーター、という肩書きには満足できなかった。ただただ受け身に受電に応える日々。同僚たちの中には大志を抱く者もいて、司法試験の勉強をしていたり30を過ぎて医学部入学を志していたり。でも大半は役者崩れや売れないバンドマン、アイドルオタクで、何の役にも立たないことにお金も休みも注ぎ込んでいた。

 私は彼らとは違う。私だけは彼らと違う。私はこんなところにいるべきではない。表面上は仲良くしていても自意識だけが膨らんでいった。SNSにのめり込んでいくのに時間はかからなかった。最初はどのアカウントも見ているだけだったが、惹かれたのは華やかな女性起業家たちだった。フォトジェニックな写真の中の服やバッグにアクセサリーは勿論、彼女たちの美学にも夢中になった。「ありのままの私で上手くいく」「会社に縛られない生き方を」「好きなことをしてお金を稼ぐ」その中で一際吸い寄せられたのがヒカリさんのミッションステートメントだ。

 元々はオンラインサロンだったRadiant Blue に入会して、インスタを始めて、2ヶ月。ヒカリさんから「いいね!」をもらえた時は本当に天にも舞い上がるくらいに高揚した。そのまま、どこかの出版社の開催する2時間3万円のセミナーに申し込んで、握手してもらった。セミナー参加者への先行案内で、ヒカリさんのインストラクター講座募集があった。少人数制。早期割引。直接教えを受けられるのはこれが最後。今思えば、Webマーケティングの常套句だった。この時にはすでにユイさんはヒカリさんのビジネス仲間だったらしい。取り巻きらしき人達は常にいたが、メンバーの入れ替わりが激しかったので、あまり記憶がない。そこに煽られ、3ヶ月26万円、割引がなければ36万円、の特別講座に申し込んだ。3ヶ月がすぎると、講座修了者だけが受講できるアドバンスの案内がきた。これは57万円。

 オンラインサロンは現在も継続中だが、5年前に法人化して今は事業拡大中。そのために人手が必要ということでアシスタントが新たに募集された。そこに応募したのが私だった。アシスタント採用が決まったときにはヒカリさんもユイさんも盛大に自分のアカウントを通じてアナウンスをしてくれた。彼女たちのフォロワーも含めて何百件ものコメントをもらった。誰もが憧れるポジションを手に入れたのだ。

 私はコールセンターの同僚たちとは違っていたし、それは正しかったことが証明された。皆が生活の足しにもならないアイドルのアクリルスタンドを買っている中で、言葉を交わすこともできないコンサートの遠征に行っている中で、私は自分に投資しているのだ。自分で自分のビジネスを始めようとしているのだ。そのために繋がりを増やして、チャンスを窺うために、受講料を支払っているのだ。転職したいといいながら、10年以上居座っている同僚にも優しくアドバイスしてあげていた。そんな中で、ヒカリさんのアシスタントの座を手に入れたのだ。

 会社員のお給料をもらいながら、空いた時間で、月収30万円を目指しましょう。そのためのノウハウを全て教えます。なんという甘美な響き。私自身が輝くようにために。会社に頼らず稼ぐために。

 「来年の9月はハワイね」これはヒカリさんの口癖のようでもあり、社員を引き止めるための合言葉のようなものでもあった。「あ、もちろん、社員研修だから全部会社持ちね」とウィンクする。全部、というのは航空券と宿泊費、そしておそらく旅行についてくるヒカリさんのセミナーの参加費用のことだ。本当に個人で行くとなったら、ユイさんは「それだけで50万円だから、本当に私たちってラッキー」とよく主張をしている。その50万円の中にはセミナー代19万円が含まれているのだ。そして、食事は朝食のみ。円安とハワイの物価高でランチでも¥3,000になるらしい。ディナーはその倍だろう。ホテルだから自炊もできないし、観光地だからスーパーの品揃えも悪い。カップ麺くらいなら作れるかもしれないけれど、ハワイで5日間、ホテルでカップ麺を食べるの?服もバッグも買わずに帰るの?

 調べれば調べるほど、想像すればするほど胸のおくがズシンとなる。呼吸すら上手くできない。血が逆流するように熱く感じたかと思えば、文字通り血の気がひいて青ざめるときもある。

 そのハワイ旅行は、本当にご褒美なの?この仕事はほんとうに頑張る女性を輝かせるものなの?いつか観た映画のセリフが頭をよぎる。I love my o, I love my job, I love my job. でも、私の仕事ってなんだろう。

 1月に入社をしたので、初年度はボーナスがでない。もちろん、働き始めて1年ピッタリで貰えるわけでもない。ボーナスが出るのは6月と12月なので、あと11ヶ月。クレジットカードの明細と睨めっこしなければならない。前の会社では契約社員だったが、こんな苦しい思いをしたことはない。必要なものは全て支給されたし、シフトの穴を埋めれば週6勤務にはなるものの、生活の足しには充分だった。社内のカフェテリアで食べられるランチが無料なのも有り難かった。栄養バランスを考慮して、レストランの監修が入ったランチだった。

 今では毎日ランチを作って持っていく。デスクで好きなタイミングで食べることができる。つまり、業務の合間、手が空いたときにしか食べられない。その分30分朝の支度に時間がかかる。毎回スーパーでの買い物も増えるし、ランチボックスも必要だった。それでも毎日ランチを食べに行くことは不可能に近いし、コンビニでの調達も限界があった。第一に、原宿はいつもどこでも混んでいる。

 入社したばかりの時に、希望が有ればリモートワークも可能だと聞いた。毎週でなくても、例えば台風や大雪警報のとき。あとはヒカリさんが不定期という名のもとに行う気まぐれなセミナーが旅行先から開催された時。「私がいない時にわざわざオフィスに行かなくてもいいように。皆にも家でビジネスをすることに慣れてほしいの」

 そう言われて、新宿の家電量販店でインターネット回線の契約を新しくした。当時使っていた回線は繋がらないことで有名だった。知識の乏しい長いネイルの女の子が説明をしてくれたので、こちらが在宅ビジネスで必要な旨を力説した。女の子はニコリともせずに、今なら最新ルーターがキャンペーンの値段で契約出来ると言われた。解約料金1万5千円を払って、新規契約で5千円支払ってインターネット環境を整えた。試しに繋いでみたところ、パソコンの動作環境が悪い、ということで、新しくヒカリさん愛用のMacBook Airを買った。月々の支払いは1万7千72円で支払いを終えるのはまだまだ先だ。加えて、ワイヤレスのマイク、15インチのモニター、映りをよくするための照明の支払いだけでも3万円近くになる。「オンラインでビジネスをするには欠かせない」らしいので、覚悟を決めて支払いをした。毎月の通信費は女の子の説明より千円ほど高かった。

 ある日の業務中、目の両端がチカチカし始めた。やけに眩しく感じるし、常にまつ毛が目に入ったみたいな違和感があった。午後休をもらって、眼科に行った。経験したことのない違和感と痛みだったので、この世の終わりくらい絶望したが、診断はドライアイだった。しばらくコンタクトレンズ使用の禁止、カラコンなんてもってのほか、そしてヒアルロン酸入りの目薬を処方してもらう。1週間後にもう一度診察に行かなければならない。

 その日から眼鏡で通勤するようになった。瞼のまわりまでカサカサになってしまったのでメイクもロクにできなかったが、誰も気に留めていなかった。こんなのは言いがかりだと分かっている。メンタルダウンしているから、ネガティブな方向に飛躍しやすいのだ。それでも、誰も私のことなんて見ていなかったのだ、という現実が焼き付ける陽射しとともに纏わりつく。オフィスに人手が必要だ。誰かの手が必要なだけで、私を必要としているわけではない。もがいてももがいても水面に上がれない。

 仕事用の服は、新しい職場での悩みの種だった。コールセンターで働いていた時は好きな服を着ていた。ジルスチュワートのワンピースにランバンのトレンチを羽織ったり、Zara のジャケットをセットアップで着たりしてもいい。足元はコンバースのハイカットでもアグのムートンブーツでも夏ならクロックスでも良い。かつての同級生たちがつまらない格好をして電車に揺られているのを想像すると優越感に浸れた。私はそんなつまらない大人にはならない。

 今は吉祥寺から原宿まで、スーツに身を包み、ロンシャンの紺ナイロンバッグを持って、ダイアナのパンプスを履いて通勤する。お気に入りだったフューシャピンクのバッグはヒカリさんに言わせると「かわいいけど、起業家としてのブランディングが甘い」。スーツは青山だが、Oggi とのコラボだから、一味違う。もちろん、この格好は一時的なものだ。悪くないが、ブランディングがカンペキではない。自分のビジネスが軌道に乗れば、バッグはルイヴィトンのさりげないモノグラムエピシリーズにする予定だし、靴はルブタンのピンクベージュにするつもりだ。好きな服にお金を使って通勤できないのなら、働く喜びなんて見出せない。

 手帳の戦略会議がまた始まった。結局は1冊目は仕事用という案を採用してもらった。「いつか自分でビジネスをすることを見据えた手帳」という謳い文句付きで。いわく、この手帳は紙の質や、カバーの発色にこだわっているらしい。そして、ウィークリーのページには日付の他に毎日の気づきを記入できるメモスペースがある。ここに自分のビジネスのヒントがあるのだと言う。2冊目は、ユイさんの「夢が叶ったときの未来手帳」という使い方が採用された。

 ヒカリさんは決してノルマなんて言葉を使わない。自分のビジネスがより多くの女性に届くことを夢見ているだけなのだそうだ。自分1人でビジネスができれば外国でだって暮らしていける。永住権やビザの手続きなんて野暮な話はでてこない。

 午前3時13分、夜のとばりに漸く暑さが影を潜めたとき、それは起きた。首の痛みで目が覚めた。痛いと思ったときにはもう遅く、どうやっても寝付けそうになかった。少し遅れて頭痛がきた。痛みは右の肩から後頭部にかけて重くのしかかった。ついこの間、目医者に行って2,000円の支払いをしたばかりなのに。また病院に行かなければならないのか。どのみちこの痛みでは眠れそうにないから、検索をかける。「首の痛み、眠れない、病院」どこのウェブサイトも「首の痛みは危険なので、一度レントゲンを撮りましょう」という結論だった。大体ネットには他人の不安を煽るようなことしか書いていない。ブルーライトで冴えた目で、痛み止めを探す。ずいぶん前に歯医者で貰ったロキソニンが余っているはずだった。

 午前7時30分。仕事の準備を始めるギリギリの時間だ。行かなければ。ずっしり重くなった右半分の身体と睡眠4時間の頭で1時間かけて出勤しなければならない。この仕事を得るために様々な出費をした。もはや、仕事を辞められる余裕はない。仕事を辞めるには貧し過ぎる。I’m too poor to quit my job. ついこの前インスタで見た投稿だ。自虐というか皮肉というか、本来ならユーモラスな投稿だったが、笑えなかった。

 支度をすませる。座席の埋まった電車にのる。オフィスにつく。モニターの前に座る。いつも通りだ。錘をつけた首の上で、すっかり萎縮してしまったかのような脳ミソをフル稼働していつもの業務をこなす。また、映画のセリフが蘇る。I love my job, I love my job. サロンのボランティアメンバーにもイベントの連絡をする。商品の購入が入ったのを確認して発送作業をする。手帳の販売が始まるとこの業務がメインになるらしい。

 どうにか金曜日までやり過ごして、土曜日の午前中に形成外科に行った。レントゲンをとって、無愛想な医者の問診が始まる。
「ストレートネックですね。普段パソコン使う仕事?スマホも沢山使う?」一通りの質問に答えて、リハビリの希望を聞かれた。無理強いはしないというが、リハビリに通わせたいという圧力は伝わってきた。考えます、とだけ言って痛み止めを処方してもらった。

 夏の一大イベントが始まろうとしている。このイベントの最大の特徴はヒカリさんが出席せず、私たちだけで回す所だ。勿論大嶋ヒカリの名の下で集客するので、冒頭30分の録画ミニセミナーと最後の挨拶(これも録画だ)はヒカリさんが行う。全部で二時間。残り時間はオンラインサロンメンバーがzoomで女性たちの相談にのる、というものだ。サロンに入って何が変わったか、どのようなコンテンツがオススメなのか、オンラインビジネスをするにはどうしたら良いか。「どんな質問でも答えます」と銘打っているが、要するに参加者任せだ。メルマガでの案内、当日参加者の名簿、ウェブ上の確認テスト、ボランティアメンバーへの契約書。私たちに任された一大業務なのだから、盛り上げなければならない。当日の流れは何回聞いてもサッパリ掴めなかったが、実際に経験すれば慣れるはずだ。

 ボランティアメンバーが当日使うための10台のiPadのレンタルのために炎天下の原宿だか青山だかを往復しなければならなかった。ヒカリさんのお気に入りであるピエールエルメのマカロンも買いに行かなければならない。わざわざ、オフィスまできてくれるボランティアメンバーへの感謝の印だ。せっかくなら目にも舌にもいい本場のスイーツが良い、というのがヒカリさんの美学だ。マカロンは日持ちがしないので、前日に行くしかない。この疲労も漠然とした不安もイベントが終われば爽快な開放感に変わる。

 来年の6月になれば、ボーナスがもらえる。9月はハワイだ。トムフォードのアイシャドウと、ディオールの財布くらいなら買えるだろう。12月にはまたボーナスがある。その仕事を3年くりかえしたら、退職金がでるから、それまでに仕事を探せばいい。資格の勉強をするのもいいかもしれない。小さな夢ばかりが浮かんでは消える。

 現実の土曜日はひたすら睡眠の負債を取り戻すために眠るか、内容のない短い動画をみている。10分のYouTubeにすら耐えられない。日曜日は、どうにか外にでて、インスタに使えそうな写真を撮りにいく。1日1枚では足りないから、最低でも30枚は撮っておく。コスパよく、タイパよく巡れるかが勝負だ。好きなブティックにもカフェにもしばらく行っていない。他人を惹きつける好きなものでなければ意味がない。そんなカッコよく切り捨てた振りをしているが、実際の問題は1つだけだ。そんなことをする余裕がない。精神的にも経済的にもだ。

 ハワイへの期待と不安はイベントのそれらと同様に私の思考回路をあちこちに駆け回っていた。ハワイに行くならパソコンももっていかなくちゃ。変圧器が必要なのかもしれない。昔、韓国に行った友達が充電したらスマホのバッテリーがダメになったって言っていたし。Amazonで1番安い変圧器を探す。¥1780だった。まだ先のことだから、今は買わないでおこう。これは忍耐なのか、諦めなのか。

 イベントの申し込みは200名だった。家から気軽に無料で見られる。しかも無料なのだから、もっと多くても良さそうなものだ。ボランティアのスピーカー達はオフィスで待機して、時間になったら一斉にzoomで参加する。安定したネット環境を提供するためだ。唯一、仙台在住のメンバーだけはオンライン参加することになっていた。義務はないのだが、「これもオンラインならではの良さよね」とヒカリさんはご満悦だった。マレーシアやベトナムからの申し込みもあったので、ますます気をよくしていた。

 イベントは去年も行われたはずだが、私は参加していない。ヒカリさん本人に会えないので興味を惹かれなかった。そして、ヒカリさんに会うには対価を支払うのが礼儀だと本当に信じていたから、無料のイベントは極力参加しなかった。アイドルの舞台に¥12,000を支払う同僚を冷ややかに見ながら、ヒカリさんと直接話して写真撮影できるセミナーなら5万円でも払って駆けつけた。

 運営メンバーになれたので、今はセミナーにお金を払う必要はない。過去のセミナーも録画と資料は好きなときにみていいことになっている。それだけで何万円もの価値になるはずだ。

 ボランティアメンバーのなかで注意を払わねばならない人間が2人いた。1人は仙台から参加するミツさんだ。よく言えば繊細で謙虚、悪く言えば心配性で自己肯定感が低い。私なんて、という気持ちを変えたいという理由でヒカリさんのセミナーに参加している。質疑応答もまったく皆のためになるようなものでなく、自分の身の上相談が多い。ヒカリさんはいつでもにこやかにアドバイスをしているが、彼女が挙手をするたびに暗い気持ちになった。何万円も払って周りを暗い気持ちにさせて、何の得があるのだろう。

 もう1人は最近会社役員と結婚したエリーちゃんだ。相手の男性はバツイチで、10歳年上だが、すらっとしていて、いかにも重役のように思えた。彼の住んでいたタワマンに引っ越して、バカラのグラスをインスタに投稿する。極め付けはヒカリさんとお揃いのセリーヌの新作をプレゼントされたことだ。「男性からの贈り物を自慢するためのサロンじゃない」とヒカリさんが珍しく堂々と苦言を呈していた。ユイさんはもっとハッキリと「パパからの貢ぎ物みたい」と不快感を露わにしていた。

 自分のビジネスセミナーの結果ではなく、たまたま金持ちの男性を捕まえた女性が現れたのだ。30代独身女性が中心のオンラインサロンのチームワークは乱れた。さすがにサロン内でそんな発言はしなかったが、個人のSNSでは、「年齢も年齢だし、今はビジネスよりも婚活かも」という投稿が激増した。しかもエリーちゃんは確実にキレイになり、フォロワーもどんどん増やしていった。オンラインサロンと全然関係ないところで。ビジネスセンスが磨かれた結果、重役男性を射止めることができた、という可能性もゼロではないが、かなり見苦しい解釈だ。

 エリーちゃんに対する懸念事項はもう一つあった。フォロワーが増加するにつれ、ヒカリさんに関係あるハッシュタグが消えていった。それどころか、ヒカリさんと同業者である山下トウコのセミナーに参加している投稿が増えた。山下トウコと比べると、ビジネスの規模は確実にヒカリさんの方が上で、ビジュアルもヒカリさんが上だろう。ところが、いかんせん、彼女は既婚で三児のママなのだ。顔を隠していても三人姉妹のリンクコーデは愛らしいし、旦那さんは会計士だ。飼い犬が遊んでいる庭からも家の広さが伺える。自分で稼がなくても良い女性特有の柔らかい雰囲気と「ママならではの起業」を前面に押し出しているヒカリさんと正反対のタイプだ。

 そんなだから、エリーちゃんが今回もボランティアメンバーとして、参加する意思を示したときには驚いた。ユイさんも首をかしげた。今更フォロワーを増やしたいわけでもあるまいが、やはりサロンには思い入れがあったのかと安堵した。あるいはヒカリさんをまだ崇拝しているのか。

 あまりヒカリさんを刺激したくはなかったが、ユイさんがさりげなくエリーちゃんの参加決定を報告した。当日のトピックとして「ビジネスに関係ない質問は控えてもらうようにしましょうか。例えば、恋愛とか」と提案したら、喜んで受け入れてくれた。「サトミンもビジネスセンスが磨かれてきたじゃない」

 iPadの設定に時間を取られ、土曜日のマカロン争奪戦に参加しなければならなかったので、退社は21時を過ぎた。沿線でお祭りがあったらしく、電車は乗客でひしめき合っていたが、一刻も早く帰りたかった。明日は8時出社なのだ。

 イベント当日、事件はおきた。エリーちゃんから、「イベントが今日なのを忘れていました。すみません」というメールが来たのだ。言い訳をするにしても、体調不良とか冠婚葬祭とかであってほしかった。ウェブサイトに彼女の名前を掲載してしまっている以上、アナウンスで彼女が参加しないことを伝えなければならなかった。これは明らかな裏切りだ。彼女は2度とオンラインサロンには戻れないだろうが、そんなことは百も承知で、キャンセルしたのだ。ユイさんにはすぐ報告しなきゃ。ヒカリさんにはなんて説明しよう。幸い、このメールは私個人に当てられたものだから、少なくとも理由はでっちあげられる。とにかく今日を乗り越えなければならない。

 ヒカリさんの録画セミナーが終わったあとの1時間半は生きていた中で最も長く感じた。申し込んでいた200人のうち、録画セミナーの視聴者は100名程度、それが終わったあとに残ったのは30名程度だった。スピーカーは9名いるのだ。そこから90分もつとはとても思えない。オフィスに明らかに気まずい空気が流れ、時間が過ぎてくれるのだけを祈った。何人かは盛り上がって話をしているようだったが、明らかにつまらなそうな顔をしているメンバーもいた。堂々とサボってくれればまだ良いが、いたたまれない表情で黙ってスクリーンを見つめているだけのメンバーもいた。どうにか、予定通りの終了時間を迎えて、最後にヒカリさんの録画動画を流す。朗らかな労いの言葉が空に響いた。そのあとはオンラインサロン、今後のイベント、10月発売の手帳のアナウンスがオフィスの誰の耳にも残らずに流れていった。

 ベッドからようやく抜け出したときには、スクリーンには11:08の数字が表示されていた。準備のために土日を費やしたので、今日は振替休日だった。土日に出勤しても、給料は変わらない。その分突発的に平日に休日が与えられるが、規則性がないので予定が立てにくい。年間通して働けば慣れるはずだと思うがどうにも釈然としなかった。お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。ホットケーキミックスを取り出して、スコーンを焼く準備をする。別にもっと美味しいスコーンはいくらでも手に入るし、本格的に作りたいならキチンと粉を計量してオーブンで焼くべきだ。バターに拘るのもいいだろう。でも私は特別美味しいスコーンを求めているワケでもないし、お菓子作りを趣味にしているワケでもない。暇を持て余す休日に一生懸命時間を浪費しているのだ。

 バターの代わりにサラダ油を混ぜて、牛乳じゃなくて、アーモンドミルクを使う。そこにシナモンシュガーを加えて、一口大に切り分けた生地をオーブントースターに入れる。キッチンに漂う匂いは少し人工的ではあったが、幸せだった。もう何ヶ月もスターバックスには行けていない。何処にも出かけられない囚人の休日は永遠に感じられた。

 「サトミンが気にすることじゃないからね」ユイさんから、いつになく丁寧に優しく慰められたことが余計に深刻な気分にさせた。彼女のオンラインセッションには誰一人訪れなかった。恐れていたことが起きてしまった。彼女はもう2度とイベントに顔を出さないだろう。イベントの最中、気が気ではなかった。数千人フォロワーのいるメンバーですら、訪れる参加者は1人か2人だった。普段から積極的に集客していない彼女の所には誰1人訪れなかった。「これからもよろしくお願いします」とこちらが声を絞り出すのがやっとだった。仙台から新幹線に来なかったことは不幸中の幸いだった。ヒカリさんからの差し入れである、ピエールエルメのマカロンが胸に詰まった。

 オフィスの窓いっぱいに原宿青山一帯を覆う灰色の雲が広がっていた。イベントの報告ミーティングだ。ユイさんはインターンの子に研修をしなければならないというので、どれだけ大事な研修かは知らないが、とにかく私ひとりで報告することになった。空模様とは裏腹に、ヒカリさんの口調はカラッとしていた。あぁ、あの2人はね、とだけ言ってこの話はおしまい。当日まで、機材を借りたり差し入れを買いにいったりして、走り回っていたことにも、咄嗟にエリーちゃんの不在に対応したことにも、傷ついたミツさんをフォローしたことにも感謝の言葉は述べられなかった。「やっぱり、来年からは有料にしないとダメかもね」なんて呑気なアイディアを出していた。外にでると空がさっきまでの湿気を全て集めて、雨を地面に降り注いでいた。

 夏が終わって、家賃の心配がなくなった。すっかり位置が高くなった太陽を反射させた海の水面は、ハワイではなく故郷の白浜の海岸のものだった。潮の匂いがする。

 空の青も影の黒も濃くなっている。「家にいるならレオの散歩に行ってきてよ」という母親の小言に従い、渋々外に出た。母の背中は少し小さくなったように見えるが、声のボリュームは相変わらず大きい。サーファーたちが姿を消した10月の海沿いを30分。海辺で育ったが、泳ぐのは苦手だったし、マリンスポーツなんて論外だった。まして、深く潜っていくスキューバダイビングなんて一生関わることはない。深く深く潜っていって方向感覚を失ったら、水面には上がれなくなるのだ。

 退職は思った以上にあっけなかった。首が回らないとはよく言ったものだ。回せないことはないが、経済的には本当に回らない。実際にクビを動かしてもじっとしていても痛い。医者からもストップがかかった、という言い訳を繰り返して、手続きを進めてもらった。

 「特別だから」と言うのを何回も強調されて、ヒカリさんのお気に入りのレストランに行った。どうしても辞めちゃうの、寂しい、というお決まりの餞のことばを一通り述べて、シャンパンで乾杯した。何も味がしなかったらどうしようかと思ったが杞憂だった。グラス¥800のシャンパンは絶望のなかでもちゃんと美味しい。旬の野菜のバーニャカウダとアヒージョを前菜にマルゲリータとラムを平げた。せっかくなのでデザートを頼みましょう、という申し出を素直に受けて、ティラミスを頬張る。最後にもう一度「退職じゃなくて、休職にするのはどう」と言われたが、断った。こんな素敵なお仕事、サボっていたら罰があたっちゃいますよ。皆が憧れるお仕事だから。すぐに応募が殺到しますよ。こんな感じの滑らかなウソを言った。「コウダイもビックリしてたの。よろしく伝えてって」
程よくアルコールが回っていたので、私は言った。「本当に素敵なパートナーですよね、岡野さん」一瞬強ばったのが分かったが、すぐに笑顔を作ったヒカリさんにたたみかけるように続けた。「お2人の関係、ビジネスパートナー、でしたっけ。なんかそういう言い方なんですよね。上司と部下でもなく、同僚でもなく」思いつく限りのビジネスパートナーへの憧れを語っておいたが、本心は一つもなかった。あの一瞬の表情は、一矢報いたようで、すっとしたが、青空にどうしてもそぐわない小さな黒い雲が残った。

 21時を過ぎて、店をでたが、まだ蒸し暑い風が吹く。ここから地下鉄に乗って乗り換えなくちゃ。ヒカリさんはタクシーで帰るだろう。「何か機会があればお仕事しましょうね」とヒカリさんは念を押した。

 退職する当日、ユイさんは私への餞別と実家の犬のお土産までくれた。「雨がすごいので、オフィスまで戻れません」と伝えたときにも傘をもって迎えにきてくれた。ヒカリさんは窓から豪雨をみても雷鳴を聞いても何とも思わなかったのだろうか。自分のアシスタントがエレベーターを降りたくらいのころだったのに。池みたいなプールみたいな水たまりを避けようとして、別の水たまりに足を突っ込んでキャアキャア言いながら靴と靴下をびしょ濡れにして歩いた。ダイアナの黒パンプスは次の日もちゃんとオフィスに堂々と現れた。

 夏が終わって、家賃の心配がなくなった。リビングのソファで失業保険が支払われるのを待つつもりだったが、母にせきたてられて、求人を探し、どうにか職にありついた。町で唯一にして最大の商業施設の文房具売り場だった。買う人はほとんどいなくても一応モンブランの万年筆とモレスキンの方眼ノートの取り扱いもある。文房具以外でも、直営店舗の商品なら、常に二割引きで手に入る。シーズンが終わったものなら七割引きだ。日用品が安く手に入るのはありがたかったし、そのたびに「リアのおかげで家計が助かる」と母は近所に自慢していた。

 契約社員なので、支払われる給料は15万にも満たなかった。とはいえ、母に5万円分の家賃、折半した光熱費や水道代を支払っても充分なお金が残った。食費も折半しようとしたが、いちいち面倒だと主張されたので、ありがたく、従うことにした。新作のiPhoneを買っても余裕はありそうだったが、ひとまず割れた画面を直すことにした。Vログ用のカメラも買えそうだと思ったが、インスタのアカウントはもう削除していた。

 中学の同級生のミサとお茶をした。意外なことに海沿いでインスタ映えするスポットとして町にはオシャレなカフェが増えていた。土地だけはいくらでもあるのだ。「東京かぶれってカンジ」ミサは開口一番そう言った。ZARAの黒ワンピとピンクのケイトスペード のバッグ、水たまりの中に飛び込んだダイアナのパンプスもいっしょだ。そういうミサは海辺に相応しい、白のTシャツにダメージジーンズでサンダルだった。

 新しい職場で、ミサは偶然レジ打ちのパートをしていた。子どもは2人いて、2人とももう小学生だ。東京でインフルエンサーのアシスタントをしていたが、志半ばで辞めることになった。経済的にどうにもならなくなって実家に帰ってきた。こんな経緯をなるべく明るく話した。ヒカリさんのことを根掘り葉掘りきかれたら答えに窮すると内心ビクビクしていたが、全く興味は示されなかった。地に足をつけて生きている人間は、SNSの人気者をビックリするくらい知らない。
「インスタグラマーって写真投稿してお金もらえるひとだよね」くらいの認識だった。彼女の純粋な無知によって、私が今まで必死に縋ってきたものがガラガラと崩れて、テラスから見える砂浜の一部となっていった。
その後は子どもたちの運動会の話、今は5月が運動会シーズンであること、ハロウィンのコスチュームの話、クリスマスよりも重要イベントらしいことを教えてくれた。

 「子どもたちもリアに会いたいって。ユリはリアのカッコがすごい好きって言ってるし、ケイは来年から調理部に入りたいんだって」

 そこで、オーブントースターで焼けるスコーンの話をした。火も包丁も使わないから一緒に作るのはどうかな。ミサは提案に二つ返事でのってくれた。来週の日曜日はどう。お昼食べたら迎えにいくから電話するね。約束の仕方は中学生の時と変わらない。

 車で送ってもらった道中に運転の練習をしたくなった。それを伝えると、近所の地主の息子、ユウキがドライビングレッスンをやってる話を教えてくれた。この辺では18歳になると皆免許を取らされる。最近の子は用心深いし、親も過保護だから、ブルーオーシャンかもしれない。ブルーオーシャンて白浜のことなの、と聞かれたので、申し訳ないくらい大声で笑ってしまった。そんなに面白いこと言ってないのに、とミサが口を尖らせる。小学校が終わる前に帰らなければならなかったから、太陽がまだ高い位置にいる間にバイバイを言った。

 Instagramのアカウントを消すとサロンメンバーの誰からも連絡は来なくなった。毎日イイねを押し合っていた、何十万も費やして手に入れたはずの横のつながりは跡形も無く消えた。もともと、個人の連絡先なんて知らないのだ。ヒカリさんはどうしているだろう。新しいスタッフちゃんは、ハーブティーが好きな子だといいなと思う。

 「ハワイにも行きそこねちゃった」と呟いたとき、ミサは心底呆れた顔をした。「リアってクラスで一番海が嫌いだったじゃないの」彼女がいうには、私にはスペインみたいにオシャレな国がいいそうだ。

 子どものころから変わらない海風が髪に絡みつく。日が短くなったので、紫の大きな太陽がオレンジの空の中に落ちていく。車の運転をしよう。お菓子作りのレパートリーも増やそう。実家には機能を眠らせた優秀で不幸なオーブンレンジがある。モレスキンのノートにレシピを書いておこう。一緒に飲んだコーヒーの記録も。I love my job は聞こえない。秋も終わろうとしている。私は水面から、もうすぐ夜空に輝くオリオン座を見つめるだろう。
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