たとえクソガキと罵られても

わこ

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9.添い寝Ⅰ

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 朝起きて俺の目が最初に捉えるもの。ここ数年は古ぼけた低い天井の、いびつな形の木目だった。寒い時期の朝であれば視界はほぼ真っ暗に近い。何も見えない部屋の中で習慣化した動作による朝の支度を手早く済ませ、働くためにコンビニへ行く。それが俺の毎朝だった。
 けれども状況は急に変わった。昨日の朝の俺が最初に見たのは診療所の清潔な天井。見慣れない光景と匂いは一晩経っても頭の片隅に残っている。

 そして今日。自然にスゥっと覚醒していき、目に映ったこの光景。おそらくは朝だと思うが黒いカーテンに遮られていて陽光はここまで届かない。室内は微かな暖色に包まれ、丁度良い仄暗さが静寂の中に佇んでいる。
 初めのうちの数十秒間、この頭は理解をしようとしない。ここがどこか。俺は一体どうなったのか。覚束ない脳の機能が一つずつ始動するにつれ、ぼんやりしつつも一個一個身に起きている状況を捉える。

 比内さんの部屋。比内さんのベッド。洒落た間接照明の淡い光。いつからこうなのか額の上には、濡れたタオルが乗っかっていた。
 乗せてくれたのは比内さんだろう。余分な熱を俺から吸い取り、ぬるい温度で湿っている。ぐっすりと深い眠りに落ちた体はもうすっかり快調だ。

 ベッドの端で仰向けになったまま見上げる天井は広くて高い。害のない環境に安心しきって再びまぶたが下がっていった。羽毛布団は温かいのに全く重みを感じない。人の部屋と分かりつつ、ぬくぬくと呑気に寝返りを打った。

 ごろんと体を左に向けると重力に従ってタオルが落ちた。目元にパサッとかかるそれ。手を伸ばし、指先に感じるのはぬるい湿り気。ほっとしたような溜め息が漏れ出て、そこでゆっくりと目を開いた。
 そうして目にする。その光景を。

「…………」

 ここは。

「…………」

 比内さんの部屋。

「…………ッい!」

 飛び起きた。ガバリと布団を蹴り上げている。元々端っこの方に寝ていたその場からさらに最端へと逃げた。
 高速で鳴り響く心音を感じる。ドッドッドッドとヤバい感じだ。デカいベッドの真ん中にスペースを空け、その向こう側で眠りについている比内さんがそこにいる。

 うつ伏せの寝姿。顔だけをこちらに向けていた。途中でパタンと力尽きたかのような体勢だ。
 いつまで仕事をしていたのだろう。眉間には疲労感が表れ、寝ているのに縦筋が刻まれている。それでもなお絵になるのだからこの人の外見は奇跡的だ。これで表情が柔らかかったらもっと若く見えるかもしれない。

 比内さんは俺にここで寝ろと言った。しかし比内さんがこのベッドを使わないなんて事は一言も言っていない。
 これだけ広いベッドだ。男二人が一緒に横たわっても十分に幅は余る。比内さんをソファーで寝かせたなどという負い目も感じずに済んだ。
 だからこれでいい。これが正解なのだろう。これが一番いい方法だった。

「……………」

 一番いい方法なんだけど。ものすごくビックリした。脈拍も心拍数も徐々に落ち着きを取り戻し、冷静になってきたところで改めて状況を整理する。
 なんとなくイメージだけど、こういう事はしない人かと思った。あまり人を寄せ付けないと言うか。パーソナルスペースがかなり広そうな印象だったから。俺が半分を占拠するベッドに比内さんも一緒に入るなんてまさか予想していなかった。

「ん……」

 掠れた声を聞いて息を止める。比内さんの眉間は煩わしげに深くなった。
 起こしてしまったか。身構えて待つこと数秒。しかしどうやら目覚める気配はないようで、同じ体勢を貫きながら静かに眠り続けている。
 そんなつもりもなかったのだが気づけば寝顔を観察していた。これはあれだな。憂い気ってやつだ。ひそめられた眉まで艶っぽい。

 引き寄せられるようにそろっと上体を起こした。寝ているのをいいことに少しだけ近づいてみる。気づかされるのはまつ毛の長さ。通った鼻筋も頬から顎にかけてのラインも欠点なんて見つけようがない。
 唇は薄い。けれど男性にしては張りがある。年齢の割に、いやこの人がいくつなのか俺は全然知らないけれど。とにかくなんと言うのか、こう。

「…………」

 ため息が出そう。男の人を見てこんなふうに思うのも変だが、おそろしく綺麗な人だ。この眉間から縦筋が消えて穏やかな顔つきで眠っていたらそれこそ本気の溜息ものだろう。
 喋っている時と眠っている時のギャップがあまりにも激しいものだからついつい目が離せなくなる。しかしじっくり見ていられたのはほんの十数秒足らず。ピピピピッ、とけたたましい高音が部屋に鳴り響くまでだった。

「ッ……」
「んん……」

 ビクッとする俺。うめいた比内さん。ヘッドボードで鳴り続けるのは小さめの目覚まし時計。ピピピピピへの発信源へと比内さんの手がノロノロ伸びた。
 パシリと、アラームが投げやりに止められた。止められたと言うか、掌を叩き付けられたと言うのか。ここまで比内さんの目は一切開いていない。習慣でアラームを切っただけだろう。結構な強さで手を振り落としたが小さな目覚まし時計は無事か。
 じっと息をひそめて行動を見守る。不愉快そうに眉間を寄せたまま、比内さんはアラームを止めた状態で完全にフリーズしていた。

「…………」
「…………」

 どうしよう。動かない。これは二度寝する人の体勢だ。
 一向に起き出す気配はなかった。アラームをセットしたということはこの時間に起きる必要があるということ。ならば止む負えないと判断し、控えめに声をかけた。

「……あの……おはようございま、す……」

 なんと声をかけるべきか迷った。迷いながら言ったせいで中途半端な尻すぼみになった。
 ところがおよそ三秒後、閉じていたはずの比内さんの両目は突如パチッと見開かれた。

「ひっ……」

 こわ。なにそれ。ホラーばりの見開き方に思わず変な声が出た。
 ところが目だけはせっかく開いたのに比内さんは活動停止。しばし見守る。三十秒経過。こっちとしてはだいぶ戸惑う。
 さらにもう少々時間を要し、ちょっとしてから俺の存在に比内さんは気付いたようだ。スッとその視界に捉えられて固まったまま目を合わせた。

「……よう」
「どうも……おはようございます……」

 低い声は健在だ。ベッドの上で体を起こして背筋を正したように見えたが困惑せずにはいられない。
 比内さんの反応が鈍い。明らかに寝足りない様子だ。人相が大変な事になっている。
 くあっと大きく欠伸して、俺の方に手を伸ばしてきた。額に当てられた手のひらの感触。目覚ましみたいにはぶっ叩かれなかった。
 数秒だけ触れて離れていく。と思いきやポスッと頭に手を置かれている。

「……下がったな」
「あ……はい。コレ、ありがとうございました」

 体温の確認だったようだ。タオルを見下ろしながら礼を言ったら、まだ若干寝ぼけているのかわしゃわしゃと髪を掻き乱された。
 犬的な扱いだと思う。されるがまま頭をぐしゃぐしゃにされる。少しすると飽きたようで、俺の手からタオルを取って比内さんはベッドからおりた。

「俺は平治と違って気の利いた事はできねえ。もう熱なんて出すなよ」
「……すみません」

 ベッドから降りただけで瞬時に比内さんが覚醒した。喋り方からは寝ぼけた様子が消え失せている。こっちを振り返る事もなくさっさと出ていく切り替えの早さ。俺もその後に付いていった。
 洗面所にタオルを置いて戻ってきた比内さんはキッチンへ。コーヒーメーカーをセットしているがとてもじゃないが声はかけられない。

 たとえキビキビした所作の割に眠そうな顔をしていようとも。たとえその表情がかなりの度合いで殺人犯みたいなことになっていようとも。俺がこの人の私生活に口を出すような真似なんて。

「…………」

 いや、ダメだ。これは黙って見ていられない。立ったまま寝そうだこの人。

「……夕べ、寝たの遅かったんですか」
「さあな」

 コーヒーメーカーを睨み殺しながら素っ気なく返された。

「……どれくらい寝られました?」
「知るか」
「いつもあんまり寝ないんですか……?」
「関係ねえだろ」
「……忙しくても、ちゃんと寝ないと」
「仮眠は取ってる」
「……でも……」

 すごく疲れていそうです。付け足して言ったらギロリと睨まれてとうとう俺も口を閉じた。
 疲れている原因のうち少なくとも一つは俺だろう。諸悪の根源が偉そうに言えるはずがない。申し訳なくて視線を落とした。
 すると聞こえてきたのはごくごく小さな溜め息。棚から取り出したカップをカウンターに置いて、静かな口調で俺に言った。

「今は面倒な案件を引き受けているだけだ。それが片付けば落ち着く」
「それって……」
「違う。お前の事じゃねえ、別件だ。普段はしっかり寝てるからいちいちそんな事を気にしなくていい」

 それは遠回しの、心配するなだ。原因は俺じゃないと。
 この人は夕べいつ食事を摂りいつ風呂に入ったのか。夕べ最後に見たのとは違うシャツを着て作業している。
 比内さんの顔をダイニングテーブルの横から窺っていた。すると不意に視線がぶつかってギクリと直立不動にさせられる。

「顔洗って来い。出してあるタオル適当に使え」
「……はい」

 昨日は強引に押し込まれたバスルームに今日は自分の足で入った。洗面台の曇り一つない綺麗な鏡を呆然と見つめる。
 鏡に映る自分は夕べよりも顔色が良さそうだ。重かった体からも気だるさは抜けている。
 蛇口から出てくる水は冷たくないし熱くもない。人肌よりもいくらか低い程度のぬるま湯。うちのボロい洗面所とは天と地の差だ。慣れない他人の家にいることをはっきりと思い出させる。




 荷物を置かせてもらったあの部屋で着替えてからダイニングに戻った。テーブルで向かい合って席に着くのは緊張する。
 すでに比内さんも仕事用の白いシャツになっている。手元にあるのはコーヒーカップのみ。難しい顔で朝刊を見ていた。

 中学以降は父親という存在とは縁がない。生きている時だってろくに家にはいなかった。だからそのせいもあるのだろうか、年上の男の人と一緒に朝食の席に着くのはなんだか不思議な気分だ。
 気遣いか、それとも単にガキ扱いされているのか、俺の手元にはミルク入りのコーヒー。それからワンプレートに収まった見栄えのいい朝ごはんも。スライスチーズと野菜を挟んだパンはこんがりと程好く狐色。温野菜の上にはポーチドエッグが乗っかっていて、なんだか良く分からないがとにかく美味いソースがかかっている。隣のベーコンもここまでカリカリに焼き上げてもらったら本望だろう。

「…………ウマいです」
「そうか」

 短時間でここまで用意してくれた。本当に料理が上手い人はその時ある物で手早くメシを作れる人だ。
 昨日は主婦の凝った夕食。今日はホテルかカフェで出てきそうな朝食。これで味がガッカリするなら少しは気も休まるだろうが、視覚も味覚も胃袋も全部完璧に喜んでいる。
 自分が食べる訳でもないのに。拾った子供に食わせるためにわざわざ朝からメシを作って。昨日の夕食とこの朝食で胃袋は見事に掴まれた。この人は弁護士でなければ料理人になっていたはずだ。そうじゃなかったら絶対におかしい。

「比内さんは……」
「なんだ」
「……料理が趣味なんですか?」

 コミュニケーションの第一歩として雑談を持ちかけてみる。比内さんは新聞越しにチラリと視線だけ寄越した。

「外食は好きじゃねえ」

 そう言って音を立てずコーヒーを飲んだ。答えになっているようないないような。外で食べるのは嫌だから自分で作るようになったのだろう。

「……そうですか」
「ああ」

 コミュニケーションは上手くいかなかった。

 コーヒー片手に新聞を眺める比内さんはまさしく大人の男って感じだ。スポーツ紙なんて読まないんだろうな。芸能人のスキャンダルとかしょうもないゴシップネタには絶対に食いつかないと思う。
 この人と娯楽は結び付かない。それとも仕事が楽しいのか。この大人への興味だけはどんどんと沸いてくるけど、食べる事が疎かになっていたら急かすような声を投げかけられた。

「おい。食い終わったらすぐに出掛ける準備をしろ。こっちもそう時間は取れない」
「え……」
「学校まで送っていく」
「あ、いえ俺……自分で」

 パサッと新聞から顔を上げて睨まれる。言いかけていた言葉はもちろんその時点で飲み込んだ。俺が黙ると比内さんは再び紙面に視線を落とした。

「帰りも迎えに行くから勝手にウロチョロするなよ」
「でも…」
「あ?」
「…………」

 言う通りにしよう。

「とにかく、大人しくしてろ。学校が終わったらウチの事務所に連れて行く」
「事務所……ですか」
「ああ」

 必要最低限。そんな話し方。現時点で必要と判断された情報だけを比内さんは俺に与えた。
 理由の云々も分からないから疑問しか生まれない。けれど口答えなんてしようものならどうなるかは体験済みだ。
 素直に従うのが賢明。それ以外の選択肢をこの人は俺にくれなかった。




***




 登校したのは久々だった。ショートホームルームが終わるなり担任から受けた呼び出し。このままでは出席日数が足りなくなると、説教染みた話をくどくどと聞かされたが話半分。曖昧に頷いてから口だけの謝罪を述べた。
 出席日数がどうあろうがこれ以上通い続けるのは厳しい。母さんが俺に望んだ。そう思っていたけど、今はそんな状況じゃない。第一そんな余裕もない。

 俺にあるのは不安だけだ。借金のことなんて誰にも言えない。周りで明るく過ごしているクラスメイトには引け目さえ感じる。最近は休みを繰り返していたから、ただでさえペースの速い授業についていくのも難しかった。
 どうしてこんな事に。俺がこんな目に。それは考えるだけ無駄と言うもの。

 一日中ほとんど心ここにあらずだった。学校に来たって身が入らない。放課後になって比内さんから指定されていた時間がくると、人の目から逃げるように裏の門へとこっそり向かった。
 道を挟んだ向かいの路肩。そこにはすでに比内さんの車が停まっている。慌てて駆け寄り、その車の助手席側のドアを開けた。

「ごめんなさい。お待たせしました」
「たいして待ってない。さっさと乗れ」

 目的地に着くまでの間もコミュニケーションは絶望的。会話らしい会話はほとんどなかった。
 気まずい時間を持て余しつつ、比内さんの事務所に到着すると車は敷地の裏手側に回った。四台分くらいは置けそうな駐車スペースがそこにある。
 フェンス代わりに敷地の境界に埋め込まれているのは銀色のポール。手前側に車を停めると比内さんは先に俺を降ろした。駐車場にはこの車の他に二台の車が停めてある。

「行くぞ」
「はい……」

 比内さんの後ろを歩いて建物の正面に回った。当然だろうけど事務所の中は先日来た時のまま変わらない。清潔に保たれたこの屋内。広いエントランスには俺達の足音が響いた。
 廊下の突き当たりにある部屋に入ると、棚の前のデスクにいた小柄な女性が立ち上がった。お疲れさまですとやわらかく声をかけ、それに頷いて返事をしながら比内さんが俺の背中を押した。

 この部屋も前に見た時と同じように整っている。ファイルの並べられた棚に、向かい合う形で配置されたデスクが二組ずつ。四つあるそのデスクのうち、普段から人が使っている気配を感じ取れるのは二席。立ち上がった女性の向かい側にあるデスクだけ少々ごちゃっとしているが、変わらず清潔な雰囲気の事務所だ。こちらへ歩いてきたその女性と目が合うとニコリと笑いかけられた。
 持っていた書類を比内さんに手渡し、二人で何事かを話している。かと思えばそれもすぐに終わったようで、優しそうな女性の目は真っ直ぐ俺に向けられた。

「それで先生、この子が?」
「ああ」

 比内さんの素っ気ない態度には慣れているのだろう。臆する様子は欠片もない。

「はじめまして。陽向くん、でいいんだよね?」
「あ、はい。はじめまして」

 ニコニコしながら聞かれて頷く。俺の話は通っているようだ。

「七瀬です。よろしくね」
「こちらこそ……よろしくお願いします」

 全体的にふんわりした人だ。比内さんが冷ならこの人は温って感じ。

「今はちょっと外出中なんだけど、そっちのデスクを使ってるのが長谷川くんっていう男の子」

 ゴチャッとしたデスクの人だ。

「あとで紹介するね」
「はい……。どうも」

 長谷川さんという人のデスクには六法が開きっぱなしに放置されている。パソコンのキーボードの上にも書類が数枚散らばっていた。そこまで汚い訳じゃないけど他が綺麗だからごちゃごちゃして見える。
 比内さんはその机の上を何か言いたそうにチラリと見やった。職場はこんな感じで自宅もああだから散らかっているのは好きじゃないのだろう。
 デスクの状態については特に口に出すこともなく、ツカツカと歩きながら七瀬さんに向けて指示を出していた。

「あとででいいからその書面はコピー取って中川に回せ。それとこのガキな、悪いが事務所の中でも適当に案内してやってくれ。中川のとこは素通りでいい。うるせえからなるべく会わせるな。終わったら俺の部屋に連れて来い」
「分かりました」

 お互いに慣れていそうなやり取りだ。比内さんはパッパと言うだけ言って奥のドアへと消えていった。忙しそう。
 七瀬さんの後について事務所の中を見て回った。適度に目を合わせて喋るこの人はだいぶ可愛らしい。柔らかい雰囲気のおかげで堅苦しさは全然なかった。さすがにいきなり年は聞けないがいくつくらいなのだろう。若々しい表情からは俺とそこまで大差ないように思える。

 さっき入ってきた事務所の廊下に出て別の部屋に続くドアを見ていたら、客を通す部屋だと言って中の様子を見せてくれた。ゆったりしたソファーとテーブルが置かれている。ただの事務的な部屋とは違ってここには観葉植物もあった。今はカラの小さなバスケットはたぶん飴とか入れるやつだ。比内さんが用意するとは思えないからこの辺は七瀬さんが管理していそう。

 応接室から隣の部屋に繋がったドアをくぐると、そこは会議室のような個室になっているのが分かった。ホワイトボードと長机以外は特に何もない部屋だ。
 この部屋にもドアは二つ。入ってきたのとは別の方のドアを開けるとまた通路に出た。横一列に等間隔で三つのドアが並んでいる。
 その中の最奥。向かって右側の部屋の前に行くと七瀬さんはそこで足を止めた。

「ここは有馬先生の部屋ね。会った事ある?」
「いえ……」
「女性の弁護士さんなの。挨拶だけしておこうか」

 他にも弁護士がいるのか。比内さんと中川さんだけかと思っていた。
 七瀬さんがノックするとドア越しにどうぞと返ってくる。失礼しますと断ってから中に入っていく七瀬さんに俺も続いた。
 正面にあるデスクにいるその人。パソコンから顔を上げると切れ長の目が俺を捉えた。

「有馬先生。比内先生が先日おっしゃっていた陽向くんです」
「はじめまして……」

 言いながらぺこっと頭を下げた。同じ女性でも七瀬さんとは驚くほどタイプが違う。
 雰囲気は比内さんに近い。美人だけど目元はきつく、じっと見られると緊張してくる。

「どうも。有馬です。あなたの事は聞いています。詳しい事までは知らないけど」

 素っ気ない口調ながらもわざわざこっちまで来てくれる。立ち上がるとスラリとした長身が目立った。焦げ茶色の髪をきっちりとまとめ上げているその人。
 見るからに仕事のできそうな人だ。ピシッとしたスーツもよく似合う。グレーのシャツは女性的すぎず、目元の厳しさと漂う威圧感に良い意味で折り合いをつけていた。
 七瀬さんと目を合わせるといくらか視線が下がるけど、この人と目を合わせようとするとほんの少し視線が上がる。俺と同じくらいの身長だと思うがヒールの分だけ見下ろされた。

「ねえ」
「はい……」
「大丈夫だった?」
「え?」

 興味深そうに観察されつつ聞かれたのはそんなこと。ぱちぱちと瞬きを繰り返す。疑うようなその目つきに思わず一歩下がりそうになった。

「話を聞いた時は本当にびっくりした。彼が他人を自宅に置くなんて言うとはまさか思わなかったから。夕べはちゃんと眠れたの?」
「あ……はい……」
「あの男に暴力の一つでも振るわれたら隠さず言いなさいね。保護とかなんとか言っていたけど、あんなヤクザみたいなのの近くにいたらむしろ気が休まらないじゃない。ねえ?」
「ハハ……」

 冗談、だろうか。顔つきは至って真面目のようだが。
 この人と比内さんは少なくとも仲良しではなさそうだ。パッと見の印象ほど堅苦しい人ではなかったが微妙な悪口への対応には困った。

「あ、そうだ光ちゃん。ちょっとおつかい頼まれてほしいの」
「はい。なんでしょう」
「手が空いた時で大丈夫だから裁判所に書類出して来てくれる?」

 デスクに戻った有馬さんは七瀬さんに封筒を手渡していた。あいつにイジメられたらすぐに相談して。またしても本気か冗談か分からない一言を俺に向け、仕事に戻った有馬さんに頭を下げたらヒラヒラと手を振り返される。その仕草に見送られながら七瀬さんと部屋を出てきた。
 比内さんも威圧感の凄い人だがあの人もオーラが普通じゃなかった。こっそり息をつく俺の前で七瀬さんは隣のドアを指さした。

「ここが中川先生の部屋ね」
「はい……」

 三秒の説明で終了。七瀬さんにとって比内さんの言葉は絶対のようだ。中川さんの部屋の前は見事に素通りされた。

「ねえ。さっき中川先生から聞いたんだけど、比内先生の手料理食べたって本当?」
「あ、はい。いただきました」
「あーそっかぁ。いいなあー。比内先生って凄いよね自分で何でもできちゃうし。本当にもう、すっごくカッコイイ」

 心なしかうっとりしながらコソコソと小声で言われる。頬を両手で押さえる七瀬さんは少女漫画に出てくる女子高生みたいだ。

「比内先生のごはん美味しかった?」
「はい……。とても」

 きゃあッとはしゃぐ七瀬さん。テンション高い。小声だけど。

「比内先生の私生活って謎なんだよね。部屋とか絶対綺麗にしてそう」
「ああ……そうですね。かなり綺麗でした」
「やっぱり! 仕事でもなんでも几帳面だもん」

 比内さんの家は何があっても汚せない。何しろほとんどモデルルームだ。そんな家に居候させてもらうのだからどうしたって気は重くなる。
 通路の一番左側にある部屋は比内さんの部屋だ。女子高生モードを一瞬で取っ払って七瀬さんがドアをノックした。室内からは低い声が返ってくる。

「入れ」
「失礼します」

 俺達が入ると比内さんは書類を置いて顔を上げた。この部屋に入るのは二度目。今は七瀬さんがいてくれるのが救いだ。

「事務所の案内は終わりました。中川先生に書類をお渡ししたら地裁まで行ってきます。何かご用はありますか?」
「いや、俺はない。有馬の指示か」
「はい。先日の依頼分で書類の提出に」
「分かった」

 正常なコミュニケーションを取れる七瀬さんがこの場からいなくなる。俺の心は秒で沈んだ。
 一礼して部屋を後にする七瀬さんを無念な気持ちで見送る。ちらっと比内さんを窺うと手元の書類に目を落としていた。

「……あの……」
「七瀬が戻ってき頃に俺達も出かける。それまで適当に座ってろ」
「あ……はい」

 どこに行くのだろう。何をするのか。そんな質問はできそうにない。
 面倒な案件を抱えていると言ってはいたが本当に忙しそう。ファイルからファイルへと目を移しては書類を捌いていく様子を窺い、突っ立っていればまた怒られるのだろうと思ってソファーの隅に腰を下ろした。

 この人に保護された時に寝かされていたソファーだ。フカフカだから腰は沈み込んでいく。盗み見るように横を向くと、書類とパソコンの画面とを交互に睨み付ける比内さんを目の当たりにする事となった。
 怖い。七瀬さんに言わせればこの姿こそカッコイイのだろうけれど。

「陽向」
「えっ、あッ、はい!」

 勢いよく呼びかけに答えた。比内さんは微妙な目で俺を見ている。

「お前のそれはクセなのか」
「え?」
「ジロジロ見るな。気が散る」

 盗み見ていたつもりだったが本人にしっかりばれていた。

「……すみません」

 視線はすぐに気づかれるようだから膝の上の拳を見ておくことにする。それでなくても仕事の邪魔だ。俺にできる事はと言えば静かにしていることくらいだろう。
 ソファーで小さく幅を取る。両膝の上で握る拳を見ていても気分は落ち着かない。座り心地はいいはずなのに居心地は全然よくなかった。

「……陽向」
「うっわ、空気重ッ」

 比内さんがまた俺を呼んだ時、その声に被せるようにして外からドアが開かれた。スタスタと軽快に入ってきたのは中川さんだ。正常とは言い難いけどコミュニケーションは取ってくれる人。
 部屋の前はスルーしたのに向こうからやって来た。比内さんはうんざりとした顔で疲れたように頭を押さえている。

「やあ陽向っ。具合はどうだい、学校は楽しかった? つーかなんでそんな端っこにいるの。ってああそうか聞くまでもないよね比内が怖いんだねそうだよねその気持ち凄く分かるよ可哀想に!」
「……どうも。こんにちは」

 挨拶だけは返せた、どうにか。一人で一気に喋った中川さんは俺の隣にドサッと座った。
 右横から感じる視線が怖い。殺気を向けられているのは俺の隣にいるこの人だ。当の本人は気にも留めずにソファーの背凭れに腕を掛けている。
 もう片方の腕は俺の胸の前に。ポスッと押されて柔らかいソファーに背中がもふっと沈み込んだ。

「もうちょっと楽にしてなよ病み上がりなんだし。そんな硬くならなくていいから。ねーぇ、ひないー?」
「そいつに触んなっつっただろ。おい、陽向。バカになりたくなかったら中川の半径二メートル以内には近づくな」
「俺と距離取らせすぎだろ」

 相変わらずのやり取りだ。比内さんと言い合いながらも中川さんは俺の額に手を当てた。

「熱も下がったっぽいね」
「おかげ様で。ご心配おかけしました」
「いやいや、俺なんもしてないし。それより夕べは比内が近くにいる恐怖でなかなか寝付けなかったでしょ」
「いえ、そんな……」

 質問じゃなくて断言だった。比内さんから発せられる怒りのオーラに顔が引き攣る。

「夕べは久々にゆっくり眠れました。ベッドはデカいし、布団は軽いし」

 ついでに付け足せば天井は高いし。

「わー、ヤベぇよお兄さん泣きそう。陽向がいい子過ぎてツラい。ちょっと比内、こんないい子をソファーに寝かすってどういうこと」
「お前には耳がついてないのか。デカいベッドと軽い布団でよく眠れたんだとよ」

 イライラとキーボードを叩きながら比内さんが言い返した。
 はたと動きを止めた中川さん。動きを止めて俺に目を向けてくる。

「え……うっそ。比内がベッド貸してくれたの? うわー、すげえ。良かったね陽向。てかそれすでに奇跡だよ。こんな心の狭い男が他人にベッド譲るなんて。ちょっと朝比奈先生に報告してきていい?」
「くだらねえ事でいちいち行くな。別に譲った訳じゃねえ」
「素直じゃないなあ、いいよ照れなくて。比内みたいな鬼でもいたいけな少年には慈悲を見せることが分かって俺もようやく安心した。普段から天下人然として態度超デケぇキミがあろうことかソファーでご就寝とはね。いい経験したじゃないの。ヤッベェ、めっちゃウケるんだけど」
「もういい死ね」

 机の上に書類の束がバサッと力任せに叩きつけた。ぴくりと肩を揺らす俺の横では元凶となった中川さんがペラペラ喋り続けている。

「常に上から目線のキミだからこそ時には俺達みたいな下々の者達の気持ちを理解すべきなんだよ。薪の上で寝ろとまでは言わないけどさ。たまには床の上で寝るくらいしてみたらいいと思うね俺は。そうすれば冷徹比内くんもちょっとくらいは博愛に目覚めるんじゃないの?」
「うるせえ黙れ。もしくは退職届書いてこい」
「ソファーでの寝心地はどうだった?」
「良く分かった即刻解雇だ。誰がソファーなんかで寝るか」
「ちょっとーぉ、不当解雇はんたーい。訴えてやるから弁護士呼んで来ーい、ってしまったここにいたわ二人もッッッ…………ん? マジで床の上にでも寝た?」

 ひとしきり騒ぎ立ててから遅れて中川さんが眉をひそめた。
 完全に機嫌を損ねた比内さんはそれ以上口を開こうとしない。そうなれば自ずと中川さんの標的は俺に絞られる。隣からガン見されては無視をする訳にもいかずにぎこちなく言葉を探した。

「あ……その、ベッド……ほんと広くて。あれダブルベッドって言うんですかね……。俺はそこの……えっと……片半分をお借りしまして」
「へえっ。比内は?」
「……もう半分?」

 比内さんは何も言わない。しかし中川さんの好奇心には火をつけてしまったようだ。楽しげに目を真ん丸くさせてグイグイと迫ってくる。

「え、なにそれ。それってアレだよね。添い寝?」
「や……違うかと……」
「添い寝でしょ。隣で寝てたんでしょ。何をどう考えても添い寝だよね?」
「違うと思います……」

 フルフルと首を横に振って控えめな否定を繰り返す。残念な事にその否定は中川さんに届かなかった。

「ええ、ウソじゃん待ってよホントに? 比内が? あの比内が? 人嫌いとまで噂される冷徹漢の阿修羅の如き無慈悲で残酷な怒気畜野郎の比内くんが? 会って数日のいたいけな少年をあろうことか隣に置いて朝まで一緒に寝てたってこと?」

 口を挟むタイミングがない。
 俺が圧倒されているうちに中川さんは何かを思いついた。ガバッと勢いよく立ち上がっり、そして次には真っ直ぐビシッと比内さんを指さした。

「そういう事か、こンの少年シュミが……ッ」

 なんでそうなる。

「やったら面倒見がいいとは思ってたけど陽向の特別扱いが尋常じゃない。お前それどんな下心だよこの子に何する気だこのどスケベッ。やだもうちょっと怖すぎるんですけどー、お巡りさん呼ばなくちゃー。俺が通報しておいてあげるから変なことされちゃう前に早いところお逃げ陽向っ。こんなおっさん信じちゃ駄目だよ何されるか分かりゃしねえッ!」

 ダンッ、と物凄い音がした。発信源は比内さんの机。鬼みたいな顔になった比内さんが机をぶっ叩いた。

「……表出ろコラ」

 重低音。後ろにドス黒いものを背負って比内さんがやって来る。明るく楽しそうにキャアキャア喚く中川さんの首根っこを容赦なく引っ掴み、呆然とする俺を一人残して部屋からパタンと出て行った。
 そこからほんの一分足らず。建物の外では悲鳴が上がった。
 駐車場に続く裏庭の辺りで断末魔の叫びが聞こえた気がするが気づかなかった事にしたい。




***




「本当にそれだけか」
「はい。今ここにあるのはこれだけです。契約書は出し渋っていたようなので、あいつらの手元には他にもあるのかもしれませんが……」
「胡散クセぇことこの上ねえな。まあいい、とりあえず書類持って出るぞ。他に必要な物があるならすぐにまとめろ」

 数日振りに帰宅した。部屋の中は出てきた時のまま変わらない。
 七瀬さんが事務所に戻って来ると、今度は俺達が入れ替わるように出てきた。指示とともに七瀬さんにまとめた書類を預けた比内さんが、俺を助手席に乗せた車をうちのアパートまで走らせた。
 あいつらとの間にあった経緯の全てを把握したい。比内さんからそう言われたのは車の中だった。手元にある書面をそっくりそのまま比内さんに手渡したけれど、そこにあるのは請求書だとか支払い明細の山でしかない。どれもこれも形ばかりのものだ。

 今日限りでこの部屋を引き払う。それは俺の戻る家がこの時点でなくなることを意味した。
 来て早々に比内さんは大家さんと話を付けた。部屋は今日付けで引き渡すと。俺への断りも確認もなしに一人で淡々と話しを進めた。

 言いたい事はそりゃ色々あったけど、大家さんの訝るような眼差しには耐えきれない。比内さんの決定に逆らう勇気も俺にはなかった。
 愛着のある部屋ではなかったし。壁の薄いぼろアパートは住み心地も良くなかったし。手放したところで未練はない。この部屋への執着はないが、これでもう本当に捨てなきゃならない。帰ってくるかもしれないなんて、そんな惨めな願望を。

「あの……」
「ああ」
「さっき、大家さんに渡したのは……」
「家具の処分と原状回復に見合う最低限の費用だ。お前は黙って荷物をまとめろ」
「はい……」

 大家さんと話している時、比内さんは厚みのある茶封筒を渡していた。室内に残った物はこれで処分してくれと。封筒の中身を覗き込んで確認した大家さんは、特に文句を言うでもなく黙って数度頷いていた。
 本当だったら自分で業者を呼ぶなりして私物を処分しなくてはならない。しかしそれは比内さんの金で解決された。電気屋やら水道屋やらにも連絡を入れたから、あとは本当に俺がここを出て行くだけだ。
 この人は本当に、どうしてここまで。それを聞くことは叶わないままだ。比内さんは俺に背を向けて狭い玄関から出ていこうとしていた。

「車で待ってる。用が済んだらお前もすぐに来い」
「……はい」

 人一人の存在がなくなれば途端にしんと静まり返る。見慣れたはずのこの場所をゆっくり一周見回して、勝手に漏れていく溜め息に気づいて途中でピタリとせき止めた。
 もうここへは戻れない。俺を捨てた人は戻って来ない。

「…………」

 できる事をやるしかない。多くはない荷物をバッグの中に手早く詰めた。
 考えたところでどうしようもないなら、そもそも考えること自体を初めからしなければいい。
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