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101.意気地なしの逃走Ⅱ
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買い忘れた物があったのでちょっと今から行ってきます。
気まずすぎる空気に負けた。心理的逃避に飽き足らず、物理的にも逃げ出した俺。瀬名さんの返答を待たずにサッと腰を上げてバタバタと部屋を出た後は、近くのコンビニを通り過ぎてスーパーまでとぼとぼ歩いた。
買う物なんて何もなかったが手ぶらで帰る訳にはいかない。仕方なしにレジを通したツナ缶のお徳用パック。缶詰三個分の重みが入った買い物バッグを片手で持ちつつ、マンションの入り口が見えてきたところでとうとう溜め息が勝手に漏れ出た。
溜め息ついていいのは俺じゃないだろ。裏切りを受けたのは瀬名さんだろうが。
この時間ならエレベーターもスムーズに動くがあえて階段を一段ずつ踏みしめ、瀬名さんの部屋の前で足を止めると溜め息ではなく深呼吸を一度。いつもより重く感じるドアを開け、こそっと小声でただいまと言った。
返事はない。聞こえない声量で言ったのだから当然だろう。
ダイニングのドアを開けてテーブルにツナ缶を置き、隣の部屋の引き戸を開ける。そこには誰もいなかった。
瀬名さんがいない。だが視線はすぐに窓へと向かう。カーテンが少し開いていて、近づけばベランダに出ているのが分かった。
明るい部屋の中からだと暗くてよく見えない空間を眺め、窓に近づきカラカラと開けると瀬名さんが気づいて振り向いた。
煙草はもうない。必要なくなったと瀬名さんは前に言った。しかしもしかすると本当は、俺が奪ってしまったのだろうか。少々の煙ですら気にしてくれるような人だ。
そうだとするなら俺はこの先、瀬名さんから他に何を奪うだろう。
「瀬名さん……」
俺が前にはだしでベランダに出てしまった翌日に、瀬名さんは外履き用のサンダルをもう一つ買ってきた。
俺用になったそれを履き、瀬名さんの隣にそっと立つ。中からだとここはよく見えないが、外に出れば明度が馴染んでマンション前の景色が見える。
「あの……」
「キンモクセイ」
「……はい?」
「あるだろ、そこに」
「あ……はい」
公園の敷地内を囲むようにぐるっと植えられた桜の他にも、違った季節を楽しむための木花がそこには植えてある。
公園正面の出口付近の、両サイドにそれぞれ一本ずつ。一年中深い緑を携え、来た人をそこからお出迎えしている。
今はオレンジ色の花が香りを放ちながら咲いていた。一つ一つはとても小粒だが、そいつらが寄り集まってもふっとした形を見せている。
公園内の照明と付近の街頭の微かな明かりが、緑とオレンジをほのかに照らした。
「……あの前通るといい匂いしますよね」
「ああ」
「あれもすぐ……散っちゃうけど」
「そうだな」
キンモクセイの花の命は短い。常緑種だから深い緑はいつだって見られるけれど、色の濃い晴れやかなオレンジと、澄んだ香りを身にまとうのは数日から一週間ほど。
気づいた時にはもう終わっている。うっかりしていれば花を見ることもなく。それくらい、あっという間だ。
「お前と会うまではなんの関心も持たねえまま通り過ぎるだけだった。咲こうが散ろうが興味ねえどころか、たぶん気づいてすらいなかったと思う。キンモクセイにしても桜にしても」
実家の庭の梅の木で、楽しめるのが瀬名さんだ。そんな人でも毎日変わらず会社と自宅を往復していれば、黄色だろうと薄ピンクだろうと同じような色に見えてくるだろう。
キンモクセイが香ったところでいちいち顔を上げることなく、通り過ぎるだけの人は多い。仕事をしなければ生活できないが花を見なくても死にはしない。大人になるってきっとそういうことだ。目にするものは、選別しないとならない。
俺がいくら背伸びしたって追いつけないほど瀬名さんは大人だ。けれどここで言葉を交わしながら、見ているのは俺と同じもの。
「……今は?」
ふっと、瀬名さんが笑ったのが聞こえた。
「開花したことに気づいただけで、チョビとローズが元気でいるのと同じくらい嬉しくなれる。一緒に見てくれる奴がいるからな。一人だったらこうはならない」
チョビとローズは今も机の上に。瀬名さんがあいつらに話しかけるのも毎朝毎晩の恒例だ。けれどももしも一人だったら、そうはなっていなかったそうだ。
俺も同じだったかもしれない。どんぐりの木がある実家から離れ、都会に来ると目に入ってくる物は多い。あらゆる雑音がそこら中に溢れ、五感が色んなものに刺激されるうちに花になんて見向きもしなくなっただろう。
瀬名さんがいたから夜に突然、春の花見をしたくなった。朝になるといつも二人で並びながらマンションを出るから、真ん前にある小さな公園のキンモクセイの匂いに気づき、オレンジの花にチラリと目を向けた。瀬名さんも今、それを見ている。
「だから反動で散ると寂しい」
「…………」
ある時期になると花を咲かせるが、それはすぐさま散ってしまう。そしてまた来年に咲く。ずっと続く。木が死んでしまうまで。一度の季節、だけではなくて。
今年の夏はすっかり引っ込んだ。一瞬だけ秋が通り過ぎ、そのあとはどんどん寒くなる。俺たちが見ているものは常に移り変わる何かだ。来年もまた同じ花が咲くけど、それは今と同じじゃない。
「俺はこの先のことも考えたいと思ってる」
ひとつの木を二人で見ながら、瀬名さんが俺の隣で言った。
「将来のことだ。俺はお前がいい」
瀬名さんの視線の方向は夜の中の緑とオレンジ。その言葉が向くのは俺の方。俺も緑とオレンジを見て、けれどすぐには返せない。
俺がこういう話を避けてきたから瀬名さんもしないでいてくれるだけで、冗談の範囲で済ませてくれていただけで、本当はここまで思ってくれる。
俺も同じだ。この人がいい。将来のことを想像した時、隣にはこの人にいてほしい。一回か二回か、数回だけの季節を過ごして終わるなんて嫌だ。
つい、ほんの少し前までは、ただの子供でしかなかった。今もまだまだガキのままだが、目の前には重要な選択がある。
ガキだからこんなにグズなのか。社会に出たらちゃんと大人になれるか。働いてみれば大きくなれるか。少しくらいは近づけるだろうか。自信は正直これっぽっちもないが、それでもこの先を考えるならば、すぐにでも答えを出せる。
一つしかない。それ以外は無理だ。だって、俺の隣にいるのは。
「俺も…」
「もし俺がハタチ前の男なら、こんなことは確実に言えてない」
すぐにでも出せる答えを、言い切る前に遮られていた。瀬名さんが俺の返事を覆った。静かに包むような声に、思わず隣に目を向けている。
「……え?」
「若い時代の強みってのはな、悩むだけの時間があることだ」
この人も俺に顔を向けた。厳しさはどこにもない。さっき俺が出ていく前の、あの顔とは違う。とても静か。
「それで間違ってねえかどうか好きなだけ考えられる」
「…………」
「お前はまだ若い。俺よりずっと。俺の時間はお前よりも十年ちょっと短ぇが、こう見えて割かし待つのは得意だ」
知っている。いつも待っていてくれる。置いていかれそうになって俺が焦ると、この人はそっと振り返ってくれる。
それは大人の顔だった。大きすぎて追いつけるはずがない。俺の答えを優しく遮り、完全な約束になるのを留めた。
「俺がクズなのはよく知ってるだろ」
秋の夜の風が静かに頬をかすめ、キンモクセイの香りはここまで届いた。
「悩んでくれ。せいぜい。俺のために。うんざりするほど時間をかけろ」
それが瀬名さんの答えだった。最後の最後でこの人は、言質を取ってくれなかった。
悩みがあるのはつらいことだ。悩みを持てるだけの自由がある反面、苦しめるだけの余地は無限大。
この人は俺よりもずっと大人だからそれくらい全部分かってる。分かっていて俺に悩めと言う。悪役を買って出てまで。
今すぐにだって答えは出せる。答えは出ていても踏ん切りがつかない。そんな俺をまた、瀬名さんは待った。
キンモクセイで知られるあの木には九里香という別名があるらしい。花屋の店長に教えてもらった。九里もの距離があってさえ届いてくる甘い香りだ。
瀬名さんは最初から俺より先にいて縮めようのない距離があるけど、まだまだ後ろの方にいる俺が駆け寄ろうとするのを待っていてくれる。優しい香りがそこにあるから、迷子にならずに進んでいける。
それがこの人だ。俺の好きな人。たぶんこの先も、好きでい続ける人。
「そろそろ中入ろう。だいぶ冷えてきた」
「……瀬名さん」
呼べば必ず目を合わせてくれる。何十キロでも何千キロでも待っていてくれるこの人に、俺は何を届けられるだろう。
うやむやにしていいはずがない。答えを返さないならせめて、何を思うか。それくらいは。
「ちゃんと……悩みます」
ようやく言えたのはたったそれだけの情けない決意表明だった。それでも瀬名さんは柔らかく笑った。
出会った頃から変わらない笑い方だ。最初は間仕切り越しだったそれが、今はこんなにも近くにある。俺がここまで来られたのだって、待っていてもらえたからだ。
「……ありがとう」
「こんな男に礼なんかそうそう言うもんじゃねえぞ」
「……でも……ありがとう」
とてもやわらかい表情を見た。この人の笑い方が好きだ。なんでも受け入れてくれるみたいな、包み込まれるこの感覚は、勘違いとは違うはず。
この人は俺に色んなものをくれる。今は安心をそっと受け取り、腰を押されて部屋に入った。
きっと瀬名さんは悩んでくれた。だから俺に同じことをしろと言う。悩んで、それでいいかどうか迷って、そうできるだけの猶予をくれる。
最初からずっとそうだった。本気で急かされたことは一度もない。だから俺も悩む。この人のために。時間はもう少しかかるけど。
「ところで何買ってきたんだ?」
「……ツナ缶」
「ツナ缶?」
「…………」
「今度また逃走する時は俺も一緒に付いてってやる」
それじゃ逃走の意味がないけど本当は逃げる必要なんてない。
次の年もまたその次も、ずっと一緒にいたい相手だ。
気まずすぎる空気に負けた。心理的逃避に飽き足らず、物理的にも逃げ出した俺。瀬名さんの返答を待たずにサッと腰を上げてバタバタと部屋を出た後は、近くのコンビニを通り過ぎてスーパーまでとぼとぼ歩いた。
買う物なんて何もなかったが手ぶらで帰る訳にはいかない。仕方なしにレジを通したツナ缶のお徳用パック。缶詰三個分の重みが入った買い物バッグを片手で持ちつつ、マンションの入り口が見えてきたところでとうとう溜め息が勝手に漏れ出た。
溜め息ついていいのは俺じゃないだろ。裏切りを受けたのは瀬名さんだろうが。
この時間ならエレベーターもスムーズに動くがあえて階段を一段ずつ踏みしめ、瀬名さんの部屋の前で足を止めると溜め息ではなく深呼吸を一度。いつもより重く感じるドアを開け、こそっと小声でただいまと言った。
返事はない。聞こえない声量で言ったのだから当然だろう。
ダイニングのドアを開けてテーブルにツナ缶を置き、隣の部屋の引き戸を開ける。そこには誰もいなかった。
瀬名さんがいない。だが視線はすぐに窓へと向かう。カーテンが少し開いていて、近づけばベランダに出ているのが分かった。
明るい部屋の中からだと暗くてよく見えない空間を眺め、窓に近づきカラカラと開けると瀬名さんが気づいて振り向いた。
煙草はもうない。必要なくなったと瀬名さんは前に言った。しかしもしかすると本当は、俺が奪ってしまったのだろうか。少々の煙ですら気にしてくれるような人だ。
そうだとするなら俺はこの先、瀬名さんから他に何を奪うだろう。
「瀬名さん……」
俺が前にはだしでベランダに出てしまった翌日に、瀬名さんは外履き用のサンダルをもう一つ買ってきた。
俺用になったそれを履き、瀬名さんの隣にそっと立つ。中からだとここはよく見えないが、外に出れば明度が馴染んでマンション前の景色が見える。
「あの……」
「キンモクセイ」
「……はい?」
「あるだろ、そこに」
「あ……はい」
公園の敷地内を囲むようにぐるっと植えられた桜の他にも、違った季節を楽しむための木花がそこには植えてある。
公園正面の出口付近の、両サイドにそれぞれ一本ずつ。一年中深い緑を携え、来た人をそこからお出迎えしている。
今はオレンジ色の花が香りを放ちながら咲いていた。一つ一つはとても小粒だが、そいつらが寄り集まってもふっとした形を見せている。
公園内の照明と付近の街頭の微かな明かりが、緑とオレンジをほのかに照らした。
「……あの前通るといい匂いしますよね」
「ああ」
「あれもすぐ……散っちゃうけど」
「そうだな」
キンモクセイの花の命は短い。常緑種だから深い緑はいつだって見られるけれど、色の濃い晴れやかなオレンジと、澄んだ香りを身にまとうのは数日から一週間ほど。
気づいた時にはもう終わっている。うっかりしていれば花を見ることもなく。それくらい、あっという間だ。
「お前と会うまではなんの関心も持たねえまま通り過ぎるだけだった。咲こうが散ろうが興味ねえどころか、たぶん気づいてすらいなかったと思う。キンモクセイにしても桜にしても」
実家の庭の梅の木で、楽しめるのが瀬名さんだ。そんな人でも毎日変わらず会社と自宅を往復していれば、黄色だろうと薄ピンクだろうと同じような色に見えてくるだろう。
キンモクセイが香ったところでいちいち顔を上げることなく、通り過ぎるだけの人は多い。仕事をしなければ生活できないが花を見なくても死にはしない。大人になるってきっとそういうことだ。目にするものは、選別しないとならない。
俺がいくら背伸びしたって追いつけないほど瀬名さんは大人だ。けれどここで言葉を交わしながら、見ているのは俺と同じもの。
「……今は?」
ふっと、瀬名さんが笑ったのが聞こえた。
「開花したことに気づいただけで、チョビとローズが元気でいるのと同じくらい嬉しくなれる。一緒に見てくれる奴がいるからな。一人だったらこうはならない」
チョビとローズは今も机の上に。瀬名さんがあいつらに話しかけるのも毎朝毎晩の恒例だ。けれどももしも一人だったら、そうはなっていなかったそうだ。
俺も同じだったかもしれない。どんぐりの木がある実家から離れ、都会に来ると目に入ってくる物は多い。あらゆる雑音がそこら中に溢れ、五感が色んなものに刺激されるうちに花になんて見向きもしなくなっただろう。
瀬名さんがいたから夜に突然、春の花見をしたくなった。朝になるといつも二人で並びながらマンションを出るから、真ん前にある小さな公園のキンモクセイの匂いに気づき、オレンジの花にチラリと目を向けた。瀬名さんも今、それを見ている。
「だから反動で散ると寂しい」
「…………」
ある時期になると花を咲かせるが、それはすぐさま散ってしまう。そしてまた来年に咲く。ずっと続く。木が死んでしまうまで。一度の季節、だけではなくて。
今年の夏はすっかり引っ込んだ。一瞬だけ秋が通り過ぎ、そのあとはどんどん寒くなる。俺たちが見ているものは常に移り変わる何かだ。来年もまた同じ花が咲くけど、それは今と同じじゃない。
「俺はこの先のことも考えたいと思ってる」
ひとつの木を二人で見ながら、瀬名さんが俺の隣で言った。
「将来のことだ。俺はお前がいい」
瀬名さんの視線の方向は夜の中の緑とオレンジ。その言葉が向くのは俺の方。俺も緑とオレンジを見て、けれどすぐには返せない。
俺がこういう話を避けてきたから瀬名さんもしないでいてくれるだけで、冗談の範囲で済ませてくれていただけで、本当はここまで思ってくれる。
俺も同じだ。この人がいい。将来のことを想像した時、隣にはこの人にいてほしい。一回か二回か、数回だけの季節を過ごして終わるなんて嫌だ。
つい、ほんの少し前までは、ただの子供でしかなかった。今もまだまだガキのままだが、目の前には重要な選択がある。
ガキだからこんなにグズなのか。社会に出たらちゃんと大人になれるか。働いてみれば大きくなれるか。少しくらいは近づけるだろうか。自信は正直これっぽっちもないが、それでもこの先を考えるならば、すぐにでも答えを出せる。
一つしかない。それ以外は無理だ。だって、俺の隣にいるのは。
「俺も…」
「もし俺がハタチ前の男なら、こんなことは確実に言えてない」
すぐにでも出せる答えを、言い切る前に遮られていた。瀬名さんが俺の返事を覆った。静かに包むような声に、思わず隣に目を向けている。
「……え?」
「若い時代の強みってのはな、悩むだけの時間があることだ」
この人も俺に顔を向けた。厳しさはどこにもない。さっき俺が出ていく前の、あの顔とは違う。とても静か。
「それで間違ってねえかどうか好きなだけ考えられる」
「…………」
「お前はまだ若い。俺よりずっと。俺の時間はお前よりも十年ちょっと短ぇが、こう見えて割かし待つのは得意だ」
知っている。いつも待っていてくれる。置いていかれそうになって俺が焦ると、この人はそっと振り返ってくれる。
それは大人の顔だった。大きすぎて追いつけるはずがない。俺の答えを優しく遮り、完全な約束になるのを留めた。
「俺がクズなのはよく知ってるだろ」
秋の夜の風が静かに頬をかすめ、キンモクセイの香りはここまで届いた。
「悩んでくれ。せいぜい。俺のために。うんざりするほど時間をかけろ」
それが瀬名さんの答えだった。最後の最後でこの人は、言質を取ってくれなかった。
悩みがあるのはつらいことだ。悩みを持てるだけの自由がある反面、苦しめるだけの余地は無限大。
この人は俺よりもずっと大人だからそれくらい全部分かってる。分かっていて俺に悩めと言う。悪役を買って出てまで。
今すぐにだって答えは出せる。答えは出ていても踏ん切りがつかない。そんな俺をまた、瀬名さんは待った。
キンモクセイで知られるあの木には九里香という別名があるらしい。花屋の店長に教えてもらった。九里もの距離があってさえ届いてくる甘い香りだ。
瀬名さんは最初から俺より先にいて縮めようのない距離があるけど、まだまだ後ろの方にいる俺が駆け寄ろうとするのを待っていてくれる。優しい香りがそこにあるから、迷子にならずに進んでいける。
それがこの人だ。俺の好きな人。たぶんこの先も、好きでい続ける人。
「そろそろ中入ろう。だいぶ冷えてきた」
「……瀬名さん」
呼べば必ず目を合わせてくれる。何十キロでも何千キロでも待っていてくれるこの人に、俺は何を届けられるだろう。
うやむやにしていいはずがない。答えを返さないならせめて、何を思うか。それくらいは。
「ちゃんと……悩みます」
ようやく言えたのはたったそれだけの情けない決意表明だった。それでも瀬名さんは柔らかく笑った。
出会った頃から変わらない笑い方だ。最初は間仕切り越しだったそれが、今はこんなにも近くにある。俺がここまで来られたのだって、待っていてもらえたからだ。
「……ありがとう」
「こんな男に礼なんかそうそう言うもんじゃねえぞ」
「……でも……ありがとう」
とてもやわらかい表情を見た。この人の笑い方が好きだ。なんでも受け入れてくれるみたいな、包み込まれるこの感覚は、勘違いとは違うはず。
この人は俺に色んなものをくれる。今は安心をそっと受け取り、腰を押されて部屋に入った。
きっと瀬名さんは悩んでくれた。だから俺に同じことをしろと言う。悩んで、それでいいかどうか迷って、そうできるだけの猶予をくれる。
最初からずっとそうだった。本気で急かされたことは一度もない。だから俺も悩む。この人のために。時間はもう少しかかるけど。
「ところで何買ってきたんだ?」
「……ツナ缶」
「ツナ缶?」
「…………」
「今度また逃走する時は俺も一緒に付いてってやる」
それじゃ逃走の意味がないけど本当は逃げる必要なんてない。
次の年もまたその次も、ずっと一緒にいたい相手だ。
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