貢がせて、ハニー!

わこ

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33.瀬名って名前のクズ教官Ⅱ

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 部屋に戻ったら瀬名さんがいなかった。窓に目をやるとカーテンが開いている。室内が明るいから暗い外は余計に見えにくいけど、シルエットはぼんやり分かる。瀬名さんの所在はベランダだ。

 掃き出し窓をカラカラ鳴らせた。手摺りに片腕だけ乗せながら、瀬名さんがこっちを振り返る。
 その口元にはまだ長いタバコが。それを右手に持ち替えて、サンダルがないから出るに出られない俺にそこから声をかけてくる。

「ゆっくりできたか」
「できませんでしたよアンタのせいで」

 だるまさんがころんだのフレーズを考えないようにしようとすればする程だるまのシルエットが浮かんできてしまって風呂場で泣き叫びそうになった。名人級のだるま職人だってあんなにだるまの事は考えない。
 人を恐怖のどん底に突き落としておいて自分はのんびりスパスパと。一服している大人の横顔をここからジトッと眺めていたら、その視線が再びこっちに。

「中入ってろ。風邪ひくぞ」
「…………」

 そう言えばこの人がタバコ吸ってるとこ、初めて見た。以前はいつも仕切り越しだったし、俺がこの部屋に入り浸っている間は瀬名さんが吸おうとしないし。このまま窓を閉めずにいれば、きっとこの人は火を消すだろう。
 手摺りの上には小さな灰皿。長さ的に煙草はまだ吸い始めたばかりだろう。でもやはりこの人は消そうとした。それで咄嗟に、外に出た。
 足の裏には冷たい硬さ。こっちに顔を向けたこの人の、腕を掴んだ。消すのを、止めた。
 煙草の先からはいまだユラユラ白い煙が舞っている。瀬名さんと目を合わせたままゆっくりとその腕を放した。

 先に視線を外したのは俺。そのままこの人の隣に立った。
 小さな公園があるくらいで特に眺めも良くない景色に俺もこの人も黙って目をやる。消すのを俺が止めたから、中指と人差し指の間に煙草を挟んだ大きなその手を、この人はまた口元へと静かにそっと持っていった。
 煙のにおいだ。そうやって吸うんだ。赤っぽいオレンジ色が先端に灯るとその都度少しずつ、細かい葉っぱがチリチリ色を変えて灰になっていくのが見えた。

 室内の光がささやかに届いてくるだけの明度だ。薄暗い中でその手元を隣から盗み見ている。爪は短く切りそろえられ、いつもきちんと整えられて。
 柔らかみはないが綺麗な手。骨ばった、長い指。その指で細い煙草をまっすぐに支えたまま、ゆっくりと再び、口元に。

「…………」

 ぎこちなく、視線を落とした。ただ単に煙草を吸っているだけ。それだけでしかないはずなのに、なんだか変な気分になるからこっそり見るのはやめにした。
 大人の男だ。煙草だって似合う。そんな人の右側に、トンっと寄りかかって体重を預けた。喫煙中には邪魔でしかないだろう俺のこの行動にさえ、瀬名さんは一つも文句を言わない。

「どうした」
「…………そのタバコは俺のせいですか」

 大人はいつ、煙草を吸うか。どういうときに吸いたくなるか。
 ダメって言ったら必ずやめるから、いいって言うまでしないと思う。散々待たせたのにまだ待たせてる。この人のしたい事を、俺はずっとさせないでいる。

 質問の意図は察しただろうが瀬名さんは何も言わなかった。黙ったまま煙草を口にして、その煙が吐き出される前に、突然ふにっと、キスされた。
 思わず眉間に力が入る。口の中の、おかしな風味。瀬名さんが唇を離しても、知らないにおいだけは残った。

「…………なんか煙い」
「煙草はハタチになってからにしとけ」
「あんたは今俺に何をしましたか」

 笑って返してくる大人に反省の色は全くない。こんな形で煙草の味の初体験なんてしたくなかった。
 隣ではこの人がもう一度深めに吸っている。そして今度こそ灰皿の上に煙草の先をジッと押し付けた。燃え損ねた葉っぱが擦れて最後の煙をくすぶらせ、オレンジ色の火を消すと同時に、唇はまたもや重なっている。

 舌先をねっとり絡めながら、煙のにおいを移される。下唇を甘噛みすると満足したように離れていった。
 ほんの数秒足らずの後に残された微妙な味と香り。苦いと言うか、なんと言うのか。変な感じだ。モワッとする。いつものキスとは少なくとも違った。だからついつい眉間も寄っている。

「……これはあんまり好きじゃないです」

 鼻から抜けていくにおいはなんだかまだやっぱり変な感じ。俺に顔をしかめさせた張本人は楽しそう。

「キスが? タバコが?」
「タバコが」
「キスは」

 そういうの普通に聞いてくるし。俺はそれに慣れちゃってるし。

「…………好き」

 答えたら、直後にされる。今度は重なるだけのやつ。俺が嫌なことはしてこないけど好きなことは沢山してくる。
 スっと、やわらかく唇がこすれた。それで終わりかと思ったら、最後にもう一度押し付けるように。
 目の前にある瀬名さんの顔は、いくら目を凝らしてみても楽しそうにしか見えない。

「これがなんだって?」
「だから好きって言ってるじゃないですか」

 こっちもだんだん投げやりになってくる。吐き捨てた俺を見て笑った男は手すりの上から灰皿を下ろした。
 ベランダにちょこんと置いてあるミニテーブルに移動させられた小さな灰皿。なんとはなしにそこへ目を落とせば吸い殻はどうやら二本あった。たった今消したばかりの一本と、俺が戻って来る前にも一本吸っていたようだ。そっちはだいぶ短くなっている。この二本の原因が俺なのか、この人は結局答えなかった。

 答えなかった事が答えだ。キスは許された、証だろうか。
 まともじゃない大人のくせに嫌な男にはなりきってくれない。汚した灰皿はこのまま放置せずすぐに綺麗にするのだろう。浴室の鏡だってピカピカなくらいだし。

「中戻るぞ。ほんとに風邪ひくだろ、そんな薄着で」

 あれもこれも全部そつがない。風呂から出てきたばかりの俺の体調を気づかうような男だ。そうして中に入るよう促されたが、俺は足を止めたまま。
 わざわざ外履きが置いてあるのだからベランダとは基本的に屋外。屋外とは常に吹きさらしの環境。このベランダも例外ではない。一方でここの部屋の中は、めちゃくちゃ綺麗でどこも清潔で床には塵一つ落ちていない。

「……あのですね、もう一個ごめんなさい」
「うん?」
「裸足で出ちゃった」

 瀬名さんの視線が俺の足下にふいっと落ちた。
 サンダルは瀬名さんが履いている一組のみ。俺の足裏は固くてヒンヤリ。綺麗にしてあってもやっぱり外だから心なしかシャリシャリしている。

「……まあそうなるよな」

 すんません。

「冷たくねえのか?」
「かなり冷たいです」
「何してんだバカ。姫抱っこで風呂場直行の刑にしてやる」
「うわ。屈辱で死ぬかも」
「殺さねえようにそっと運ぶ」
「それ余計殺しにきてますね」

 姫扱いなんて死罪よりキツい。米俵みたいに担がれる方がまだ数千倍くらいはマシだ。
 けれども有言実行な男は俺の腰を当然のように抱いてくる。左手は膝の裏に持っていかれそうになって慌てて止めた。

「え、待って、ホントに姫抱き?」
「風呂場まで丁重にお連れするから安心して身を委ねろ」
「超ヤダ」
「お前が足を洗ってる間は従者のように後ろに控えつつだるまさんがころんだを楽しそうに連呼しておく」
「やめて色々」

 陰湿だ。
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