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  第24章 【魏の帝都・洛陽】に【遣魏使】を遣わし、【魏帝】から【銅鏡】を賜る!

 〔330〕景初3年【239年】、【明帝】は【倭国王・日御子】に【親魏倭王】の【金印紫授】を授ける!!

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  景初3年、【明帝】は【倭国王・日御子】に【親魏倭王】の【金印紫授】を仮授した。

【難升米】らは6ヶ月、【洛陽】に滞在していたが、帰国する12月になって、【宮中工房】にて、鋳造していた【銅鏡100枚】【5尺刀2振】が完成し、【朝貢】の【返礼品】として、贈られた。

これは、持参した【朝貢品】の何百倍もの価値ある品々であった!

この破格の待遇に、加えて、【親魏倭王】の称号は、数ある周辺蛮国の中でも、西南1万里の彼方で【蜀】の後方を扼する【大月氏国(クシャーナ朝)】と並んで、東南1万里の彼方で【呉】の後方を扼する位置にある【倭国】と、過大に評価されていると、いうことである!

この過大なる評価は、【日御子】の【正確な予知力】及び【類い希なる外交力】があったればこそ、である!


そして、正始元年(240年)、【帯方郡】からの【魏】の使者が【倭国】を訪れ、【証書】【印綬】を奉じて、【女王・日御子】は拝受した。



  ここで、特筆すべきは、古代中国では、距離を表すのに、【里】で表記するが、古代日本では【陸を何日】とか【海を何日】とかで、言い表す。

つまり、【魏の特使】は【北部九州】では【特使】自ら、歩いて、記録し、九州以外は【倭国人からの伝聞】ということになり、【特使】は【北部九州】を離れてはいない、ということになる。

【女王・日御子】に拝受させた、というのも疑わしい。



  また、【魏志倭人伝】には、【難升米】の【遣魏使】は、景初2年(238年)、と記されているが、その年では【仲達】が【公孫淵】と戦争中であり、【考古学者】や【文献史学者】の大半は、景初3年の誤表記と認めている。
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