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プロローグ
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今、オリヴィアに許されたことは、膝を抱えながらガクガクと震えることだけだった。
オリヴィアはこの国、リステンブルスク王国の第二皇女である。齢にして15歳。再来年には隣国に嫁ぐことになっている、生粋の箱入り娘である。
そんなオリヴィアは今、麻袋を被せられ、誘拐されていた。誘拐されてから、時間にして丸1日経った頃である。
オリヴィアは昨夜の9時、徹底された生活管理の元に就寝していた。部屋の前には使用人が当然のように控えており、城門では門番が夜通しの番をしている。蟻の這い出る隙もない、とはまさにこのことのはずだった。
しかし、それはあくまで外からの侵入者に対してのことである。内側からの襲撃には弱かったのだ。
オリヴィアは寝ている間に麻袋を被せられた。無論飛び起きて抵抗するも、武道など一切経験のないオリヴィアの弱椀では、振り払うことなどできるわけがない。そのままオリヴィアは、薬を嗅がされて意識を失った。
朦朧とする意識の中で、オリヴィアは自分の耳を疑った。自分を取り押さえる人間に「運び出せ」と指示を出した声は、自分が最も聞き覚えのある、側近のメイドのステラの声だったのだから。
こうしてオリヴィアは今に至る。城から運び出されて連れてこられたこの場所は、少々埃っぽい。オリヴィアは咳込んだ。
あまりにも完璧な犯行だった。オリヴィアが誘拐された時、城では騒ぎが全く起きていなかった。つまり、連れ去られたことに気が付かれていなかったのである。丸1日経っても助けが来ないのは、発見が遅れて捜索が難航しているからだろう。
オリヴィアは胸が剣で串刺しにされたように痛かった。ステラに裏切られた。その事実がとてつもなくショックで、悲しいなどという考えすら浮かばない。何も考えられなかった。
「うぎッ、ギャアアアア!!」
オリヴィアはビクリと身を震わせた。唐突な断末魔が次々と、あちらこちらから聞こえてくる。
「い、痛い痛い痛い痛い!!」
「目が、目が痛い!!ああああああ!!」
(な、何、何が起こっているのです………!?)
オリヴィアは混乱して、身を震わせた。
「な、なんだこのガキ!!捕まんなっ、ひ、あああああ!!」
プシュッ、と霧吹きのような音が響く。その音は何度も続き、しばらくして止まった。
つんざくような断末魔の中、オリヴィアは足音が自分へ向かって来ていることに気がついた。オリヴィアは恐怖から身をよじる。しかしオリヴィアの力では、腕ごと巻かれたロープから逃れることはできない。
足音が真正面で止まった。オリヴィアは思わず目を強く瞑った。
しかし、痛みはこない。あろうことか、目を瞑っていてもわかる程の光量を浴びた。
麻袋を取られたのである。オリヴィアは恐る恐る、目を開けた。
「大丈夫?お姉さん」
子どもだった。それもオリヴィアよりも小さい。まだ働きにすら出ていないような、幼い少年。
「災難だったね、でももう大丈夫。今ロープ解くから」
少年はオリヴィアの背後に回って、ロープに指をかけた。あっという間に結び目が外れ、ロープが床に落ちる。
「ほら、立てる?」
少年はオリヴィアの目の前に来て、座り込んでいるオリヴィアに手を差し出した。
「え、えぇ…………大丈夫ですわ」
オリヴィアはその手を握った。少年が引っ張ってくれたおかげで、オリヴィアはふらつかづに立つことができた。
立ち上がった視点から見たものは、床に転がっている誘拐犯の面々。皆一様に苦悶の声を上げながら、涙を流している。オリヴィアは混乱した。
「あぁ、コレだよコレ」
少年は右手に持っていた霧吹きを上に上げて見せた。中身は赤色の透明な液体である。
「催涙スプレー。唐辛子の成分で作った液体でね。護身用に」
「と、唐辛子、ですか?」
「うん、唐辛子って割と安価だから」
オリヴィアは好奇心旺盛なお転婆娘である。新しい知識に貪欲で、しかし少々行き過ぎたそれは、国王や使用人を大いに困らせていた。つまり、とても催涙スプレーに興味が湧いた。
「それ、一体どういった物で!?」
「おおっと凄い食い付き…………気になるなら教えてあげるけど、とりあえずここから逃げようか。効き目は一過性だからさ」
そうして、オリヴィアは城からの助けを待たずして、誘拐犯から逃げ仰せた。
オリヴィアが誘拐された先は、王都の郊外の辺境の町だったらしい。オリヴィアが第二皇女ということに気づかれていないのが、その証拠だった。
捕らえられていた小屋を出て、数分歩いた場所の光景に、オリヴィアは目を疑った。
一言で言うなれば、ボロボロ。建物はあるものの、ところどころ歪んでおり、腐っている。通りを歩いている人は、子どもから老人まで、皆等しく痩せている。思えば、助けてくれた少年もかなり痩せている。歩くことにより移り変わる景色は、代わり映えがない。
町には全体的に、活気というものがなかった。オリヴィアは箱入り娘である。城から出ることなど滅多に許されず、いつも窓から王都を眺めていることしかできなかった。外の世界への憧れはあったものの、オリヴィアはその活気ある王都の人々の笑顔を、遠目で見るだけでも満足だった。
だから、このような町は見たことがなかった。オリヴィアは自分の認識の浅はかさを恥ずかしく思った。王都は国の一部分でしかなかったのだと、オリヴィアは思い知らされた。
「驚いた?」
少年は先導しながら、振り向いて言った。その表情は、笑顔だった。
「君って、どこかの貴族の令嬢とかだよね。この町は外との関わりがないから、あまり情報が入ってこなくてわからないんだ。有名な人とかだったらごめんね」
「…………いえ、大丈夫です。名乗るのが遅れて申し訳ございません、私はオリヴィア。オリヴィア=リステ…………いえ、ただのオリヴィアですわ」
オリヴィア=リステンブルスクと言いかけて、止めた。言ってしまえば、この国の王族だとバレてしまう。すぐに城に連れ戻されてしまうだろう。そうすれば、この町のことを何も知らないままになってしまう。オリヴィアは王族として、それだけは駄目だと思った。民の現状から目を背けて、なにが王族だ。それに、催涙スプレーというものの詳細も聞けていない。
「オリヴィアか、いい名前だね」
少年は、オリヴィアが言い淀んだことについて、何も聞かなかった。オリヴィアは胸を撫でおろした。
「僕のことは先生とでも呼んでよ。皆からはそう呼ばれてるから」
「先生、ですか?」
「うん」
「それで、その…………」
オリヴィアは再び言い淀んで、浮かない顔で言った。
「驚いた、とは?」
「この町について」
先生は簡素に答えた。
「ご令嬢なら、住んでるのは王都だよね。だから驚くかなって、この寂れた町に」
「……………………………………、」
オリヴィアは、何も言えなかった。
「深く考えなくてもいいのに。ごめんね、ちょっと意地悪だったかな」
「…………どこに、向かっているのですか?」
「教会。もう潰れてるけどね。あと少ししたら見えてくるよ…………ほら」
先生は立ち止まって振り返った。そして斜め前に向けて指を指した。
オリヴィアは先生が示した方向を見た。そこにはくすんだ色の屋根の教会が。ところどころ屋根に穴が空いている。
町の通りから少し逸れた道を行き、教会に到着した。扉は完全に閉まっておらず、風に揺られてギコギコと音を鳴らしている。
「中へどうぞ、って言っても、僕の持ち物じゃないからご自由になんだけど」
「お邪魔いたしますわ…………」
オリヴィアは教会に足を踏み入れた。歩くたびに、床板がギィ、と音を鳴らす。教会の中は薄暗くて、ステンドグラスと半開きの扉から差し込む光だけが光源だ。古びていてるのに埃っぽくなく、オリヴィアが咳き込むこともなかった。
「どこでもいいよ、座って」
「はい、失礼いたします…………」
オリヴィアは一番前の席の左端に座った。木でできた椅子の冷たさが直に伝わってくる。
「ごめんね、冷たいよね。下に敷く毛布もなくてさ」
「い、いえ!大丈夫です、お心遣い痛み入りますわ……」
先生はオリヴィアの隣に座った。そして足を組んで、組んだ足の上に肘を載せて、頬杖をついた。
「催涙スプレーだったよね」
「!はい、そうですわ」
オリヴィアは目を輝かせた。今までの傷心したような表情が嘘のように明るい。先生は苦笑した。
「あはは、凄い変わりようだね」
「あ、その…………ごめんなさい」
「いいのいいの、好奇心旺盛なのはいい事だからね」
オリヴィアは先生の落ち着いた雰囲気に、年上と話しているように錯覚してしまう。それと同時に、あることに思い至ってしまった。
「この町では、幼い子どもも先生くらいしっかりしないと、生きてはいけないのですか……?」
その思いつきが、意図せず口に出てしまった。オリヴィアはあっ、と口を塞ぐ。
先生はきょとんとして、いきなり笑い出した。
「ふっ、あははははは!」
「え?え?」
混乱するオリヴィアをよそに、先生は笑い続ける。オリヴィアはなんだか頭に来て、頬を膨らませた。
「何ですの!?」
「あはは、ははっ、うん、ごめん、ごめんねっ…………ふはっ、」
「もう!怒りますわよ!」
オリヴィアは両手を強く握りしめた。先生はごめんと手を前にかざしながら言う。
「まさか、他の子はもっとお茶目で元気だよ。僕が特別なだけ」
「特別?」
「僕、異世界転生者なんだ」
オリヴィアの頭は疑問符で埋め尽くされた。言葉の意味を考えれば考えるほど、疑問符が飛び交い衝突事故を起こす。
「ス、スペースキャット……ふふっ」
「な、なんだかよくわかりませんが頭にきますわ。覚悟してくださいまし」
オリヴィアは拳を握り直した。
「ごめんごめん、いや可愛くって」
「かわっ…………!?ふ、ふざけないでください!」
「ふざけてないんだけどなぁ…………で、催涙スプレーはいいの?」
「あ」
オリヴィアは先生に話を戻されて、拳を解いた。そして大人しく両膝の上に重ねて置いた。
「そうです、催涙スプレーの話です」
オリヴィアは至って平然を装って言った。しかし口角が上がるのを我慢できない。
「唐辛子って、辛いよね」
「えぇ、私は大嫌いです」
「そんな辛いのが目に入ったら、どうなる?」
「…………とても、痛いです」
「だよね」
先生は苦笑した。
「催涙スプレーはそんな唐辛子を使って作るんだ。液体だから霧吹きで吹きかけられる。催涙スプレーを目に浴びると、目に激痛が走って涙が止まらなくなるんだ」
「…………そんなのを浴びたらひとたまりもありませんわ」
「人の命を奪うこともないから、僕は重宝してる。この町治安悪いからさ」
オリヴィアは目を輝かせて、先生を見た。
「博識でいらっしゃるのですね、先生は」
「あー…………まぁ、確かに。雑学の知識は詳しいと思うけど……」
「もしよろしければ、今後も授業をしていただけませんか?」
「じ、授業?」
「はい!」
オリヴィアは立ち上がって、頭を下げた。
「え、えぇ!?」
先生も慌てて立ち上がり、手をあたふたさせる。
「私、外の世界が知りたいのです。この町のことについても。ですから教えてはくださいませんか!」
勢いに気圧されたのか、先生は目線をそらした。
「えっと……でも、君はご令嬢だろう?外で、しかも僕みたいなのに会っても大丈夫なの?」
「大丈夫です、なんとかしますわ。私の行動力を侮ってもらっては困ります」
「で、でもここ王都から結構距離あるよ?」
「馬車を捕まえますわ」
「………………………………、」
ここで、先生は何も言えなくなった。先生は苦笑しながら腕を組んで、そうだなぁと口を開いた。
「1年間限定なら、いいよ」
オリヴィアは勢いよく頭を上げて、
「よろしくお願いしますわ!!」
そう笑顔で言ったのだ。
「そうですわ、どうやって帰りましょう……」
あれからしばらく、色々と雑学を教えてもらった。どれもオリヴィアにとっては新鮮で、好奇心の矛先を向けるには十分すぎるものだった。だからこそ、時間を忘れてしまった。
もう外は暗い。教会の中は先生がつけてくれた蝋燭の炎と、ステンドグラスからの月明かりはあるが薄暗い。
オリヴィアは途方に暮れた。この町がどこにあるのか全くわからない。王都とは距離があるため、歩いて帰ることもできない。オリヴィアはため息をついた。
「…………この時間なら、そうだな。オリヴィアちゃん」
先生が立ち上がった。
「先生?」
「毎日この時間に、王都近くの町からお医者様が問診に来るんだ。馬車で来てるから、乗せていってくれるかも」
「本当ですの!?」
オリヴィアは立ち上がって、扉に向かって歩き出した。
「さぁ先生、案内してくださいまし!」
「うん、わかった。先導しよう」
先生がオリヴィアの先に行く。オリヴィアはてくてくと先生のあとをついていった。
教会を出て、夜道を歩く。整備されていない道はガタガタで、オリヴィアは躓きそうになった。
「大丈夫?夜道は暗いから気をつけて、この町は灯りなんてないから」
「は、はい…………!」
「…………………………うん」
先生は少し考えてから、オリヴィアの右手を握った。
「えっ…………?」
「歩き慣れてないと危ないから、手を繋ごう」
オリヴィアは頬を赤くした。心臓がバクバクとして、爆発しそうだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
俯きながら言ったオリヴィアに、先生は微笑んで言った。
4月4日 くもり
今日はとても素敵な出会いがありました。拐われて怖かったですが、素敵な男の子が助けてくれたのです。
男の子は先生と名乗りました。ですから私も先生とお呼びすることにしました。年下の子に先生は少しだけ恥ずかしいです。
先生は博識です。先生といると、私の尽きない好奇心が満たされます。ですから今後も授業をしていただけることになりました。どうやって城を抜け出しましょう、新しく入ったメイドのあの子に頼んでみましょうか。今から楽しみです。
他にも、町のことを知りました。私は王都のことだけにしか目を向けず、苦しんでいる民たちを知らなかったのです。私は自分が愚かで仕方がありません。先生に、あの町のことももっと詳しく聞いてみましょう。私が隣国に嫁ぐまでに、あの現状を変えるのです。王族としての責務を果たさなければ。
それにしても、何故先生は1年間限定とおっしゃったのでしょうか。確かに私は再来年に嫁いでしまいますが、あと2年間は猶予があるのです。私を王都まで送ってくださったお医者様はとても優しい方でした。腕の良い優秀なお医者様であると、先生に教えてもらいました。お医者様の元に辿り着いたとき、先生とお医者様がなにか私に内緒で話をしていたようですが、一体何を話されていたのでしょうか。
今日は本当に楽しかったです、早く次の授業を受けたいです。
オリヴィアはこの国、リステンブルスク王国の第二皇女である。齢にして15歳。再来年には隣国に嫁ぐことになっている、生粋の箱入り娘である。
そんなオリヴィアは今、麻袋を被せられ、誘拐されていた。誘拐されてから、時間にして丸1日経った頃である。
オリヴィアは昨夜の9時、徹底された生活管理の元に就寝していた。部屋の前には使用人が当然のように控えており、城門では門番が夜通しの番をしている。蟻の這い出る隙もない、とはまさにこのことのはずだった。
しかし、それはあくまで外からの侵入者に対してのことである。内側からの襲撃には弱かったのだ。
オリヴィアは寝ている間に麻袋を被せられた。無論飛び起きて抵抗するも、武道など一切経験のないオリヴィアの弱椀では、振り払うことなどできるわけがない。そのままオリヴィアは、薬を嗅がされて意識を失った。
朦朧とする意識の中で、オリヴィアは自分の耳を疑った。自分を取り押さえる人間に「運び出せ」と指示を出した声は、自分が最も聞き覚えのある、側近のメイドのステラの声だったのだから。
こうしてオリヴィアは今に至る。城から運び出されて連れてこられたこの場所は、少々埃っぽい。オリヴィアは咳込んだ。
あまりにも完璧な犯行だった。オリヴィアが誘拐された時、城では騒ぎが全く起きていなかった。つまり、連れ去られたことに気が付かれていなかったのである。丸1日経っても助けが来ないのは、発見が遅れて捜索が難航しているからだろう。
オリヴィアは胸が剣で串刺しにされたように痛かった。ステラに裏切られた。その事実がとてつもなくショックで、悲しいなどという考えすら浮かばない。何も考えられなかった。
「うぎッ、ギャアアアア!!」
オリヴィアはビクリと身を震わせた。唐突な断末魔が次々と、あちらこちらから聞こえてくる。
「い、痛い痛い痛い痛い!!」
「目が、目が痛い!!ああああああ!!」
(な、何、何が起こっているのです………!?)
オリヴィアは混乱して、身を震わせた。
「な、なんだこのガキ!!捕まんなっ、ひ、あああああ!!」
プシュッ、と霧吹きのような音が響く。その音は何度も続き、しばらくして止まった。
つんざくような断末魔の中、オリヴィアは足音が自分へ向かって来ていることに気がついた。オリヴィアは恐怖から身をよじる。しかしオリヴィアの力では、腕ごと巻かれたロープから逃れることはできない。
足音が真正面で止まった。オリヴィアは思わず目を強く瞑った。
しかし、痛みはこない。あろうことか、目を瞑っていてもわかる程の光量を浴びた。
麻袋を取られたのである。オリヴィアは恐る恐る、目を開けた。
「大丈夫?お姉さん」
子どもだった。それもオリヴィアよりも小さい。まだ働きにすら出ていないような、幼い少年。
「災難だったね、でももう大丈夫。今ロープ解くから」
少年はオリヴィアの背後に回って、ロープに指をかけた。あっという間に結び目が外れ、ロープが床に落ちる。
「ほら、立てる?」
少年はオリヴィアの目の前に来て、座り込んでいるオリヴィアに手を差し出した。
「え、えぇ…………大丈夫ですわ」
オリヴィアはその手を握った。少年が引っ張ってくれたおかげで、オリヴィアはふらつかづに立つことができた。
立ち上がった視点から見たものは、床に転がっている誘拐犯の面々。皆一様に苦悶の声を上げながら、涙を流している。オリヴィアは混乱した。
「あぁ、コレだよコレ」
少年は右手に持っていた霧吹きを上に上げて見せた。中身は赤色の透明な液体である。
「催涙スプレー。唐辛子の成分で作った液体でね。護身用に」
「と、唐辛子、ですか?」
「うん、唐辛子って割と安価だから」
オリヴィアは好奇心旺盛なお転婆娘である。新しい知識に貪欲で、しかし少々行き過ぎたそれは、国王や使用人を大いに困らせていた。つまり、とても催涙スプレーに興味が湧いた。
「それ、一体どういった物で!?」
「おおっと凄い食い付き…………気になるなら教えてあげるけど、とりあえずここから逃げようか。効き目は一過性だからさ」
そうして、オリヴィアは城からの助けを待たずして、誘拐犯から逃げ仰せた。
オリヴィアが誘拐された先は、王都の郊外の辺境の町だったらしい。オリヴィアが第二皇女ということに気づかれていないのが、その証拠だった。
捕らえられていた小屋を出て、数分歩いた場所の光景に、オリヴィアは目を疑った。
一言で言うなれば、ボロボロ。建物はあるものの、ところどころ歪んでおり、腐っている。通りを歩いている人は、子どもから老人まで、皆等しく痩せている。思えば、助けてくれた少年もかなり痩せている。歩くことにより移り変わる景色は、代わり映えがない。
町には全体的に、活気というものがなかった。オリヴィアは箱入り娘である。城から出ることなど滅多に許されず、いつも窓から王都を眺めていることしかできなかった。外の世界への憧れはあったものの、オリヴィアはその活気ある王都の人々の笑顔を、遠目で見るだけでも満足だった。
だから、このような町は見たことがなかった。オリヴィアは自分の認識の浅はかさを恥ずかしく思った。王都は国の一部分でしかなかったのだと、オリヴィアは思い知らされた。
「驚いた?」
少年は先導しながら、振り向いて言った。その表情は、笑顔だった。
「君って、どこかの貴族の令嬢とかだよね。この町は外との関わりがないから、あまり情報が入ってこなくてわからないんだ。有名な人とかだったらごめんね」
「…………いえ、大丈夫です。名乗るのが遅れて申し訳ございません、私はオリヴィア。オリヴィア=リステ…………いえ、ただのオリヴィアですわ」
オリヴィア=リステンブルスクと言いかけて、止めた。言ってしまえば、この国の王族だとバレてしまう。すぐに城に連れ戻されてしまうだろう。そうすれば、この町のことを何も知らないままになってしまう。オリヴィアは王族として、それだけは駄目だと思った。民の現状から目を背けて、なにが王族だ。それに、催涙スプレーというものの詳細も聞けていない。
「オリヴィアか、いい名前だね」
少年は、オリヴィアが言い淀んだことについて、何も聞かなかった。オリヴィアは胸を撫でおろした。
「僕のことは先生とでも呼んでよ。皆からはそう呼ばれてるから」
「先生、ですか?」
「うん」
「それで、その…………」
オリヴィアは再び言い淀んで、浮かない顔で言った。
「驚いた、とは?」
「この町について」
先生は簡素に答えた。
「ご令嬢なら、住んでるのは王都だよね。だから驚くかなって、この寂れた町に」
「……………………………………、」
オリヴィアは、何も言えなかった。
「深く考えなくてもいいのに。ごめんね、ちょっと意地悪だったかな」
「…………どこに、向かっているのですか?」
「教会。もう潰れてるけどね。あと少ししたら見えてくるよ…………ほら」
先生は立ち止まって振り返った。そして斜め前に向けて指を指した。
オリヴィアは先生が示した方向を見た。そこにはくすんだ色の屋根の教会が。ところどころ屋根に穴が空いている。
町の通りから少し逸れた道を行き、教会に到着した。扉は完全に閉まっておらず、風に揺られてギコギコと音を鳴らしている。
「中へどうぞ、って言っても、僕の持ち物じゃないからご自由になんだけど」
「お邪魔いたしますわ…………」
オリヴィアは教会に足を踏み入れた。歩くたびに、床板がギィ、と音を鳴らす。教会の中は薄暗くて、ステンドグラスと半開きの扉から差し込む光だけが光源だ。古びていてるのに埃っぽくなく、オリヴィアが咳き込むこともなかった。
「どこでもいいよ、座って」
「はい、失礼いたします…………」
オリヴィアは一番前の席の左端に座った。木でできた椅子の冷たさが直に伝わってくる。
「ごめんね、冷たいよね。下に敷く毛布もなくてさ」
「い、いえ!大丈夫です、お心遣い痛み入りますわ……」
先生はオリヴィアの隣に座った。そして足を組んで、組んだ足の上に肘を載せて、頬杖をついた。
「催涙スプレーだったよね」
「!はい、そうですわ」
オリヴィアは目を輝かせた。今までの傷心したような表情が嘘のように明るい。先生は苦笑した。
「あはは、凄い変わりようだね」
「あ、その…………ごめんなさい」
「いいのいいの、好奇心旺盛なのはいい事だからね」
オリヴィアは先生の落ち着いた雰囲気に、年上と話しているように錯覚してしまう。それと同時に、あることに思い至ってしまった。
「この町では、幼い子どもも先生くらいしっかりしないと、生きてはいけないのですか……?」
その思いつきが、意図せず口に出てしまった。オリヴィアはあっ、と口を塞ぐ。
先生はきょとんとして、いきなり笑い出した。
「ふっ、あははははは!」
「え?え?」
混乱するオリヴィアをよそに、先生は笑い続ける。オリヴィアはなんだか頭に来て、頬を膨らませた。
「何ですの!?」
「あはは、ははっ、うん、ごめん、ごめんねっ…………ふはっ、」
「もう!怒りますわよ!」
オリヴィアは両手を強く握りしめた。先生はごめんと手を前にかざしながら言う。
「まさか、他の子はもっとお茶目で元気だよ。僕が特別なだけ」
「特別?」
「僕、異世界転生者なんだ」
オリヴィアの頭は疑問符で埋め尽くされた。言葉の意味を考えれば考えるほど、疑問符が飛び交い衝突事故を起こす。
「ス、スペースキャット……ふふっ」
「な、なんだかよくわかりませんが頭にきますわ。覚悟してくださいまし」
オリヴィアは拳を握り直した。
「ごめんごめん、いや可愛くって」
「かわっ…………!?ふ、ふざけないでください!」
「ふざけてないんだけどなぁ…………で、催涙スプレーはいいの?」
「あ」
オリヴィアは先生に話を戻されて、拳を解いた。そして大人しく両膝の上に重ねて置いた。
「そうです、催涙スプレーの話です」
オリヴィアは至って平然を装って言った。しかし口角が上がるのを我慢できない。
「唐辛子って、辛いよね」
「えぇ、私は大嫌いです」
「そんな辛いのが目に入ったら、どうなる?」
「…………とても、痛いです」
「だよね」
先生は苦笑した。
「催涙スプレーはそんな唐辛子を使って作るんだ。液体だから霧吹きで吹きかけられる。催涙スプレーを目に浴びると、目に激痛が走って涙が止まらなくなるんだ」
「…………そんなのを浴びたらひとたまりもありませんわ」
「人の命を奪うこともないから、僕は重宝してる。この町治安悪いからさ」
オリヴィアは目を輝かせて、先生を見た。
「博識でいらっしゃるのですね、先生は」
「あー…………まぁ、確かに。雑学の知識は詳しいと思うけど……」
「もしよろしければ、今後も授業をしていただけませんか?」
「じ、授業?」
「はい!」
オリヴィアは立ち上がって、頭を下げた。
「え、えぇ!?」
先生も慌てて立ち上がり、手をあたふたさせる。
「私、外の世界が知りたいのです。この町のことについても。ですから教えてはくださいませんか!」
勢いに気圧されたのか、先生は目線をそらした。
「えっと……でも、君はご令嬢だろう?外で、しかも僕みたいなのに会っても大丈夫なの?」
「大丈夫です、なんとかしますわ。私の行動力を侮ってもらっては困ります」
「で、でもここ王都から結構距離あるよ?」
「馬車を捕まえますわ」
「………………………………、」
ここで、先生は何も言えなくなった。先生は苦笑しながら腕を組んで、そうだなぁと口を開いた。
「1年間限定なら、いいよ」
オリヴィアは勢いよく頭を上げて、
「よろしくお願いしますわ!!」
そう笑顔で言ったのだ。
「そうですわ、どうやって帰りましょう……」
あれからしばらく、色々と雑学を教えてもらった。どれもオリヴィアにとっては新鮮で、好奇心の矛先を向けるには十分すぎるものだった。だからこそ、時間を忘れてしまった。
もう外は暗い。教会の中は先生がつけてくれた蝋燭の炎と、ステンドグラスからの月明かりはあるが薄暗い。
オリヴィアは途方に暮れた。この町がどこにあるのか全くわからない。王都とは距離があるため、歩いて帰ることもできない。オリヴィアはため息をついた。
「…………この時間なら、そうだな。オリヴィアちゃん」
先生が立ち上がった。
「先生?」
「毎日この時間に、王都近くの町からお医者様が問診に来るんだ。馬車で来てるから、乗せていってくれるかも」
「本当ですの!?」
オリヴィアは立ち上がって、扉に向かって歩き出した。
「さぁ先生、案内してくださいまし!」
「うん、わかった。先導しよう」
先生がオリヴィアの先に行く。オリヴィアはてくてくと先生のあとをついていった。
教会を出て、夜道を歩く。整備されていない道はガタガタで、オリヴィアは躓きそうになった。
「大丈夫?夜道は暗いから気をつけて、この町は灯りなんてないから」
「は、はい…………!」
「…………………………うん」
先生は少し考えてから、オリヴィアの右手を握った。
「えっ…………?」
「歩き慣れてないと危ないから、手を繋ごう」
オリヴィアは頬を赤くした。心臓がバクバクとして、爆発しそうだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
俯きながら言ったオリヴィアに、先生は微笑んで言った。
4月4日 くもり
今日はとても素敵な出会いがありました。拐われて怖かったですが、素敵な男の子が助けてくれたのです。
男の子は先生と名乗りました。ですから私も先生とお呼びすることにしました。年下の子に先生は少しだけ恥ずかしいです。
先生は博識です。先生といると、私の尽きない好奇心が満たされます。ですから今後も授業をしていただけることになりました。どうやって城を抜け出しましょう、新しく入ったメイドのあの子に頼んでみましょうか。今から楽しみです。
他にも、町のことを知りました。私は王都のことだけにしか目を向けず、苦しんでいる民たちを知らなかったのです。私は自分が愚かで仕方がありません。先生に、あの町のことももっと詳しく聞いてみましょう。私が隣国に嫁ぐまでに、あの現状を変えるのです。王族としての責務を果たさなければ。
それにしても、何故先生は1年間限定とおっしゃったのでしょうか。確かに私は再来年に嫁いでしまいますが、あと2年間は猶予があるのです。私を王都まで送ってくださったお医者様はとても優しい方でした。腕の良い優秀なお医者様であると、先生に教えてもらいました。お医者様の元に辿り着いたとき、先生とお医者様がなにか私に内緒で話をしていたようですが、一体何を話されていたのでしょうか。
今日は本当に楽しかったです、早く次の授業を受けたいです。
応援ありがとうございます!
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