六華 snow crystal 5

なごみ

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第2章

七海との出会い

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**慎也**


“ お願い、慎ちゃん、行かないで!”


そう叫んだ沙織の声が、頭の中でこだまする。


迷いを振り切るようにマンションを飛び出した。


本当に後悔はしないだろうか。


泣きじゃくりながら沙織は、こんな僕を引き止めてくれたというのに。


必要としてくれるのはわかっている。


身寄りも友人もない沙織にとって、僕は保険のようなものだから。


たとえばパニックを起こしてしまったり、体調を崩したりしたときのための。


旅行や外食をするにしても、一人より二人のほうが楽しい。


そんなとき、友人のいない沙織は、僕がいてくれるとなにかと便利だったはずだ。


僕は沙織にとって、そんな便利屋みたいなものだった。


たとえ代用品だろうと便利屋だろうと、こんな僕を必要としてくれるなら、それでもいいと思っていた。


沙織のそばにいられるだけで幸せだった。


たとえそこに、恋愛という感情がなかったとしても。



だけど、まさかあんな風に佐野さんの前で、あからさまに本心を聞かされるとは思わなかった。



僕にだって、こんな僕にだってプライドはある。



佐野さんに厄介になっている上に、変に気まで遣われて、この先一緒に仕事をするなんて……。



佐野さんが松田さんと再婚するなら、沙織は諦めるしかないのだし、気の合う僕たちはきっといい夫婦になれると思っていた。


だけど、沙織は少しも佐野さんのことを忘れてなくて、昨日そのことをまざまざと思い知らされた。


佐野さんは本当に松田さんと結婚をするのだろうか。


もしかして、佐野さんもまだ沙織のことが好きなのではないのだろうか。





コンビニに車を停め、マンションから運び出した荷物を実家宛に送った。


全てを運び出せたわけでは無いけれど、必要最低限のものだけでいい。


あとは沙織が適当に処分してくれるだろう。




佐野さんのアパートにはとても行く気になれず、大学時代の友人にLINEを入れた。


昨日、事務長に辞表を提出し、出来るだけ早く退職させて欲しい旨を伝えた。


後任が見つかり次第ということだったので、大学時代の友人、金谷のことを思い出した。


三ヶ月ほど前に会ったとき、金谷は失業中だった。


今もまだ失業中だろうか。


放射線技師の求人を探していた金谷に引き継いでもらえたら、事は早くすむ。


居酒屋でバイトをしていると言っていたから、仕事なら今夜は会えないかも知れない。


金谷からすぐに返事が来て、やはり今日はこれから仕事だと言う。


技師の求人のことと、引き継ぎが終わるまでの間、泊めてもらいたいことを話すと、すぐにOKの返事がもらえた。



佐野さんに有給を使って休みたいと伝えたら、快く承知してくれた。少し忙しい思いをさせるけど、夏場は冬より急患は少ないし、面倒な検査も入ってないと思う。


あんなことがあった後では、佐野さんだって一緒に仕事はやりにくいに違いない。


あと三十分ほどでバイト先へ向かうと言うので、金谷のアパートまで急いだ。


アパートそばの二十四時間パーキングに車を停めてから、慌てて行ったら金谷は外に出て待っていた。


「おまえ、おせぇーよ!  遅刻するじゃねぇか」


うすいピンク色に髪を染めている金谷は、すらりとした塩顔のイケメンだ。


失業中なのに、身なりにはかなりカネをかけているように見える。


今風のコーディネートで、センスは悪くないと思うけど。


見かけほどチャラい男ではないのに、ゴテゴテに飾りすぎて損をしているような気がする。


ファションの好みは人それぞれだから仕方がないのかもしれない。


だけど、ピンク髪の技師はありえないな。


そんな見かけだからなのか、金谷が今まで付き合ってきた彼女というのも、やはりどこか軽薄さをまとったような、危うい感じの娘が多かった。



「ごめん、駐車場がないこと忘れてて、アパート前まで来てから思い出したものだから」


「じゃあ、これアパートの鍵、話は後でな」


「うん、突然、悪いな」


金谷は鍵を渡すと、徒歩十分の場所にあるという居酒屋へ慌てて駆けていった。


二階建てアパートの、入口の引き戸を開け、階段を昇る。


205号室のドアを開けた途端、生ゴミやらなんやらの匂いが鼻をついた。


金谷の部屋は、これぞ独身の男部屋と言うべき見本のような乱雑ぶりだ。


以前にも何度か泊めてもらったことはあるから、さほど驚きもしない。


テレビでたまに目にするゴミ屋敷よりはマシだけれど。


夏場のせいもあってか、キッチンやゴミ箱のまわりに、コバエが飛びかっていた。


コンビニで荷物を出したついでに、菓子パンを買っておいて良かった。


食欲はさほどなく、食べなくてもいいくらいだけれど。


テレビを見ながら寂しくクリームパンを食べていたら、なぜかガチャリと鍵のまわる音がした。



えっ、だ、誰だよ ⁉︎



玄関ドアが開いて、金色の髪をしたツインテールの女が入ってきた。
 


「あれっ、こんばんは~  誰もいないと思ってたんだけど、……まぁ、いっか」


コンビニの袋を下げた彼女はさほど驚くこともなく、厚底の白いサンダルを脱いだ。



まぁ、いっかって、、


よくないだろう。



肩ひものタンクトップに、超みじかいデニムのパンツをはいている彼女は、肌の露出が半端ない。


襲いたくなるとかではないけれど、でも、やっぱり一緒にいたらマズイだろ。


「あ、あの、金谷の彼女なのかな?  すみません。じゃあ、僕はいま出ますから」


慌てて、数日分の着替えが入ったリュックを肩にかけた。



「えーっ、そんなに急いで出て行かないでよ。私が追い出すみたいじゃない」


「別に僕は大丈夫なので、、気にしないで」


「気にするわよ。お願いだからいてよ。ねぇ、いいでしょう?」


上目遣いに彼女は悲しげな顔をしてみせた。


「僕がよくても、金谷が怒るはずだよ。だから、、」


「怒らないわよ。だって私が来ることは知ってるんだもの、全然平気よ。そんなに心配なら翔ちゃんに聞いてみるからさ」


彼女はそう言ってスマホをバッグから取り出し、耳に当てた。



「あっ、翔ちゃん、私よ。今、アパートに来てるんだけど、お友達がね、私が来たから遠慮して帰るって言うの。え?  忙しいのはわかってるわよ。ねぇ、追い出すみたいで嫌なのよ、なんとか言ってあげて。だから、、ちょっと待ってよ、翔ちゃんが言ってくれないと信じないってば、、あー、もう、切れちゃった」


仕事中に電話なんかできるわけないだろ。



「大丈夫よ。ダメって言ってなかったもの。ほら、リュックなんか置いてったら」


彼女は僕の肩からリュックを外して、下へおろした。



ーー本当にいいのだろうか。


僕もネットカフェには泊まりたくないけれど。



「私は七海《ななみ》って言うの、あなたは?」


「慎也です。橋本慎也」


「ふーん、いい名前だね、慎ちゃん!」


僕が思わずのけぞってしまうほど、七海さんは顔を近づけて微笑んだ。


見た目どおりの、明るくあけっぴろげな性格。


いわゆる、学業偏差値は低いけれど、スクールカーストは高いというタイプなのだろう。


安物の甘ったるいパルファムの香り。




「ねぇ、突っ立ってないで座ったら。テレビ見ながら一緒にポテチ食べよう。今コーラ入れるね」


リモコンをつかんで、僕が見ていたニュース番組からバラエティに変更した。


気遣いのなさが、逆に疲れないということもある。


僕も別にバラエティが嫌いなわけでもないので、特に不快感は持たなかった。


我が家のように勝手知ったる七海さんは、キッチンの棚から二つのグラス出してコーラを注いだ。


ちょっとケバいけれど、華奢でなかなかの美人だ。


色白だからか、プラチナブロンドの髪にピンクメイクが良く似合っていた。


「はい、慎ちゃんの」


七海さんはローテーブルに、コーラの入ったグラスを置いて、ソファに腰掛けていた僕の隣に座った。



タンクトップの胸元から、ぷっくりとした胸の谷間が視界に入る。


華奢とは言っても、組んだ足の太ももはムッチリとして生々しい。


彼女と普通に話をしたいと思っても、目のやり場に困り、うつむく。


七海さんは緊張している僕をいたぶりたいのか、ジッと見つめて楽しんでいるように感じられた。



「フフフッ、ねぇ、慎ちゃんには彼女いないの?」


どう見ても僕より年下の七海さんに、酷くおちょくられているようで、気分が良くなかった。



「ぼ、、僕はもう結婚している」


少し自慢げに言ってはみたけれど……。



「えーーっ!  マジで?  嘘でしょう ⁉︎」


大きな目を見開いて、ひどく大袈裟に驚いた。



「本当だよ。まだ二ヶ月しか経ってないけど……。」


「ふーん、じゃあ、まだ新婚さんなのね、意外だなぁ。とっても純情そうだから、童貞さんなのかと思っちゃったわ。ウフフッ」



もうすぐ離婚してしまうとは、とても言えない。


「ねぇ、浮気しない?」


七海さんはさっきと同じ悪戯っぽい目で僕をみつめた。


「な、なに言ってるんだよ、、」


そして、固まって動けなくなっている僕の首に腕を回した。


「ねぇ、キスして」


そう言って目を閉じ、唇を突き出した。





「やめろよっ!  金谷を裏切るのか?  君は男なら誰でもいいのか!」


いくら色っぽい美人でも、こんな女は嫌いだ。


「……ごめんね」


素直に謝ると彼女は、ひどく悲しげにうつむいた。


こんな風に謝られると、なんとなく自分の方が悪いことをしたような気がして、落ち着かなくなる。



「金谷とケンカでもしたのかい?」


取り繕うかのように彼女に同情を示した。


「……ううん、私たちはしてないよ。慎ちゃんは奥さんとケンカしたの?」


「………」


なにも答えられずにうつむく。


「そっか、やっぱりケンカしちゃったんだ。それで追い出されて翔ちゃんのアパートに転がり込んだってわけなのね。クスッ、浮気もしない旦那様なのに、奥さんはなにが気に入らないんだろ? あーあ、いいなぁ、七海も早く結婚したいなぁ」


そう言った七海さんの目から、なぜか涙が溢れた。


「あ、、も、もしかしたら、結婚できるかもしれないよ。金谷はもうすぐ放射線技師に戻れるから。正社員になれたら、結婚しても大丈夫だろう」


七海さんを少しでも励ますつもりで、そう言ってみたけれど。


「そういう問題じゃないの。私たちそんな関係じゃないもの」


「え?  じゃあ、どういう関係なんだい?」


「どういうって、、……わたしはね、単なるセフレなの。翔ちゃんにはちゃんと好きな人がいるんだよ」


「……セフレって、、どうして?  知っててどうしてそんなことしてるんだい? 」


「だって……だって、好きだもの、翔ちゃんが。……でもね、時々とっても憎くてたまらなくなるの。殺したいって思うくらいね」


七海さんは鼻をグスグスさせながら、ポロポロ涙をこぼした。



彼女ではなかったのか。


ただのセフレだから、僕が泊まっても平気というわけか?



金谷のやり方はひどい、あんまりだ。


「七海さん、、なんて言っていいのわからないけど、君は金谷なんかにはもったいないくらい綺麗でステキな女の子だよ。だから、もっと自分を大切にした方がいいよ。これからいくらだっていい男が現れるから」


「現れないもの、、七海の前には絶対に現れてくれないよ。いつだって遊ばれておしまいなの。そういう女にしか見てもらえないんだもの」


その確信は一体どこから来るのか?


「そんなことないって、君がもっと自分を大切にすればいいんだよ! そんな風に自分を過小評価するなよ」


どんな環境で育てられたのだろう。


彼女自身が自分を貶めていることに、少しも気づいていない。


「……ありがとう、慎ちゃん。わたし、今日はもう家に帰る。楽しくないことばっかり言ってごめんね。じゃあ、幸せになってね」


七海は涙をぬぐって小さなバッグを肩にさげると、白いサンダルに足をいれた。


僕たちの境遇はなんとなく似ていた。


愛する人に愛されなくて、


ものすごく惨めで、


ひどく打ちひしがれていた。


「待って、あ、あの、気休めじゃないんだ、僕が言いたいのは……」


「慎ちゃんは…優しいね、七海、慎ちゃんみたいな人を好きになればよかった」


七海は振り向くと少し無理をして微笑んだ。


「帰らないでくれないか、頼む、、頼むよ、ずっと一緒にいてくれ」


ドアのノブに手をかけた七海を、思わず後ろから抱き止めていた。











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