六華 snow crystal 5

なごみ

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第2章

突然の別れ

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*沙織*


明け方、泣きじゃくりながら目を覚ました。


ひどく怖ろしい夢を見た。


置き去りにされて、誰もいない薄暗い部屋で泣いている夢だった。



最悪の気分で目覚める。



あれはなん歳の頃の私だろう?



実際、幼少の頃からいつもひとりで留守番をさせられていた。


誰もいないリビングで、わんわん泣きながら、いつも母の帰りを待っていた。


不安で、怖くて、淋しくて、なのにどんなに泣いても誰も帰って来てはくれなかった。


だんだんと外も暗くなり、ベッドに潜り込んで震えているうちに、いつのまにか泣き疲れて眠っていた。


晩ご飯の匂いとテレビの音で目を覚まし、リビングへ行くと、食卓テーブルで母と年の離れた兄が食事をしていた。


「沙織ったら変な時間に昼寝なんかして。また夜寝られないなんて騒がないでちょうだいよ!」


不機嫌にお味噌汁の椀をトン! と置いて、母は目を吊り上げた。


この母が私に、一度でも優しい笑顔を向けてくれたことがあっただろうか。



小学二年のとき、実の母でないことを知った。


特にショックも受けず、逆に納得して安心したような記憶がある。


ありのままを受け入れてくれた父の存在がなかったら、私はもっと歪んでいたのかも知れない。






酔っ払って、ラグの上で寝ていたらしい。


タオルケットは慎ちゃんが掛けてくれたのだろうか。


こめかみの辺りがズキズキと痛んだ。


かなり酔ってはいたけれど、慎ちゃんが来てくれたことは覚えている。



慎ちゃん、、慎ちゃん、やっと帰ってきてくれたのね、そう思って安心した。



だけど、まだ素直になれなくて、かなりきついことを言ってしまったような気がする。


だって慎ちゃんはこんなに私を泣かせたんだもの。少しぐらい仕返しをしないと気持ちが収まらないでしょ。



何を言ったかまではよく覚えていないけれど、佐野さんが来ていたから、慎ちゃんにヤキモチを妬かせたかった。



慎ちゃんはどこ?



もしかして怒ってしまったの?



本気にした?



目をこすって時計を見ると、明け方の4時過ぎだった。



……今日は仕事だから、もう少しだけ寝ておこう。






二度寝をすると眠りが浅いせいか、いつも夢を見る。


どんな夢だったかは、目覚めた瞬間にほとんど忘れてしまうけれど、今朝の夢はしっかり記憶に残った。


夢の中で田中莉子が、勝ち誇った笑みを浮かべてこう言った。


「先生とね、結婚することになったんだ。ほらね、私はあんたとは違うんだよ!」


夢の中のわたしはかなりのショックを受け、返す言葉も見つけられずに、悔しい気持ちでいっぱいだった。


目覚めると、うっすらと涙がにじんでいた。



立て続けに嫌な夢ばかり見て、気持ちが塞ぐ。


田中莉子なんて、もう何年も会ってないというのに。



今頃どうしているんだろう。


まさか、未だに松田先生の愛人やってないわよね?






夢の中では得意満面の莉子だったけれど、現実はそうではなかった。


あの頃、私と先生の関係がたった二ヶ月で終わってしまったことに、莉子はかなり気をよくしていたけれど。


同じナースステーションにいても、いつもなら無視して鼻も引っかけない莉子が、珍しく点滴をつめていた私の隣に来た。


「ねぇ、別れたんだって?  飽きられるのメッチャ早かったねぇ~  まぁ、そんなものだろうとは思ってたけどさ。二ヶ月も続いてたほうが奇跡だわ」



莉子はそんな嫌味を言うために、わざわざそばまでやって来て、侮蔑的な笑みを浮かべた。


だけど私には莉子のそんな嫌味にも、ちゃんと対抗できるだけの準備が出来ていた。


「飽きられたんじゃなくて、私のほうが飽きちゃったの。あんな妻子持ちのどこが良くていつまでも執着してるんだか。ほんとにバカみたい」



「先生にフラれた女はみんな同じこと言うんだよね、私のほうが先に飽きちゃったって。
だけど強がって言ってるのがさ、みえみえなんだよね、可愛そう。うはははっ!」



人の気持ちを見透かしたかのように、莉子は気持ち良さげに笑った。


「強がりなんかじゃないわよ。私、秋に結婚するんだもの。嘘じゃないわよ。やっぱり女の幸せは結婚かなぁって思っちゃってさ。いつまでも誰かの愛人だなんて惨めすぎでしょ。そう思わない?」


負けず嫌いの莉子の顔が引きつった。


「あんたなんかと結婚する男なんて、たかが知れてるわ。無能な男と結婚する女なんて、少しも羨ましくないし」


「無能じゃないわ。○○証券に勤めてる超エリートよ。今度、本社の東京に戻らないといけないから、ついて来てほしいって言われたの。なんか、都会住むのもいいなぁって思っちゃって、ウフフッ」


すっかり気分を害した莉子の、不満げな顔を見て嬉しくなる。




「世の中にはもの好きがいるね。あんたにプロポーズするなんて、この世で最初で最後の変わり者だから、せいぜい大事にすれば」


減らず口をたたいて立ち去ろうとした莉子にとどめを刺す。


「ねぇ、松田先生に新しい愛人ができたの知ってた?」


ふり向いた莉子は、嘲るような顔を向けた。


「あのさ、なんでも思いつきで言うの、もうやめたら? 誰もあんたの言うことなんか信じないから。超エリートだかなんだか知らないけど、早くそのクズ男と結婚して東京に行っちゃいな!」


「クズ男に騙されてるのはあなたの方じゃない。フフフッ、クズ男の次のターゲットはね、平川彩矢なのよ。もうびっくりしちゃったわ。まさかあんな真面目で大人しそうな人がねぇ。そういえばあなた、彼女と仲が良かったんじゃない?」



「彩矢が?  ……嘘よ、そんなこと!」


「私だって信じられなかったわ。だけどこの間、夜勤の日に見ちゃったの。職員通用口へ向かう廊下で抱き合ってたところ。あの娘は純情そうに見えて、とっても大胆よ。先生がメロメロになるのも無理ないわね」


「………」


ショックを受け、顔面蒼白になっている莉子を見て、少しだけ同情した。


私も莉子と同じショックを受けたから。



「先生なんかと付き合ってたら、ずっとそんなことの繰り返しよ。 いい加減に目を覚ましたらどう?  おばちゃんになってから慌てても、誰もお嫁にもらってなんかくれないわよ」


私の言葉はもう耳に届かないのか、莉子は言い返すこともなく、半信半疑のようすでうつむいていた。



あーあ、先生と仲のよい同僚をいっぺんに失っちゃうなんてね。



ーー平川彩矢もバカね。



ラーメン屋でわざわざ忠告してあげたのに。


あの娘もすぐに飽きられて捨てられるのがオチだわ。




***

あの時はそんな風に思って同情していたけれど。



まさか奥様が自殺して、松田先生があんなチンケな娘と再婚するなんて……。






朝食を食べる元気はなく、トマトジュースだけを飲んで出勤した。


二日酔いで頭が重い。


マンションを出ると、この間より少し涼やかな風を感じた、


明日からお盆のせいか、暑さも和らいできたように思う。


今年は父の初盆だから、お墓参りには行きたい。


慎ちゃんは一緒に行ってくれるかな?


まだ許せてはいないけど、慎ちゃんとは別れたくない。


あの美波って女と過去にどんなことがあったにせよ、慎ちゃんが未練など持っているはずはない。


佐野さんが言ってたように、あの女にハメられたに違いない。


許すも許さないもない。私は慎ちゃんがいないと、もう一人では生きていけない。



だから、戻ってきて。


いつか、そのうち、ちゃんと許すわよ。



ブロックしていたLINEを解除して、慎ちゃんにメッセージを送信した。


「やっぱり話を聞きたいから、今日は仕事が終わったら、駐車場で待っていて」







夜勤者に申し送りを終え、更衣室で着替えてから、駐車場に向かった。


車はなく、慎ちゃんもいなかった。


え?  まだ仕事終わってないの?


病院へ引き返し、放射線操作室のドアをノックして開けた。


「な、なんだ、沙織か。どうしたんだ?」


佐野さんも帰り支度をしていたようだったけれど、慎ちゃんはいなかった。


「慎ちゃん、もう帰っちゃった?」


「今日は有休を取るって休んだぞ。なにも聞いてないのか? 」


「聞いてないわよ。目が覚めたらもう居なかったもの」


いつになく佐野さんが、うろたえているように見えた。


「……もしかして、辞表を出したことも知らないのか?」


「えっ、なにそれ? どういうことよ!」


な、なに? 


一体なにがあったっていうの?


怒ったのがそんなにいけないことだったの?


「実家の函館に帰って、整骨院をやるって言ってたけど、本気かな?」


佐野さんまですっかり意気消沈したように言った。


「なんですって!  人になんの相談もなく、ひどいわ!」


寝耳に水とはこんなことを言うのだろう。


そんな話、今まで一度もしたことなどなかったのに。





「かなりメゲてたからな、俺のところにいつまでも居座るのもしんどかったんだろう。しかも昨日はおまえが酔っ払ってあんなこと言うし、、」


「なにを言ったっていうのよ?  慎ちゃんが私にしたことに比べたら、どうってことないじゃないの。私はたった一ヶ月で浮気をされたのよ!」


私にはあんなひどいことをしておきながら、自分は些細なことでむくれて、実家に帰ってしまうなんて。



そんなことは女がすることでしょう。



私には帰る実家もないのよ。



甘ったれている慎ちゃんに、心底腹が立った。



しかも、なんの相談もなく病院を辞めるなんて。



「橋本は浮気なんかしてないよ。ハメられたって言っただろう。もっと信じてやれよ!」


「同棲していた元カノに、百万円もプレゼントしていたのよ。その上、ベッドの下にシャツのボタンまで落として来るような人を信じろって言われてもね。佐野さんだって逆の立場なら絶対に信じないわよ」


そうよ、他人事だから信じろなんて簡単に言えるんだわ。



「……俺は信じるよ。橋本に裏切られたことってないからな。嘘はついたかもしれないけど、あいつは優しいからだろ。とにかく俺は信じる」


両親から愛情を注がれて育った人には、根本的に人を信頼する力があるのかも知れない。


放任されて、人間不信になった私とは違うんだわ。


「………。 私、昨日、酔っ払ってなんて言ってたの?  慎ちゃんが函館に帰っちゃったのはそのせい?」


「たぶんな。かなりヤバいこと言ってたから。……ショックだったろうな」


「なんて?  私なんて言ってた?」


「う、うん、、そもそもは俺が沙織を振ったからこんな事になったんだって。俺と別れたくなかったって………」


気まずそうに口を濁らせて、佐野さんはボソボソと言った。


「プッ、クスクスッ、、そんなこと言ったの?  だからってそんなに怒ることないでしょう。冗談に決まってるじゃない。慎ちゃんにヤキモチを妬かせたかったのよ。だって、あまりにも私が可哀想だもの」


「だけど橋本は四六時中、俺と一緒にいるんだぞ。立つ瀬がないだろう。少しは考えろよ!」


「そう?  私そんなにまずいこと言ったかな?」


「言ったよ!! 少しは自覚しろっ、笑ってる場合じゃないだろ!」


佐野さんに叱られて、少し事の重大さを感じ始めた。


それでもやっぱり慎ちゃんのほうが私の百倍も悪いわよ。


違う?


辞表は撤回できないのだろうか。


LINEに返事もくれないなんて、慎ちゃんひどすぎよ。






仕方なく、一人地下鉄に乗ってマンションに帰った。


玄関ドアをあけると、慎ちゃんお気に入りのナイキのシューズがあった。


あら、帰ってたんじゃない。


函館に行くなんて嘘だったのね。


リビングのドアをあけると、慎ちゃんは無言で段ボールに物を詰めていた。


「ちょっと、帰って来るなり、なんのマネよ!」


慎ちゃんは荷づくりの手を止めると、悲しげに顔をあげた。


「僕の荷物を取りに来たんだ。終わったらすぐに出て行くから」


「出て行くってどこによ?  本当にまたあの女と暮らすつもりなの?」


佐野さんが言ってたことが、少しも大袈裟じゃなかった事に気づく。


「美波さんとはそんな関係じゃないんだ。本当に世話になっただけだよ。だけど誤解をさせてしまった責任はあるから……」


うつむいて目を伏せた慎ちゃんは、私を見ようともしなかった。



「と、、とにかく勝手に荷作りなんてやめて頂戴。それから辞表を出したって本当なの?  どうして相談もしないでなんでも一人で決めるのよ!」


「ごめん、沙織には申し訳なかったと思ってる。僕は本当に頼りにならなくて、とんだ貧乏くじだったよね。離婚されても仕方がないと思ってるんだ」


なによ、一体どうしちゃったのよ、、


「慎ちゃん、私まだ怒ってるけど、離婚も別居もするつもりないわ。お願いだから荷作りなんてやめてよ!」


あまりの展開に涙が出て来た。


どうして私が慎ちゃんに縋って引き止めなきゃいけないのよっ。


反対でしょ!






「沙織、僕たち別れよう。残念だけど、そのほうがいいと思うんだ。佐野さんだって、松田さんと再婚できるかどうか、まだよくわからないみたいだし」


「それがどうだっていうの?  佐野さんが私たちとなんの関係があるのよ!」


慎ちゃんから離婚話を切り出されるなんて……。


あまりのショックで、もうボロボロに泣いていた。


「……僕は気づかないふりをしていたんだ。代用品にすぎなかったってことに」


なにそれ?


慎ちゃんはなにを言っているの?


段ボールをつかんで立ち上がった慎ちゃんは玄関に向かった。


「お願い、待ってよ、慎ちゃんったら!」


「傷つけてばかりでごめん。だけど僕はもう決めたから」


嘘よ、、嘘だ、こんなことってあり?


これって、悪夢の続きよね、、


「お願い、慎ちゃん、行かないで!!」


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