47 / 87
47. 心の鍵
しおりを挟む
少年が一度に食べる量はほんのわずかで、遅々として一向に量は減らずに焦れったいものだったが、リュカは甲斐甲斐しく食べさせてやった。食べてくれたことが嬉しくて、リュカは一方的に話しかけていた。反応はなかったが、全く気にならなかった。彼が咀嚼している間に自分の分を口の中にかきこむ。
順調に食べていたように見えたのだが、突然少年は胃の中のものを吐き出した。リュカはぎょっとしたが、すぐにしまったと思った。彼は長い間拷問を受けていた。満足な食事など与えられていたはずがない。むしろ苦しめるために飢餓状態を強いていたに違いない。委縮して弱った胃に急に食べ物を流しこめば、体が受けつけずに吐瀉してしまうのは、当然の反応だ。自分も来たばかりのころは、吐くまではいかずとも胃もたれしていたというのに、何故気づけなかったのか。
罪悪感に見舞われながらも、背中をさすって、大丈夫か?と声をかける。
「口の中、気持ち悪いよな?ほら、お茶」
茶飲みを口元にあてがって、茶を飲ませてやる。それからリュカは座卓の上のおしぼりで、汚れた口元や手を拭いてやった。
胃の中のものを全て吐き出してすっきりした様子の少年は、小さく安堵の息を吐いていた。だが、我に返り己の粗相に気がつくと、彼は真っ青になった。顔には明らかに恐怖の色が見え、体は震えている。色のない唇からは、聞き取れないほどのか細い声で、うわ言のように謝罪の言葉を呟いている。
「大丈夫。大丈夫だから。謝らなくていい」
「…で、も…僕、汚し…」
少年はすっかり怯え切っていた。きっと、拷問に耐え切れず粗相をする度に暴力を振るわれたのだろうとリュカは思った。だけど、ようやく言葉を発してくれて嬉しいとも思った。
「俺は、こんなことであんたのこと傷つけたりしない。だから安心してくれ。むしろ俺の方こそごめん。ペース早すぎたよな?食べてくれたのが嬉しいからって、浮かれすぎてた」
リュカの言葉に、少年は呆気に取られた。だが赤鬼の伴侶の少年は気がつかず、衣装箪笥から一着の着物を手に戻って来た。
「とりあえず、その恰好どうにかしよう。これ、俺のだけど少し大きめだから着れると思うんだ」
「い、いいよ…っこのままで…」
「何で?気持ち悪いだろ?ほら、脱いで脱いで」
リュカに押し切られ、少年は抵抗することも出来ずに彼に従った。吐瀉物にまみれた着物を強引に剥ぎ取られ、手を借りながら差し出された着物に袖を通す。
リュカは着替えを手伝いつつ、奴隷の手首につけられた枷がとても重いことに気がついた。逃げられないようにするためだろうが、これでは動かすこともままならない。枷の下の皮膚が赤黒く変色しているのが見えた。リュカは見ていないふりをして、吐瀉物を包むように脱がせた着物を結んだ。清潔なおしぼりで座卓の上も拭く。
「…ありが、とう…」
「全然!俺、ここに来る前は娼館の清掃夫やってたんだ。他人のゲロ片すの日常茶飯事だったから。最悪排泄物とかもあったからさ。ゲロはまだ全然マシなほう!」
「そうなんだ…えらいね」
少年は微かに口角を上げて微笑んだ。社交辞令かもしれないが、褒められて少しくすぐったい気持ちになる。
「あのさ…名前、何て言うんだ?俺、リュカ」
すぐに返答が返ってくるものと思っていたが、奴隷の少年は目を丸くしていた。それから視線を落とし、何かを考えこんでいるように見えた。
リュカはまた調子に乗ってしまったと、自分の発言を後悔した。普通に会話してくれているとは言え、彼の目から見れば自分も彼を拷問した鬼族の一味なのだ。突然慣れ合われても、何かあるのではないかと警戒するだろう。せっかく彼の緊張も警戒も少し解けた気がしていたのに。
「ごめんっ。言いたくなかったら、言わなくていいよ」
「違う、違うんだ。その…名前を聞かれることなんて、長いことなかったから。バトー様からはずっと犬って呼ばれていたし、恥ずかしい話だけど、自分の名前何だったかなって…。あ、そうだ…イズル。うん、僕の名前はイズルだ」
リュカ自身も母親から名前を与えられなかったが、自分で名前を決めた。娼館の奴等からどのように呼ばれようとも、自我を強く持ち、リュカという個を形成した。だが、この少年は逆で、名はあるのに個として認識されずに扱われてきたのだ。どれほどの長い期間、虐げられていたのか。
やはり人間は、生物というより物としての認識が強いのだと改めて思い知らされる。
「…俺のこと、覚えてる?前に会ったことあるんだけど」
「うん、覚えているよ。一緒にいた鬼は…君のご主人?」
「えっ…あ、えと、うん、そんな感じ…」
主人ではなく本当は旦那だ、と口にするのは何故だか躊躇われた。
「良かった」
「え?」
「ほら…人間って奴隷として使役されるのが当たり前の種族でしょう?僕の知る限りでも酷い扱いを受けてる子はいっぱいいた。でも、リュカくんは大事にされてるのがすごくわかる。君のご主人はきっと良い人なんだね」
微笑むイズルに、リュカは小さく頷いた。自分が褒められたわけではないのに、照れくさい。だがリュカは少年の反応に疑問を持った。自分は酷い扱いをバトーから受けていたのに、一方で人間としては好待遇を受けているリュカに対して妬みや嫉みはないのだろうか。闇オークションで会ったステラは、自分に対して敵対心むき出しで、立場を譲れと嫉妬にまみれていた。
「僕、嬉しい」
「嬉しいって…何で!?イズルは、自分はバトーに酷いことされてたのに!同じ人間なのに違う扱いを受けてる奴、憎くないのか!?」
「憎くなんかないよ。嬉しいのも本当。異形の人達皆が皆差別的じゃないって分かって、嬉しいんだ。今後もっとそういう考えの人たちが増えるんじゃないかって希望がある。…確かに、僕は主人に恵まれなかったかもしれないけど、それでも生かしてはもらえてた。僕よりもっとひどい扱いを受けている子をうんと見てきた。僕はまだマシな方だよ」
リュカは衝撃を受けて、ひゅっと短く息を呑んだ。彼の感覚がねじ曲がって麻痺してしまう程、どれほど悲惨な光景を目にしてきたのか、想像を絶する。バトーの彼への仕打ちはあの日見た限りでも凄惨なものだった。犬呼ばわりされ、四肢も拘束され、潰れた片眼もきっと奴の仕業に違いない。それなのに、捨てられた今でも彼はバトーの肩を持つような発言をする。
リュカは、どうにかしてイズルを救いたいと思った。全てを諦めたような、寂しい笑みを浮かべさせるのではなく、心からの笑顔を見たい。彼を死なせたくない。どうにかして、幸せにしたい。イズルは、幸せになるべき人間だ。
「イズルっ!何でもいいから、バトーのことを教えて!」
「リュカくん…?」
「このままじゃ、殺されちまう!でも、少しでもバトーの情報があれば、生かしてもらえる!俺、蘇芳に…自分の主人に頼む!イズルをここに住まわせてくれって。蘇芳は意地悪だし乱暴だけど、根は良い奴なんだ!従者のセキシも、すごく優しくて料理が上手で…二人とも、人間だからって絶対差別なんかしないんだ!他にも、九鬼丸っていう大きな鬼とか沙楼羅さんって烏天狗がいて、皆絶対イズルと仲良くなれるっ」
苦悶に顔を歪め、説き伏せようと必死なリュカの姿に少年は目を丸くした。
「…でも、僕は本当に何も知らなくて。鬼の一族の皆が欲するような有益な情報は提供できないと思うんだ」
「有益じゃなくてもいいんだよ!何でもいいんだ!イズルにとっては何でもないことでも、見方を変えたら役に立つ情報に化けるかもしれねえ!だから、頼む!イズル…お願いだ…」
イズルに縋りつき、リュカは懇願した。感情が高ぶって、涙がこぼれる。
腕を掴む手からは震えが伝わっていた。鬼の少年が自分のことを憐れんでくれているのが分かって、イズルは彼に愛おしさを抱いた。自分のためにこんなにも必死になってくれたのは、彼が初めてだった。同じ人間同士でも、自分の身を守るので精一杯で他人のことを気遣う余裕などないのが普通だ。
正直に言って、自分の人生はここまでと思っていた。辛く悲しくはあったが、これでも他の奴隷よりは長く生きていたし、短命なのは人間に生まれた宿命と諦めと共に受け入れていた。だが、己のことのようにイズルを心配し、涙まで流してくれる少年に心を乱される。もう少し、運命に抗ってみてもいいかもしれない、と思った。
「…わかった」
イズルの口から漏れた承諾の言葉に、リュカは涙にまみれた顔を上げた。少年も今にも泣きそうな顔に笑みを浮かべている
「僕が知っていることを全て話すよ」
「本当か!?」
「…役に立てる気はしないけど…、うん、話す」
「ありがとう!イズル、本当にありがとう!」
イズルが前向きな選択をしてくれたことが、心底嬉しい。と同時に、絶対に彼を守りたいという気持ちがますます強くなる。
「…ううん、僕の方こそリュカくんに感謝してる。ありがとう」
奴隷の少年が感謝の言葉を紡いだ瞬間、彼の体は膨張し、爆発した。座した状態のまま、胸の部分の肉が弾けて骨が剥き出しになっていた。
一瞬、リュカは何が起こったのか理解できなかった。まるで時が止まってしまったかのように、何も考えられず、何も聞こえなかった。リュカは目を見開いたまま、頬に触れた。生温かい何かで指が滑る。視線を落とせば、それは血だった。真っ赤な鮮血。手だけではなく、全身血まみれになっていた。
リュカは膝の上に乗った塊のようなものを手に取った。何かと思って目の高さまで掲げてみたが、臓物だった。
「…な、に…これ…」
妙な音がし始めた。聞く者を不安にさせ、恐怖を感じさせるような醜い軋んだ音だ。肉が弾けて露になったイズルの肋骨が中央部分から一本一本開いていく。何とも言葉にできないおぞましい光景だった。開いた肋骨の中から、天に向かって腕が突き出る。
「…イ、ズル…イズル…っ」
腕の主はイズルだ。きっとイズルに違いない。助けなきゃ。中から出してあげなきゃ。縋るような気持ちで、リュカはにじり寄る。
何かを探るような動きをしていた手に胸襟を掴まれ、強い力で引っ張られた。イズルの体の中を覗きこむ形になり、リュカは目を見開いた。
「よォ、この時を待ってたぜ。血みどろ羅刹のお稚児ちゃん」
下卑た笑みを浮かべたバトーだった。
************
階下で待機していた蘇芳は、壁に掛けられた時計を確認すると腰を上げた。
「そろそろ一時間経つな。上に行く」
「あ、もうそんな時間か。あっという間~。人間ちゃん、奴隷から何か引き出せたかな」
「期待はできまい。拷問でも頑として口を割ろうとしなかったのだ」
「そうかな~いい案だと思ったんだけど」
赤鬼の後ろに、青鬼と黄鬼が続く。お気楽そうな琥珀は、頭の後ろで両手を組んでいる。その時、セキシが慌てた様子で部屋に入ってきた。後ろに誰かを伴っている。
「伝令です!號斑族より宣戦布告が届きました!」
寝耳に水の出来事に、その場にいた者は床に足を縫い付けられてしまったかのように、目を見開いたまま動けなかった。いち早く動いたのは蘇芳だった。舌打ちを漏らし、階段を駆け上がる。
「リュカ!」
目の前に広がる光景は、彼の予想をはるかに上回るものだった。肋骨が開いた状態で絶命している奴隷の少年に、彼の体から突き出たバトーの頭と腕。そして、バトーに捕まりながらも逃げようと抵抗するリュカ。
「蘇芳っ!」
全身返り血まみれの少年が赤鬼を視認する。三白眼の茶色い瞳は困惑に揺れ、見るからに怯えていた。状況を理解できず立ち尽くす蘇芳だったが、名を呼ばれ、体が勝手に動いた。
「チィッ。手間かけさせンじゃねェ、よッ!」
バトーはリュカの鳩尾に拳を叩きこんだ。腹部に強い衝撃を受けた少年は途端に意識を失った。ぐったりとして動かなくなった体を、バトーが奴隷の少年の体の中へと引きずりこむ。蘇芳はリュカの手を掴んだが、血で滑ってしまい、すっぽ抜けてしまった。
「返せッ!」
「やっぱ相当、このガキが大事なんだな。それよか、戦争だ。アンタとの本気の殺し合い、楽しみだなァ」
「…出て来いよ。今すぐ殺してやる…ッ!」
「やなこった。観衆がいねえとつまらねえだろ?じゃあな。せいぜい首洗って待ってろよ」
「バトーッ!」
蘇芳はバトーめがけて腕を伸ばしたが、捕まえることはできなかった。彼とリュカの姿は消え、伸ばした腕は奴隷の少年の体を貫いただけだった。
順調に食べていたように見えたのだが、突然少年は胃の中のものを吐き出した。リュカはぎょっとしたが、すぐにしまったと思った。彼は長い間拷問を受けていた。満足な食事など与えられていたはずがない。むしろ苦しめるために飢餓状態を強いていたに違いない。委縮して弱った胃に急に食べ物を流しこめば、体が受けつけずに吐瀉してしまうのは、当然の反応だ。自分も来たばかりのころは、吐くまではいかずとも胃もたれしていたというのに、何故気づけなかったのか。
罪悪感に見舞われながらも、背中をさすって、大丈夫か?と声をかける。
「口の中、気持ち悪いよな?ほら、お茶」
茶飲みを口元にあてがって、茶を飲ませてやる。それからリュカは座卓の上のおしぼりで、汚れた口元や手を拭いてやった。
胃の中のものを全て吐き出してすっきりした様子の少年は、小さく安堵の息を吐いていた。だが、我に返り己の粗相に気がつくと、彼は真っ青になった。顔には明らかに恐怖の色が見え、体は震えている。色のない唇からは、聞き取れないほどのか細い声で、うわ言のように謝罪の言葉を呟いている。
「大丈夫。大丈夫だから。謝らなくていい」
「…で、も…僕、汚し…」
少年はすっかり怯え切っていた。きっと、拷問に耐え切れず粗相をする度に暴力を振るわれたのだろうとリュカは思った。だけど、ようやく言葉を発してくれて嬉しいとも思った。
「俺は、こんなことであんたのこと傷つけたりしない。だから安心してくれ。むしろ俺の方こそごめん。ペース早すぎたよな?食べてくれたのが嬉しいからって、浮かれすぎてた」
リュカの言葉に、少年は呆気に取られた。だが赤鬼の伴侶の少年は気がつかず、衣装箪笥から一着の着物を手に戻って来た。
「とりあえず、その恰好どうにかしよう。これ、俺のだけど少し大きめだから着れると思うんだ」
「い、いいよ…っこのままで…」
「何で?気持ち悪いだろ?ほら、脱いで脱いで」
リュカに押し切られ、少年は抵抗することも出来ずに彼に従った。吐瀉物にまみれた着物を強引に剥ぎ取られ、手を借りながら差し出された着物に袖を通す。
リュカは着替えを手伝いつつ、奴隷の手首につけられた枷がとても重いことに気がついた。逃げられないようにするためだろうが、これでは動かすこともままならない。枷の下の皮膚が赤黒く変色しているのが見えた。リュカは見ていないふりをして、吐瀉物を包むように脱がせた着物を結んだ。清潔なおしぼりで座卓の上も拭く。
「…ありが、とう…」
「全然!俺、ここに来る前は娼館の清掃夫やってたんだ。他人のゲロ片すの日常茶飯事だったから。最悪排泄物とかもあったからさ。ゲロはまだ全然マシなほう!」
「そうなんだ…えらいね」
少年は微かに口角を上げて微笑んだ。社交辞令かもしれないが、褒められて少しくすぐったい気持ちになる。
「あのさ…名前、何て言うんだ?俺、リュカ」
すぐに返答が返ってくるものと思っていたが、奴隷の少年は目を丸くしていた。それから視線を落とし、何かを考えこんでいるように見えた。
リュカはまた調子に乗ってしまったと、自分の発言を後悔した。普通に会話してくれているとは言え、彼の目から見れば自分も彼を拷問した鬼族の一味なのだ。突然慣れ合われても、何かあるのではないかと警戒するだろう。せっかく彼の緊張も警戒も少し解けた気がしていたのに。
「ごめんっ。言いたくなかったら、言わなくていいよ」
「違う、違うんだ。その…名前を聞かれることなんて、長いことなかったから。バトー様からはずっと犬って呼ばれていたし、恥ずかしい話だけど、自分の名前何だったかなって…。あ、そうだ…イズル。うん、僕の名前はイズルだ」
リュカ自身も母親から名前を与えられなかったが、自分で名前を決めた。娼館の奴等からどのように呼ばれようとも、自我を強く持ち、リュカという個を形成した。だが、この少年は逆で、名はあるのに個として認識されずに扱われてきたのだ。どれほどの長い期間、虐げられていたのか。
やはり人間は、生物というより物としての認識が強いのだと改めて思い知らされる。
「…俺のこと、覚えてる?前に会ったことあるんだけど」
「うん、覚えているよ。一緒にいた鬼は…君のご主人?」
「えっ…あ、えと、うん、そんな感じ…」
主人ではなく本当は旦那だ、と口にするのは何故だか躊躇われた。
「良かった」
「え?」
「ほら…人間って奴隷として使役されるのが当たり前の種族でしょう?僕の知る限りでも酷い扱いを受けてる子はいっぱいいた。でも、リュカくんは大事にされてるのがすごくわかる。君のご主人はきっと良い人なんだね」
微笑むイズルに、リュカは小さく頷いた。自分が褒められたわけではないのに、照れくさい。だがリュカは少年の反応に疑問を持った。自分は酷い扱いをバトーから受けていたのに、一方で人間としては好待遇を受けているリュカに対して妬みや嫉みはないのだろうか。闇オークションで会ったステラは、自分に対して敵対心むき出しで、立場を譲れと嫉妬にまみれていた。
「僕、嬉しい」
「嬉しいって…何で!?イズルは、自分はバトーに酷いことされてたのに!同じ人間なのに違う扱いを受けてる奴、憎くないのか!?」
「憎くなんかないよ。嬉しいのも本当。異形の人達皆が皆差別的じゃないって分かって、嬉しいんだ。今後もっとそういう考えの人たちが増えるんじゃないかって希望がある。…確かに、僕は主人に恵まれなかったかもしれないけど、それでも生かしてはもらえてた。僕よりもっとひどい扱いを受けている子をうんと見てきた。僕はまだマシな方だよ」
リュカは衝撃を受けて、ひゅっと短く息を呑んだ。彼の感覚がねじ曲がって麻痺してしまう程、どれほど悲惨な光景を目にしてきたのか、想像を絶する。バトーの彼への仕打ちはあの日見た限りでも凄惨なものだった。犬呼ばわりされ、四肢も拘束され、潰れた片眼もきっと奴の仕業に違いない。それなのに、捨てられた今でも彼はバトーの肩を持つような発言をする。
リュカは、どうにかしてイズルを救いたいと思った。全てを諦めたような、寂しい笑みを浮かべさせるのではなく、心からの笑顔を見たい。彼を死なせたくない。どうにかして、幸せにしたい。イズルは、幸せになるべき人間だ。
「イズルっ!何でもいいから、バトーのことを教えて!」
「リュカくん…?」
「このままじゃ、殺されちまう!でも、少しでもバトーの情報があれば、生かしてもらえる!俺、蘇芳に…自分の主人に頼む!イズルをここに住まわせてくれって。蘇芳は意地悪だし乱暴だけど、根は良い奴なんだ!従者のセキシも、すごく優しくて料理が上手で…二人とも、人間だからって絶対差別なんかしないんだ!他にも、九鬼丸っていう大きな鬼とか沙楼羅さんって烏天狗がいて、皆絶対イズルと仲良くなれるっ」
苦悶に顔を歪め、説き伏せようと必死なリュカの姿に少年は目を丸くした。
「…でも、僕は本当に何も知らなくて。鬼の一族の皆が欲するような有益な情報は提供できないと思うんだ」
「有益じゃなくてもいいんだよ!何でもいいんだ!イズルにとっては何でもないことでも、見方を変えたら役に立つ情報に化けるかもしれねえ!だから、頼む!イズル…お願いだ…」
イズルに縋りつき、リュカは懇願した。感情が高ぶって、涙がこぼれる。
腕を掴む手からは震えが伝わっていた。鬼の少年が自分のことを憐れんでくれているのが分かって、イズルは彼に愛おしさを抱いた。自分のためにこんなにも必死になってくれたのは、彼が初めてだった。同じ人間同士でも、自分の身を守るので精一杯で他人のことを気遣う余裕などないのが普通だ。
正直に言って、自分の人生はここまでと思っていた。辛く悲しくはあったが、これでも他の奴隷よりは長く生きていたし、短命なのは人間に生まれた宿命と諦めと共に受け入れていた。だが、己のことのようにイズルを心配し、涙まで流してくれる少年に心を乱される。もう少し、運命に抗ってみてもいいかもしれない、と思った。
「…わかった」
イズルの口から漏れた承諾の言葉に、リュカは涙にまみれた顔を上げた。少年も今にも泣きそうな顔に笑みを浮かべている
「僕が知っていることを全て話すよ」
「本当か!?」
「…役に立てる気はしないけど…、うん、話す」
「ありがとう!イズル、本当にありがとう!」
イズルが前向きな選択をしてくれたことが、心底嬉しい。と同時に、絶対に彼を守りたいという気持ちがますます強くなる。
「…ううん、僕の方こそリュカくんに感謝してる。ありがとう」
奴隷の少年が感謝の言葉を紡いだ瞬間、彼の体は膨張し、爆発した。座した状態のまま、胸の部分の肉が弾けて骨が剥き出しになっていた。
一瞬、リュカは何が起こったのか理解できなかった。まるで時が止まってしまったかのように、何も考えられず、何も聞こえなかった。リュカは目を見開いたまま、頬に触れた。生温かい何かで指が滑る。視線を落とせば、それは血だった。真っ赤な鮮血。手だけではなく、全身血まみれになっていた。
リュカは膝の上に乗った塊のようなものを手に取った。何かと思って目の高さまで掲げてみたが、臓物だった。
「…な、に…これ…」
妙な音がし始めた。聞く者を不安にさせ、恐怖を感じさせるような醜い軋んだ音だ。肉が弾けて露になったイズルの肋骨が中央部分から一本一本開いていく。何とも言葉にできないおぞましい光景だった。開いた肋骨の中から、天に向かって腕が突き出る。
「…イ、ズル…イズル…っ」
腕の主はイズルだ。きっとイズルに違いない。助けなきゃ。中から出してあげなきゃ。縋るような気持ちで、リュカはにじり寄る。
何かを探るような動きをしていた手に胸襟を掴まれ、強い力で引っ張られた。イズルの体の中を覗きこむ形になり、リュカは目を見開いた。
「よォ、この時を待ってたぜ。血みどろ羅刹のお稚児ちゃん」
下卑た笑みを浮かべたバトーだった。
************
階下で待機していた蘇芳は、壁に掛けられた時計を確認すると腰を上げた。
「そろそろ一時間経つな。上に行く」
「あ、もうそんな時間か。あっという間~。人間ちゃん、奴隷から何か引き出せたかな」
「期待はできまい。拷問でも頑として口を割ろうとしなかったのだ」
「そうかな~いい案だと思ったんだけど」
赤鬼の後ろに、青鬼と黄鬼が続く。お気楽そうな琥珀は、頭の後ろで両手を組んでいる。その時、セキシが慌てた様子で部屋に入ってきた。後ろに誰かを伴っている。
「伝令です!號斑族より宣戦布告が届きました!」
寝耳に水の出来事に、その場にいた者は床に足を縫い付けられてしまったかのように、目を見開いたまま動けなかった。いち早く動いたのは蘇芳だった。舌打ちを漏らし、階段を駆け上がる。
「リュカ!」
目の前に広がる光景は、彼の予想をはるかに上回るものだった。肋骨が開いた状態で絶命している奴隷の少年に、彼の体から突き出たバトーの頭と腕。そして、バトーに捕まりながらも逃げようと抵抗するリュカ。
「蘇芳っ!」
全身返り血まみれの少年が赤鬼を視認する。三白眼の茶色い瞳は困惑に揺れ、見るからに怯えていた。状況を理解できず立ち尽くす蘇芳だったが、名を呼ばれ、体が勝手に動いた。
「チィッ。手間かけさせンじゃねェ、よッ!」
バトーはリュカの鳩尾に拳を叩きこんだ。腹部に強い衝撃を受けた少年は途端に意識を失った。ぐったりとして動かなくなった体を、バトーが奴隷の少年の体の中へと引きずりこむ。蘇芳はリュカの手を掴んだが、血で滑ってしまい、すっぽ抜けてしまった。
「返せッ!」
「やっぱ相当、このガキが大事なんだな。それよか、戦争だ。アンタとの本気の殺し合い、楽しみだなァ」
「…出て来いよ。今すぐ殺してやる…ッ!」
「やなこった。観衆がいねえとつまらねえだろ?じゃあな。せいぜい首洗って待ってろよ」
「バトーッ!」
蘇芳はバトーめがけて腕を伸ばしたが、捕まえることはできなかった。彼とリュカの姿は消え、伸ばした腕は奴隷の少年の体を貫いただけだった。
0
お気に入りに追加
252
あなたにおすすめの小説
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?
蓮
恋愛
少しネガティブな天然鈍感辺境伯令嬢と目つきが悪く恋愛に関してはポンコツコミュ障公爵令息のコミュニケーションエラー必至の爆笑(?)すれ違いラブコメ!
ランツベルク辺境伯令嬢ローザリンデは優秀な兄弟姉妹に囲まれて少し自信を持てずにいた。そんなローザリンデを夜会でエスコートしたいと申し出たのはオルデンブルク公爵令息ルートヴィヒ。そして複数回のエスコートを経て、ルートヴィヒとの結婚が決まるローザリンデ。しかし、ルートヴィヒには身分違いだが恋仲の女性がいる噂をローザリンデは知っていた。
エーベルシュタイン女男爵であるハイデマリー。彼女こそ、ルートヴィヒの恋人である。しかし上級貴族と下級貴族の結婚は許されていない上、ハイデマリーは既婚者である。
ローザリンデは自分がお飾りの妻だと理解した。その上でルートヴィヒとの結婚を受け入れる。ランツベルク家としても、筆頭公爵家であるオルデンブルク家と繋がりを持てることは有益なのだ。
しかし結婚後、ルートヴィヒの様子が明らかにおかしい。ローザリンデはルートヴィヒからお菓子、花、アクセサリー、更にはドレスまでことあるごとにプレゼントされる。プレゼントの量はどんどん増える。流石にこれはおかしいと思ったローザリンデはある日の夜会で聞いてみる。
「つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?」
するとルートヴィヒからは予想外の返事があった。
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
白い結婚はそちらが言い出したことですわ
来住野つかさ
恋愛
サリーは怒っていた。今日は幼馴染で喧嘩ばかりのスコットとの結婚式だったが、あろうことかバーティでスコットの友人たちが「白い結婚にするって言ってたよな?」「奥さんのこと色気ないとかさ」と騒ぎながら話している。スコットがその気なら喧嘩買うわよ! 白い結婚上等よ! 許せん! これから舌戦だ!!
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
初夜の翌朝失踪する受けの話
春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…?
タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。
歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け
公爵家の五男坊はあきらめない
三矢由巳
BL
ローテンエルデ王国のレームブルック公爵の妾腹の五男グスタフは公爵領で領民と交流し、気ままに日々を過ごしていた。
生母と生き別れ、父に放任されて育った彼は誰にも期待なんかしない、将来のことはあきらめていると乳兄弟のエルンストに語っていた。
冬至の祭の夜に暴漢に襲われ二人の運命は急変する。
負傷し意識のないエルンストの枕元でグスタフは叫ぶ。
「俺はおまえなしでは生きていけないんだ」
都では次の王位をめぐる政争が繰り広げられていた。
知らぬ間に巻き込まれていたことを知るグスタフ。
生き延びるため、グスタフはエルンストとともに都へ向かう。
あきらめたら待つのは死のみ。
お客様と商品
あかまロケ
BL
馬鹿で、不細工で、性格最悪…なオレが、衣食住提供と引き換えに体を売る相手は高校時代一度も面識の無かったエリートモテモテイケメン御曹司で。オレは商品で、相手はお客様。そう思って毎日せっせとお客様に尽くす涙ぐましい努力のオレの物語。(*ムーンライトノベルズ・pixivにも投稿してます。)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる