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48. 混沌
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「クソッ!」
蘇芳はイズルの体から腕を引き抜いた。バランスを失い、少年の体が倒れる。
一度ならず二度までも、襲撃を許した。しかも今回は自分がすぐ近くにいるにも関わらず、リュカを連れ去られてしまった。手の届く場所にいる、ということが逆に慢心を招き、隙を生んでしまった。バトーにそこを突かれた。
蘇芳の中では、己とバトーへの激しい憤怒と殺意が渦巻いていた。
「うわ、やば」
「何だ、これは…」
遅れて駆けつけた琥珀と青藍も、目の前の光景に目を見開く。彼らの間をかき分けて入室したセキシは顔面蒼白だった。血の気を失った唇から漏れる声は、恐怖に震えている。
「…す、蘇芳様…その、その遺体は、まさか…まさか…っ!」
「…違ェ。これは、バトーの奴隷だ」
主人の返答にセキシは安堵したのか、その場に膝から崩れ落ちる。大丈夫か?と声をかけた琥珀は、彼の体が尚も震えていることに気がついた。
「バトーの奴隷が死んでるってことは、人間ちゃんがやったってことか?」
「…なわけねえだろ」
赤鬼は黄鬼を睨みつけた。並の異形ならあまりの迫力に慄いただろうが、琥珀は肩を竦めただけだった。
「だってこの場にいねえからさ、人間ちゃんがソイツ殺して逃げたのかと思うじゃん?拷問受けてる奴隷を哀れに思って、楽にしてやったって可能性あるだろ?」
「…リュカ様が、そんなことをなさるはずがありません…っ!」
「セキシの言う通り、その可能性はないだろう。奴隷の体内に微かに術の痕跡がある。何かをきっかけに発動し、自爆させたのだろう。肋骨が開いているのも不自然だ。何にせよ、あの子供一人にできる所業ではない」
「人間ちゃんの仕業じゃないって完全に否定できなくね?闇オークションの会場で瞳が銀色に変わってるの見たけど、人間ちゃんって実は人間じゃないんだろ?子供とは言え人間じゃないなら、これくらいできても不思議じゃないだろ」
琥珀は頭の後ろで両手を組みながら、イズルの亡骸の傍らに膝をつき検分する青藍に近づいた。彼は蘇芳が拳を振りかぶっているのに気がつかなかった。鈍い衝撃を頬に受け、何が起こったのか分からないまま、黄鬼は床の上に倒されていた。
「…ぃってえ…」
「何を勘繰ってんだか知らねえがな…。いいか、俺は見たんだよ。あの奴隷の体からバトーが現れて、リュカを連れ去るのを」
リュカの拉致を知ったセキシが息を呑み、見るからに動揺するのを、蘇芳は視界の端に捉えた。
「バトーだと…?やはり、捨てた奴隷が偶然この里に流れ着いたというのは嘘だったのだな。恐らくは彼を宣戦布告の理由にするつもりで送り込んできたのだろう。號斑族頭領のバトーの所有物である奴隷をみだりに拷問し、死に至らしめたなどと言いがかりをつけて」
「で、爆発したところに運悪く人間ちゃんが居合わせたってことか?」
「それも違ェ。バトーは消える間際に、俺との殺し合いを楽しみにしてるとか何とかほざきやがった。元々の標的はリュカだった可能性が高え」
「…要は、人質と言うことか」
「ハァ…?じゃあ何?俺はバトーの策謀にまんまと加勢したってことかよ!」
琥珀は苛立った様子で、髪を両手でぐしゃぐしゃと掻きむしる。情報を引き出すことに必死なあまり、自分の発案でリュカと奴隷を二人きりにしたのだ。結果バトーを始め號斑族の情報は何も得られないどころか、リュカも連れ去られてしまう事態を招いてしまった。責任を感じて当然だろう。
やっぱ相当、このガキが大事なんだな。
リュカを狙っていたと確信したのは、バトーのこの発言からだが、青藍と琥珀には知られたくなくて、蘇芳は黙っていた。
「一先ず、親父に報告だ。少年の遺骸も大事な証拠品。人手を寄こして運ぶとしよう」
「宣戦布告の詳細な内容も聞かねえとな」
そうと決まれば、と琥珀はいの一番に部屋を出て行く。青藍も後に続こうとしたが、蘇芳の硬く握られた拳から血がしたたり落ちているのに気がつき、足を止めた。赤鬼の鋭い眼光はイズルに注がれ、顔は無表情ながら傍から見ても激しい怒りに燃えているのが分かった。
「蘇芳、馬鹿なことは考えるな。怒りに任せて行動すれば、バトーの思う壺だ。お前への牽制の意味での人質なら、そう惨いことはするまい」
「拷問されねえ保証がどこにある?あの奴隷の姿を、テメェだって見ただろうが。目は潰され、体中ミミズ腫れだらけ。奴は、人間を甚振るのが趣味の、屑野郎だ」
「そうだな。だが、リュカを痛めつけて何の得がある?」
「得とか損とかじゃねえ。リュカを傷つけて、俺が激昂するのが見てえからって、そんなくだらない理由でやりかねないんだよ」
「…だからと言って、今すぐ號斑族の里に向かう気か。蘇芳の行動など予測済みで、全く関係のない場所で籠城していたらどうする。独断専行で襲撃すれば、それこそバトーはリュカを拷問する大義名分を得ることになるぞ」
青藍は蘇芳の殺人的な眼光を真っ向から受けながら、冷静に反論した。赤鬼の怒りが空気を伝って肌がびりびりと痺れるような感覚がする。長く戦場を共にしているが、彼がここまで激怒するのを見るのは初めてだった。
「頭を冷やせ、蘇芳。親父の指示を仰ぐべきだ」
青鬼は目前の鬼の肩を軽く叩いた。その瞬間、赤鬼の憤怒による熱気に満ちていた室内の空気が一変し、冷気に包まれた。外気を冷やされ、強制的に怒りを抑え込まれた蘇芳は舌打ちして青藍の手を振り払った。
「…分かった。先、行け。すぐ追いかける」
蘇芳は未だ膝を折ったままの従者を一瞥した。彼の視線の先を追った青藍は静かに頷き、部屋を後にした。しん、と張り詰めた静寂が部屋を覆う。赤鬼は己の従者に近づき、同じように膝を折り、彼の顔を覗きこんだ。
「…セキシ、沙楼羅への伝言を九鬼丸に頼め」
セキシに声をかけるが、彼の心はここにあらずだった。リュカの身を案じて、見たことがない程に取り乱している。蘇芳は彼の頬を加減した力で叩いた。痛みで意識を引き戻された青年が、ようやく主人の顔を見る。
「必ずリュカは助ける。だから、気をしっかりと持て」
「…蘇芳、様…」
主人の力強い言葉に、セキシの虚ろな瞳に光が戻る。心なしかその目には薄く水の膜が張っていた。
「…この場は、任せていいな?」
「…はい…っ!」
しっかりと大きく頷くセキシの肩を叩く。互いの間にあるのは強い信頼だった。
皆よりも遅れて大広間に入った蘇芳だったが、既に議論は白熱し、怒号が飛び交っていた。コケにされてブチ切れた武闘派が奇襲すべきとがなりたて、青藍を始めとする穏健派は索敵などの情報収集が先だと宥める。だが火に油で、理詰めにされた単細胞ばかりの武闘派は、青藍をはじめとした術に長けた者達を責めた。バトーが奴隷にしかけた罠を何故見つけられなかったのかと。勿論、リュカと奴隷を二人で引き合わせるという案を出した琥珀も非難の対象だった。琥珀や術師たちが応戦し、収拾がつかない程に内部分裂していた。
混沌の渦中にいる烏合の衆を遠巻きに見ながら、蘇芳は嘲笑う。自分一人が冷静になろうと、このザマだ。黒鳶は皆を取りなそうとするが、兵士は完全に統率を失っている。負け知らずなどと謳われている戦争一族が、聞いて呆れる。今攻め込まれれば、鬼一族は大敗するだろう。バトーによって、完全に足並みを崩され、瓦解しかけている。これがバトーの企みであったならば、大成功と言っていいだろう。
誰一人としてリュカのことを案じておらず、安否を蘇芳に問うことすらしない。むしろ、最初から存在など認識していないかのように。あの少年のことを気にかけているのは、自分とセキシだけだろう、と蘇芳は思った。リュカが人間ではないと知っている黒鳶でさえ、目の前のことに追われ、蘇芳の話に耳を傾ける余裕すらない。場が収まり、黒鳶が蘇芳の話を聞き、決断を下すまでにどれ程の時間を要するのか。もたもたしていては、少年の身が危ない。蘇芳を苦しめるために何をしでかすかわからないのだ。悠長に待ってなどいられない。
蘇芳は喧噪に紛れて、そっと黒鳶の屋敷を後にした。
蘇芳はイズルの体から腕を引き抜いた。バランスを失い、少年の体が倒れる。
一度ならず二度までも、襲撃を許した。しかも今回は自分がすぐ近くにいるにも関わらず、リュカを連れ去られてしまった。手の届く場所にいる、ということが逆に慢心を招き、隙を生んでしまった。バトーにそこを突かれた。
蘇芳の中では、己とバトーへの激しい憤怒と殺意が渦巻いていた。
「うわ、やば」
「何だ、これは…」
遅れて駆けつけた琥珀と青藍も、目の前の光景に目を見開く。彼らの間をかき分けて入室したセキシは顔面蒼白だった。血の気を失った唇から漏れる声は、恐怖に震えている。
「…す、蘇芳様…その、その遺体は、まさか…まさか…っ!」
「…違ェ。これは、バトーの奴隷だ」
主人の返答にセキシは安堵したのか、その場に膝から崩れ落ちる。大丈夫か?と声をかけた琥珀は、彼の体が尚も震えていることに気がついた。
「バトーの奴隷が死んでるってことは、人間ちゃんがやったってことか?」
「…なわけねえだろ」
赤鬼は黄鬼を睨みつけた。並の異形ならあまりの迫力に慄いただろうが、琥珀は肩を竦めただけだった。
「だってこの場にいねえからさ、人間ちゃんがソイツ殺して逃げたのかと思うじゃん?拷問受けてる奴隷を哀れに思って、楽にしてやったって可能性あるだろ?」
「…リュカ様が、そんなことをなさるはずがありません…っ!」
「セキシの言う通り、その可能性はないだろう。奴隷の体内に微かに術の痕跡がある。何かをきっかけに発動し、自爆させたのだろう。肋骨が開いているのも不自然だ。何にせよ、あの子供一人にできる所業ではない」
「人間ちゃんの仕業じゃないって完全に否定できなくね?闇オークションの会場で瞳が銀色に変わってるの見たけど、人間ちゃんって実は人間じゃないんだろ?子供とは言え人間じゃないなら、これくらいできても不思議じゃないだろ」
琥珀は頭の後ろで両手を組みながら、イズルの亡骸の傍らに膝をつき検分する青藍に近づいた。彼は蘇芳が拳を振りかぶっているのに気がつかなかった。鈍い衝撃を頬に受け、何が起こったのか分からないまま、黄鬼は床の上に倒されていた。
「…ぃってえ…」
「何を勘繰ってんだか知らねえがな…。いいか、俺は見たんだよ。あの奴隷の体からバトーが現れて、リュカを連れ去るのを」
リュカの拉致を知ったセキシが息を呑み、見るからに動揺するのを、蘇芳は視界の端に捉えた。
「バトーだと…?やはり、捨てた奴隷が偶然この里に流れ着いたというのは嘘だったのだな。恐らくは彼を宣戦布告の理由にするつもりで送り込んできたのだろう。號斑族頭領のバトーの所有物である奴隷をみだりに拷問し、死に至らしめたなどと言いがかりをつけて」
「で、爆発したところに運悪く人間ちゃんが居合わせたってことか?」
「それも違ェ。バトーは消える間際に、俺との殺し合いを楽しみにしてるとか何とかほざきやがった。元々の標的はリュカだった可能性が高え」
「…要は、人質と言うことか」
「ハァ…?じゃあ何?俺はバトーの策謀にまんまと加勢したってことかよ!」
琥珀は苛立った様子で、髪を両手でぐしゃぐしゃと掻きむしる。情報を引き出すことに必死なあまり、自分の発案でリュカと奴隷を二人きりにしたのだ。結果バトーを始め號斑族の情報は何も得られないどころか、リュカも連れ去られてしまう事態を招いてしまった。責任を感じて当然だろう。
やっぱ相当、このガキが大事なんだな。
リュカを狙っていたと確信したのは、バトーのこの発言からだが、青藍と琥珀には知られたくなくて、蘇芳は黙っていた。
「一先ず、親父に報告だ。少年の遺骸も大事な証拠品。人手を寄こして運ぶとしよう」
「宣戦布告の詳細な内容も聞かねえとな」
そうと決まれば、と琥珀はいの一番に部屋を出て行く。青藍も後に続こうとしたが、蘇芳の硬く握られた拳から血がしたたり落ちているのに気がつき、足を止めた。赤鬼の鋭い眼光はイズルに注がれ、顔は無表情ながら傍から見ても激しい怒りに燃えているのが分かった。
「蘇芳、馬鹿なことは考えるな。怒りに任せて行動すれば、バトーの思う壺だ。お前への牽制の意味での人質なら、そう惨いことはするまい」
「拷問されねえ保証がどこにある?あの奴隷の姿を、テメェだって見ただろうが。目は潰され、体中ミミズ腫れだらけ。奴は、人間を甚振るのが趣味の、屑野郎だ」
「そうだな。だが、リュカを痛めつけて何の得がある?」
「得とか損とかじゃねえ。リュカを傷つけて、俺が激昂するのが見てえからって、そんなくだらない理由でやりかねないんだよ」
「…だからと言って、今すぐ號斑族の里に向かう気か。蘇芳の行動など予測済みで、全く関係のない場所で籠城していたらどうする。独断専行で襲撃すれば、それこそバトーはリュカを拷問する大義名分を得ることになるぞ」
青藍は蘇芳の殺人的な眼光を真っ向から受けながら、冷静に反論した。赤鬼の怒りが空気を伝って肌がびりびりと痺れるような感覚がする。長く戦場を共にしているが、彼がここまで激怒するのを見るのは初めてだった。
「頭を冷やせ、蘇芳。親父の指示を仰ぐべきだ」
青鬼は目前の鬼の肩を軽く叩いた。その瞬間、赤鬼の憤怒による熱気に満ちていた室内の空気が一変し、冷気に包まれた。外気を冷やされ、強制的に怒りを抑え込まれた蘇芳は舌打ちして青藍の手を振り払った。
「…分かった。先、行け。すぐ追いかける」
蘇芳は未だ膝を折ったままの従者を一瞥した。彼の視線の先を追った青藍は静かに頷き、部屋を後にした。しん、と張り詰めた静寂が部屋を覆う。赤鬼は己の従者に近づき、同じように膝を折り、彼の顔を覗きこんだ。
「…セキシ、沙楼羅への伝言を九鬼丸に頼め」
セキシに声をかけるが、彼の心はここにあらずだった。リュカの身を案じて、見たことがない程に取り乱している。蘇芳は彼の頬を加減した力で叩いた。痛みで意識を引き戻された青年が、ようやく主人の顔を見る。
「必ずリュカは助ける。だから、気をしっかりと持て」
「…蘇芳、様…」
主人の力強い言葉に、セキシの虚ろな瞳に光が戻る。心なしかその目には薄く水の膜が張っていた。
「…この場は、任せていいな?」
「…はい…っ!」
しっかりと大きく頷くセキシの肩を叩く。互いの間にあるのは強い信頼だった。
皆よりも遅れて大広間に入った蘇芳だったが、既に議論は白熱し、怒号が飛び交っていた。コケにされてブチ切れた武闘派が奇襲すべきとがなりたて、青藍を始めとする穏健派は索敵などの情報収集が先だと宥める。だが火に油で、理詰めにされた単細胞ばかりの武闘派は、青藍をはじめとした術に長けた者達を責めた。バトーが奴隷にしかけた罠を何故見つけられなかったのかと。勿論、リュカと奴隷を二人で引き合わせるという案を出した琥珀も非難の対象だった。琥珀や術師たちが応戦し、収拾がつかない程に内部分裂していた。
混沌の渦中にいる烏合の衆を遠巻きに見ながら、蘇芳は嘲笑う。自分一人が冷静になろうと、このザマだ。黒鳶は皆を取りなそうとするが、兵士は完全に統率を失っている。負け知らずなどと謳われている戦争一族が、聞いて呆れる。今攻め込まれれば、鬼一族は大敗するだろう。バトーによって、完全に足並みを崩され、瓦解しかけている。これがバトーの企みであったならば、大成功と言っていいだろう。
誰一人としてリュカのことを案じておらず、安否を蘇芳に問うことすらしない。むしろ、最初から存在など認識していないかのように。あの少年のことを気にかけているのは、自分とセキシだけだろう、と蘇芳は思った。リュカが人間ではないと知っている黒鳶でさえ、目の前のことに追われ、蘇芳の話に耳を傾ける余裕すらない。場が収まり、黒鳶が蘇芳の話を聞き、決断を下すまでにどれ程の時間を要するのか。もたもたしていては、少年の身が危ない。蘇芳を苦しめるために何をしでかすかわからないのだ。悠長に待ってなどいられない。
蘇芳は喧噪に紛れて、そっと黒鳶の屋敷を後にした。
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