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いきなりそんなことを言われても

後編

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 説明すればすんなり引き下がってくれるだけ、僕の両親は理解がある方なのかもしれない。しかし寝不足という事実は変わることはない。登校を終え、自席に座った瞬間に再び襲いかかってきた睡魔に必死で争いながら、欠伸を噛み殺す。いくら眠気がやってきたとしても、今の僕の頭の中はとてもこれからの授業に取り組んでいけるような状況ではなかった。あの時に出来ることはすべてやったつもりではあったが、もっといい方法があったのではなかったのか、こうするべきだったかもしれないとか、後悔に近い様々な考えが頭の中をぐるぐる回っていた。

「大丈夫? 昨夜は大変だったみたいだねぇ」

 自転をはじめた僕の思考をかき消すのは、どこかのんびりとした高い声。現実に引っ張り戻された僕は反射的に声の方へと振り向く。そこにはクラスメイトの貫田さんが柔らかな笑顔でこちらを見ていた。大きな黒眼鏡が特徴の、小柄な少女である貫田ぬきたさんは誰にでも優しいその性格からかクラスの委員長を務めている。

「情報が早いな。どこから聞いたの?」

 早くも噂の人か。田舎独特のネットワークの伝達の速さにげんなりしてしまう。出来るだけ表情に出さないように努めたつもりだったが、どうやら顔に出ていたようだ。

「うぅ、なんかごめんね。夜遅くに大変な目にあったって聞いたから、大丈夫かなって思ったの」

 去年も同じクラスだったことから、貫田さんは僕のことを心配してくれたということは理解していたので、わたわたと慌てる彼女に対する申し訳なさが胸の奥から迫り上がってくる。

「大丈夫だよ。ありがとう、貫田さん」

 いつも元気な貫田さんを、朝から萎れさせるわけにはいかない。口角を上げて笑ってみせると、彼女も春の太陽のように笑いかけた後に自席へと戻っていく。
噂にされるということを想定はしていたが、まさかこんなに早く広まっているとは思わない。実際のところ、内心では頭を抱えていた。もっといい方法があったかもしれないが、あの時に同級生を助けるために取った行動は間違いではないということは自覚している。それでも僕は、何事もなく、それなりに生きていきたかった。叩かれる為の出る杭にはなりたくなかった。輝かしい功績を得たいとか、目立って一目置かれたいとかそういった欲求は持ち合わせていない。のんびりと過ごしていきたい。この田舎で何かをしたら、このような形ですぐに噂の元になる。目立つことは好きではない僕は、とにかく平穏に日々を過ごしたいのだ。

 だからこそ、あの夜に起きたことは早く忘れてしまいたい。この国の警察機構は優秀だ。すぐに犯人は捕まる。救急からも警察からも、もう僕に連絡など来るはずもない。時間が過ぎ去ってくれれば噂はあっという間に流れ去る。そうすれば、また愛すべき平穏がやってくる。

「おはよう、嶋村さん!」
 
 クラスメイトの女子の声に心臓が飛び跳ねる。当たり前の話ではあるが、嶋村さんが僕と同じクラスである以上、こうやって教室へとやってくるのは当たり前の事だ。気がつけばホームルームが始まる直前まで時が経っていて、クラスにはほぼ全員が集まっているようだった。

 嶋村さんが長い髪の毛を揺らしながら、優雅に自席へと向かっていく。朝の太陽と蛍光灯の光を存分に吸収している彼女の黒く艶のある髪の毛は、やはりあの夜に見たものと同じものにしか見えない。ひたすらに比較したい欲求も存在するが、あまりジロジロと人の髪の毛を見続けるのも褒められたものではないだろうし、それこそ目立つ行動だ。視線を戻し、鞄に乱雑に突っ込んでいた教科書やノートを机の中に戻していく。

「ねぇ」

 今は絶対聞きたくなかった声が聞こえる。嶋村七海の鈴のように透き通った声は鼓膜の奥を震わせ、僕の脳を突き抜けていく。偶然聞こえただけで、僕に向けたわけではないだろう。ほぼほぼ希望そのものである断定をもって授業の準備をする。

「ねぇ」

 嶋村さんの声はまだ続く。頭の中では諦めが顔を覗かせていた。それでも、高嶺の花そのものである彼女が僕に声を変えるはずがない。ひたすらにその念で上書きを続けていた。

「聞こえてなかった? 肱川さん、ちょっといいかしら」

 しかし、その希望は粉々に打ち砕かれた。視線を上にあげると、嶋村さんは僕のすぐ隣に立っていた。僕の眼を真っ直ぐに見つめている彼女の瞳は切れ長であるが鋭いほどでもなく、柔和な雰囲気すら感じる。すらりとした鼻筋に適度に厚みを帯びた唇。彼女の容姿を一言で表現するならば『美少女』という言葉が相応しいのだろう。更には頭脳明晰でテストでは満点を繰り返しているという噂も聞いた。こういったモデルや芸能人すらも霞むほどの逸材である彼女がこんな地方の公立高校にいるのかもわからないし、なぜ僕に声をかけるのかわからない。

 昨夜の出来事がフラッシュバックする。同級生を昏倒させた犯人が彼女かもしれない。もしかしたら逃げる最中に僕の顔を見ていて、なんらかの口封じや警告をするのかもしれない。背筋に再び液体窒素のように冷たいものが流れ込み、思考が定まらなくなっていく。

「私、貴方に言いたいことがあるの」

 視線を微塵も動かすことなく、両腕を身体の前で組んだ姿勢のまま嶋村さんは僕を見つめ続けている。ただならぬ雰囲気にクラスメイトが騒めきだしていた。

 全身から冷や汗が止まらない。彼女の瞳を見るだけで僕の何もかもが吸い込まれそうになる。魔性の女というものがいるならば、今の彼女のことをそう例えるのが相応しいのだろう。彼女の口から肺に向かって空気が取り込まれていた、次の瞬間であった。

「肱川統義さん。私と、お付き合いして頂けますか?」

 艶やかな唇が開かれ、吸い込まれた空気が再び気管を通じて吐息と共に僕に向かって放たれた言葉は想像を大幅に超える途轍もないものであった。いきなりそんなことを言われても。あまりの衝撃に言葉が出ないどころか、思考が完全にシャットダウンされる。

 静寂が教室を支配する。僕も、貫田さんも、他の誰もが硬直した。誰も音を発することがない。息どころか、衣擦れの音すらも聞こえない。恐ろしいことに、嶋村さんを除いたこのクラスの全員の時間が停止してしまったのだ。時計の秒針が動く音だけが、小さく教室に響いていた。身体が動かない。先程まで流れていた冷や汗も一瞬で枯れ果てた。心臓が鼓動を止めたことにより、血管や臓器も徐々に活動を停止していく。事実を告げられたショックで人は死ぬというが、まさかこんな女の子に告白されただけで人は死ぬのか。

 秒針が一周した瞬間に教室に響き渡る怒号と悲鳴と絶叫が、僕の意識を現世に引き戻した。
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