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承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 4~
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こうして事件は高力修理より直に聴取した井上図書らの報告を通じて、全ての使番の知るところとなり、使番一党は大いに憤激した。
そこで使番の中でも一番の古株として筆頭の位置にいる向坂藤十郎政興が直属の上司に当たる若年寄にして勝手掛を兼ねる京極高久に対してこのことを報告し、一方、目付の永井伊織直廉に対して火事場見廻を兼ねる土岐主税頼香から報告がなされた。
事は町方…、北の町奉行所による犯罪、つまりは御家人による犯罪であり、そうであれば旗本や御家人を監察する目付の出番である。
目付は本丸と西之丸に置かれており、無論、「花形」は将軍の居城である本丸にて仕える目付であり、本丸目付である彼等は10人おり、それゆえ俗に、
「十人目付」
とも称される。
その「十人目付」の中でも一番の若手である永井伊織はその前職は使番であったのだ。
即ち、永井伊織は去年、天明8(1788)年6月までは使番を勤めていたのだ。
その永井伊織と一番親しかったのが「同期の櫻」である土岐主税であったのだ。
永井伊織も土岐主税も共に天明6(1786)年の正月11日に使番に任じられた「同期の櫻」であった。
いや、「同期の櫻」は外にも大久保忠兵衛忠章と丹羽五左衛門長裕がおり、彼等4人は、
「花の天明6年正月組」
とも称される程に使番の中でもとりわけ出色の存在であった。
その4人の中でも殊に永井伊織と土岐主税が親しく、その「友情」は永井伊織が、
「一足先に…」
旗本にとっての出世の登竜門とも言うべき目付へと昇進を果たしたその当時も続いていた。
いや、旗本や御家人を監察をその職掌とする以上、表立っての交流こそなかったものの、それでも秘かに交流があった。
それゆえ土岐主税はその「友情」を伝手に、永井伊織を頼り、伊織に対して大事な使番仲間である高力修理が受けた理不尽なる仕打について打ち明けた上で、
「公明正大なる監察を…」
それを願ったのだ。
一方、永井伊織はと言うと、勿論、土岐主税のその願いを聞き届けた。いや、仮に土岐主税との間に「友情」が存していなかったとしても聞き届けたであろう。仮にも江戸の治安を預かるべき町方の与力や同心らが理不尽にも使番とその足軽に対して乱暴狼藉を働いたとなると、とても放ってはおけぬ。
だが、だからと言って、永井伊織は目付になってからまだ1年と経ってはおらず、一人で監察に当たるには荷が重過ぎる事案であった。
そこで永井伊織は「先輩」の菅沼新三郎定喜を頼ることにした。
目付の中でも一番の若手である永井伊織には9人もの「先輩」が存していたわけだが、その中でも菅沼新三郎を「助っ人」に選んだのは菅沼新三郎が、
「親切者」
として知られていたということもあるが、それ以上に永井伊織の縁者に当たるゆえ、であった。
即ち、永井伊織が父・筑前守直令の実兄、伊織にとっては伯父に当たる永井采女直丘が次男、伊織が父直令にとっては甥、伊織にとっては従兄にそれぞれ当たる十兵衛定堅は菅沼下野守定秀の養嗣子として迎えられ、その菅沼十兵衛がもうけた嫡子こそ、目付の菅沼新三郎定喜であり、それゆえ永井伊織にとっては菅沼新三郎は従甥に当たる。
齢は永井伊織の方が菅沼新三郎よりも11も上であったが、目付に就いたのは菅沼新三郎の方が1年早かった。
こうして永井伊織は目付の中でも唯一の縁者にして「親切者」である菅沼新三郎に対して事情を打ち明けた上で監察への協力を求めたのであった。
それに対して菅沼新三郎もやはりと言うべきか、
「事が事…」
それゆえに即答は出来かね、その代わりに直属の上司である若年寄の判断を仰ぐことにした。
仮に、北の与力や同心らを徹底的に監察、糾問するとして、その際には町方と、それも北のみならず南とも「全面戦争」が予期され、そこでまずは直属の上司に当たる若年寄の判断を仰ぐことにし、勝手掛を兼ねる京極高久の判断を仰ぐことにしたのだ。
若年寄もまた、目付と同じく複数おり、その中でも京極高久をその判断を仰ぐ相手として選んだのはひとえに、
「京極高久が一番信が置ける…」
それに尽きた。
こうして菅沼新三郎と永井伊織の二人は若年寄の京極高久に対して、使番の高力修理の「遭難」の件を報告し、その判断を仰いだ。
すると、それに対して京極高久は漸くに合点がいった。
それと言うのも高久が高力修理に対して、長谷川平蔵の立てたその「手柄」について、平蔵当人より録取するよう命じ、その上で修理に対してその録取の内容を書き留めさせるべく注進状を発行し、修理に対してその注進状を手交したにもかかわらず、実際には若年寄の筆頭である上席の安藤信成から平蔵の手柄が認められた、しかし高久が修理に手交した注進状とは、
「似ても似つかぬ…」
ただの書付を手渡されたものだから、
「これは一体、如何なる仕儀にて…」
高久は当然、そう騒いだものの、しかしそれに対する安藤信成の返答たるや、全くもって要領を得ないものであった。いや、はぐらかそうとする意図が見て取れた。
高久は無論、信成を追及したものの、しかしそれに対して信成は、
「言を左右にして…」
のらりくらりとかわすばかりであり、こうなってはさしもの高久もお手上げであり、遂に高久は信成の追及を諦めたのであった。
だが菅沼新三郎と永井伊織の二人の話を聞いて、高久は漸くに合点がいくと同時に、徹底的な監察、糾問を命じたのであった。
こうして勝手掛若年寄の京極高久から「御墨付」を得られた菅沼新三郎と永井伊織は外の目付にも協力を求めて北の町奉行所の与力や同心らの監察に当たることにした。
とりわけ目付の中でも一番の古株である曲淵勝次郎景露が熱心であった。
それと言うのも目付の曲淵勝次郎と北町奉行の初鹿野信興は犬猿の仲であったからだ。
初鹿野信興は天明5(1785)年9月まで使番を勤めた後、目付に異動、昇進を果たしたのだが、その時にはもう、曲淵勝次郎が目付として控えていた。
曲淵勝次郎は初鹿野信興が異動、昇進を果たす1年前の天明4(1784)年4月に小十人頭より異動、昇進を果たしており、それゆえ曲淵勝次郎は初鹿野信興の「一年先輩」に当たる。
但し、齢は初鹿野信興の方が曲淵勝次郎よりも上であり、その差は14と一回以上も年上であった。
それゆえ初鹿野信興は曲淵勝次郎をまるで子供のように扱ったものである。実際、曲淵勝次郎はその当時は、そして今もって、部屋住の身であった。
即ち、曲淵甲斐守景漸の嫡子の身であり、初鹿野信興も勿論、それを把握していたので、それゆえ初鹿野信興は曲淵勝次郎の「一年後輩」であるにもかかわらず、
「未だ、曲淵景漸が嫡子の身に過ぎぬ…」
その点を捉えて、勝次郎を「子供扱い」したのであった。
だがこれは絶対の「タブー」と言えた。それと言うのもこれは目付に限らず全ての役目に言えることだが、年齢も職歴が優先されるのだ。
そうであれば曲淵勝次郎が初鹿野信興よりも、
「たったの一年…」
先輩であるに過ぎないとは言え、しかし先輩であることに変わりはなく、目付としては後輩に当たる初鹿野信興はこの先輩である曲淵勝次郎を先輩として立てねばならなかった。永井伊織とてそうであり、己よりも年下である菅沼新三郎を先輩として立てていた。
だが初鹿野信興は曲淵勝次郎を立てるどころか子供扱いする始末であり、当然、勝次郎は激昂した。
普段の曲淵勝次郎は決して「先輩風」を吹かせることはしなかったが、しかし、己を子供扱いする初鹿野信興に対しては例外的に「先輩風」を吹かせることにした。そうでないとこの先、ずっと舐められることになるからだ。
しかし、勝次郎がどんなに「先輩風」を吹かせてみたところで、14も年嵩の初鹿野信興には、
「てんで…」
通用しなかった。それどころか信興は勝次郎をまるで赤子が駄々をこねているかのように扱う始末であり、人を小馬鹿にするとは正にこの事で、勝次郎は愈愈もって、激昂した。
するとこの当時…、初鹿野信興が使番から目付へと転じた天明5(1785)年9月の時点で目付の筆頭であった山川下総守貞幹と次席の安藤郷右衛門惟徳の二人が初鹿野信興のその、
「先輩を先輩とも思わぬ…」
傍若無人なる態度を見かねたらしく、信興を諫めた。
「仮令、年下であろうとも、曲淵勝次郎はそこもとにとっては先輩に当たるのだから、いま少し立てるように…」
目付筆頭の山川貞幹と次席の安藤郷右衛門は二人がかりでそう初鹿野信興を諫めたものである。
それに対して信興はと言うと、流石に筆頭である山川貞幹に対しては殊勝なる態度を覗かせたものの、安藤郷右衛門に対しては翻って不遜なる態度に終始した。山川貞幹にしろ、安藤郷右衛門にしろ共に初鹿野信興よりも年嵩であるにもかかわらず、である。
それでは信興は何故に態度を使い分けたのかと言うと、それはやはり、
「家督を継いでいるか否か…」
その点に求められた。
即ち、その時点では山川貞幹は既に家督を継いでいたのに対して、安藤郷右衛門は曲淵勝次郎と同じく家督を継いではおらず、それゆえ信興は安藤郷右衛門をも「子供扱い」する始末であった。のみならず、
「新番士一人、組み伏せることも出来ぬ腰抜けが一人前に説教とは…、いや、それ以前に目付の職にあるとは片腹痛し」
信興は郷右衛門に対してそう暴言を吐く始末であった。
この信興が口にした、
「新番士一人、組み伏せることも出来ぬ腰抜け…」
云々はその前年、即ち、曲淵勝次郎が小十人頭から目付へと転じた天明4(1784)年3月に発生した若年寄の田沼山城守意知が殿中にて新番士の佐野善左衛門政言に刺殺された一件を指してのものであった。
田沼意知が佐野善左衛門に脇差にて斬り付けられたその現場には目付の安藤郷右衛門を始めとし、同じく目付の井上図書頭正在や末吉善左衛門利隆、それに大目付の久松筑前守定愷や牧野大隅守成賢らが居合わせたものの、しかし、誰一人として佐野善左衛門を取り押さえる者はなく、結局、佐野善左衛門が意知に止めを刺した後で漸くに大目付であった松平對馬守忠郷が佐野善左衛門を取り押さえたのであった。
いや、この時既に、佐野善左衛門は意知に止めを刺した達成感から茫然自失の体であり、これではそれこそ子供でも容易に取り押さえられるというものであるが、それでも幕府は松平忠郷に対して200石もの加増というご褒美を与えたのであった。
それは兎も角、もう少し早くに安藤郷右衛門らが佐野善左衛門を取り押さえていたならば意知は死なずに済んだやも知れず、初鹿野信興はその点を捉えて安藤郷右衛門を詰った、いや、嘲笑したのであった。
確かにその点に関しては安藤郷右衛門としても一言の弁解もなかったが、しかし、それを信興にとやかく言われる筋合はなく、安藤郷右衛門は当然、激昂した。
いや、安藤郷右衛門ばかりではない。同じく佐野善左衛門を取り押さえなかった末吉善左衛門にしてもそうであり、仮に井上正在も目付としてこの場にいたならばやはり激昂したに違いない。しかし、幸いと言うべきか、井上正在は意知を取り押さえられなかったにもかかわらず、その翌年の天明5(1785)年9月には普請奉行に栄転を果たし、それゆえその場にはいなかった。ちなみに初鹿野信興はその井上正在の後任であった。
ともあれ、初鹿野信興は曲淵勝次郎に続いて安藤郷右衛門や末吉善左衛門までも敵に回した。
いや、敵に回したのは彼等ばかりではない、牧野織部成知にしてもそうであった。
牧野織部成知は初鹿野信興よりも一月程早くに徒頭から目付へと転じ、それゆえ初鹿野信興の「先輩」に当たるものの、しかし年下であることに加えて、未だ家督を継いではいないという事情も相俟って、やはり初鹿野信興から「子供扱い」されている一人であった。
その牧野織部は件の意知を取り押さえられなかった一人、大目付の牧野成賢の養嗣子であったのだ。
それゆえ牧野織部にしてみれば、初鹿野信興の安藤郷右衛門に対するその「嘲笑」は大事な養父・成賢に対して嘲笑されたも同然であり、それゆえ初鹿野信興は牧野織部まで敵に回してしまったわけである。
「成程…、新番士一人を組み伏せられない者が腰抜なれば、山村信濃とて腰抜になろうぞ…」
牧野織部はそう逆襲したものだから、初鹿野信興は面目を失った。
初鹿野信興の義兄に当たる南町奉行の山村信濃守良旺もまた、佐野善左衛門が田沼意知を襲ったその場に居合わせながらも、佐野善左衛門を取り押さえられなかった一人であり、牧野織部はその点を衝いたのであった。
そこで使番の中でも一番の古株として筆頭の位置にいる向坂藤十郎政興が直属の上司に当たる若年寄にして勝手掛を兼ねる京極高久に対してこのことを報告し、一方、目付の永井伊織直廉に対して火事場見廻を兼ねる土岐主税頼香から報告がなされた。
事は町方…、北の町奉行所による犯罪、つまりは御家人による犯罪であり、そうであれば旗本や御家人を監察する目付の出番である。
目付は本丸と西之丸に置かれており、無論、「花形」は将軍の居城である本丸にて仕える目付であり、本丸目付である彼等は10人おり、それゆえ俗に、
「十人目付」
とも称される。
その「十人目付」の中でも一番の若手である永井伊織はその前職は使番であったのだ。
即ち、永井伊織は去年、天明8(1788)年6月までは使番を勤めていたのだ。
その永井伊織と一番親しかったのが「同期の櫻」である土岐主税であったのだ。
永井伊織も土岐主税も共に天明6(1786)年の正月11日に使番に任じられた「同期の櫻」であった。
いや、「同期の櫻」は外にも大久保忠兵衛忠章と丹羽五左衛門長裕がおり、彼等4人は、
「花の天明6年正月組」
とも称される程に使番の中でもとりわけ出色の存在であった。
その4人の中でも殊に永井伊織と土岐主税が親しく、その「友情」は永井伊織が、
「一足先に…」
旗本にとっての出世の登竜門とも言うべき目付へと昇進を果たしたその当時も続いていた。
いや、旗本や御家人を監察をその職掌とする以上、表立っての交流こそなかったものの、それでも秘かに交流があった。
それゆえ土岐主税はその「友情」を伝手に、永井伊織を頼り、伊織に対して大事な使番仲間である高力修理が受けた理不尽なる仕打について打ち明けた上で、
「公明正大なる監察を…」
それを願ったのだ。
一方、永井伊織はと言うと、勿論、土岐主税のその願いを聞き届けた。いや、仮に土岐主税との間に「友情」が存していなかったとしても聞き届けたであろう。仮にも江戸の治安を預かるべき町方の与力や同心らが理不尽にも使番とその足軽に対して乱暴狼藉を働いたとなると、とても放ってはおけぬ。
だが、だからと言って、永井伊織は目付になってからまだ1年と経ってはおらず、一人で監察に当たるには荷が重過ぎる事案であった。
そこで永井伊織は「先輩」の菅沼新三郎定喜を頼ることにした。
目付の中でも一番の若手である永井伊織には9人もの「先輩」が存していたわけだが、その中でも菅沼新三郎を「助っ人」に選んだのは菅沼新三郎が、
「親切者」
として知られていたということもあるが、それ以上に永井伊織の縁者に当たるゆえ、であった。
即ち、永井伊織が父・筑前守直令の実兄、伊織にとっては伯父に当たる永井采女直丘が次男、伊織が父直令にとっては甥、伊織にとっては従兄にそれぞれ当たる十兵衛定堅は菅沼下野守定秀の養嗣子として迎えられ、その菅沼十兵衛がもうけた嫡子こそ、目付の菅沼新三郎定喜であり、それゆえ永井伊織にとっては菅沼新三郎は従甥に当たる。
齢は永井伊織の方が菅沼新三郎よりも11も上であったが、目付に就いたのは菅沼新三郎の方が1年早かった。
こうして永井伊織は目付の中でも唯一の縁者にして「親切者」である菅沼新三郎に対して事情を打ち明けた上で監察への協力を求めたのであった。
それに対して菅沼新三郎もやはりと言うべきか、
「事が事…」
それゆえに即答は出来かね、その代わりに直属の上司である若年寄の判断を仰ぐことにした。
仮に、北の与力や同心らを徹底的に監察、糾問するとして、その際には町方と、それも北のみならず南とも「全面戦争」が予期され、そこでまずは直属の上司に当たる若年寄の判断を仰ぐことにし、勝手掛を兼ねる京極高久の判断を仰ぐことにしたのだ。
若年寄もまた、目付と同じく複数おり、その中でも京極高久をその判断を仰ぐ相手として選んだのはひとえに、
「京極高久が一番信が置ける…」
それに尽きた。
こうして菅沼新三郎と永井伊織の二人は若年寄の京極高久に対して、使番の高力修理の「遭難」の件を報告し、その判断を仰いだ。
すると、それに対して京極高久は漸くに合点がいった。
それと言うのも高久が高力修理に対して、長谷川平蔵の立てたその「手柄」について、平蔵当人より録取するよう命じ、その上で修理に対してその録取の内容を書き留めさせるべく注進状を発行し、修理に対してその注進状を手交したにもかかわらず、実際には若年寄の筆頭である上席の安藤信成から平蔵の手柄が認められた、しかし高久が修理に手交した注進状とは、
「似ても似つかぬ…」
ただの書付を手渡されたものだから、
「これは一体、如何なる仕儀にて…」
高久は当然、そう騒いだものの、しかしそれに対する安藤信成の返答たるや、全くもって要領を得ないものであった。いや、はぐらかそうとする意図が見て取れた。
高久は無論、信成を追及したものの、しかしそれに対して信成は、
「言を左右にして…」
のらりくらりとかわすばかりであり、こうなってはさしもの高久もお手上げであり、遂に高久は信成の追及を諦めたのであった。
だが菅沼新三郎と永井伊織の二人の話を聞いて、高久は漸くに合点がいくと同時に、徹底的な監察、糾問を命じたのであった。
こうして勝手掛若年寄の京極高久から「御墨付」を得られた菅沼新三郎と永井伊織は外の目付にも協力を求めて北の町奉行所の与力や同心らの監察に当たることにした。
とりわけ目付の中でも一番の古株である曲淵勝次郎景露が熱心であった。
それと言うのも目付の曲淵勝次郎と北町奉行の初鹿野信興は犬猿の仲であったからだ。
初鹿野信興は天明5(1785)年9月まで使番を勤めた後、目付に異動、昇進を果たしたのだが、その時にはもう、曲淵勝次郎が目付として控えていた。
曲淵勝次郎は初鹿野信興が異動、昇進を果たす1年前の天明4(1784)年4月に小十人頭より異動、昇進を果たしており、それゆえ曲淵勝次郎は初鹿野信興の「一年先輩」に当たる。
但し、齢は初鹿野信興の方が曲淵勝次郎よりも上であり、その差は14と一回以上も年上であった。
それゆえ初鹿野信興は曲淵勝次郎をまるで子供のように扱ったものである。実際、曲淵勝次郎はその当時は、そして今もって、部屋住の身であった。
即ち、曲淵甲斐守景漸の嫡子の身であり、初鹿野信興も勿論、それを把握していたので、それゆえ初鹿野信興は曲淵勝次郎の「一年後輩」であるにもかかわらず、
「未だ、曲淵景漸が嫡子の身に過ぎぬ…」
その点を捉えて、勝次郎を「子供扱い」したのであった。
だがこれは絶対の「タブー」と言えた。それと言うのもこれは目付に限らず全ての役目に言えることだが、年齢も職歴が優先されるのだ。
そうであれば曲淵勝次郎が初鹿野信興よりも、
「たったの一年…」
先輩であるに過ぎないとは言え、しかし先輩であることに変わりはなく、目付としては後輩に当たる初鹿野信興はこの先輩である曲淵勝次郎を先輩として立てねばならなかった。永井伊織とてそうであり、己よりも年下である菅沼新三郎を先輩として立てていた。
だが初鹿野信興は曲淵勝次郎を立てるどころか子供扱いする始末であり、当然、勝次郎は激昂した。
普段の曲淵勝次郎は決して「先輩風」を吹かせることはしなかったが、しかし、己を子供扱いする初鹿野信興に対しては例外的に「先輩風」を吹かせることにした。そうでないとこの先、ずっと舐められることになるからだ。
しかし、勝次郎がどんなに「先輩風」を吹かせてみたところで、14も年嵩の初鹿野信興には、
「てんで…」
通用しなかった。それどころか信興は勝次郎をまるで赤子が駄々をこねているかのように扱う始末であり、人を小馬鹿にするとは正にこの事で、勝次郎は愈愈もって、激昂した。
するとこの当時…、初鹿野信興が使番から目付へと転じた天明5(1785)年9月の時点で目付の筆頭であった山川下総守貞幹と次席の安藤郷右衛門惟徳の二人が初鹿野信興のその、
「先輩を先輩とも思わぬ…」
傍若無人なる態度を見かねたらしく、信興を諫めた。
「仮令、年下であろうとも、曲淵勝次郎はそこもとにとっては先輩に当たるのだから、いま少し立てるように…」
目付筆頭の山川貞幹と次席の安藤郷右衛門は二人がかりでそう初鹿野信興を諫めたものである。
それに対して信興はと言うと、流石に筆頭である山川貞幹に対しては殊勝なる態度を覗かせたものの、安藤郷右衛門に対しては翻って不遜なる態度に終始した。山川貞幹にしろ、安藤郷右衛門にしろ共に初鹿野信興よりも年嵩であるにもかかわらず、である。
それでは信興は何故に態度を使い分けたのかと言うと、それはやはり、
「家督を継いでいるか否か…」
その点に求められた。
即ち、その時点では山川貞幹は既に家督を継いでいたのに対して、安藤郷右衛門は曲淵勝次郎と同じく家督を継いではおらず、それゆえ信興は安藤郷右衛門をも「子供扱い」する始末であった。のみならず、
「新番士一人、組み伏せることも出来ぬ腰抜けが一人前に説教とは…、いや、それ以前に目付の職にあるとは片腹痛し」
信興は郷右衛門に対してそう暴言を吐く始末であった。
この信興が口にした、
「新番士一人、組み伏せることも出来ぬ腰抜け…」
云々はその前年、即ち、曲淵勝次郎が小十人頭から目付へと転じた天明4(1784)年3月に発生した若年寄の田沼山城守意知が殿中にて新番士の佐野善左衛門政言に刺殺された一件を指してのものであった。
田沼意知が佐野善左衛門に脇差にて斬り付けられたその現場には目付の安藤郷右衛門を始めとし、同じく目付の井上図書頭正在や末吉善左衛門利隆、それに大目付の久松筑前守定愷や牧野大隅守成賢らが居合わせたものの、しかし、誰一人として佐野善左衛門を取り押さえる者はなく、結局、佐野善左衛門が意知に止めを刺した後で漸くに大目付であった松平對馬守忠郷が佐野善左衛門を取り押さえたのであった。
いや、この時既に、佐野善左衛門は意知に止めを刺した達成感から茫然自失の体であり、これではそれこそ子供でも容易に取り押さえられるというものであるが、それでも幕府は松平忠郷に対して200石もの加増というご褒美を与えたのであった。
それは兎も角、もう少し早くに安藤郷右衛門らが佐野善左衛門を取り押さえていたならば意知は死なずに済んだやも知れず、初鹿野信興はその点を捉えて安藤郷右衛門を詰った、いや、嘲笑したのであった。
確かにその点に関しては安藤郷右衛門としても一言の弁解もなかったが、しかし、それを信興にとやかく言われる筋合はなく、安藤郷右衛門は当然、激昂した。
いや、安藤郷右衛門ばかりではない。同じく佐野善左衛門を取り押さえなかった末吉善左衛門にしてもそうであり、仮に井上正在も目付としてこの場にいたならばやはり激昂したに違いない。しかし、幸いと言うべきか、井上正在は意知を取り押さえられなかったにもかかわらず、その翌年の天明5(1785)年9月には普請奉行に栄転を果たし、それゆえその場にはいなかった。ちなみに初鹿野信興はその井上正在の後任であった。
ともあれ、初鹿野信興は曲淵勝次郎に続いて安藤郷右衛門や末吉善左衛門までも敵に回した。
いや、敵に回したのは彼等ばかりではない、牧野織部成知にしてもそうであった。
牧野織部成知は初鹿野信興よりも一月程早くに徒頭から目付へと転じ、それゆえ初鹿野信興の「先輩」に当たるものの、しかし年下であることに加えて、未だ家督を継いではいないという事情も相俟って、やはり初鹿野信興から「子供扱い」されている一人であった。
その牧野織部は件の意知を取り押さえられなかった一人、大目付の牧野成賢の養嗣子であったのだ。
それゆえ牧野織部にしてみれば、初鹿野信興の安藤郷右衛門に対するその「嘲笑」は大事な養父・成賢に対して嘲笑されたも同然であり、それゆえ初鹿野信興は牧野織部まで敵に回してしまったわけである。
「成程…、新番士一人を組み伏せられない者が腰抜なれば、山村信濃とて腰抜になろうぞ…」
牧野織部はそう逆襲したものだから、初鹿野信興は面目を失った。
初鹿野信興の義兄に当たる南町奉行の山村信濃守良旺もまた、佐野善左衛門が田沼意知を襲ったその場に居合わせながらも、佐野善左衛門を取り押さえられなかった一人であり、牧野織部はその点を衝いたのであった。
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信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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