元気出せ、金太郎

承前 夏の人事 ~御三卿家老を巡る人事・岡部一徳の後任の清水家老として側用人の本多忠籌は北町奉行の初鹿野河内守信興を推挙す 3~

　そこで信興のぶおきは同おなじく町方まちかたの、相役あいやく…、同僚どうりょうである南みなみの町奉行まちぶぎょうの山村やまむら信濃守しなののかみ良旺たかあきらを頼たよった。

　ところで初鹿野はじかの信興のぶおきが山村やまむら良旺たかあきらを頼たよったのは、良旺たかあきらが

「相役あいやくゆえ…」

　ということもあったが、それ以上いじょうに、

「義兄あにゆえ…」

　という事情じじょうがあった。

　即すなわち、初鹿野はじかの信興のぶおきは実じつは北きた町奉行まちぶぎょう、大目付おおめつけ、そして留守居るすいまで勤つとめ上あげた依田よだ豊前守ぶぜんのかみ政次まさつぐの庶子しょし、それも所謂いわゆる、

「三男坊さんなんぼう」

　であり、そこで小納戸こなんどであった初鹿野はじかの清右衛門せいえもん信彭のぶちかの養嗣子ようししとなった。

　その信興のぶおきには姉あねがおり、その姉あねの夫君ふくんこそが山村やまむら良旺たかあきらであり、それゆえ山村やまむら良旺たかあきらと初鹿野はじかの信興のぶおきは義兄弟ぎきょうだいの間柄あいだがらであり、それこそが信興のぶおきが良旺たかあきらを頼たよった最大さいだいの理由わけであった。

　さて、こうして信興のぶおきは義兄ぎけい・良旺たかあきらに対して、

「恥はじを忍しのんで…」

　事情じじょうを打うち明あけた上うえで、どうしたら良よいものかと、つまりは、

「助たすけてくれ…」

　そう「SOS」を発信はっしんしたのであった。

　一方いっぽう、義兄ぎけい・良旺たかあきらもその「SOS」に気きづくと同時どうじに、この可愛かわいい義弟ぎていである信興のぶおきのために何なんとかしてやらねばと、そこで将軍・家斉いえなりに近侍きんじする小姓こしょうの松平まつだいら佐渡守さどのかみ乗識のりちかに相談そうだんを持もちかけた。

　山村やまむら良旺たかあきらとしては、

「事ことが事こと…」

　そこで今いまをときめく側用人そばようにんの本多ほんだ忠籌ただかずを頼たよることにした。本来ほんらいならば表向おもてむきの最高さいこう長官ちょうかんたる老中ろうじゅうの、それも筆頭ひっとうである首座しゅざの松平まつだいら定信さだのぶを頼たよるべきところであろう。定信さだのぶもまた、

「今いまをときめく…」

　老中ろうじゅうだからだ。

　だが生憎あいにく、定信さだのぶは堅物かたぶつであり、それも原理げんり原則げんそく主義者しゅぎしゃであるので、例たとえ、山村やまむら良旺たかあきらが「可愛かわいい」義弟ぎていの初鹿野はじかの信興のぶおきの件けんで相談そうだんを持もちかけたところで、

「初鹿野はじかのが配下はいかの与力よりきや同心どうしんらが悪わるい…」

　定信さだのぶは言下げんかにそう切きり捨すてるに相違そういなかった。

　いや、それが正ただしいのだが、しかし良旺たかあきらは、何なにより当人とうにんとも言うべき信興のぶおきはそのような「正論せいろん」は求もとめてはいなかった。

　そこで良旺たかあきらは「相談そうだん相手あいて」として、定信さだのぶではなく、中奥なかおくの最高さいこう長官ちょうかんたる側用人そばようにんの本多ほんだ忠籌ただかずを選えらんだのであった。忠籌ただかずなれば、定信さだのぶとは違ちがい、

「青臭あおくさい正論せいろん…」

　それを吐はく恐おそれはないと思おもわれたからだ。だがやはり、

「生憎あいにく…」

　良旺たかあきらは忠籌ただかずに伝手つてがなく、そこで小姓こしょうの松平まつだいら乗識のりちかを介かいすることしたのだ。

　小姓こしょうは一応いちおうは若年寄わかどしより支配しはいの御役目おやくめであり、しかしその実じつ、中奥なかおくにて将軍に近侍きんじするところから中奥なかおくの最高さいこう長官ちょうかんの支配しはいを受うけることとなり、側用人そばようにんが置おかれずに御側御用取次おそばごようとりつぎのみが置おかれている場合ばあいには中奥なかおくの最高さいこう長官ちょうかんは御側御用取次おそばごようとりつぎということになり、今いまのように側用人そばようにんが起おかれている場合ばあいには側用人そばようにんが最高さいこう長官ちょうかんとなり、御側御用取次おそばごようとりつぎは副長官ふくちょうかんとなり、側用人そばようにんは、或あるいは御側御用取次おそばごようとりつぎは中奥なかおくの最高さいこう長官ちょうかんとして小納戸こなんど頭取とうどりや小姓こしょう頭取とうどり、或あるいはヒラの小姓こしょうや小納戸こなんどらを差配さはいする。

　その小姓こしょうである松平まつだいら乗識のりちかなれば当然とうぜん、事実上じじつじょうの上司じょうしに当あたる側用人そばようにんの本多ほんだ忠籌ただかずに伝手つてがあるに相違そういなく、そこで良旺たかあきらはこの小姓こしょうである松平まつだいら乗識のりちかを頼たよることにしたのだ。

　いや、松平まつだいら乗識のりちかの外ほかにも小姓こしょうやそれに小納戸こなんどは数多あまたいたが、その中なかから良旺たかあきらが乗識のりちかを選えらんだのは外ほかでもない、

「松平まつだいら乗識のりちかが娘婿むすめむこに当あたるから…」

　それに尽つきた。

　松平まつだいら乗識のりちかは山村やまむら良旺たかあきらの長女ちょうじょを娶めとっており、それゆえ良旺たかあきらは乗識のりちかの岳父がくふに当あたる。

　のみならず、乗識のりちかの実父じっぷにして作事さくじ奉行ぶぎょうの松平まつだいら織部正おりべのかみ乗尹のりただとも親したしかった。

　山村やまむら良旺たかあきらは松平まつだいら乗尹のりただとは十代将軍・家治いえはるがまだ次期じき将軍として西之丸にしのまるにて暮くらしていた頃ころより、正確せいかくには宝暦ほうれきの頃ころよりの付つき合あいであった。共ともに小納戸こなんどとして家治いえはるに仕つかえているうちに親したしく付つき合あうようになったのだ。良旺たかあきらが長女ちょうじょを乗尹のりただが嫡男ちゃくなんである乗識のりちかの許もとへと嫁とつがせたのも斯かかる事情じじょうによる。

　そして今では山村やまむら良旺たかあきらは町奉行まちぶぎょうとして、松平まつだいら乗尹のりただは作事さくじ奉行ぶぎょうとして共ともに芙蓉之間ふようのまを殿中でんちゅう席せきとし、常日頃つねひごろより顔かおを合あわせてもいた。

　そこで良旺たかあきらはまず乗尹のりただに事情じじょうを打うち明あけた上うえで、乗尹のりただを介かいして乗職のりちかへと更さらに事情じじょうを伝つたえて貰もらい、とさしずめ「伝言でんごんゲーム」の要領ようりょうにて、乗職のりちかに繋つなぎを取とり、そうして側用人そばようにんの本多ほんだ忠籌ただかずに助たすけを求もとめたのであった。

　すると側用人そばようにんの本多ほんだ忠籌ただかずは、

「待まってました…」

　とばかり、早速さっそく、動うごいた。

　即すなわち、忠籌ただかずはその側用人そばようにんとしての権力けんりょくをフルに行使こうしし、まずは長谷川はせがわ平蔵へいぞうから高力こうりき修理しゅりとその足軽あしがるに対する暴行ぼうこう事件じけんを召上めしあげた。

　高力こうりき修理しゅりとその足軽あしがるに対する暴行ぼうこう事件じけんの所謂いわゆる、

「端緒たんちょ」

　それに最初さいしょに触ふれたのは市中しちゅう見廻みまわり中であった平蔵へいぞう配下はいかの同心どうしんであり、それゆえ事件じけんの探索たんさくは平蔵へいぞうが当あたることになったのだが、これを忠籌ただかずは召上めしあげ、その上うえで月番つきばんであった南みなみの町奉行所まちぶぎょうしょへと事件じけんの探索たんさくを「下賜かし」したのであった。

　無論むろん、良旺たかあきらが奉行ぶぎょうとして率ひきいる南みなみの町奉行所まちぶぎょうしょに事件じけんの探索たんさくを任まかせることで、いや、はっきり言えば事件じけんをまともに探索たんさくさせないことで、

「お宮入みやいり…」

　それを狙ねらった。事件じけんが「お宮入みやいり」になれば、高力こうりき修理しゅりとその足軽あしがるに対して無体むたいな、理不尽りふじんな暴行ぼうこうを働はたらいた北きたの与力よりきや同心どうしんらが罰ばっせられることもなく、そうなれば初鹿野はじかの信興のぶおきも与力よりきや同心どうしんらを率ひきいる奉行ぶぎょうとしてその管理かんり責任せきにんを問とわれる心配しんぱいもなくなるからだ。

　忠籌ただかずは次ついで初鹿野はじかの信興のぶおきに対して、高力こうりき修理しゅりが若年寄わかどしよりに提出ていしゅつする筈はずであった注進状ちゅうしんじょうを書かき直なおさせた上うえで、忠籌ただかずより若年寄わかどしよりのそれも筆頭ひっとうである上席じょうせきの安藤あんどう對馬守つしまのかみ信成のぶなりへと届とどけたのであった。

　この間かん、平蔵へいぞうは内心ないしんでは納得なっとくがゆかなかったが、しかし、側用人そばようにんには逆さからい難がたく、そこで不本意ふほんいではあったが、素直すなおに事件じけんを南みなみの町奉行所まちぶぎょうしょに譲ゆずり、更さらには初鹿野はじかの信興のぶおきに対して、高力こうりき修理しゅりに語かたったのと同おなじ内容ないようを、つまりは己おのれの手柄てがらを語かたって聞きかせ、信興のぶおきはそれを書状しょじょうに認したためたのであった。

　いや、信興のぶおきとて平蔵へいぞうから己おのれの手柄話てがらばなしを聞きかされる羽目はめになったわけだから、その点てん、信興のぶおきにとっても不本意ふほんいであったと言うべきか。

　ともあれ、信興のぶおきもかつては使番つかいばんを勤つとめたことがあるので、この手ての書状しょじょうの作成さくせいはお手ての物ものであり、平蔵へいぞうから録取ろくしゅした内容ないようを書状しょじょうにして認したためると、これを注進状ちゅうしんじょうとして義兄ぎけいの良旺たかあきら、そしてその婿むこの乗職のりちかを介かいして忠籌ただかずへと渡わたると、忠籌ただかずから若年寄わかどしより上席じょうせきの安藤あんどう信成のぶなりへと手渡てわたされたのであった。

　これが忠籌ただかずが口くちにした、

「初鹿野はじかの河内かわちの不首尾ふしゅび」

　その一部いちぶ始終しじゅうであった。

　いや、事件じけんはこれで終おわらなかった。

　それと言うのも本来ほんらいならばこれで事件じけんは有耶無耶うやむやになる筈はずであり、そうなれば「初鹿野はじかの河内かわちの不首尾ふしゅび」も明あきらかになることはなかったであろう。

　だがそうはならなかったのはまず、財政ざいせいを担になう勝手かって掛がかりを兼かねる若年寄わかどしよりの京極きょうごく備前守びぜんのかみ高久たかひさが騒さわぎ出だしたことによる。

　即すなわち、高力こうりき修理しゅりに対して平蔵へいぞうの録取ろくしゅを命めいじ、併あわせてその録取ろくしゅの内容ないようを書かき留とめさせるべく注進状ちゅうしんじょうを発行はっこう、手交しゅこうしたのは外ほかならぬ京極きょうごく高久たかひさであり、そうであれば高力こうりき修理しゅりより京極きょうごく高久たかひさへと、その平蔵へいぞうよりの録取ろくしゅの内容ないようが認したためられた注進状ちゅうしんじょうが提出ていしゅつされて然しかるべきであった。

　ところが実際じっさいには全まったくの畑違はたけちがいとも言うべき側用人そばようにんの本多ほんだ忠籌ただかずからそれも京極きょうごく高久たかひさではなく安藤あんどう信成のぶなりに対して提出ていしゅつがあったものだから、京極きょうごく高久たかひさは騒さわぎ出だしたのであった。

　しかも、その注進状ちゅうしんじょうたるや、京極きょうごく高久たかひさが高力こうりき修理しゅりのために発行はっこうし、そして修理しゅりに手渡てわたしたそれとは正まさに、

「似にても似につかぬ…」

　ただの書付かきつけに過すぎず、これでは京極きょうごく高久たかひさが騒さわぎ出だしたのも当然とうぜんであった。

　騒さわぎ出だすと言えば、高力こうりき修理しゅりの同僚どうりょうである使番つかいばんにしても同おなじであった。

　使番つかいばんは高力こうりき修理しゅりを含ふくめて38人おり、しかしこの時…、寛政元(1789)年4月の時点じてんでは4人が諸国しょこくに巡視じゅんし、つまりは出張しゅっちょうの途上とじょうにあり、それゆえ高力こうりき修理しゅりを含ふくめて34人の使番つかいばんがこの江戸えどにおり、高力こうりき修理しゅりの「遭難そうなん」に33人の相役あいやくは皆みな、

「足並あしなみを揃そろえて…」

　憤慨ふんがいしたものである。

　高力こうりき修理しゅりは足軽あしがると共ともに、北きたの与力よりきや同心どうしんらに襲おそわれてからというもの、登城とじょうしなくなった。被害者ひがいしゃであるとは言え、使番つかいばんにとっては命いのちよりも大事だいじなる注進箱ちゅうしんばこを毀こわされた上うえ、その中なかにしまった注進状ちゅうしんじょうまで奪うばわれそうになったので、修理しゅりは面目めんぼくを失うしない、爾来じらい、登城とじょうしなくなった。

　当然とうぜん、相役あいやくは不審ふしんに思おもい、そこで使番つかいばんは談合だんごうの上、井上いのうえ図書ずしょ正賢まさよしと鳥居とりい権之助ごんのすけ忠洪ただひろ、そして渡邊わたなべ久蔵きゅうぞう胤つづくの3人を高力こうりき修理しゅりの許もとへと差さし向むけることにした。

　それと言うのも井上いのうえ図書ずしょと鳥居とりい権之助ごんのすけ、そして渡邊わたなべ久蔵きゅうぞうの3人は高力こうりき修理しゅりとは所謂いわゆる、

「同期どうきの櫻さくら」

　であったからだ。即すなわち、彼等かれら4人は去年きょねんの天明8(1788)年正月11日に使番つかいばんに任にんじられたばかりであり、その中でも高力こうりき修理しゅりは井上いのうえ図書ずしょと鳥居とりい権之助ごんのすけ、渡邊わたなべ久蔵きゅうぞうの3人に先駆さきがけて、早はやくも火口番ひのぐちばんの兼務けんむを命めいじられた。それだけ高力こうりき修理しゅりが優秀ゆうしゅうである証あかしと癒えた。

　ともあれこうして井上いのうえ図書ずしょと鳥居とりい権之助ごんのすけ、そして渡邊わたなべ久蔵きゅうぞうの3人は高力こうりき修理しゅりの屋敷やしきへと足あしを運はこび、登城とじょうせずに屋敷やしきにて篭居ろうきょしている事情じじょうを質ただしたのであった。

　いや、高力こうりき修理しゅりのその、まだ完全かんぜんには癒いえてはいない怪我けがの痕あとを目まの当あたりにした彼等かれらはその怪我けがに息いきを呑のむと同時どうじに、それこそが高力こうりき修理しゅりが登城とじょうしなくなった理由わけであると察さっしたものである。

　それでもその怪我けがが果はたして如何いかなる事情じじょうによるものかは、さしもの井上いのうえ図書ずしょらもこの時点じてんでは分わからず、そこでとりあえず修理しゅりに対して登城とじょうしなくなった理由わけを質ただしたのであった。

　それに対して修理しゅりは実じつに口惜くちおしげな様子ようすにて、北きたの与力よりきや同心どうしんらの「乱暴らんぼう狼藉ろうぜき」の一部いちぶ始終しじゅうを打うち明あけたのであった。

　それに対して井上いのうえ図書ずしょにしろ鳥居とりい権之助ごんのすけにしろ、そして渡邊わたなべ久蔵きゅうぞうにしろ仰天ぎょうてんしたものである。

　何なにしろ江戸えどの治安ちあんを預あずかるべき立場たちばにいる町方まちかたの与力よりきや同心どうしんらがこともあろうに使番つかいばんに乱暴らんぼう狼藉ろうぜきを働はたらくなど、前代未聞ぜんだいみもんであったからだ。

　高力こうりき修理しゅりは己おのれの足軽あしがる共々ともども、襲おそった相手あいての顔かおこそ確しかとは見みてはいなかったものの、それでも、

「丸まるに花菱はなびし…」

　その家紋かもんをあしらった提燈ちょうちんを賊ぞくの群むれが手てにしていたことは覚おぼえており、長谷川はせがわ平蔵へいぞうにそのことを打うち明あけるや、その家紋かもんが北きたの町奉行まちぶぎょうである初鹿野はじかの信興のぶおきのそれであることを告つげられたのであった。