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田沼意知暗殺への途 ~新番士・佐野善左衛門政言という男~

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 矢部やべ主膳しゅぜんによると、佐野さの善左衛門ぜんざえもんいみな政言まさこと矢部やべ主膳しゅぜんおなじく、蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶんかしらを、新番しんばんがしらつとめる三番組さんばんぐみ番士ばんしであった。

「その…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんなれば若年寄わかどしより暗殺あんさつさぬと?」

 治済はるさだ矢部やべ主膳しゅぜんにそうたずねると、主膳しゅぜんしばし、黙考もっこうしてから、

しかとは断言だんげん出来できかねまするが、ほかには…」

 おもかないと、治済はるさだにそう示唆しさした。

左様さようか…」

 治済はるさだすこ失望しつぼうしたようにそうおうずると、矢部やべ主膳しゅぜんぐにそうと気付きづいて、

「されば佐野さの善左衛門ぜんざえもん田沼たぬまさま…、ちち主殿頭とのものかみさまにはからぬ感情かんじょういておりもうし…」

 主膳しゅぜんあわててそうつくろった。

 するとこれには治済はるさだおおいに興味きょうみかれたらしく、主膳しゅぜんくわしい説明せつめいもとめた。

 矢部やべ主膳しゅぜん説明せつめいによれば、佐野さの善左衛門ぜんざえもん人一倍ひといちばい虚栄心きょえいしんつよく、立身出世りっしんしゅっせ欲望よくぼうかれ、そこで佐野さの善左衛門ぜんざえもんはその虚栄心きょえいしんたすべく、つまりは立身出世りっしんしゅっせたすべく田沼たぬま意次おきつぐ登城とじょうまえや、あるいは下城げじょう意次おきつぐもとへと日参にっさんしてはおのれ立身出世りっしんしゅっせ陳情ちんじょうしたそうで、そのさい佐野さの善左衛門ぜんざえもんわずかではあるが、金子きんすをも、ようまいないたずさえていたそうな。

 ここまではくある「陳情ちんじょう風景ふうけい」と言えたが、しかし、意次おきつぐ佐野さの善左衛門ぜんざえもんからのまいない受取うけとることはなかった。

 いや、だからと言って意次おきつぐ清廉潔白せいれんけっぱく政治家せいじかというわけではなく、まいないがく問題もんだいがあった。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん持参じさんしたまいないまさしく、

すずめなみだ…」

 そのものであり、立身出世りっしんしゅっせ対価たいかとしては到底とうてい釣合つりあわないほどの「低価格ていかかく」であった。

 いや、これでたとえば佐野さの善左衛門ぜんざえもん陳情ちんじょうが―、佐野さの善左衛門ぜんざえもんのぞ役職ポストが、廣敷番之頭ひろしきばんのがしら納戸なんど組頭くみがしら鉄砲てっぽう箪笥たんす奉行ぶぎょうであったならば、あるいはそれよりもすこ格上かくうえ新番組しんばんくみがしら程度ていどであったならば、仮令たとえ立身出世りっしんしゅっせ対価たいかとしては釣合つりあわない「低価格ていかかく」なまいないであったとしてもだ、佐野さの善左衛門ぜんざえもん当人とうにん実力じつりょくがあれば、意次おきつぐとしてもほねることにやぶさかではなかっただろう。

 だが実際じっさいには佐野さの善左衛門ぜんざえもんのぞんだ役職ポストなんと、従六位じゅろくい布衣ほいやく百人組之頭ひゃくにぐみのがしらであり、それが無理むりならおなじく従六位じゅろくい布衣ほいやく小普請こふしんぐみ支配しはいか、あるいは新番しんばんがしらといった具合ぐあいに、到底とうてい無茶むちゃなものであった。いや、非常識ひじょうしきなものであった。

 なにしろ百人組之頭ひゃくにぐみのがしらと言えば、小普請こぶしんぐみ支配しはいとも役高やくだかが3千石と、これは従六位じゅろくい布衣ほいやくなかでもトップクラスであり、新番しんばんがしらは2千石高でそれにぐ。

 そもそも従六位じゅろく布衣ほいやく出世しゅっせ機会きかいめぐまれている両番りょうばん家筋いえすじ―、番入ばんいり、すなわち、就職しゅうしょくさいには小姓こしょう組番ぐみばんあるいは書院番しょいんばん番入ばんいり、就職しゅうしょくすることが出来でき家柄いえがらである両番りょうばん家筋いえすじ出身しゅっしん旗本はたもとでも中々なかなかけぬ役職ポストであり、ひるがえって佐野さの善左衛門ぜんざえもんはと言うと、それよりも一段階ワンランクちる大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもとであった。

 大番家筋おおばんいえすじとは番入ばんいり、就職しゅうしょくさいには両番りょうばんよりも格下かくした大番おおばんあるいは新番しんばん番入ばんいり、就職しゅうしょくすることが出来できるにぎず、それゆえ両番りょうばん家筋いえすじ出身しゅっしん旗本はたもとでさえ生半なまなかにはけぬ従六位じゅろくい布衣ほいやくに、大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもとこうなどとはおおよそ、

夢物語ゆめものがたり…」

 それにひとしい。いや、佐野さの善左衛門ぜんざえもん場合ばあい新番しんばん組頭くみがしらなどの段階だんかいうえ従六位じゅろくい布衣ほいやくになろうというのではない、いきなり従六位じゅろくい布衣ほいやくになりたいというのだから、それは最早もはや、「寝言ねごと」であった。

 これはたとえるならば入省にゅうしょうしたての官僚かんりょう、それもノンキャリアがいきなり局長きょくちょうになりたいとねがようなものであり、如何いか非常識ひじょうしきかがかるであろう。

 如何いかいまときめく意次おきつぐとて、これでは到底とうてい佐野さの善左衛門ぜんざえもん陳情ちんじょうなどかなえてやることは出来できなかった。

 意次おきつぐ佐野さの善左衛門ぜんざえもんまいない押戻おしもどしたうえで、

日々ひびつとめにせいせば、おのずとみちひらけよう…」

 真面目まじめにコツコツと、仕事しごとはげめばいずれは出世しゅっせ出来できるであろうと、意次おきつぐ至極しごく常識的じょうしきてき佐野さの善左衛門ぜんざえもんさとしたそうな。

 だが佐野さの善左衛門ぜんざえもんはいたく自尊心じそんしん傷付きずつけられたようで、爾来じらい意次おきつぐたいしてからぬ印象いんしょういているらしい。

 以上いじょうのことは矢部やべ主膳しゅぜん佐野さの善左衛門ぜんざえもんより直接ちょくせついたはなし、と言うよりは周囲しゅうい相役あいやく同僚どうりょうにぶちまけたことだそうで、佐野さの善左衛門ぜんざえもんより意次おきつぐ相手あいてにされなかった不満ふまんをぶちまけられた相役あいやく、それも三番組さんばんぐみ新番しんばんみな佐野さの善左衛門ぜんざえもんのその不満ふまんみみかたむけつつも内心ないしんでは佐野さの善左衛門ぜんざえもんのその非常識ひじょうしきぶりにあきてていた。無論むろん矢部やべ主膳しゅぜんもその一人ひとりであった。

「それにしても、その佐野さの善左衛門ぜんざえもんとやらは何故なにゆえかる、道理どうりわきまえぬ陳情ちんじょうおよんだのであろうかの…、番入ばんいりをたせたからにはまったくの白痴はくちというわけでもなかろうに…」

 たしかに治済はるさだの言うとおり、まったくの白痴はくち阿呆あほうたぐいでは到底とうてい番入ばんいり、就職しゅうしょく覚束おぼつかないであろう。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん大番家筋おおばんいえすじ出身しゅっしん旗本はたもととして一応いちおう新番しんばん番入ばんいり、就職しゅうしょくたせたからには最低限さいていげん常識じょうしきそなわっているはずであった。

 だがその佐野さの善左衛門ぜんざえもん意次おきつぐたいしてしたくだん陳情ちんじょう常識じょうしきからは到底とうてい、かけはなれたものであり、これは一体いったい、どう解釈かいしゃくすればいのかと、治済はるさだあたまなやませた。

「それはやはり…、田沼たぬまさま存在そんざい佐野さの善左衛門ぜんざえもんをして、道理どうりわきまえぬ言動げんどう駆立かりたてさせたのやもれませぬ…」

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんの「非常識ひじょうしき」は田沼たぬま意次おきつぐ存在そんざいにある…、矢部やべ主膳しゅぜんのその言分いいぶん治済はるさだ愈愈いよいよもってくびかしげ、主膳しゅぜんにその「真意しんい」をただした。

「されば佐野家さのけもとただせば田沼家たぬまけ主筋しゅすじにて…」

 矢部やべ主膳しゅぜんによると、すなわち、それは佐野さの善左衛門ぜんざえもんによると、だが、佐野さの善左衛門ぜんざえもん祖先そせんである越前守えちぜんのかみ秀綱ひでつな越前守えちぜんのかみ盛綱もりつな嫡子ちゃくしにして、つまりは佐野さの善左衛門ぜんざえもん佐野家さのけ嫡流ちゃくりゅうであるのにたいして、いま田沼家たぬまけ祖先そせんである九郎くろう重綱しげつな越前守えちぜんのかみ秀綱ひでつなおとうと、つまりは越前守えちぜんのかみ盛綱もりつな庶子しょしであり、それゆえ意次おきつぐさら意知おきとも佐野家さのけ庶流しょりゅうぎないということで、

佐野家さのけ庶流しょりゅうぎぬ田沼たぬま父子ふしそろうて、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりという顕職けんしょくめているのだから、佐野家さのけ嫡流ちゃくりゅうたるおのれとて顕職けんしょくに…」

 従六位じゅろくい布衣ほいやく程度ていどいてもおかしくはない、いや、それどころかかねば道理どうりわぬと、佐野さの善左衛門ぜんざえもんはやはりそのようにも三番組さんばんぐみ新番しんばん吹聴ふいちょうしていたそうな。

 治済はるさだはそれをいて佐野さの善左衛門ぜんざえもんというおとこ馬鹿ばか加減かげん心底しんそこあきてたが、しかし同時どうじにその馬鹿ばか加減かげんが、

使つかえる…」

 ともおもったものである。無論むろん意知暗殺おきともあんさつに、という意味いみであった。

「あの…、おそれながら…」

 矢部やべ主膳しゅぜんはその言葉ことばどおり、如何いかにも、

おそおそる…」

 といったていくちはさんだ。それも、治済はるさだ顔色かおいろうかがいつつ、である。

 それにたいして治済はるさだ矢部やべ主膳しゅぜん極力きょくりょく威圧感いあつかんあたえぬよう、

ゆるす。腹蔵ふくぞうなくもうすがいぞ…」

 主膳しゅぜん発言はつげんうながした。威圧感いあつかんあたえたがために、くちかいようじさせては結果けっか有益ゆうえき情報じょうほうられぬおそれがありたからだ。

 治済はるさだのその配慮はいりょこうそうして、矢部やべ主膳しゅぜん安心あんしんした様子ようすで、「ははっ」とおうずるや、饒舌じょうぜつになった。

「されば上様うえさま佐野さの善左衛門ぜんざえもん使嗾しそうあそばされる…、佐野さの善左衛門ぜんざえもんけしかけて田沼たぬまさまを…、若年寄わかどしより山城様やましろさま討果うちはたさせる所存しょぞんにて?」

 矢部やべ主膳しゅぜんよりそうわれた治済はるさだ咄嗟とっさ

今更いまさらなにかりきったことを…」

 そうおもったものの、しかし、それはこえにはさずに、「如何いかにも」と首肯しゅこうした。

「なれどそれでは上様うえさま家中かちゅうるいおよぶやもれませぬな…」

 矢部やべ主膳しゅぜんむずかしい顔付かおつきでそうげたので、治済はるさだおもわず、

るいおよぶ、とな?」

 そう聞返ききかえしていた。

御意ぎょい…」

「そは…、一体いったい如何いか意味いみぞ?」

 治済はるさだ矢部やべ主膳しゅぜんくわしい説明せつめいもとめた。

 すなわち、新番しんばん各番組毎かくばんぐみごとに、トップである番頭ばんがしらもと直属ちょくぞく部下ぶかとして1人の組頭くみがしらかれ、さらにその組頭くみがしらもとに20人の番士ばんしはいされていた。

 矢部やべ主膳しゅぜん所属しょぞくする三番組さんばんぐみれいると、番頭ばんがしらである蜷川にながわ相模守さがみのかみ親文ちかぶんもと組頭くみがしらである児島こじま孫助正恒まごすけまさつねがおり、その児島こじま孫助まごすけもと矢部やべ主膳しゅぜんや、あるいは佐野さの善左衛門ぜんざえもんといった20人の番士ばんしがおり、彼等かれらヒラ番士ばんし実際じっさい統括とうかつ管理かんりするのは組頭くみがしらであり、番頭ばんがしらは「おかざり」にぎなかった。

 そしてこの20人のヒラ番士ばんしだが、5人ごとグループけられる。

 これはくだんの「四交代制よんこうたいせい」にわせてのものである。

 すなわち、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番あさばん、昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番とうばん、宵五つ(午後8時頃)よりよく深夜しんやの暁八つ(午前2時頃)までの宵番よいばん、そして暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番ねずのばんと、「武官ぶかん五番ごばんかた」の勤務シフトである「四交代制よんこうたいせい」のことで、新番しんばんにおいては、それも各番組かくばんぐみ20人の番士ばんしかかえる新番しんばんにおいては各番組かくばんぐみ番士ばんしを5人ごとグループけをすることで、その「四交代制よんこうたいせい」にわせていた。

 20人の番士ばんしを5人ごとグループけすればちょうど、4班にけられるからだ。

 さてそこで三番組さんばんぐみだが、佐野さの善左衛門ぜんざえもんぞくするグループだが、三番組さんばんぐみなかでも最古参さいこさん萬年まんねん六三郎ろくさぶろう頼豊よりとよやそれに古参こさん猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ正胤まさたね、それに佐野さの善左衛門ぜんざえもんより「一期いっき先輩せんぱいたる田澤たざわ傳左衛門でんざえもん正斯まさこれ、そして佐野さの善左衛門ぜんざえもんの「一期いっき後輩こうはいたる白井主税しらいちから利庸としつねの4人と佐野さの善左衛門ぜんざえもんとで構成こうせいされていた。

 これは新番しんばんかぎったことではなく、「武官ぶかん五番ごばんかたすべてにまることだが、各番組かくばんぐみにおけるかくグループ構成員メンバーもとい番士ばんし極力きょくりょく年次ねんじことなるもの構成こうせいするよう心掛こころがけていた。

 古参こさん番士ばんしだけで、あるいはそのぎゃく新参しんざん番士ばんしだけでませては、つまりはグループけすれば、番組ばんぐみ古参同士こさんどうし新参しんざん同士どうしかたよってしまい、結果けっか番組ばんぐみ空気くうきが「風通かぜとおし」のわるいものとなってしまう。

 それをけるべく、年次ねんじことなる番士ばんしグループ構成こうせいするよう心掛こころがけていたのだ。

 そうすれば古参こさん番士ばんし新参しんざん番士ばんしたいして、番士ばんしとしてのつとかたといったものをおしみちびいてやることも出来できよう、そうなれば番組ばんぐみ空気くうきおのずと、「風通かぜとおし」のいものとなろう。

 このあたりは現代げんだい常識じょうしきがそのまま通用つうようする。

 さて、三番組さんばんぐみだが、それも20人の番士ばんし年次ねんじだが、宝暦9(1759)年を筆頭ひっとうに、宝暦13(1763)年、明和6(1769)年、安永3(1774)年、安永7(1778)年、天明元(1871)年、そして去年きょねんの天明2(1782)年にかれていた。

 このうち、宝暦9(1759)年ぐみ勿論もちろん萬年まんねん六三郎ろくさぶろうであり、ちなみに宝暦9(1759)年ぐみほかにはだれもおらず、これにぐ宝暦13(1763)年ぐみもまた同様どうように、比留ひる所左衛門しょざえもん正珍まさよしただ一人ひとりであった。

 この宝暦9(1759)年ぐみと宝暦13(1763)年ぐみのぞいては、ほか年次ねんじについてはすべ複数ふくすう番士ばんしがおり、たとえば佐野さの善左衛門ぜんざえもんは安永7(1778)年ぐみ、安永7(1778)年6月に番入ばんいり、この三番組さんばんぐみ新番しんばんとして就職しゅうしょくたし、同期どうきには矢部やべ主膳しゅぜんとそれに松波まつなみ十左衛門じゅうざえもん貞恒さだつねがいた。

 それゆえ佐野さの善左衛門ぜんざえもんも「同期どうきさくら」である矢部やべ主膳しゅぜん松波まつなみ十左衛門じゅうざえもんとはしたしく、くだん田沼たぬま意次おきつぐたいする不満ふまんらしたらしい。

 だがそれはあくまで、プライベートにおいてであり、仕事しごとにおいては「同期どうきさくらゆえおなグループになることはなかった。

 そこでかり佐野さの善左衛門ぜんざえもん殿中でんちゅうにて抜刀ばっとうし、若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきともりかかったところで、しかも、

「みすみすと…」

 意知おきとも討果うちはたしたとしても、グループちが矢部やべ主膳しゅぜんるいおよぶことはない。つまりは佐野さの善左衛門ぜんざえもん取鎮とりしずめなかった責任せきにんわれることはないだろう。

 グループちがえば当然とうぜん勤務シフトちがうというわけで、佐野さの善左衛門ぜんざえもん殿中でんちゅうにて抜刀ばっとう意知おきとも討果うちはたそうとしているころ矢部やべ主膳しゅぜんはまだ自邸じていにいるか、あるいは御城えどじょうへと登城とじょうすべく、まさにその「途上とじょう」にあるか、しくは玄関げんかん到着とうちゃくしたあたりか、すくなくとも殿中でんちゅうには、それも「事件現場じけんげんば」となる周辺しゅうへんにいないことだけはたしかであった。

 武官ぶかん五番方ごばんかたなかでも新番しんばんはその詰所つめしょである新番所しんばんしょせまく、それゆえ、まだ勤務シフトでない番士ばんしまでめる余裕よゆうはなかった。

 新番しんばん新番所しんばんしょはいるのは勤務シフトギリギリであり、それまでは、それもその直前ちょくぜんまでは玄関げんかんにて待機たいきしていた。

 そして勤務シフト直前ちょくぜんになってようやくに、新番所しんばんしょへとあしはこぶことが出来できるのだ。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん殿中でんちゅうにて抜刀ばっとう意知おきともりかかるころ佐野さの善左衛門ぜんざえもんとはグループちが矢部やべ主膳しゅぜんがそのにいないことはたしかであるのはかる事情じじょうによる

 だが佐野さの善左衛門ぜんざえもんおなグループである萬年まんねん六三郎ろくさぶろう猪飼いかい五郎左衛門ごろうざえもん田澤たざわ傳左衛門でんざえもん白井主税しらいちからといった面々めんめんはそうはいかない。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんおなグループ構成員メンバーとして、佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知おきとも暗殺あんさつゆるした責任せきにんからのがれることは出来できまい。

「されば、萬年まんねん六三郎ろくさぶろう田澤たざわ傳左衛門でんざえもんかく猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ白井主税しらいちから当家とうけと…、一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさま多少たしょうなりとも所縁ゆかりものにて…」

 成程なるほど矢部やべ主膳しゅぜんの言うとおり、猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ白井主税しらいちから二人ふたり治済はるさだとは所縁ゆかりものであり、猪飼いかい五郎兵衛ごろべえはかつてはここ一橋ひとつばしにてつかえていたものであり、いまでも縁者えんじゃ猪飼いかい茂左衛門もざえもんやその実弟じってい三郎左衛門さぶろうざえもん正倫共々まさともともども、この一橋ひとつばしにてつかえていた。

 一方いっぽう白井主税しらいちからもまた、ちち白井しらい直次郎なおじろう尊利たかとしかつてはここ一橋ひとつばしにてつかえていた関係かんけい治済はるさだとは所縁ゆかりがあり、さら白井主税しらいちから三男さんなん末五郎すえごろう利次としつぐ旗本はたもと高林たかばやし次郎兵衛じろべえ爲次ためつぐ養嗣子ようししとしてむかえられており、三男さんなん末五郎すえごろう養父ようふとなった高林たかばやし次郎兵衛じろべえじつ田安家臣たやすかしん山中やまなか七左衛門しちざえもん玄祖よしもと次男じなんであり、高林たかばやし次郎兵衛じろべえ実母じつぼは、つまりは山中やまなか七左衛門しちざえもん妻女さいじょ一橋ひとつばし家臣かしん内藤ないとう友右衛門ともえもん助政すけまさむすめゆきであったのだ。

 それゆえ白井主税しらいちからちちと、さら三男さんなんを―、三男さんなん養家ようかつうじて一橋ひとつばしと、治済はるさだ所縁ゆかりがあったのだ。

 矢部やべ主膳しゅぜんもまた、治済はるさだとは叔母おばであるむめかいして治済はるさだとは所縁ゆかりがあるので、それも縁続えんつづきであったので、一橋ひとつばし内情ないじょうにはくわしかった。

 ともあれ、佐野さの善左衛門ぜんざえもん意知暗殺おきともあんさつゆるしては、治済はるさだ所縁ゆかりがある猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ白井主税しらいちからまでが、佐野さの善左衛門ぜんざえもんとはおなグループ構成員メンバーとしてなんらかの「おとがめ」をけるのは必定ひつじょうであり、そのてん矢部やべ主膳しゅぜんあんじていたのだ。

 つまりは一橋ひとつばし家臣かしん縁者えんじゃである猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ白井主税しらいちから二人ふたりばっせられてもいのかと、矢部やべ主膳しゅぜん一橋ひとつばし当主とうしゅたる治済はるさだにそのてんたしかめていたのだ。

 治済はるさだもそうと気付きづくや、矢部やべ主膳しゅぜんのその「懸念けねん」を一笑いっしょうした。

大事だいじすには多少たしょう犠牲ぎせい付物つきものぞ…、いや、とがめともうしても精々せいぜい小普請こぶしんおとされる程度ていどぞ…」

 治済はるさだ平然へいぜんとそう言放いいはなった。

 小普請こぶしんおとされる…、それは旗本はたもとにとっては「死刑しけい宣告せんこく」も同然どうぜんであった。

 無論むろん切腹せっぷくなどとはちがい、実際じっさいいのちまでられるわけではないものの、それでも小普請こぶしんおとされるということは、「やくめん」、つまりは馘首クビ意味いみする。

 老齢ろうれいため依願いがん退職たいしょく小普請こぶしんりをたしたものとはことなり、この所謂いわゆる

とがめ小普請こぶしん

 ともなれば再起さいき再就職さいしゅうしょく容易よういではない。一生いっしょう小普請こぶしんのまま、つまりは無職ニート旗本はたもととしてえる可能性かのうせいたかかった。

 矢部やべ主膳しゅぜんがそんなことをかんがえていると、治済はるさだぐにそうと気付きづいたのであろう、

「いや、仮令たとい佐野さの善左衛門ぜんざえもん山城おきともめに刃傷にんじょうおよびたるために、猪飼いかい五郎兵衛ごろべえ白井主税しらいちからがそのあおりをけて犠牲ぎせいになったとしてもだ…、小普請こぶしんおとされたとしても、それは一時いっときのことにぎぬ…」

 かならずや、ふたた番入ばんいり、再就職さいしゅうしょくさせてやると治済はるさだ示唆しさした。

 成程なるほど次期じき将軍しょうぐん実父じっぷであれば、その権威けんいをもってすればそれも可能かのうであろう。

「いや、矢部やべ主膳しゅぜんよ、この治済はるさだ主膳しゅぜんがことはけっして犠牲ぎせいにはせぬゆえ安心あんしんせい…」

 治済はるさだおもしたようにそう付加つけくわえた。

なにしろ主膳しゅぜんはこの治済はるさだ側妾そくしょうとみ縁者えんじゃにて…、すなわち、豊千代とよちよが…、次期じき将軍しょうぐんたる家斉いえなり縁者えんじゃにて、さればこの治済はるさだけっしてそなたをおろそかにはせぬゆえにの…」

 治済はるさださらにそう念押ねんおしして、矢部やべ主膳しゅぜん平伏へいふくさせた。
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