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田沼意知暗殺への途 ~新番士・佐野善左衛門政言という男~
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矢部主膳によると、佐野善左衛門は諱は政言、矢部主膳と同じく、蜷川相模守親文が頭を、新番頭を勤める三番組の番士であった。
「その…、佐野善左衛門なれば若年寄暗殺も辞さぬと?」
治済が矢部主膳にそう尋ねると、主膳は暫し、黙考してから、
「確とは断言出来かねまするが、外には…」
思い付かないと、治済にそう示唆した。
「左様か…」
治済は少し失望した様にそう応ずると、矢部主膳も直ぐにそうと気付いて、
「されば佐野善左衛門は田沼様…、父、主殿頭様には良からぬ感情を抱いており申し…」
主膳は慌ててそう言い繕った。
するとこれには治済も大いに興味を惹かれたらしく、主膳に詳しい説明を求めた。
矢部主膳の説明によれば、佐野善左衛門は人一倍、虚栄心が強く、立身出世の欲望に憑かれ、そこで佐野善左衛門はその虚栄心を満たすべく、つまりは立身出世を果たすべく田沼意次が登城前や、或いは下城後に意次の許へと日参しては己の立身出世を陳情したそうで、その際、佐野善左衛門は僅かではあるが、金子をも、要は賂を携えていたそうな。
ここまでは良くある「陳情風景」と言えたが、しかし、意次が佐野善左衛門からの賂を受取ることはなかった。
いや、だからと言って意次が清廉潔白な政治家という訳ではなく、賂の額に問題があった。
佐野善左衛門が持参した賂は正しく、
「雀の涙…」
そのものであり、立身出世の対価としては到底、釣合わない程の「低価格」であった。
いや、これで例えば佐野善左衛門の陳情が―、佐野善左衛門が望む役職が、廣敷番之頭や納戸組頭、鉄砲箪笥奉行であったならば、或いはそれよりも少し格上の新番組頭程度であったならば、仮令、立身出世の対価としては釣合わない「低価格」な賂であったとしてもだ、佐野善左衛門当人に実力があれば、意次としても骨を折ることに吝かではなかっただろう。
だが実際には佐野善左衛門が望んだ役職は何と、従六位布衣役の百人組之頭であり、それが無理なら同じく従六位布衣役の小普請支配か、或いは新番頭といった具合に、到底、無茶なものであった。いや、非常識なものであった。
何しろ百人組之頭と言えば、小普請組支配と共に役高が3千石と、これは従六位布衣役の中でもトップクラスであり、新番頭は2千石高でそれに次ぐ。
そもそも従六位布衣役は出世の機会に恵まれている両番家筋―、番入り、即ち、就職の際には小姓組番か或いは書院番に番入り、就職することが出来る家柄である両番家筋出身の旗本でも中々、就けぬ役職であり、翻って佐野善左衛門はと言うと、それよりも一段階落ちる大番家筋出身の旗本であった。
大番家筋とは番入り、就職の際には両番よりも格下の大番、或いは新番に番入り、就職することが出来るに過ぎず、それ故、両番家筋出身の旗本でさえ生半には就けぬ従六位布衣役に、大番家筋出身の旗本が就こうなどとは凡そ、
「夢物語…」
それに等しい。いや、佐野善左衛門の場合は新番組頭などの段階を経た上で従六位布衣役になろうというのではない、いきなり従六位布衣役になりたいというのだから、それは最早、「寝言」であった。
これは譬えるならば入省したての官僚、それもノンキャリアがいきなり局長になりたいと願う様なものであり、如何に非常識かが分かるであろう。
如何に今を時めく意次とて、これでは到底、佐野善左衛門の陳情など叶えてやることは出来なかった。
意次は佐野善左衛門に賂を押戻した上で、
「日々の勤めに精を出せば、自ずと道も拓けよう…」
真面目にコツコツと、仕事に励めばいずれは出世出来るであろうと、意次は至極常識的に佐野善左衛門を諭したそうな。
だが佐野善左衛門はいたく自尊心が傷付けられた様で、爾来、意次に対して良からぬ印象を抱いているらしい。
以上のことは矢部主膳が佐野善左衛門より直接聞いた話、と言うよりは周囲の相役、同僚にぶちまけたことだそうで、佐野善左衛門より意次に相手にされなかった不満をぶちまけられた相役、それも三番組の新番士は皆、佐野善左衛門のその不満に耳を傾けつつも内心では佐野善左衛門のその非常識ぶりに呆れ果てていた。無論、矢部主膳もその一人であった。
「それにしても、その佐野善左衛門とやらは何故に斯かる、道理も弁えぬ陳情に及んだのであろうかの…、番入いりを果たせたからには全くの白痴という訳でもなかろうに…」
確かに治済の言う通り、全くの白痴、阿呆の類では到底、番入り、就職は覚束ないであろう。
佐野善左衛門は大番家筋出身の旗本として一応、新番に番入り、就職を果たせたからには最低限の常識は備わっている筈であった。
だがその佐野善左衛門が意次に対して為した件の陳情は常識からは到底、かけ離れたものであり、これは一体、どう解釈すれば良いのかと、治済は頭を悩ませた。
「それはやはり…、田沼様の存在が佐野善左衛門をして、道理も弁えぬ言動に駆立てさせたのやも知れませぬ…」
佐野善左衛門の「非常識」は田沼意次の存在にある…、矢部主膳のその言分に治済は愈愈もって首を傾げ、主膳にその「真意」を糺した。
「されば佐野家は元を正せば田沼家の主筋にて…」
矢部主膳によると、即ち、それは佐野善左衛門によると、だが、佐野善左衛門が祖先である越前守秀綱は越前守盛綱が嫡子にして、つまりは佐野善左衛門は佐野家の嫡流であるのに対して、今の田沼家の祖先である九郎重綱は越前守秀綱の弟、つまりは越前守盛綱が庶子であり、それ故、意次、更に意知は佐野家の庶流に過ぎないということで、
「佐野家の庶流に過ぎぬ田沼父子が揃うて、老中、若年寄という顕職を占めているのだから、佐野家の嫡流たる己とて顕職に…」
従六位布衣役程度に就いてもおかしくはない、いや、それどころか就かねば道理に合わぬと、佐野善左衛門はやはりその様にも三番組の新番士に吹聴していたそうな。
治済はそれを聞いて佐野善左衛門という男の馬鹿さ加減に心底、呆れ果てたが、しかし同時にその馬鹿さ加減が、
「使える…」
とも思ったものである。無論、意知暗殺に、という意味であった。
「あの…、畏れながら…」
矢部主膳はその言葉通り、如何にも、
「恐る恐る…」
といった体で口を挟んだ。それも、治済の顔色を窺いつつ、である。
それに対して治済も矢部主膳に極力、威圧感を与えぬよう、
「許す。腹蔵なく申すが良いぞ…」
主膳に発言を促した。威圧感を与えたが為に、口を貝の様に閉じさせては結果、有益な情報が得られぬ恐れがあり得たからだ。
治済のその配慮が功を奏して、矢部主膳も安心した様子で、「ははっ」と応ずるや、饒舌になった。
「されば上様は佐野善左衛門を使嗾あそばされる…、佐野善左衛門を嗾けて田沼様を…、若年寄の山城様を討果たさせる御所存にて?」
矢部主膳よりそう問われた治済は咄嗟に
「今更、何を分かりきったことを…」
そう思ったものの、しかし、それは声には出さずに、「如何にも」と首肯した。
「なれどそれでは上様が御家中に累が及ぶやも知れませぬな…」
矢部主膳は難しい顔付きでそう告げたので、治済も思わず、
「累が及ぶ、とな?」
そう聞返していた。
「御意…」
「そは…、一体、如何な意味ぞ?」
治済は矢部主膳に詳しい説明を求めた。
即ち、新番は各番組毎に、トップである番頭の下に直属の部下として1人の組頭が置かれ、更にその組頭の下に20人の番士が配されていた。
矢部主膳が所属する三番組を例に取ると、番頭である蜷川相模守親文の下に組頭である児島孫助正恒がおり、その児島孫助の下に矢部主膳や、或いは佐野善左衛門といった20人の番士がおり、彼等平の番士を実際に統括、管理するのは組頭であり、番頭は「お飾り」に過ぎなかった。
そしてこの20人の平の番士だが、5人毎の班に分けられる。
これは件の「四交代制」に合わせてのものである。
即ち、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番、昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番、宵五つ(午後8時頃)より翌深夜の暁八つ(午前2時頃)までの宵番、そして暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番と、「武官五番方」の勤務である「四交代制」のことで、新番においては、それも各番組20人の番士を抱える新番においては各番組、番士を5人毎に班分けをすることで、その「四交代制」に合わせていた。
20人の番士を5人毎に班分けすればちょうど、4班に分けられるからだ。
さてそこで三番組だが、佐野善左衛門が属する班だが、三番組の中でも最古参の萬年六三郎頼豊やそれに次ぐ古参の猪飼五郎兵衛正胤、それに佐野善左衛門より「一期」先輩に当たる田澤傳左衛門正斯、そして佐野善左衛門の「一期」後輩に当たる白井主税利庸の4人と佐野善左衛門とで構成されていた。
これは新番に限ったことではなく、「武官五番方」全てに当て嵌まることだが、各番組における各班の構成員もとい番士は極力、年次が異なる者で構成するよう心掛けていた。
古参の番士だけで、或いはその逆に新参の番士だけで組ませては、つまりは班分けすれば、番組は古参同士、新参同士で偏ってしまい、結果、番組の空気が「風通し」の悪いものとなってしまう。
それを避けるべく、年次が異なる番士で班を構成するよう心掛けていたのだ。
そうすれば古参の番士が新参の番士に対して、番士としての勤め方といったものを教え導いてやることも出来様、そうなれば番組の空気も自ずと、「風通し」の良いものとなろう。
この辺りは現代の常識がそのまま通用する。
さて、三番組だが、それも20人の番士の年次だが、宝暦9(1759)年を筆頭に、宝暦13(1763)年、明和6(1769)年、安永3(1774)年、安永7(1778)年、天明元(1871)年、そして去年の天明2(1782)年に分かれていた。
このうち、宝暦9(1759)年組は勿論、萬年六三郎であり、ちなみに宝暦9(1759)年組は外には誰もおらず、これに次ぐ宝暦13(1763)年組もまた同様に、比留所左衛門正珍唯一人であった。
この宝暦9(1759)年組と宝暦13(1763)年組を除いては、外の年次については全て複数の番士がおり、例えば佐野善左衛門は安永7(1778)年組、安永7(1778)年6月に番入り、この三番組の新番士として就職を果たし、同期には矢部主膳とそれに松波十左衛門貞恒がいた。
それ故、佐野善左衛門も「同期の桜」である矢部主膳や松波十左衛門とは親しく、件の田沼意次に対する不満を漏らしたらしい。
だがそれはあくまで、プライベートにおいてであり、仕事においては「同期の桜」故、同じ班になることはなかった。
そこで仮に佐野善左衛門が殿中にて抜刀し、若年寄の田沼意知に斬りかかったところで、しかも、
「みすみすと…」
意知を討果たしたとしても、班が違う矢部主膳に累が及ぶことはない。つまりは佐野善左衛門を取鎮めなかった責任を問われることはないだろう。
班が違えば当然、勤務も違うという訳で、佐野善左衛門が殿中にて抜刀、意知を討果たそうとしている頃、矢部主膳はまだ自邸にいるか、或いは御城へと登城すべく、正にその「途上」にあるか、若しくは玄関に到着したあたりか、少なくとも殿中には、それも「事件現場」となる周辺にいないことだけは確かであった。
武官五番方の中でも新番はその詰所である新番所が狭く、それ故、まだ勤務でない番士まで詰める余裕はなかった。
新番士が新番所に入るのは勤務ギリギリであり、それまでは、それもその直前までは玄関にて待機していた。
そして勤務の直前になって漸くに、新番所へと足を運ぶことが出来るのだ。
佐野善左衛門が殿中にて抜刀、意知に斬りかかる頃、佐野善左衛門とは班の違う矢部主膳がその場にいないことは確かであるのは斯かる事情による
だが佐野善左衛門と同じ班である萬年六三郎や猪飼五郎左衛門、田澤傳左衛門や白井主税といった面々はそうはいかない。
佐野善左衛門と同じ班の構成員として、佐野善左衛門に意知の暗殺を許した責任から逃れることは出来まい。
「されば、萬年六三郎や田澤傳左衛門は兎も角、猪飼五郎兵衛や白井主税は御当家と…、一橋民部卿様と多少なりとも所縁の者にて…」
成程、矢部主膳の言う通り、猪飼五郎兵衛と白井主税の二人は治済とは所縁の者であり、猪飼五郎兵衛はかつてはここ一橋家にて仕えていた者であり、今でも縁者の猪飼茂左衛門やその実弟の三郎左衛門正倫共々、この一橋家にて仕えていた。
一方、白井主税もまた、父・白井直次郎尊利が嘗てはここ一橋家にて仕えていた関係で治済とは所縁があり、更に白井主税が三男の末五郎利次は旗本の高林次郎兵衛爲次の養嗣子として迎えられており、三男・末五郎の養父となった高林次郎兵衛は実は田安家臣の山中七左衛門玄祖が次男であり、高林次郎兵衛の実母は、つまりは山中七左衛門の妻女は一橋家臣の内藤友右衛門助政が娘の行であったのだ。
それ故、白井主税は父と、更に三男を―、三男の養家を通じて一橋家と、治済と所縁があったのだ。
矢部主膳もまた、治済とは叔母である梅を介して治済とは所縁があるので、それも縁続きであったので、一橋家の内情には詳しかった。
ともあれ、佐野善左衛門に意知暗殺を許しては、治済と所縁がある猪飼五郎兵衛や白井主税までが、佐野善左衛門とは同じ班の構成員として何らかの「お咎め」を受けるのは必定であり、その点を矢部主膳は案じていたのだ。
つまりは一橋家臣の縁者である猪飼五郎兵衛と白井主税の二人が罰せられても良いのかと、矢部主膳は一橋家の当主たる治済にその点を確かめていたのだ。
治済もそうと気付くや、矢部主膳のその「懸念」を一笑に付した。
「大事を為すには多少の犠牲は付物ぞ…、いや、咎めと申しても精々、小普請に貶される程度ぞ…」
治済は平然とそう言放った。
小普請に貶される…、それは旗本にとっては「死刑宣告」も同然であった。
無論、切腹などとは違い、実際に命まで取られる訳ではないものの、それでも小普請に貶されるということは、「御役御免」、つまりは馘首を意味する。
老齢の為に依願退職、小普請入りを果たした者とは異なり、この手の所謂、
「御咎小普請」
ともなれば再起、再就職は容易ではない。一生、小普請のまま、つまりは無職の旗本として終える可能性が高かった。
矢部主膳がそんなことを考えていると、治済も直ぐにそうと気付いたのであろう、
「いや、仮令、佐野善左衛門が山城めに刃傷に及びたる為に、猪飼五郎兵衛や白井主税がその煽りを受けて犠牲になったとしてもだ…、小普請に貶されたとしても、それは一時のことに過ぎぬ…」
必ずや、再び番入り、再就職させてやると治済は示唆した。
成程、次期将軍の実父であれば、その権威をもってすればそれも可能であろう。
「いや、矢部主膳よ、この治済、主膳がことは決して犠牲にはせぬ故、安心せい…」
治済は思い出した様にそう付加えた。
「何しろ主膳はこの治済が側妾の富が縁者にて…、即ち、豊千代が…、次期将軍たる家斉が縁者にて、さればこの治済、決してそなたを疎かにはせぬ故にの…」
治済は更にそう念押しして、矢部主膳を平伏させた。
「その…、佐野善左衛門なれば若年寄暗殺も辞さぬと?」
治済が矢部主膳にそう尋ねると、主膳は暫し、黙考してから、
「確とは断言出来かねまするが、外には…」
思い付かないと、治済にそう示唆した。
「左様か…」
治済は少し失望した様にそう応ずると、矢部主膳も直ぐにそうと気付いて、
「されば佐野善左衛門は田沼様…、父、主殿頭様には良からぬ感情を抱いており申し…」
主膳は慌ててそう言い繕った。
するとこれには治済も大いに興味を惹かれたらしく、主膳に詳しい説明を求めた。
矢部主膳の説明によれば、佐野善左衛門は人一倍、虚栄心が強く、立身出世の欲望に憑かれ、そこで佐野善左衛門はその虚栄心を満たすべく、つまりは立身出世を果たすべく田沼意次が登城前や、或いは下城後に意次の許へと日参しては己の立身出世を陳情したそうで、その際、佐野善左衛門は僅かではあるが、金子をも、要は賂を携えていたそうな。
ここまでは良くある「陳情風景」と言えたが、しかし、意次が佐野善左衛門からの賂を受取ることはなかった。
いや、だからと言って意次が清廉潔白な政治家という訳ではなく、賂の額に問題があった。
佐野善左衛門が持参した賂は正しく、
「雀の涙…」
そのものであり、立身出世の対価としては到底、釣合わない程の「低価格」であった。
いや、これで例えば佐野善左衛門の陳情が―、佐野善左衛門が望む役職が、廣敷番之頭や納戸組頭、鉄砲箪笥奉行であったならば、或いはそれよりも少し格上の新番組頭程度であったならば、仮令、立身出世の対価としては釣合わない「低価格」な賂であったとしてもだ、佐野善左衛門当人に実力があれば、意次としても骨を折ることに吝かではなかっただろう。
だが実際には佐野善左衛門が望んだ役職は何と、従六位布衣役の百人組之頭であり、それが無理なら同じく従六位布衣役の小普請支配か、或いは新番頭といった具合に、到底、無茶なものであった。いや、非常識なものであった。
何しろ百人組之頭と言えば、小普請組支配と共に役高が3千石と、これは従六位布衣役の中でもトップクラスであり、新番頭は2千石高でそれに次ぐ。
そもそも従六位布衣役は出世の機会に恵まれている両番家筋―、番入り、即ち、就職の際には小姓組番か或いは書院番に番入り、就職することが出来る家柄である両番家筋出身の旗本でも中々、就けぬ役職であり、翻って佐野善左衛門はと言うと、それよりも一段階落ちる大番家筋出身の旗本であった。
大番家筋とは番入り、就職の際には両番よりも格下の大番、或いは新番に番入り、就職することが出来るに過ぎず、それ故、両番家筋出身の旗本でさえ生半には就けぬ従六位布衣役に、大番家筋出身の旗本が就こうなどとは凡そ、
「夢物語…」
それに等しい。いや、佐野善左衛門の場合は新番組頭などの段階を経た上で従六位布衣役になろうというのではない、いきなり従六位布衣役になりたいというのだから、それは最早、「寝言」であった。
これは譬えるならば入省したての官僚、それもノンキャリアがいきなり局長になりたいと願う様なものであり、如何に非常識かが分かるであろう。
如何に今を時めく意次とて、これでは到底、佐野善左衛門の陳情など叶えてやることは出来なかった。
意次は佐野善左衛門に賂を押戻した上で、
「日々の勤めに精を出せば、自ずと道も拓けよう…」
真面目にコツコツと、仕事に励めばいずれは出世出来るであろうと、意次は至極常識的に佐野善左衛門を諭したそうな。
だが佐野善左衛門はいたく自尊心が傷付けられた様で、爾来、意次に対して良からぬ印象を抱いているらしい。
以上のことは矢部主膳が佐野善左衛門より直接聞いた話、と言うよりは周囲の相役、同僚にぶちまけたことだそうで、佐野善左衛門より意次に相手にされなかった不満をぶちまけられた相役、それも三番組の新番士は皆、佐野善左衛門のその不満に耳を傾けつつも内心では佐野善左衛門のその非常識ぶりに呆れ果てていた。無論、矢部主膳もその一人であった。
「それにしても、その佐野善左衛門とやらは何故に斯かる、道理も弁えぬ陳情に及んだのであろうかの…、番入いりを果たせたからには全くの白痴という訳でもなかろうに…」
確かに治済の言う通り、全くの白痴、阿呆の類では到底、番入り、就職は覚束ないであろう。
佐野善左衛門は大番家筋出身の旗本として一応、新番に番入り、就職を果たせたからには最低限の常識は備わっている筈であった。
だがその佐野善左衛門が意次に対して為した件の陳情は常識からは到底、かけ離れたものであり、これは一体、どう解釈すれば良いのかと、治済は頭を悩ませた。
「それはやはり…、田沼様の存在が佐野善左衛門をして、道理も弁えぬ言動に駆立てさせたのやも知れませぬ…」
佐野善左衛門の「非常識」は田沼意次の存在にある…、矢部主膳のその言分に治済は愈愈もって首を傾げ、主膳にその「真意」を糺した。
「されば佐野家は元を正せば田沼家の主筋にて…」
矢部主膳によると、即ち、それは佐野善左衛門によると、だが、佐野善左衛門が祖先である越前守秀綱は越前守盛綱が嫡子にして、つまりは佐野善左衛門は佐野家の嫡流であるのに対して、今の田沼家の祖先である九郎重綱は越前守秀綱の弟、つまりは越前守盛綱が庶子であり、それ故、意次、更に意知は佐野家の庶流に過ぎないということで、
「佐野家の庶流に過ぎぬ田沼父子が揃うて、老中、若年寄という顕職を占めているのだから、佐野家の嫡流たる己とて顕職に…」
従六位布衣役程度に就いてもおかしくはない、いや、それどころか就かねば道理に合わぬと、佐野善左衛門はやはりその様にも三番組の新番士に吹聴していたそうな。
治済はそれを聞いて佐野善左衛門という男の馬鹿さ加減に心底、呆れ果てたが、しかし同時にその馬鹿さ加減が、
「使える…」
とも思ったものである。無論、意知暗殺に、という意味であった。
「あの…、畏れながら…」
矢部主膳はその言葉通り、如何にも、
「恐る恐る…」
といった体で口を挟んだ。それも、治済の顔色を窺いつつ、である。
それに対して治済も矢部主膳に極力、威圧感を与えぬよう、
「許す。腹蔵なく申すが良いぞ…」
主膳に発言を促した。威圧感を与えたが為に、口を貝の様に閉じさせては結果、有益な情報が得られぬ恐れがあり得たからだ。
治済のその配慮が功を奏して、矢部主膳も安心した様子で、「ははっ」と応ずるや、饒舌になった。
「されば上様は佐野善左衛門を使嗾あそばされる…、佐野善左衛門を嗾けて田沼様を…、若年寄の山城様を討果たさせる御所存にて?」
矢部主膳よりそう問われた治済は咄嗟に
「今更、何を分かりきったことを…」
そう思ったものの、しかし、それは声には出さずに、「如何にも」と首肯した。
「なれどそれでは上様が御家中に累が及ぶやも知れませぬな…」
矢部主膳は難しい顔付きでそう告げたので、治済も思わず、
「累が及ぶ、とな?」
そう聞返していた。
「御意…」
「そは…、一体、如何な意味ぞ?」
治済は矢部主膳に詳しい説明を求めた。
即ち、新番は各番組毎に、トップである番頭の下に直属の部下として1人の組頭が置かれ、更にその組頭の下に20人の番士が配されていた。
矢部主膳が所属する三番組を例に取ると、番頭である蜷川相模守親文の下に組頭である児島孫助正恒がおり、その児島孫助の下に矢部主膳や、或いは佐野善左衛門といった20人の番士がおり、彼等平の番士を実際に統括、管理するのは組頭であり、番頭は「お飾り」に過ぎなかった。
そしてこの20人の平の番士だが、5人毎の班に分けられる。
これは件の「四交代制」に合わせてのものである。
即ち、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番、昼八つ(午後2時頃)より宵五つ(午後8時頃)までの当番、宵五つ(午後8時頃)より翌深夜の暁八つ(午前2時頃)までの宵番、そして暁八つ(午前2時頃)より朝五つ(午前8時頃)までの不寝番と、「武官五番方」の勤務である「四交代制」のことで、新番においては、それも各番組20人の番士を抱える新番においては各番組、番士を5人毎に班分けをすることで、その「四交代制」に合わせていた。
20人の番士を5人毎に班分けすればちょうど、4班に分けられるからだ。
さてそこで三番組だが、佐野善左衛門が属する班だが、三番組の中でも最古参の萬年六三郎頼豊やそれに次ぐ古参の猪飼五郎兵衛正胤、それに佐野善左衛門より「一期」先輩に当たる田澤傳左衛門正斯、そして佐野善左衛門の「一期」後輩に当たる白井主税利庸の4人と佐野善左衛門とで構成されていた。
これは新番に限ったことではなく、「武官五番方」全てに当て嵌まることだが、各番組における各班の構成員もとい番士は極力、年次が異なる者で構成するよう心掛けていた。
古参の番士だけで、或いはその逆に新参の番士だけで組ませては、つまりは班分けすれば、番組は古参同士、新参同士で偏ってしまい、結果、番組の空気が「風通し」の悪いものとなってしまう。
それを避けるべく、年次が異なる番士で班を構成するよう心掛けていたのだ。
そうすれば古参の番士が新参の番士に対して、番士としての勤め方といったものを教え導いてやることも出来様、そうなれば番組の空気も自ずと、「風通し」の良いものとなろう。
この辺りは現代の常識がそのまま通用する。
さて、三番組だが、それも20人の番士の年次だが、宝暦9(1759)年を筆頭に、宝暦13(1763)年、明和6(1769)年、安永3(1774)年、安永7(1778)年、天明元(1871)年、そして去年の天明2(1782)年に分かれていた。
このうち、宝暦9(1759)年組は勿論、萬年六三郎であり、ちなみに宝暦9(1759)年組は外には誰もおらず、これに次ぐ宝暦13(1763)年組もまた同様に、比留所左衛門正珍唯一人であった。
この宝暦9(1759)年組と宝暦13(1763)年組を除いては、外の年次については全て複数の番士がおり、例えば佐野善左衛門は安永7(1778)年組、安永7(1778)年6月に番入り、この三番組の新番士として就職を果たし、同期には矢部主膳とそれに松波十左衛門貞恒がいた。
それ故、佐野善左衛門も「同期の桜」である矢部主膳や松波十左衛門とは親しく、件の田沼意次に対する不満を漏らしたらしい。
だがそれはあくまで、プライベートにおいてであり、仕事においては「同期の桜」故、同じ班になることはなかった。
そこで仮に佐野善左衛門が殿中にて抜刀し、若年寄の田沼意知に斬りかかったところで、しかも、
「みすみすと…」
意知を討果たしたとしても、班が違う矢部主膳に累が及ぶことはない。つまりは佐野善左衛門を取鎮めなかった責任を問われることはないだろう。
班が違えば当然、勤務も違うという訳で、佐野善左衛門が殿中にて抜刀、意知を討果たそうとしている頃、矢部主膳はまだ自邸にいるか、或いは御城へと登城すべく、正にその「途上」にあるか、若しくは玄関に到着したあたりか、少なくとも殿中には、それも「事件現場」となる周辺にいないことだけは確かであった。
武官五番方の中でも新番はその詰所である新番所が狭く、それ故、まだ勤務でない番士まで詰める余裕はなかった。
新番士が新番所に入るのは勤務ギリギリであり、それまでは、それもその直前までは玄関にて待機していた。
そして勤務の直前になって漸くに、新番所へと足を運ぶことが出来るのだ。
佐野善左衛門が殿中にて抜刀、意知に斬りかかる頃、佐野善左衛門とは班の違う矢部主膳がその場にいないことは確かであるのは斯かる事情による
だが佐野善左衛門と同じ班である萬年六三郎や猪飼五郎左衛門、田澤傳左衛門や白井主税といった面々はそうはいかない。
佐野善左衛門と同じ班の構成員として、佐野善左衛門に意知の暗殺を許した責任から逃れることは出来まい。
「されば、萬年六三郎や田澤傳左衛門は兎も角、猪飼五郎兵衛や白井主税は御当家と…、一橋民部卿様と多少なりとも所縁の者にて…」
成程、矢部主膳の言う通り、猪飼五郎兵衛と白井主税の二人は治済とは所縁の者であり、猪飼五郎兵衛はかつてはここ一橋家にて仕えていた者であり、今でも縁者の猪飼茂左衛門やその実弟の三郎左衛門正倫共々、この一橋家にて仕えていた。
一方、白井主税もまた、父・白井直次郎尊利が嘗てはここ一橋家にて仕えていた関係で治済とは所縁があり、更に白井主税が三男の末五郎利次は旗本の高林次郎兵衛爲次の養嗣子として迎えられており、三男・末五郎の養父となった高林次郎兵衛は実は田安家臣の山中七左衛門玄祖が次男であり、高林次郎兵衛の実母は、つまりは山中七左衛門の妻女は一橋家臣の内藤友右衛門助政が娘の行であったのだ。
それ故、白井主税は父と、更に三男を―、三男の養家を通じて一橋家と、治済と所縁があったのだ。
矢部主膳もまた、治済とは叔母である梅を介して治済とは所縁があるので、それも縁続きであったので、一橋家の内情には詳しかった。
ともあれ、佐野善左衛門に意知暗殺を許しては、治済と所縁がある猪飼五郎兵衛や白井主税までが、佐野善左衛門とは同じ班の構成員として何らかの「お咎め」を受けるのは必定であり、その点を矢部主膳は案じていたのだ。
つまりは一橋家臣の縁者である猪飼五郎兵衛と白井主税の二人が罰せられても良いのかと、矢部主膳は一橋家の当主たる治済にその点を確かめていたのだ。
治済もそうと気付くや、矢部主膳のその「懸念」を一笑に付した。
「大事を為すには多少の犠牲は付物ぞ…、いや、咎めと申しても精々、小普請に貶される程度ぞ…」
治済は平然とそう言放った。
小普請に貶される…、それは旗本にとっては「死刑宣告」も同然であった。
無論、切腹などとは違い、実際に命まで取られる訳ではないものの、それでも小普請に貶されるということは、「御役御免」、つまりは馘首を意味する。
老齢の為に依願退職、小普請入りを果たした者とは異なり、この手の所謂、
「御咎小普請」
ともなれば再起、再就職は容易ではない。一生、小普請のまま、つまりは無職の旗本として終える可能性が高かった。
矢部主膳がそんなことを考えていると、治済も直ぐにそうと気付いたのであろう、
「いや、仮令、佐野善左衛門が山城めに刃傷に及びたる為に、猪飼五郎兵衛や白井主税がその煽りを受けて犠牲になったとしてもだ…、小普請に貶されたとしても、それは一時のことに過ぎぬ…」
必ずや、再び番入り、再就職させてやると治済は示唆した。
成程、次期将軍の実父であれば、その権威をもってすればそれも可能であろう。
「いや、矢部主膳よ、この治済、主膳がことは決して犠牲にはせぬ故、安心せい…」
治済は思い出した様にそう付加えた。
「何しろ主膳はこの治済が側妾の富が縁者にて…、即ち、豊千代が…、次期将軍たる家斉が縁者にて、さればこの治済、決してそなたを疎かにはせぬ故にの…」
治済は更にそう念押しして、矢部主膳を平伏させた。
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