上 下
38 / 169

徳川家基毒殺事件 ~大奥における不都合な真実、そして家治の爆発と一橋治済の更なる陰謀~

しおりを挟む
おそれながら…、上様うえさま最早もはやそのなぞ…、大奥おおおくなぞに、お気付きづきあそばされておられるのではござりますまいか?」

 意知おきとも如何いかにも、「おそおそる…」といったていでそう言上ごんじょうするや、家治いえはるまゆげ「なに?」とおうじた。

 家治いえはるとしては別段べつだん意知おきとも威圧いあつするつもりはなかったが、しかし、家治いえはるのそのよう思惑おもわくとは裏腹うらはらに、意知おきともおそおののかせ、平伏ひれふさせた。

 家治いえはるはそうと気付きづくと、

「いや、ゆるす。腹蔵ふくぞうなくもうせ…」

 そう口調くちょうやわらげて、意知おきともにそのさきうながした。

 意知おきとも平伏ひれふさせたままでは、意知おきとも貴重きちょう意見いけんくことが出来できないからだ。

 意知おきとももそれでようやくに恐怖感きょうふかんから解放かいほうされたのか、ふたたあたまげると、そのさきつづけた。

「されば…、かつては台様だいさま中年寄ちゅうどしよりとして、台様だいさまぜん毒見どくみにないし、大崎おおさき高橋たかはしいまでは西之丸にしのまるにて年寄としよりを…、それも家斉公いえなりこう年寄としよりとしてつかえ…」

 家治いえはる正室せいしつ愛妻あいさいであった倫子ともこ中年寄ちゅうどしよりであった大崎おおさき高橋たかはし倫子ともこ毒殺どくさつの「こう」により、次期じき将軍しょうぐん家斉附いえなりづき年寄としより抜擢ばってきされたのではないか…、意知おきともはそう示唆しさした。

 大崎おおさき高橋たかはし二人ふたり倫子ともこ死後しごにはいったん将軍しょうぐん家治附いえはるづききゃく応答あしらい異動いどうしたのち、天明元(1781)年うるう5月に家斉いえなり家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるりをたすや、家斉いえなり西之丸にしのまる大奥おおおくにおける年寄としより、それも次期じき将軍しょうぐんたるおのれ附属ふぞくする年寄としよりとして、将軍しょうぐん家治附いえはるづききゃく応答あしらいであった大崎おおさき高橋たかはし二人ふたり所望しょもうしたのであった。

 いや、そのころ―、天明元(1781)年うるう5月の時点じてんでは家斉いえなりはまだ元服前げんぷくまえであり豊千代とよちよ名乗なのっており、そのよう家斉いえなりこと豊千代とよちよ年寄としよりえらぶだけの判断力はんだんりょくがあったとはおもえない。

 家斉いえなりこと豊千代とよちよみずからの意思いしにより所望しょもうした年寄としよりと言えるのは精精せいぜい飯嶋いいじまぐらいのものであろう。

 飯嶋いいじま豊千代とよちよがまだ一橋ひとつばし屋形やかたにてらしていたころ豊千代とよちよ乳母うばつとめていたものであり、豊千代とよちよはこの飯嶋いいじまなついており、それゆえ豊千代とよちよ次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるへと移徙いしうつるや、もなくして飯嶋いいじまれてしいと泣付なきついたものである。

 だが、大崎おおさき高橋たかはし二人ふたりについては家斉いえなりこと豊千代とよちよ泣付なきついてまで年寄としより所望しょもうしたという形跡けいせきはどこにもない。

 だとしたら大崎おおさき高橋たかはし二人ふたり家斉いえなりこと豊千代とよちよ附属ふぞくする年寄としよりとして所望しょもうしたのは、豊千代とよちよ実父じっぷである治済はるさだかんがえるのが自然しぜんであろう。

 いや、大崎おおさき高橋たかはしばかりではない、家基附いえもとづき年寄としよりであった初崎はつざきとそれにおなじく家基附いえもとづききゃく応答あしらいであった笹岡ささおかまでもが家斉附いえなりづき年寄としよりとして異動いどうあるいは昇格しょうかくたしたのであった。意知おきともはそのてんをも示唆しさしていた。

 すなわち、かり初崎はつざき笹岡ささおか二人ふたりまでもが治済はるさだによってせがれ豊千代とよちよあらた次期じき将軍しょうぐんとなった家斉いえなりつかえる年寄としよりとして所望しょもうされたのだとしたら、初崎はつざき笹岡ささおかもまた、「こう」として治済はるさだ年寄としよりとして所望しょもうえらばれた可能性かのうせいたかい。

 そしてこの場合ばあいの「こう」とは勿論もちろん家基毒殺いえもとどくさつの「こう」であった。

「いや…、たしかに意知おきとももうとおり、初崎はつざき笹岡ささおか二人ふたり年寄としより所望致しょもういたしたは…、まこともの一橋ひとつばし民部みんぶであったとしてもだ…、一応いちおう豊千代とよちよ所望しょもうしたことになってはおるがの…、なれどそれはあくまで、便宜上べんじょうであろう…」

便宜上べんぎじょう…」

左様さよう…、されば家基いえもと年寄としよりとしてつかえていたものをそのまま、豊千代とよちよ年寄としよりとしてつかえさせたほうなにかと都合つごういと…」

成程なるほど…、なれどそれでは笹岡ささおかもまた、きゃく応答あしらいとしてつかえさせましたほうなにかと都合つごうよろしかったのではござりますまいか?」

 意知おきとものそのもっともな反論はんろん家治いえはる反論はんろん出来できずに言葉ことばまらせた。

「…にもかかわらず、笹岡ささおかきゃく応答あしらいではのうて、年寄としよりへと昇格しょうかくたしましたは一体いったい何故なにゆえにて…」

「それは…」

「それに、便宜上べんぎじょうおおせられますならば、室津むろつとて初崎はつざきおなじくいま大納言だいなごんさま…、家基公いえもとこう年寄としよりとしてつかたてまつりしものにて、にもかかわらず、室津むろつ初崎はつざきとはことなり、家斉公いえなりこう年寄としよりえらばれることもなく、大奥おおおく退しりぞきましてござります…」

 意知おきともがそう畳掛たたみかけると、家治いえはるは「いや、て」と意知おきともせいした。

初崎はつざき家基いえもと乳母めのとつとめ、笹岡ささおかいたりては家基いえもと縁者えんじゃ…、笹岡ささおか家基いえもととは従姉弟いとこ間柄あいだがらなのだぞ?さればそのよう初崎はつざきや、ましてや笹岡ささおか一橋ひとつばし民部みんぶめにすとおもうか?」

 家治いえはる必死ひっしになってそう反論はんろんした。

 一方いっぽう、あくまで「第三者だいさんしゃ」としての視点してん持合もちあわせる意知おきともは、「その可能性かのうせいもあるのではないか…」と反論はんろんしようとしたが、しかし、家治いえはるのその必死ひっし様子ようすたりにして反論はんろんすることが出来できず、くちつぐんだ。

 もっとも、家治いえはるとてこころ奥底おくそこでは意知おきともいま意見いけん一片いっぺん真実性しんじつせい見出みいだしていた。

 それと言うのも、家基いえもと死後しご西之丸にしのまる大奥おおおくにて家基いえもと附属ふぞくしていた奥女中おくじょちゅうほとんどが家斉いえなりに、あるいはその婚約者こんやくしゃ茂姫しげひめあるいは家斉いえなり母堂ぼどうとみかた夫々それぞれ年寄としよりとして附属ふぞくするようになったからだ。

 たとえば、家基附いえもとづき上臈じょうろう年寄どしよりであった岩橋いわはし武家ぶけけい年寄としよりであった小枝さえだ茂姫附しげひめづき上臈じょうろう年寄どしより武家ぶけけい年寄としよりへと異動いどう横滑よこすべりをたした。

 岩橋いわはし小枝さえだ二人ふたりかつては倫子ともこづきいで萬壽ます姫附ひめづき上臈じょうろう年寄どしより武家ぶけけい年寄としよりをもつとめていたのだ。

 岩橋いわはし小枝さえだ家基いえもと毒殺どくさつにこそ関与タッチ出来できなかったであろうが、しかしそのまえ倫子ともこ萬壽ますひめ毒殺どくさつには関与タッチした可能性かのうせいきわめてたかく、だからこそその「こう」により、家斉附いえなりづき上臈じょうろう年寄どしより武家ぶけけい年寄としよりへと異動いどう横滑よこすべりをたすことが出来できたのやもれぬ。

 また、家基附いえもとづききゃく応答あしらいであった山野やまの茂姫附しげひめづき武家ぶけけい年寄としよりへと異動いどう昇進しょうしんたしていた。

 山野やまの家基いえもと最期さいご鷹狩たかがりの前日ぜんじつに、公儀こうぎおく女遣おんなづかいとして西之丸にしのまる大奥おおおくへとされた薩摩藩さつまはん島津しまづいえ老女ろうじょ平野ひらのより、家基いえもと一服いっぷくため毒物どくぶつ、それも遅効性ちこうせい適量てきりょう附子ぶし、トリカブトと河豚ふぐどく受取うけとった可能性かのうせいたかく、だとしたら山野やまの年寄としよりへの昇格しょうかくもまた、その「こう」である可能性かのうせいたかかった。

 一方いっぽう茂姫しげひめおなころ―、天明元(1781)年9月に西之丸にしのまる大奥おおおくりをたしたとみかた年寄としよりには将軍しょうぐん家治附いえはるづききゃく応答あしらい梅岡うめおかが、とみかたたっての希望きぼうによりえらばれたのだが、梅岡うめおかもまたかつては倫子ともこづき中年寄ちゅうどしより毒見どくみやくつとめており、やはり倫子ともこ毒殺どくさつの「こう」によりとみ方附かたづき年寄としよりへと異動いどう昇格しょうかくたしたともかんがえられた。

 聡明そうめい家治いえはるである、その事実じじつに、さしずめ「不都合ふつごう真実しんじつ」にぐにおもいたったものの、しかし家治いえはる聡明そうめいとはもうせ、やはりひとである。どうしても感情かんじょう理性りせいよりもまさってしまった。

 それゆえただちには意知おきとも意見いけん受容うけいれられなかったのだ。

 意知おきとももそんな家治いえなる心中しんちゅういたほどかったので、それ以上いじょうなにも言わなかった。

 そして家治いえはる今日きょう、11月15日の月次御礼つきなみおんれいにおいても理性りせいよりも感情かんじょう優先ゆうせんさせてしまった。いや、爆発ばくはつさせてしまった。

 月次御礼つきなみおんれいはまずは、中奥なかおく御座之間ござのまにて御三卿ごさんきょうへの対面たいめんからはじめる。

 それゆえ家治いえはる真先まっさき御三卿ごさんきょう、それも一橋ひとつばし治済はるさだとの対面たいめんのぞんだわけだが、先程さきほどまでの意知おきともとの密談みつだん所為せいで、治済はるさだかおるにつけ、にくしみの感情かんじょうがり、あまつさえ、それを「放出ほうしゅつ」させてしまったのだ。

 治済はるさだ将軍しょうぐん家治いえはるへの型通かたどおりの挨拶あいさつくちにするや、家治いえはるはそれをさえぎり、

家基いえもとごとく、附子ぶし河豚ふぐくちいたさば、すこしくははらむしおさまるかの…、それとも家基いえもともとへとけるかの…」

 治済はるさだたいしてそう言放いいはなったのだ。

 これにはさしもの治済はるさだ一瞬いっしゅんだが表情ひょうじょうくずれた。さしずめ、いつもかぶっている「仮面かめん」が一瞬いっしゅんだけだがちた。

 だがそこは流石さすが役者やくしゃ治済はるさだである。いつものポーカーフェイスを取戻とりもどすと、微笑びしょうかべて御座之間ござのま退出たいしゅつした。

 いや、治済はるさだ微笑びしょうこそかべていたものの、その内心ないしんおおいに同様どうようし、まるでしんぞうえぐられるおもいであった。

 そのてん治済はるさだもまたひとと言えようか。

 それゆえ治済はるさだ下城げじょうするや、たせていた駕籠かごにもらずに、いや、ることもわすれてフラフラとした足取あしどりにて一橋ひとつばし屋形やかたへともどった。

 そんな治済はるさだ出迎でむかえたのは一橋ひとつばしきっての「知恵者ちえしゃ」である物頭ものがしら久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ長考ながとしであった。

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだかお一目ひとめるなり異変いへん察知さっちした様子ようすであった。

 だがそこは流石さすがに「知恵者ちえしゃ」の久田ひさだ縫殿助ぬいのすけだけあって、ふか穿鑿せんさくすることはせず、そのわりに田沼たぬま家臣かしん、と言うよりはいま意知おきとも陳情ちんじょうきゃくとの取次役とりつぎやくつとめる村上むらかみ半左衛門はんざえもん重勝しげかつまいっていることをげた。

 村上むらかみ半左衛門はんざえもんには治済はるさだ久田ひさだ縫殿助ぬいのすけかいして、今日きょうよう月次御礼つきなみおんれいをはじめとする式日しきじつ機会きかい利用りようして、意知おきともへの陳情ちんじょう内容ないよう報告ほうこくさせることにしていたのだ。

 今日きょうよう月次つきなみおんれいをはじめとする式日しきじつにはなにかとうるさい、監視役かんしやく家老かろう御三卿ごさんきょう家老かろう御城えどじょうへと登城とじょうおよび、しかもそのかえり、下城げじょう御三卿ごさんきょうよりもおそいとあって、それゆえ家老かろうにはれさせたくないものうには好都合こうつごうと言えた。

 それでも一応いちおう治済はるさだ村上むらかみ半左衛門はんざえもん久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ共々ともども大奥おおおくへといざない、そこで報告ほうこくくことにした。

 そこで村上むらかみ半左衛門はんざえもん昨日きのう、11月14日までの意知おきともへの陳情ちんじょうきゃくとその陳情ちんじょう内容ないようについて、それが仔細しさいしたためられている帳面ちょうめん治済はるさだ提出ていしゅつした。

 治済はるさだはそれをりながら、になったことがあった。

長谷川はせがわ平蔵へいぞうとやらの陳情ちんじょう内容ないようだけは不明ふめいようだがのう…」

 治済はるさだになったこととはズバリそのてんであり、治済はるさだはそのてん村上むらかみ半左衛門はんざえもんただした。

「ははっ…、されば長谷川はせがわ平蔵へいぞうとの面会めんかいにつきましては主君しゅくん山城守やましろのかみ部屋へや四方しほうすべはなち、さればこれでは立聞たちぎきするわけにもまいらず…」

 長谷川はせがわ平蔵へいぞう以外いがい陳情ちんじょうきゃくについてはその陳情ちんじょう内容ないよう、もとい村上むらかみ半左衛門はんざえもん立聞たちぎきした内容ないよう事細ことこまかにしたためられていたのにして、平蔵へいぞう陳情ちんじょう内容ないよう空白くうはくであったのはどうやらそのためであった。

 それにしても、あえて部屋へやはなつとは、密談みつだんさい使つかわれる典型的てんけいてきひとつのであった。

成程なるほど…、いや、苦労くろうであった…。今後こんごともたのむぞ…」

 治済はるさだ村上むらかみ半左衛門はんざえもんにそのろうねぎらうと、みずか半左衛門はんざえもん見送みおくった。

 それから治済はるさだふたたび、大奥おおおくへともどった。今度こんど久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ一人ひとりともなって、である。久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ意見いけんきたかったからである。

 すると久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ治済はるさだかいうなり、

森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうよりしらせが…」

 そう切出きりだしたのであった。

 森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうとは御城えどじょう本丸ほんまる賄頭まかないがしら森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろう義立よしたつのことだり、じつ治済はるさだつかえる内藤ないとう友右衛門ゆうえもん助政すけませせがれであった。

 それゆえ森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうもまた治済はるさだいきのかかっているものとして、なにになることがあれば治済はるさだしらせるのをつねとしていた。

「されば森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうしらせによりますれば、日本橋にほんばし魚市場うおいちばにて吉岡よしおか彦右衛門ひこえもんなる先手さきてぐみ同心どうしん棒手振ぼてふり相手あいて聞込ききこみをいたしていたとか…」

棒手振ぼてふり相手あいて聞込ききこみ、とな?」

御意ぎょい…、されば安永7(1778)年の冬場ふゆば河豚ふぐ大量たいりょう買付かいつけたものはいないかどうか…」

 森山もりやま忠三郎ちゅうざぶろうつとめる賄頭まかないがしらという役職ポスト台所だいどころ使つか食材しょくざい買付かいつけを職掌しょくしょうとしており、それゆえ賄頭まかないがしら市場いちばでの情報じょうほう自然しぜんみみはいる。

「して、その、よしおか、ひこえもん、なるものだが…」

「さればいまでこそ、先手頭さきてがしら中山なかやま伊勢いせ配下はいかにて…、なれどかつては長谷川はせがわ備中びちゅう配下はいかでもあり…」

「はせがわ…、よもや…」

「その、よもやでござりまする…、されば長谷川はせがわ平蔵へいぞう長谷川はせがわ備中びっちゅうそくにて…」

「なればその、よしおか…、吉岡よしおかなる同心どうしん長谷川はせがわ平蔵へいぞう指図さしずにてうごいていた…、いや、その長谷川はせがわ平蔵へいぞうにしてもまた、山城やましろめが指図さしずによりうごいていた…、山城やましろめが平蔵へいぞうとの面会めんかいにおいてはそのはなし余人よじんにはさとられぬようえて部屋へやはなったのがそのなによりのあかしぞ…」

御意ぎょい…」

「いや、これでめたぞ…」

「とおおせられますると?」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ乗出のりだしてたずねたので、そこで治済はるさだ今日きょう月次御礼つきなみおんれいでの一件いっけんすなわち、附子ぶし河豚ふぐ一件いっけん縫殿助ぬいのすけかたってかせたのであった。

「されば上様うえさますでに、家基公いえもとこう真相しんそう気付きづきに?」

 久田ひさだ縫殿助ぬいのすけこえふるわせた。

おそらくはの…、さて、そこでだ。如何いかつべきやにおもう?」

 治済はるさだ下問かもんたいして久田ひさだ縫殿助ぬいのすけ返答へんとうきゅうした。いや、返答へんとうこそ持合もちあわせてはいたものの、しかし、それをくちにするのは流石さすがはばかられたからだ。

 すると治済はるさだもそうとさっしてか苦笑くしょうかべた。

「やはりいざと言うときはおとこ意気地いくじけるきらいがある…、そのてんおなごほう意気地いくじがある…」

 治済はるさだはそう言うと、奥女中おくじょちゅうひなへとてんじた。

 大奥おおおくにおける謀議ぼうぎ治済はるさだ最近さいきんひな同席どうせきさせることがおおかった。ひなじつ貴重きちょう意見いけんもたらしてくれるからだ。

 そしてそれは今回こんかいもそうであった。

「されば…、上様うえさまも…、これは山城やましろにもまりましょうが、附子ぶし河豚ふぐどく配合はいごう…、そのりょうまではいま突止つきとめられてはいない様子ようす…、なにより家基公いえもとこうについてのかくたるあかしつかんではおらず、さればこの段階だんかいにて山城やましろくちふうずるのが良策りょうさくかと…」

 ひなじつおそろしいことをサラリと言ってのけた。

 田沼たぬま意知おきとも暗殺あんさつ…、それこそが久田ひさだ縫殿助ぬいのすけあたまおもかべながらも口篭くちごもった内容ないようであり、治済はるさだもまたおなじことをかんがえていた。

「やはりおなごほう度胸どきょうがあるのう…」

 治済はるさだ微苦笑びくしょうかべた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

徳川家基、不本意!

克全
歴史・時代
幻の11代将軍、徳川家基が生き残っていたらどのような世の中になっていたのか?田沼意次に取立てられて、徳川家基の住む西之丸御納戸役となっていた長谷川平蔵が、田沼意次ではなく徳川家基に取り入って出世しようとしていたらどうなっていたのか?徳川家治が、次々と死んでいく自分の子供の死因に疑念を持っていたらどうなっていたのか、そのような事を考えて創作してみました。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜舐める編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おぽこち編〜♡

x頭金x
現代文学
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜アソコ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとエッチなショートショートつめあわせ♡

♡ちょっとエッチなアンソロジー〜おしっこ編〜♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショートの詰め合わせ♡

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...