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徳川家基毒殺事件 ~大奥における不都合な真実、そして家治の爆発と一橋治済の更なる陰謀~
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「畏れながら…、上様は最早その謎…、大奥の謎に、お気付きあそばされておられるのではござりますまいか?」
意知が如何にも、「恐る恐る…」といった体でそう言上するや、家治は眉を上げ「なに?」と応じた。
家治としては別段、意知を威圧するつもりはなかったが、しかし、家治のその様な思惑とは裏腹に、意知を恐れ戦かせ、平伏させた。
家治はそうと気付くと、
「いや、許す。腹蔵なく申せ…」
そう口調を和らげて、意知にその先を促した。
意知に平伏させたままでは、意知の貴重な意見を聞くことが出来ないからだ。
意知もそれで漸くに恐怖感から解放されたのか、再び頭を上げると、その先を続けた。
「されば…、嘗ては御台様の中年寄として、御台様が御膳の毒見を担いし、大崎や高橋は今では西之丸にて年寄を…、それも家斉公の年寄として仕え…」
家治の正室、愛妻であった倫子の中年寄であった大崎と高橋は倫子の毒殺の「功」により、次期将軍・家斉附の年寄に抜擢されたのではないか…、意知はそう示唆した。
大崎と高橋の二人は倫子の死後にはいったん将軍・家治附の御客応答に異動した後、天明元(1781)年閏5月に家斉が家基に代わる次期将軍として西之丸入りを果たすや、家斉は西之丸大奥における年寄、それも次期将軍たる己に附属する年寄として、将軍・家治附の御客応答であった大崎と高橋の二人を所望したのであった。
いや、その頃―、天明元(1781)年閏5月の時点では家斉はまだ元服前であり豊千代と名乗っており、その様な家斉こと豊千代に年寄を選ぶだけの判断力があったとは思えない。
家斉こと豊千代が自らの意思により所望した年寄と言えるのは精精、飯嶋ぐらいのものであろう。
飯嶋は豊千代がまだ一橋屋形にて暮らしていた頃、豊千代の乳母を務めていた者であり、豊千代はこの飯嶋に良く懐いており、それ故、豊千代は次期将軍として西之丸へと移徙、引き移るや、間もなくして飯嶋を連れて来て欲しいと泣付いたものである。
だが、大崎と高橋の二人については家斉こと豊千代が泣付いてまで年寄に所望したという形跡はどこにもない。
だとしたら大崎と高橋の二人を家斉こと豊千代に附属する年寄として所望したのは、豊千代の実父である治済と考えるのが自然であろう。
いや、大崎と高橋ばかりではない、家基附の年寄であった初崎とそれに同じく家基附の御客応答であった笹岡までもが家斉附の年寄として異動、或いは昇格を果たしたのであった。意知はその点をも示唆していた。
即ち、仮に初崎と笹岡の二人までもが治済によって倅・豊千代改め次期将軍となった家斉に仕える年寄として所望されたのだとしたら、初崎や笹岡もまた、「功」として治済に年寄として所望、選ばれた可能性が高い。
そしてこの場合の「功」とは勿論、家基毒殺の「功」であった。
「いや…、確かに意知が申す通り、初崎と笹岡の二人を年寄に所望致したは…、真の者が一橋民部であったとしてもだ…、一応は豊千代が所望したことになってはおるがの…、なれどそれはあくまで、便宜上であろう…」
「便宜上…」
「左様…、されば家基に年寄として仕えていた者をそのまま、豊千代の年寄として仕えさせた方が何かと都合が良いと…」
「成程…、なれどそれでは笹岡もまた、御客応答として仕えさせました方が何かと都合が宜しかったのではござりますまいか?」
意知のその尤もな反論に家治は反論出来ずに言葉を詰まらせた。
「…にもかかわらず、笹岡が御客応答ではのうて、年寄へと昇格を果たしましたは一体、何故にて…」
「それは…」
「それに、便宜上と仰せられますならば、室津とて初崎と同じく今は亡き大納言様…、家基公に年寄として仕え奉りし者にて、にもかかわらず、室津は初崎とは異なり、家斉公の年寄に選ばれることもなく、大奥を退きましてござります…」
意知がそう畳掛けると、家治は「いや、待て待て」と意知を制した。
「初崎は家基の乳母を務め、笹岡に至りては家基の縁者…、笹岡と家基とは従姉弟の間柄なのだぞ?さればその様な初崎や、ましてや笹岡が一橋民部めに手を貸すと思うか?」
家治は必死になってそう反論した。
一方、あくまで「第三者」としての視点を持合わせる意知は、「その可能性もあるのではないか…」と反論しようとしたが、しかし、家治のその必死な様子を目の当たりにして反論することが出来ず、口を噤んだ。
尤も、家治とて心の奥底では意知の今の意見に一片の真実性を見出していた。
それと言うのも、家基の死後、西之丸大奥にて家基に附属していた奥女中の殆んどが家斉に、或いはその婚約者の茂姫、或いは家斉母堂の於富の方に夫々、年寄として附属する様になったからだ。
例えば、家基附の上臈年寄であった岩橋と武家系の年寄であった小枝は茂姫附の上臈年寄、武家系の年寄へと異動、横滑べりを果たした。
岩橋と小枝の二人は嘗ては倫子附、次いで萬壽姫附の上臈年寄、武家系の年寄をも勤めていたのだ。
岩橋と小枝は家基の死、毒殺にこそ関与出来なかったであろうが、しかしその前、倫子や萬壽姫の死、毒殺には関与した可能性が極めて高く、だからこそその「功」により、家斉附の上臈年寄、武家系の年寄へと異動、横滑りを果たすことが出来たのやも知れぬ。
また、家基附の御客応答であった山野も茂姫附の武家系の年寄へと異動、昇進を果たしていた。
山野は家基が最期の鷹狩りの前日に、公儀奥女遣として西之丸大奥へと派された薩摩藩島津家の老女の平野より、家基に一服盛る為の毒物、それも遅効性に適量な附子、トリカブトと河豚毒を受取った可能性が高く、だとしたら山野の年寄への昇格もまた、その「功」である可能性が高かった。
一方、茂姫と同じ頃―、天明元(1781)年9月に西之丸大奥入りを果たした於富の方の年寄には将軍・家治附の御客応答の梅岡が、於富の方たっての希望により選ばれたのだが、梅岡もまた嘗ては倫子附の中年寄、毒見役を務めており、やはり倫子毒殺の「功」により於富の方附の年寄へと異動、昇格を果たしたとも考えられた。
聡明な家治である、その事実に、さしずめ「不都合な真実」に直ぐに思い至ったものの、しかし家治も聡明とは申せ、やはり人の子である。どうしても感情が理性よりも勝ってしまった。
それ故、直ちには意知の意見が受容れられなかったのだ。
意知もそんな家治の心中が痛い程に良く分かったので、それ以上は何も言わなかった。
そして家治は今日、11月15日の月次御礼においても理性よりも感情を優先させてしまった。いや、爆発させてしまった。
月次御礼はまずは、中奥の御座之間にて御三卿への対面から始める。
それ故、家治は真先に御三卿、それも一橋治済との対面に臨んだ訳だが、先程までの意知との密談の所為で、治済の顔を見るにつけ、憎しみの感情が沸き上がり、あまつさえ、それを「放出」させてしまったのだ。
治済が将軍・家治への型通りの挨拶を口にするや、家治はそれを遮り、
「家基の如く、余も附子と河豚を口に致さば、少しくは腹の虫が収まるかの…、それとも家基の許へと行けるかの…」
治済に対してそう言放ったのだ。
これにはさしもの治済も一瞬だが表情が崩れた。さしずめ、いつも被っている「仮面」が一瞬だけだが剥げ落ちた。
だがそこは流石に役者の治済である。いつものポーカーフェイスを取戻すと、微笑を浮かべて御座之間を退出した。
いや、治済は微笑こそ浮かべていたものの、その内心は大いに同様し、まるで心の臓が抉られる思いであった。
その点、治済もまた人の子と言えようか。
それ故、治済は下城するや、待たせていた駕籠にも乗らずに、いや、乗ることも忘れてフラフラとした足取りにて一橋屋形へと戻った。
そんな治済を出迎えたのは一橋家きっての「知恵者」である物頭の久田縫殿助長考であった。
久田縫殿助は治済の顔を一目見るなり異変を察知した様子であった。
だがそこは流石に「知恵者」の久田縫殿助だけあって、深く穿鑿することはせず、その代わりに田沼家の家臣、と言うよりは今は意知と陳情客との取次役を務める村上半左衛門重勝が参っていることを告げた。
村上半左衛門には治済は久田縫殿助を介して、今日の様な月次御礼をはじめとする式日の機会を利用して、意知への陳情内容を報告させることにしていたのだ。
今日の様な月次をはじめとする式日には何かと小うるさい、監視役の家老、御三卿家老も御城へと登城に及び、しかもその帰り、下城は御三卿よりも遅いとあって、それ故、家老の目には触れさせたくない者と会うには好都合と言えた。
それでも一応、治済は村上半左衛門を久田縫殿助共々、大奥へと誘い、そこで報告を聞くことにした。
そこで村上半左衛門は昨日、11月14日までの意知への陳情客とその陳情内容について、それが仔細に認められている帳面を治済に提出した。
治済はそれを繰りながら、気になったことがあった。
「長谷川平蔵とやらの陳情内容だけは不明の様だがのう…」
治済が気になったこととはズバリその点であり、治済はその点を村上半左衛門に糺した。
「ははっ…、されば長谷川平蔵との面会につきましては主君、山城守も部屋の四方を全て開け放ち、さればこれでは立聞きする訳にも参らず…」
長谷川平蔵以外の陳情客についてはその陳情内容、もとい村上半左衛門が立聞きした内容が事細かに認められていたのに比して、平蔵の陳情内容が空白であったのはどうやらその為であった。
それにしても、あえて部屋を開け放つとは、密談の際に使われる典型的な一つの手であった。
「成程…、いや、御苦労であった…。今後共、頼むぞ…」
治済は村上半左衛門にその労を労うと、自ら半左衛門を見送った。
それから治済は再び、大奥へと戻った。今度は久田縫殿助一人を伴って、である。久田縫殿助の意見を聞きたかったからである。
すると久田縫殿助は治済と向かい合うなり、
「森山忠三郎より報せが…」
そう切出したのであった。
森山忠三郎とは御城本丸賄頭の森山忠三郎義立のことだり、実は治済に仕える内藤友右衛門助政の倅であった。
それ故、森山忠三郎もまた治済の息のかかっている者として、何か気になることがあれば治済に報せるのを常としていた。
「されば森山忠三郎の報せによりますれば、日本橋の魚市場にて吉岡彦右衛門なる先手組の同心が棒手振を相手に聞込みを致していたとか…」
「棒手振を相手に聞込み、とな?」
「御意…、されば安永7(1778)年の冬場に河豚を大量に買付けた者はいないかどうか…」
森山忠三郎が勤める賄頭という役職は台所で使う食材の買付けを職掌としており、それ故、賄頭は市場での情報が自然と耳に入る。
「して、その、よしおか、ひこえもん、なる者だが…」
「されば今でこそ、先手頭・中山伊勢の配下にて…、なれど嘗ては長谷川備中が配下でもあり…」
「はせがわ…、よもや…」
「その、よもやでござりまする…、されば長谷川平蔵は長谷川備中が息にて…」
「なればその、よしおか…、吉岡なる同心は長谷川平蔵が指図にて動いていた…、いや、その長谷川平蔵にしてもまた、山城めが指図により動いていた…、山城めが平蔵との面会においてはその話が余人には悟られぬ様、敢えて部屋を開け放ったのがその何よりの証ぞ…」
「御意…」
「いや、これで読めたぞ…」
「と仰せられますると?」
久田縫殿助が身を乗出して尋ねたので、そこで治済は今日の月次御礼での一件、即ち、附子と河豚の一件を縫殿助に語って聞かせたのであった。
「されば上様は既に、家基公の死の真相に御気付きに?」
久田縫殿助は声を震わせた。
「恐らくはの…、さて、そこでだ。如何な手を打つべきやに思う?」
治済の下問に対して久田縫殿助は返答に窮した。いや、返答こそ持合わせてはいたものの、しかし、それを口にするのは流石に憚られたからだ。
すると治済もそうと察してか苦笑を浮かべた。
「やはりいざと言うときは男は意気地に欠ける嫌いがある…、その点、女の方が意気地がある…」
治済はそう言うと、奥女中の雛へと目を転じた。
大奥における謀議の場に治済は最近、雛を同席させることが多かった。雛は実に貴重な意見を齎してくれるからだ。
そしてそれは今回もそうであった。
「されば…、上様も…、これは山城にも当て嵌まりましょうが、附子と河豚毒の配合…、その量までは未だ突止められてはいない様子…、何より家基公の死についての確たる証は掴んではおらず、さればこの段階にて山城が口を封ずるのが良策かと…」
雛は実に恐ろしいことをサラリと言ってのけた。
田沼意知の暗殺…、それこそが久田縫殿助が頭に思い浮かべながらも口篭もった内容であり、治済もまた同じことを考えていた。
「やはり女の方が度胸があるのう…」
治済は微苦笑を浮かべた。
意知が如何にも、「恐る恐る…」といった体でそう言上するや、家治は眉を上げ「なに?」と応じた。
家治としては別段、意知を威圧するつもりはなかったが、しかし、家治のその様な思惑とは裏腹に、意知を恐れ戦かせ、平伏させた。
家治はそうと気付くと、
「いや、許す。腹蔵なく申せ…」
そう口調を和らげて、意知にその先を促した。
意知に平伏させたままでは、意知の貴重な意見を聞くことが出来ないからだ。
意知もそれで漸くに恐怖感から解放されたのか、再び頭を上げると、その先を続けた。
「されば…、嘗ては御台様の中年寄として、御台様が御膳の毒見を担いし、大崎や高橋は今では西之丸にて年寄を…、それも家斉公の年寄として仕え…」
家治の正室、愛妻であった倫子の中年寄であった大崎と高橋は倫子の毒殺の「功」により、次期将軍・家斉附の年寄に抜擢されたのではないか…、意知はそう示唆した。
大崎と高橋の二人は倫子の死後にはいったん将軍・家治附の御客応答に異動した後、天明元(1781)年閏5月に家斉が家基に代わる次期将軍として西之丸入りを果たすや、家斉は西之丸大奥における年寄、それも次期将軍たる己に附属する年寄として、将軍・家治附の御客応答であった大崎と高橋の二人を所望したのであった。
いや、その頃―、天明元(1781)年閏5月の時点では家斉はまだ元服前であり豊千代と名乗っており、その様な家斉こと豊千代に年寄を選ぶだけの判断力があったとは思えない。
家斉こと豊千代が自らの意思により所望した年寄と言えるのは精精、飯嶋ぐらいのものであろう。
飯嶋は豊千代がまだ一橋屋形にて暮らしていた頃、豊千代の乳母を務めていた者であり、豊千代はこの飯嶋に良く懐いており、それ故、豊千代は次期将軍として西之丸へと移徙、引き移るや、間もなくして飯嶋を連れて来て欲しいと泣付いたものである。
だが、大崎と高橋の二人については家斉こと豊千代が泣付いてまで年寄に所望したという形跡はどこにもない。
だとしたら大崎と高橋の二人を家斉こと豊千代に附属する年寄として所望したのは、豊千代の実父である治済と考えるのが自然であろう。
いや、大崎と高橋ばかりではない、家基附の年寄であった初崎とそれに同じく家基附の御客応答であった笹岡までもが家斉附の年寄として異動、或いは昇格を果たしたのであった。意知はその点をも示唆していた。
即ち、仮に初崎と笹岡の二人までもが治済によって倅・豊千代改め次期将軍となった家斉に仕える年寄として所望されたのだとしたら、初崎や笹岡もまた、「功」として治済に年寄として所望、選ばれた可能性が高い。
そしてこの場合の「功」とは勿論、家基毒殺の「功」であった。
「いや…、確かに意知が申す通り、初崎と笹岡の二人を年寄に所望致したは…、真の者が一橋民部であったとしてもだ…、一応は豊千代が所望したことになってはおるがの…、なれどそれはあくまで、便宜上であろう…」
「便宜上…」
「左様…、されば家基に年寄として仕えていた者をそのまま、豊千代の年寄として仕えさせた方が何かと都合が良いと…」
「成程…、なれどそれでは笹岡もまた、御客応答として仕えさせました方が何かと都合が宜しかったのではござりますまいか?」
意知のその尤もな反論に家治は反論出来ずに言葉を詰まらせた。
「…にもかかわらず、笹岡が御客応答ではのうて、年寄へと昇格を果たしましたは一体、何故にて…」
「それは…」
「それに、便宜上と仰せられますならば、室津とて初崎と同じく今は亡き大納言様…、家基公に年寄として仕え奉りし者にて、にもかかわらず、室津は初崎とは異なり、家斉公の年寄に選ばれることもなく、大奥を退きましてござります…」
意知がそう畳掛けると、家治は「いや、待て待て」と意知を制した。
「初崎は家基の乳母を務め、笹岡に至りては家基の縁者…、笹岡と家基とは従姉弟の間柄なのだぞ?さればその様な初崎や、ましてや笹岡が一橋民部めに手を貸すと思うか?」
家治は必死になってそう反論した。
一方、あくまで「第三者」としての視点を持合わせる意知は、「その可能性もあるのではないか…」と反論しようとしたが、しかし、家治のその必死な様子を目の当たりにして反論することが出来ず、口を噤んだ。
尤も、家治とて心の奥底では意知の今の意見に一片の真実性を見出していた。
それと言うのも、家基の死後、西之丸大奥にて家基に附属していた奥女中の殆んどが家斉に、或いはその婚約者の茂姫、或いは家斉母堂の於富の方に夫々、年寄として附属する様になったからだ。
例えば、家基附の上臈年寄であった岩橋と武家系の年寄であった小枝は茂姫附の上臈年寄、武家系の年寄へと異動、横滑べりを果たした。
岩橋と小枝の二人は嘗ては倫子附、次いで萬壽姫附の上臈年寄、武家系の年寄をも勤めていたのだ。
岩橋と小枝は家基の死、毒殺にこそ関与出来なかったであろうが、しかしその前、倫子や萬壽姫の死、毒殺には関与した可能性が極めて高く、だからこそその「功」により、家斉附の上臈年寄、武家系の年寄へと異動、横滑りを果たすことが出来たのやも知れぬ。
また、家基附の御客応答であった山野も茂姫附の武家系の年寄へと異動、昇進を果たしていた。
山野は家基が最期の鷹狩りの前日に、公儀奥女遣として西之丸大奥へと派された薩摩藩島津家の老女の平野より、家基に一服盛る為の毒物、それも遅効性に適量な附子、トリカブトと河豚毒を受取った可能性が高く、だとしたら山野の年寄への昇格もまた、その「功」である可能性が高かった。
一方、茂姫と同じ頃―、天明元(1781)年9月に西之丸大奥入りを果たした於富の方の年寄には将軍・家治附の御客応答の梅岡が、於富の方たっての希望により選ばれたのだが、梅岡もまた嘗ては倫子附の中年寄、毒見役を務めており、やはり倫子毒殺の「功」により於富の方附の年寄へと異動、昇格を果たしたとも考えられた。
聡明な家治である、その事実に、さしずめ「不都合な真実」に直ぐに思い至ったものの、しかし家治も聡明とは申せ、やはり人の子である。どうしても感情が理性よりも勝ってしまった。
それ故、直ちには意知の意見が受容れられなかったのだ。
意知もそんな家治の心中が痛い程に良く分かったので、それ以上は何も言わなかった。
そして家治は今日、11月15日の月次御礼においても理性よりも感情を優先させてしまった。いや、爆発させてしまった。
月次御礼はまずは、中奥の御座之間にて御三卿への対面から始める。
それ故、家治は真先に御三卿、それも一橋治済との対面に臨んだ訳だが、先程までの意知との密談の所為で、治済の顔を見るにつけ、憎しみの感情が沸き上がり、あまつさえ、それを「放出」させてしまったのだ。
治済が将軍・家治への型通りの挨拶を口にするや、家治はそれを遮り、
「家基の如く、余も附子と河豚を口に致さば、少しくは腹の虫が収まるかの…、それとも家基の許へと行けるかの…」
治済に対してそう言放ったのだ。
これにはさしもの治済も一瞬だが表情が崩れた。さしずめ、いつも被っている「仮面」が一瞬だけだが剥げ落ちた。
だがそこは流石に役者の治済である。いつものポーカーフェイスを取戻すと、微笑を浮かべて御座之間を退出した。
いや、治済は微笑こそ浮かべていたものの、その内心は大いに同様し、まるで心の臓が抉られる思いであった。
その点、治済もまた人の子と言えようか。
それ故、治済は下城するや、待たせていた駕籠にも乗らずに、いや、乗ることも忘れてフラフラとした足取りにて一橋屋形へと戻った。
そんな治済を出迎えたのは一橋家きっての「知恵者」である物頭の久田縫殿助長考であった。
久田縫殿助は治済の顔を一目見るなり異変を察知した様子であった。
だがそこは流石に「知恵者」の久田縫殿助だけあって、深く穿鑿することはせず、その代わりに田沼家の家臣、と言うよりは今は意知と陳情客との取次役を務める村上半左衛門重勝が参っていることを告げた。
村上半左衛門には治済は久田縫殿助を介して、今日の様な月次御礼をはじめとする式日の機会を利用して、意知への陳情内容を報告させることにしていたのだ。
今日の様な月次をはじめとする式日には何かと小うるさい、監視役の家老、御三卿家老も御城へと登城に及び、しかもその帰り、下城は御三卿よりも遅いとあって、それ故、家老の目には触れさせたくない者と会うには好都合と言えた。
それでも一応、治済は村上半左衛門を久田縫殿助共々、大奥へと誘い、そこで報告を聞くことにした。
そこで村上半左衛門は昨日、11月14日までの意知への陳情客とその陳情内容について、それが仔細に認められている帳面を治済に提出した。
治済はそれを繰りながら、気になったことがあった。
「長谷川平蔵とやらの陳情内容だけは不明の様だがのう…」
治済が気になったこととはズバリその点であり、治済はその点を村上半左衛門に糺した。
「ははっ…、されば長谷川平蔵との面会につきましては主君、山城守も部屋の四方を全て開け放ち、さればこれでは立聞きする訳にも参らず…」
長谷川平蔵以外の陳情客についてはその陳情内容、もとい村上半左衛門が立聞きした内容が事細かに認められていたのに比して、平蔵の陳情内容が空白であったのはどうやらその為であった。
それにしても、あえて部屋を開け放つとは、密談の際に使われる典型的な一つの手であった。
「成程…、いや、御苦労であった…。今後共、頼むぞ…」
治済は村上半左衛門にその労を労うと、自ら半左衛門を見送った。
それから治済は再び、大奥へと戻った。今度は久田縫殿助一人を伴って、である。久田縫殿助の意見を聞きたかったからである。
すると久田縫殿助は治済と向かい合うなり、
「森山忠三郎より報せが…」
そう切出したのであった。
森山忠三郎とは御城本丸賄頭の森山忠三郎義立のことだり、実は治済に仕える内藤友右衛門助政の倅であった。
それ故、森山忠三郎もまた治済の息のかかっている者として、何か気になることがあれば治済に報せるのを常としていた。
「されば森山忠三郎の報せによりますれば、日本橋の魚市場にて吉岡彦右衛門なる先手組の同心が棒手振を相手に聞込みを致していたとか…」
「棒手振を相手に聞込み、とな?」
「御意…、されば安永7(1778)年の冬場に河豚を大量に買付けた者はいないかどうか…」
森山忠三郎が勤める賄頭という役職は台所で使う食材の買付けを職掌としており、それ故、賄頭は市場での情報が自然と耳に入る。
「して、その、よしおか、ひこえもん、なる者だが…」
「されば今でこそ、先手頭・中山伊勢の配下にて…、なれど嘗ては長谷川備中が配下でもあり…」
「はせがわ…、よもや…」
「その、よもやでござりまする…、されば長谷川平蔵は長谷川備中が息にて…」
「なればその、よしおか…、吉岡なる同心は長谷川平蔵が指図にて動いていた…、いや、その長谷川平蔵にしてもまた、山城めが指図により動いていた…、山城めが平蔵との面会においてはその話が余人には悟られぬ様、敢えて部屋を開け放ったのがその何よりの証ぞ…」
「御意…」
「いや、これで読めたぞ…」
「と仰せられますると?」
久田縫殿助が身を乗出して尋ねたので、そこで治済は今日の月次御礼での一件、即ち、附子と河豚の一件を縫殿助に語って聞かせたのであった。
「されば上様は既に、家基公の死の真相に御気付きに?」
久田縫殿助は声を震わせた。
「恐らくはの…、さて、そこでだ。如何な手を打つべきやに思う?」
治済の下問に対して久田縫殿助は返答に窮した。いや、返答こそ持合わせてはいたものの、しかし、それを口にするのは流石に憚られたからだ。
すると治済もそうと察してか苦笑を浮かべた。
「やはりいざと言うときは男は意気地に欠ける嫌いがある…、その点、女の方が意気地がある…」
治済はそう言うと、奥女中の雛へと目を転じた。
大奥における謀議の場に治済は最近、雛を同席させることが多かった。雛は実に貴重な意見を齎してくれるからだ。
そしてそれは今回もそうであった。
「されば…、上様も…、これは山城にも当て嵌まりましょうが、附子と河豚毒の配合…、その量までは未だ突止められてはいない様子…、何より家基公の死についての確たる証は掴んではおらず、さればこの段階にて山城が口を封ずるのが良策かと…」
雛は実に恐ろしいことをサラリと言ってのけた。
田沼意知の暗殺…、それこそが久田縫殿助が頭に思い浮かべながらも口篭もった内容であり、治済もまた同じことを考えていた。
「やはり女の方が度胸があるのう…」
治済は微苦笑を浮かべた。
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