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重村の暴走 ~ライバル・島津重豪より先んじて家格の上昇を狙う伊達重村は意知に味方する~ 大奥の事情 1

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 明和4(1767)年には千穂ちほすで家治いえはるとのあいだ家基いえもとをもうけていたものの、しかしそのときにはまだ、家治いえはる愛妻あいさい倫子ともこ存命ぞんめいであり、しかも家基いえもとはその倫子ともこ手許てもと大事だいじそだてられていたこともあり、重村しげむら千穂ちほ存在そんざいをそれほど重視じゅうしはしておらず、それゆえ従四位上じゅしいのじょう左近衛さこのえ権中将ごんのちゅうじょう昇叙しょうじょたすさいにも千穂ちほは「運動うんどう」の対象外たいしょうがいであった。

 だがそれから4年後の明和8(1771)年に倫子ともこしゅっしたために、家基いえもと生母せいぼであった千穂ちほ一介いっかい側妾そくしょうから一気いっき愛妾あいしょうへとおどた。いや、家治いえはる自身じしんいまでも愛妻あいさい倫子ともこ面影おもかげわすれられず、千穂ちほ一介いっかい側妾そくしょうぎなかったやもれぬが、千穂ちほ自身じしんは将軍・家治いえはる愛妾あいしょうであると、そうしんじてうたがわなかった。

 ともあれ重村しげむらとしても今回こんかい千穂ちほ存在そんざい無視むしするわけにはゆかず、そこで千穂ちほさら千穂ちほ年寄としよりとしてつか得る玉澤たまさわを「運動うんどう」の対象たいしょうふくめたのであった。

 具体的ぐたいてきには千穂ちほについてはその実家じっかである津田つだ家に取入とりいった。千穂ちほ実弟じっていである津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆきは将軍・家治いえはるつかえる御側衆おそばしゅう一人ひとりであり、重村しげむらはその信之のぶゆき徹底的てっていてき取入とりいることで、信之のぶゆき実姉じっしにして将軍・家治いえはる愛妾あいしょうである千穂ちほよしみつうずることに成功せいこうした。

 また玉澤たまさわだが、やはり玉澤たまさわ実家じっかである本田ほんだ家に取入とりいった。

 玉澤たまさわ知行ちぎょう750石の旗本はたもと本田ほんだ家の出身しゅっしんであり、その本田ほんだ家はいま玉澤たまさわ従弟いとこである頼母たのも正堯まさたかいでおり、しかも玉澤たまさわ宿元やどもと、つまりは身元みもと保証人ほしょうにんであった。

 そこで重村しげむらはこの本田ほんだ頼母たのも徹底的てっていてき取入とりいることで玉澤たまさわよしみつうずることに成功せいこうした。

 いや、そのまえ重村しげむら駒井こまい半蔵はんぞう爲隣ためちかなる小納戸こなんどにも取入とりいった。

 将軍・家治いえはる愛妾あいしょうである千穂ちほ御側衆おそばしゅう津田つだ信之のぶゆき実姉じっしであることは周知しゅうち事実じじつであったので、重村しげむら当然とうぜん、そのことを把握はあくしており、それゆえ重村しげむら信之のぶゆき取入とりいることにはさして苦労くろうしなかった。

 だが問題もんだい玉澤たまさわであり、玉澤たまさわ何処いずこ武家ぶけ出身しゅっしんであるのか、そこまでは重村しげむら把握はあくしてはいなかったのだ。

 そこで重村しげむら信之のぶゆきたずねたところ、玉澤たまさわ知行ちぎょう750石の旗本はたもと本田ほんだ家の出身しゅっしんであり、つその本田ほんだ家はいま玉澤たまさわ従弟いとこ頼母たのもあといでおり、しかも本田ほんだ頼母たのも玉澤たまさわ宿元やどもと身元みもと保証人ほしょうにんでもあると、信之のぶゆきよりそうおしえられたので、重村しげむら本田ほんだ頼母たのも取入とりいることが出来できたのであった。

 その本田ほんだ頼母たのもだが、将軍・家治いえはる御側おそばちかくにつかえる小納戸こなんどであり、重村しげむらがその頼母たのもに「事情じじょう」をけ、玉澤たまさわともよしみつうじたいむねつたえるや、頼母たのも重村しげむら貴重きちょうな「アドバイス」をほどこした。すなわち、

「それなら駒井こまい半蔵はんぞうにも取入とりいるべき…」

 本田ほんだ頼母たのも重村しげむらにそう「アドバイス」をしたのであった。

 駒井こまい半蔵はんぞうとは、本田ほんだ頼母たのもとは相役あいやく同僚どうりょうである小納戸こなんどであり、のみならず、駒井こまい半蔵はんぞう玉澤たまさわじつであったのだ。

 玉澤たまさわ大奥おおおくつかえるまえ知行ちぎょう500石の旗本はたもと駒井こまい家の嫡子ちゃくしであった兵部ひょうぶ親奉ちかとももととついだ。

 駒井こまい兵部ひょうぶ小姓こしょうぐみ番士ばんしであった半右衛門はんえもん興房おきふさ嫡子ちゃくしであり、自身じしん嫡子ちゃくし書院しょいん番士ばんしとして御城えどじょう出仕しゅっしつかえていたものの、しかし兵部ひょうぶちち半右衛門はんえもんあとぐことはなかった。

 表向おもてむきは、

やまいのため…」

 兵部ひょうぶみずか嫡子ちゃくし立場たちば返上へんじょうしたわけだが、しかし実際じっさいにはそうではなく、ちち半右衛門はんえもんによって嫡子ちゃくし立場たちば返上へんじょうさせられたのであった。

 兵部ひょうぶ旗本はたもと嫡子ちゃくし、それも書院しょいん番士ばんしとして御城えどじょうつとめているにもかかわらず、非番ひばんなどには博打ばくちきょうずるという大変たいへん不真面目ふまじめ御仁ごじんであり、のみならず、兵部ひょうぶ博打ばくちき、いや、それをとおして博打ばくちぐるいはつとられたはなしであり、兵部ひょうぶ同僚どうりょう書院しょいん番士ばんしもとより、ちち半右衛門はんえもん同僚どうりょうである小姓こしょうぐみ番士ばんしみみにまでひびいていた。

 それゆえちち半右衛門はんえもんはこのままでは駒井こまい家はつぶれてしまうやもれぬとつよ危機感ききかんおそわれたそうな。なにしろ博打ばくち原因げんいん改易かいえきとなった旗本はたもと数知かずしれないからだ。

 そこで半右衛門はんえもんしくも家基いえもと生誕せいたんした宝暦ほうれき12(1762)年にせがれ兵部ひょうぶにまずは書院しょいん番士ばんししょくさせたうえからのぞいた、つまりは嫡子ちゃくし召上めしあげたというのが真相しんそうであった。
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