上 下
143 / 162

重村の暴走 ~ライバル・島津重豪より先んじて家格の上昇を狙う伊達重村は意知に味方する~ 溜之間の事情 1

しおりを挟む
 定國さだくに将軍家しょうぐんけたる御三卿ごさんきょう筆頭ひっとうたる田安たやす家にまれながらも、いまかずある親藩しんぱん家門かもん大名だいみょう一人ひとりぎず、家紋かもんにしてもそれが反映はんえいされ、伊豫いよ松山まつやま代々だいだい家紋かもんである梅内輪うめうちわもちいており、いや、定國さだくににしてみればもちいざるをず、所謂いわゆる

あおい御紋ごもん

 それをもちいることはゆるされていなかった。

 そこで定國さだくにとしては義理ぎりとは言え、いもうとそのしゅうとたる若年寄わかどしより太田おおた資愛すけよしとの交際こうさいふかめることで、「あおい御紋ごもん」の着用ちゃくようみとめられるよう、つとめていたのだ。

 定國さだくに若年寄わかどしよりのそれも次席じせきである太田おおた資愛すけよし足掛あしがかりに、若年寄わかどしより筆頭ひっとう酒井さかい忠休ただよしともしたしく交際こうさいするようになり、そしてさら酒井さかい忠休ただよしをも足掛あしがかりとして、そのうえ老中ろうじゅう側用人そばようにんとも交際こうさいするようになっていた。無論むろんすべては「あおい御紋ごもん」の着用ちゃくようみとめてもらうためであった。

 あおい御紋ごもん着用ちゃくようみとめるかどうか、その可否かひめるのは勿論もちろん、将軍たる家治いえはるであるが、しかし実際じっさいには老中ろうじゅう側用人そばようにん若年寄わかどしよりなどの幕閣ばっかくがその可否かひめ、彼等かれら幕閣ばっかくあおい御紋ごもん着用ちゃくようとした場合ばあい、将軍へとそのむね上申じょうしんがなされることになる。

 いや、勿論もちろん如何いか幕閣ばっかくあおい御紋ごもん着用ちゃくようとしようとも、最終的さいしゅうてき決定けっていするのは将軍であり、それゆえ将軍が幕閣ばっかく意向いこうはんすることもありすなわち、幕閣ばっかくあおい御紋ごもん着用ちゃくようみとめたにもかかわらず、決裁けっさい権者けんしゃたる将軍がこれをみとめないということもありた。

 だが実際じっさいには、将軍は余程よほどことでもないかぎりは幕閣ばっかく上申じょうしんしたとおりに決裁けっさいするケースがほとんどであり、そして御三卿ごさんきょう出身しゅっしん定國さだくにに対して三葉みつばあおい紋所もんどころ着用ちゃくようゆるすことは、余程よほどのことにはたるまい。

 それどころか将軍・家治いえはる当人とうにん定國さだくにのぞむのであらばみとめてやってもいとさえおもっているほどであり、あと幕閣ばっかく上申じょうしんちであった。

 将軍は完全かんぜん独裁者どくさいしゃではない。いや、そのになれば専制せんせい君主くんしゅとして振舞ふるまうことも出来できたが、すくなくとも家治いえはる幕閣ばっかく合議ごうぎおもんずる。

 こと将軍家しょうぐんけ出身しゅっしんである定國さだくにに対して、三葉みつばあおい紋所もんどころ着用ちゃくようみとめるかどうか、それは将軍・家治いえはるにとってはきわめて私的してき色彩しきさいつよいものであった。

 これが公的こうてき色彩しきさいつよいものであったならば、たとえば幕政ばくせいにおける新規しんき施策しさくにつき、幕閣ばっかく反対はんたいしようとも家治いえはるはそのような新規しんき施策しさくのぞむのであれば、専制せんせい君主くんしゅとして振舞ふるまうこともいとわなかったであろう。つまりは幕閣ばっかく反対はんたいってでも新規しんき施策しさく邁進まいしんしたであろう。寵臣ちょうしんである田沼たぬま意次おきつぐ老中ろうじゅうへと取立とりたてたのがそのなによりのあかしであった。

 意次おきつぐ所謂いわゆる

がりもの…」

 であり、そのような意次おきつぐ如何いか寵臣ちょうしんとはもうせ、老中ろうじゅう取立とりたてることには相当そうとう異論いろんもあった。

 だが将軍・家治いえはる意次おきつぐには老中ろうじゅうつと能力のうりょくがあると、そう見込みこんだからこそ、大方おおかた異論いろんけて初志しょし貫徹かんてつ意次おきつぐ老中ろうじゅうへと取立とりたてたのであった。

 この一事いちじってして、家治いえはる如何いかにリーダーシップをるう将軍であるか、それがうかがれよう。これで家治いえはる幕閣ばっかく政治せいじ丸投まるなげするような、それこそ「バカ殿との」であれば、大方おおかた異論いろんってまで、意次おきつぐ老中ろうじゅうえようとはおもいもしないからだ。

 そのような家治いえはるだけに、こと私的してきなことにかんしてはぎゃくきわめて慎重しんちょう姿勢しせいしめし、それこそ「バカ殿との」にてっすると言っても過言かごんではない。

 定國さだくに将軍家しょうぐんけである御三卿ごさんきょう出身しゅっしんであり、つまりは将軍・家治いえはる身内みうちのような存在そんざいであった。

 その定國さだくにに対してあおい紋所もんどころ着用ちゃくようみとめるかいなか、家治いえはるにとってはそれは完全かんぜん私的してき部類ぶるいであろう。

 それゆえ定國さだくにとしては幕閣ばっかく口説くどとすことがなによりも大事だいじであり、そこでまずは縁者えんじゃにして若年寄わかどしより次席じせき太田おおた資愛すけよし取入とりいり、その太田おおた資愛すけよし足掛あしがかりに、若年寄わかどしより筆頭ひっとうである酒井さかい忠休ただよしにも取入とりいることに成功せいこうした次第しだいであった。

 そして若年寄わかどしより筆頭ひっとう酒井さかい忠休ただよしかいして、御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらにも取入とりいることに成功せいこうし、あと側用人そばようにんとそして老中ろうじゅう口説くどとせば、三葉みつばあおい紋所もんどころ着用ちゃくようみとめられたも同然どうぜんであった。

 ちなみに幕府ばくふ政治せいじ顧問こもんかくである溜之間たまりのまづめ諸侯しょこうだが、とう定國さだくに自身じしんがその「メンバー」の一人ひとりであり、それゆえこの場合ばあい…、定國さだくにあおい紋所もんどころ着用ちゃくようみとめるかいなか、その可否かひについて溜之間たまりのまづめ諸侯しょこう意見いけんもとめられることはなかった。公平性こうへいせいけるためである。

 ともあれそのような定國さだくににとって、酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよし二人ふたりまさ大事だいじ手蔓てづるであり、その二人ふたりがそれこそ、

雁首がんくびそろえて…」

 薩摩さつま島津しまづ家の殿中でんちゅうせき大広間おおひろまから松之大廊下まつのおおろうかへとうつしてはと、そう提案ていあんしているからには、定國さだくにとしてもその提案ていあん反対はんたいするわけにはゆかないだろう。
しおりを挟む

処理中です...