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重村の暴走 ~ライバル・島津重豪より先んじて家格の上昇を狙う伊達重村は意知に味方する~ 溜之間の事情 1
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定國は将軍家たる御三卿の筆頭たる田安家に生まれながらも、今は数ある親藩、家門大名の一人に過ぎず、家紋にしてもそれが反映され、伊豫松山家代々の家紋である梅内輪を用いており、いや、定國にしてみれば用いざるを得ず、所謂、
「葵の御紋」
それを用いることは許されていなかった。
そこで定國としては義理とは言え、妹の園の舅に当たる若年寄の太田資愛との交際を深めることで、「葵の御紋」の着用が認められるよう、努めていたのだ。
定國は若年寄のそれも次席である太田資愛を足掛かりに、若年寄筆頭の酒井忠休とも親しく交際するようになり、そして更に酒井忠休をも足掛かりとして、その上の老中や側用人とも交際するようになっていた。無論、全ては「葵の御紋」の着用を認めて貰うためであった。
葵の御紋の着用を認めるかどうか、その可否を決めるのは勿論、将軍たる家治であるが、しかし実際には老中や側用人、若年寄などの幕閣がその可否を決め、彼等幕閣が葵の御紋の着用を是とした場合、将軍へとその旨、上申がなされることになる。
いや、勿論、如何に幕閣が葵の御紋の着用を是としようとも、最終的に決定するのは将軍であり、それゆえ将軍が幕閣の意向に反することもあり得、即ち、幕閣が葵の御紋の着用を認めたにもかかわらず、決裁権者たる将軍がこれを認めないということもあり得た。
だが実際には、将軍は余程の事でもない限りは幕閣が上申した通りに決裁するケースが殆どであり、そして御三卿出身の定國に対して三葉葵の紋所の着用を許すことは、余程のことには当たるまい。
それどころか将軍・家治当人は定國が望むのであらば認めてやっても良いとさえ思っている程であり、後は幕閣の上申待ちであった。
将軍は完全な独裁者ではない。いや、その気になれば専制君主として振舞うことも出来たが、少なくとも家治は幕閣の合議を重んずる。
殊に将軍家出身である定國に対して、三葉葵の紋所の着用を認めるかどうか、それは将軍・家治にとっては極めて私的な色彩の強いものであった。
これが公的な色彩の強いものであったならば、例えば幕政における新規施策につき、幕閣が反対しようとも家治はそのような新規施策を望むのであれば、専制君主として振舞うことも厭わなかったであろう。つまりは幕閣の反対を押し切ってでも新規施策に邁進したであろう。寵臣である田沼意次を老中へと取立てたのがその何よりの証であった。
意次は所謂、
「成り上がり者…」
であり、そのような意次を如何に寵臣とは申せ、老中に取立てることには相当の異論もあった。
だが将軍・家治は意次には老中を勤め得る能力があると、そう見込んだからこそ、大方の異論を跳ね除けて初志貫徹、意次を老中へと取立てたのであった。
この一事を以ってして、家治が如何にリーダーシップを振るう将軍であるか、それが窺い知れよう。これで家治が幕閣に政治を丸投げするような、それこそ「バカ殿」であれば、大方の異論を押し切ってまで、意次を老中に据えようとは思いもしないからだ。
そのような家治だけに、殊、私的なことに関しては逆に極めて慎重な姿勢を示し、それこそ「バカ殿」に徹すると言っても過言ではない。
定國は将軍家である御三卿の出身であり、つまりは将軍・家治の身内のような存在であった。
その定國に対して葵の紋所の着用を認めるか否か、家治にとってはそれは完全に私的な部類であろう。
それゆえ定國としては幕閣を口説き落とすことが何よりも大事であり、そこでまずは縁者にして若年寄次席の太田資愛に取入り、その太田資愛を足掛かりに、若年寄筆頭である酒井忠休にも取入ることに成功した次第であった。
そして若年寄筆頭の酒井忠休を介して、御側御用取次の稲葉正明にも取入ることに成功し、後は側用人とそして老中を口説き落とせば、三葉葵の紋所の着用は認められたも同然であった。
ちなみに幕府の政治顧問格である溜之間詰の諸侯だが、当の定國自身がその「メンバー」の一人であり、それゆえこの場合…、定國に葵の紋所の着用を認めるか否か、その可否について溜之間詰の諸侯が意見を求められることはなかった。公平性に欠けるためである。
ともあれそのような定國にとって、酒井忠休と太田資愛の二人は正に大事な手蔓であり、その二人がそれこそ、
「雁首を揃えて…」
薩摩島津家の殿中席を大広間から松之大廊下へと遷してはと、そう提案しているからには、定國としてもその提案に反対するわけにはゆかないだろう。
「葵の御紋」
それを用いることは許されていなかった。
そこで定國としては義理とは言え、妹の園の舅に当たる若年寄の太田資愛との交際を深めることで、「葵の御紋」の着用が認められるよう、努めていたのだ。
定國は若年寄のそれも次席である太田資愛を足掛かりに、若年寄筆頭の酒井忠休とも親しく交際するようになり、そして更に酒井忠休をも足掛かりとして、その上の老中や側用人とも交際するようになっていた。無論、全ては「葵の御紋」の着用を認めて貰うためであった。
葵の御紋の着用を認めるかどうか、その可否を決めるのは勿論、将軍たる家治であるが、しかし実際には老中や側用人、若年寄などの幕閣がその可否を決め、彼等幕閣が葵の御紋の着用を是とした場合、将軍へとその旨、上申がなされることになる。
いや、勿論、如何に幕閣が葵の御紋の着用を是としようとも、最終的に決定するのは将軍であり、それゆえ将軍が幕閣の意向に反することもあり得、即ち、幕閣が葵の御紋の着用を認めたにもかかわらず、決裁権者たる将軍がこれを認めないということもあり得た。
だが実際には、将軍は余程の事でもない限りは幕閣が上申した通りに決裁するケースが殆どであり、そして御三卿出身の定國に対して三葉葵の紋所の着用を許すことは、余程のことには当たるまい。
それどころか将軍・家治当人は定國が望むのであらば認めてやっても良いとさえ思っている程であり、後は幕閣の上申待ちであった。
将軍は完全な独裁者ではない。いや、その気になれば専制君主として振舞うことも出来たが、少なくとも家治は幕閣の合議を重んずる。
殊に将軍家出身である定國に対して、三葉葵の紋所の着用を認めるかどうか、それは将軍・家治にとっては極めて私的な色彩の強いものであった。
これが公的な色彩の強いものであったならば、例えば幕政における新規施策につき、幕閣が反対しようとも家治はそのような新規施策を望むのであれば、専制君主として振舞うことも厭わなかったであろう。つまりは幕閣の反対を押し切ってでも新規施策に邁進したであろう。寵臣である田沼意次を老中へと取立てたのがその何よりの証であった。
意次は所謂、
「成り上がり者…」
であり、そのような意次を如何に寵臣とは申せ、老中に取立てることには相当の異論もあった。
だが将軍・家治は意次には老中を勤め得る能力があると、そう見込んだからこそ、大方の異論を跳ね除けて初志貫徹、意次を老中へと取立てたのであった。
この一事を以ってして、家治が如何にリーダーシップを振るう将軍であるか、それが窺い知れよう。これで家治が幕閣に政治を丸投げするような、それこそ「バカ殿」であれば、大方の異論を押し切ってまで、意次を老中に据えようとは思いもしないからだ。
そのような家治だけに、殊、私的なことに関しては逆に極めて慎重な姿勢を示し、それこそ「バカ殿」に徹すると言っても過言ではない。
定國は将軍家である御三卿の出身であり、つまりは将軍・家治の身内のような存在であった。
その定國に対して葵の紋所の着用を認めるか否か、家治にとってはそれは完全に私的な部類であろう。
それゆえ定國としては幕閣を口説き落とすことが何よりも大事であり、そこでまずは縁者にして若年寄次席の太田資愛に取入り、その太田資愛を足掛かりに、若年寄筆頭である酒井忠休にも取入ることに成功した次第であった。
そして若年寄筆頭の酒井忠休を介して、御側御用取次の稲葉正明にも取入ることに成功し、後は側用人とそして老中を口説き落とせば、三葉葵の紋所の着用は認められたも同然であった。
ちなみに幕府の政治顧問格である溜之間詰の諸侯だが、当の定國自身がその「メンバー」の一人であり、それゆえこの場合…、定國に葵の紋所の着用を認めるか否か、その可否について溜之間詰の諸侯が意見を求められることはなかった。公平性に欠けるためである。
ともあれそのような定國にとって、酒井忠休と太田資愛の二人は正に大事な手蔓であり、その二人がそれこそ、
「雁首を揃えて…」
薩摩島津家の殿中席を大広間から松之大廊下へと遷してはと、そう提案しているからには、定國としてもその提案に反対するわけにはゆかないだろう。
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