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意知、若年寄就任前夜 大奥篇1
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その頃、大奥にては田安館の幼き老女の栲子が種姫とそれに種姫附の年寄である向坂と向かい合っていた。田安館の女主にして、種姫の養母である寶蓮院より預かった書状を手渡すために、であった。
即ち、田沼意知が若年寄に内定した件につき、将軍・家治は何ゆえに未だ部屋住の身に過ぎぬ意知を若年寄へと進ませるのか、その真意につき、将軍・家治に尋ねて欲しいとの、寶蓮院直筆の書状であり、栲子はその書状と共に、大奥へのさしずめ「パスポート」とも言うべき、
「通り御判」
それを携えてここ江戸城本丸の大奥へと上がったのであった。
江戸城本丸の大奥に上がるには平河御門を皮切りに、下梅林御門、上梅林御門、御切手御門、そして廣敷御門の各御門を通らせばならず、しかし、刻限は既に江戸城の諸門という諸門がピタリと閉じられる暮六つ(午後6時頃)をとうに過ぎており、本来ならば如何に御三卿に仕える老女と雖も、いや、それどころか御三卿当人は元より、御三家でさえ、暮六つ(午後6時頃)以降の登城は不可能というものであった。
それがこと、通り御判を携えている老女に限って言えば暮六つ(午後6時頃)以降の登城が許され、大奥へと上がることが出来た。
栲子は諸門を守る番士にこの「パスポート」とも言うべき通り御判を示しながらここ大奥まで辿り着いたのであった。
こうして大奥へと上がった栲子は宇治之間にて種姫とそして種姫に附属する年寄の向坂の二人と対面を果たしたのであった。
種姫はかつては次期将軍であった家基の婚約者として西之丸の大奥にて暮らしていた。
だが安永8(1779)年に婚約者であった家基を喪った種姫はここ本丸の大奥へと移徙…、引き移り、将軍の嫡男、嫡女の部屋であるここ宇治之間にて暮らすようになったのである。
種姫は将軍・家治の嫡女ではない。御三卿の筆頭である田安家の始祖である宗武の娘であり、それが家基の婚約者としてまずは将軍・家治の養女として江戸城本丸大奥に迎え入れられたのであった。
その後、種姫は向坂と共に婚約者にして次期将軍であった家基が住まう西之丸の大奥へと引き移ったわけだ。
それゆえ本来ならば種姫はこの宇治之間にて暮らす資格を有さず、将軍の次男や次女以下の部屋である御二之間、或いは御三之間にて暮らさねばならなかった。
いや、これで将軍・家治の嫡女であった萬壽姫が今でも健在であったならば、種姫には御二之間、或いは御三之間が割り当てられたに相違ない。
だが家治の嫡女であった萬壽姫は家基が亡くなるよりも前、6年前の安永2年(1773)年に卒していたために、家基までが亡くなった安永8(1779)年の時点では将軍・家治には嫡女は最早おらず、そこで養女ではあるものの、種姫にこの宇治之間を宛がったのであった。
栲子はその宇治之間にて種姫と向坂と対面を果たすや、懐中より寶蓮院より預かった書状を取り出すとそれを種姫の前に滑らせた。
すると種姫の直ぐ真横にて侍座していた向坂がそれを手に取るや、封を解いて中から書状を取り出してそれを種姫へと手渡した。
書状を含めた大奥へと持ち込まれる品の一切はまずは大奥の男子役人である廣敷添番による検査を受けることになる。
それは御三卿より大奥へと差し遣わされた公儀奥女遣についてもその例外ではなく、それゆえ本来ならば寶蓮院より預かった種姫宛の書状も廣敷添番による検査を受けねばならなかった。
だが実際には御三卿よりの、それもこと、その筆頭格である田安家よりの公儀奥女遣については廣敷添番による検査が免除されていた。それと言うのもここ本丸大奥における年寄、それも将軍・家治に附属する年寄の筆頭である高岳の差配による。
即ち、高岳より廣敷添番を支配する廣敷番之頭に対して、
「田安家よりの女遣の廣敷添番による検査は一切無用…」
そのように申し渡し、それに対して廣敷番之頭は高岳のその意向を受けて、直属の部下である廣敷添番に対して高岳のその意向をそのまま伝え、廣敷添番が田安家よりの女遣が大奥へと持ち込む品の一切について検査を差し止めさせたという経緯があったためである。
廣敷番之頭は大奥における警備・監察を担う最高責任者である。廣敷添番はその廣敷番之頭の直属の部下として実際に大奥に持ち込まれる品の一切について検査を掌っているわけだが、しかし、直属の上司にして大奥における警備・監察を担う最高責任者たる廣敷番之頭より検査を差し止められれば否やはあり得なかった。ましてそれが年寄の筆頭たる高岳の意向ともなれば尚更である。
向坂は彼の一件…、まだ幼い栲子を田安館の老女とする一件につき高岳に意を通じ、爾来、高岳は御三卿の中では田安家に肩入れしてくれた。廣敷添番による検査の免除もその一環であった。
さて、向坂は栲子が畳に滑らせた書状…、厳重に封印された書状を両手で取ると、まずはその書状に恭しく一礼した後、封を解いて中から寶蓮院直筆の書状を取り出した。何と言っても寶蓮院直筆の書状である。かつて、種姫に随い江戸城大奥入りを果たす前は田安館の老女として寶蓮院に仕えていた向坂である。その寶蓮院直筆の書状ともあらば、向坂にとってそれは寶蓮院その人を前にしたも同然であり、それゆえ書状とは言え、旧主とも言うべき寶蓮院に見立てて一礼したのであった。
それから向坂はその書状を読まずに種姫へとそのまま廻した。向坂の今の主とも言うべき種姫より先に書状に目を通しては種姫を軽んずることになるからだ。いや、種姫は元来、開放的な気性であり、それゆえこの手のことをあまり、どころか全く気にしなかったが、向坂の方が気にしていた。
こうして向坂より書状を受け取った種姫はその書状に目を通すなり、まずは首を傾げたものである。
種姫はそれから直ぐにその書状を向坂へと戻し、それで向坂も漸くに書状に目を通した。
向坂は書状に目を通すと、種姫同様、まずは首を傾げたものであり、それから種姫が首を傾げるのも尤もだと、合点がいったものである。
それと言うのも意知を若年寄へと進ませる件について…、それが家基の死の真相の探索の指揮を執らせるためであることは向坂は種姫と共にここ宇治之間にて既に…、田安館の老女であった廣瀬、そして目付の深谷盛朝が相次いで死を遂げた安永9(1780)年の暮に打ち明けられたことであり、向坂はそれをそのまま寶蓮院へと伝えていたからだ。
本来ならば今のように田安館の老女を介して、つまりは書状を介して田安館にて暮らす寶蓮院へと伝えるべきところ、しかし、事は余りに重大であり、それゆえ向坂は書状に認めることは憚られ、そこで自ら旧主である寶蓮院の許へと足を運ぶことにしたのであった。仮に書状に認めてそれが誰かの、もっと言えば家基を害した者の目に触れでもしたら一大事だからだ。
そこで向坂は自ら田安館へと足を運んだのであった。
向坂はその時はもう、大奥女中の一人であり、それも種姫に仕える年寄であり、年寄ともなれば一生奉公、つまりは一生外出は許されぬ身…、といのが建前ではあったが、しかし、実際には大奥女中の頂点に位置する年寄ともなればそれなりに融通が利き、外出するのも訳無かった。
こうして向坂は寶蓮院に対して意知に家基の死の真相の探索の指揮を執らせるべく、ゆくゆく若年寄へと進ませることを伝えていたのだ。
にもかかわらず今になってその寶蓮院が…、意知を若年寄へと進ませる将軍・家治の真意を承知している筈の寶蓮院が将軍・家治は何ゆえに意知を若年寄に進ませるつもりかと、そのことが書状に認められていたので、種姫も向坂も首を傾げたのであった。
「はてさて…、どう解釈して良いものやら…」
向坂が思わずそう呟くと、種姫も同感だとばかり頷いてみせた。
唯一、栲子のみは種姫と向坂とのやり取りが分からずに別の意味にて首を傾げたものである。
田安館の老女とは言え、幼い栲子にはまだこの手の話題は早過ぎると、向坂は栲子には告げていなかった。
いや、幼いとは言え、栲子は既に17であり、種姫とは一つしか違わない。
だが種姫の場合は家基の婚約者であり、家基の死については謂わば当事者と言えた。
それに比して栲子は田安館の老女とは言え、家基の死についてはあくまで第三者であり、幼さも相俟って、向坂は栲子には告げないことにし、その旨、まずは種姫、続いて寶蓮院の諒解を得ていた。
栲子が向坂と種姫とのやり取りが分からずに首を傾げたのはそのためであった。
一方、そうと気づいた向坂は栲子に命じてここ宇治之間の直ぐ隣の部屋である御次にて控える菊野をここ宇治之間に連れて来させた。
即ち、田沼意知が若年寄に内定した件につき、将軍・家治は何ゆえに未だ部屋住の身に過ぎぬ意知を若年寄へと進ませるのか、その真意につき、将軍・家治に尋ねて欲しいとの、寶蓮院直筆の書状であり、栲子はその書状と共に、大奥へのさしずめ「パスポート」とも言うべき、
「通り御判」
それを携えてここ江戸城本丸の大奥へと上がったのであった。
江戸城本丸の大奥に上がるには平河御門を皮切りに、下梅林御門、上梅林御門、御切手御門、そして廣敷御門の各御門を通らせばならず、しかし、刻限は既に江戸城の諸門という諸門がピタリと閉じられる暮六つ(午後6時頃)をとうに過ぎており、本来ならば如何に御三卿に仕える老女と雖も、いや、それどころか御三卿当人は元より、御三家でさえ、暮六つ(午後6時頃)以降の登城は不可能というものであった。
それがこと、通り御判を携えている老女に限って言えば暮六つ(午後6時頃)以降の登城が許され、大奥へと上がることが出来た。
栲子は諸門を守る番士にこの「パスポート」とも言うべき通り御判を示しながらここ大奥まで辿り着いたのであった。
こうして大奥へと上がった栲子は宇治之間にて種姫とそして種姫に附属する年寄の向坂の二人と対面を果たしたのであった。
種姫はかつては次期将軍であった家基の婚約者として西之丸の大奥にて暮らしていた。
だが安永8(1779)年に婚約者であった家基を喪った種姫はここ本丸の大奥へと移徙…、引き移り、将軍の嫡男、嫡女の部屋であるここ宇治之間にて暮らすようになったのである。
種姫は将軍・家治の嫡女ではない。御三卿の筆頭である田安家の始祖である宗武の娘であり、それが家基の婚約者としてまずは将軍・家治の養女として江戸城本丸大奥に迎え入れられたのであった。
その後、種姫は向坂と共に婚約者にして次期将軍であった家基が住まう西之丸の大奥へと引き移ったわけだ。
それゆえ本来ならば種姫はこの宇治之間にて暮らす資格を有さず、将軍の次男や次女以下の部屋である御二之間、或いは御三之間にて暮らさねばならなかった。
いや、これで将軍・家治の嫡女であった萬壽姫が今でも健在であったならば、種姫には御二之間、或いは御三之間が割り当てられたに相違ない。
だが家治の嫡女であった萬壽姫は家基が亡くなるよりも前、6年前の安永2年(1773)年に卒していたために、家基までが亡くなった安永8(1779)年の時点では将軍・家治には嫡女は最早おらず、そこで養女ではあるものの、種姫にこの宇治之間を宛がったのであった。
栲子はその宇治之間にて種姫と向坂と対面を果たすや、懐中より寶蓮院より預かった書状を取り出すとそれを種姫の前に滑らせた。
すると種姫の直ぐ真横にて侍座していた向坂がそれを手に取るや、封を解いて中から書状を取り出してそれを種姫へと手渡した。
書状を含めた大奥へと持ち込まれる品の一切はまずは大奥の男子役人である廣敷添番による検査を受けることになる。
それは御三卿より大奥へと差し遣わされた公儀奥女遣についてもその例外ではなく、それゆえ本来ならば寶蓮院より預かった種姫宛の書状も廣敷添番による検査を受けねばならなかった。
だが実際には御三卿よりの、それもこと、その筆頭格である田安家よりの公儀奥女遣については廣敷添番による検査が免除されていた。それと言うのもここ本丸大奥における年寄、それも将軍・家治に附属する年寄の筆頭である高岳の差配による。
即ち、高岳より廣敷添番を支配する廣敷番之頭に対して、
「田安家よりの女遣の廣敷添番による検査は一切無用…」
そのように申し渡し、それに対して廣敷番之頭は高岳のその意向を受けて、直属の部下である廣敷添番に対して高岳のその意向をそのまま伝え、廣敷添番が田安家よりの女遣が大奥へと持ち込む品の一切について検査を差し止めさせたという経緯があったためである。
廣敷番之頭は大奥における警備・監察を担う最高責任者である。廣敷添番はその廣敷番之頭の直属の部下として実際に大奥に持ち込まれる品の一切について検査を掌っているわけだが、しかし、直属の上司にして大奥における警備・監察を担う最高責任者たる廣敷番之頭より検査を差し止められれば否やはあり得なかった。ましてそれが年寄の筆頭たる高岳の意向ともなれば尚更である。
向坂は彼の一件…、まだ幼い栲子を田安館の老女とする一件につき高岳に意を通じ、爾来、高岳は御三卿の中では田安家に肩入れしてくれた。廣敷添番による検査の免除もその一環であった。
さて、向坂は栲子が畳に滑らせた書状…、厳重に封印された書状を両手で取ると、まずはその書状に恭しく一礼した後、封を解いて中から寶蓮院直筆の書状を取り出した。何と言っても寶蓮院直筆の書状である。かつて、種姫に随い江戸城大奥入りを果たす前は田安館の老女として寶蓮院に仕えていた向坂である。その寶蓮院直筆の書状ともあらば、向坂にとってそれは寶蓮院その人を前にしたも同然であり、それゆえ書状とは言え、旧主とも言うべき寶蓮院に見立てて一礼したのであった。
それから向坂はその書状を読まずに種姫へとそのまま廻した。向坂の今の主とも言うべき種姫より先に書状に目を通しては種姫を軽んずることになるからだ。いや、種姫は元来、開放的な気性であり、それゆえこの手のことをあまり、どころか全く気にしなかったが、向坂の方が気にしていた。
こうして向坂より書状を受け取った種姫はその書状に目を通すなり、まずは首を傾げたものである。
種姫はそれから直ぐにその書状を向坂へと戻し、それで向坂も漸くに書状に目を通した。
向坂は書状に目を通すと、種姫同様、まずは首を傾げたものであり、それから種姫が首を傾げるのも尤もだと、合点がいったものである。
それと言うのも意知を若年寄へと進ませる件について…、それが家基の死の真相の探索の指揮を執らせるためであることは向坂は種姫と共にここ宇治之間にて既に…、田安館の老女であった廣瀬、そして目付の深谷盛朝が相次いで死を遂げた安永9(1780)年の暮に打ち明けられたことであり、向坂はそれをそのまま寶蓮院へと伝えていたからだ。
本来ならば今のように田安館の老女を介して、つまりは書状を介して田安館にて暮らす寶蓮院へと伝えるべきところ、しかし、事は余りに重大であり、それゆえ向坂は書状に認めることは憚られ、そこで自ら旧主である寶蓮院の許へと足を運ぶことにしたのであった。仮に書状に認めてそれが誰かの、もっと言えば家基を害した者の目に触れでもしたら一大事だからだ。
そこで向坂は自ら田安館へと足を運んだのであった。
向坂はその時はもう、大奥女中の一人であり、それも種姫に仕える年寄であり、年寄ともなれば一生奉公、つまりは一生外出は許されぬ身…、といのが建前ではあったが、しかし、実際には大奥女中の頂点に位置する年寄ともなればそれなりに融通が利き、外出するのも訳無かった。
こうして向坂は寶蓮院に対して意知に家基の死の真相の探索の指揮を執らせるべく、ゆくゆく若年寄へと進ませることを伝えていたのだ。
にもかかわらず今になってその寶蓮院が…、意知を若年寄へと進ませる将軍・家治の真意を承知している筈の寶蓮院が将軍・家治は何ゆえに意知を若年寄に進ませるつもりかと、そのことが書状に認められていたので、種姫も向坂も首を傾げたのであった。
「はてさて…、どう解釈して良いものやら…」
向坂が思わずそう呟くと、種姫も同感だとばかり頷いてみせた。
唯一、栲子のみは種姫と向坂とのやり取りが分からずに別の意味にて首を傾げたものである。
田安館の老女とは言え、幼い栲子にはまだこの手の話題は早過ぎると、向坂は栲子には告げていなかった。
いや、幼いとは言え、栲子は既に17であり、種姫とは一つしか違わない。
だが種姫の場合は家基の婚約者であり、家基の死については謂わば当事者と言えた。
それに比して栲子は田安館の老女とは言え、家基の死についてはあくまで第三者であり、幼さも相俟って、向坂は栲子には告げないことにし、その旨、まずは種姫、続いて寶蓮院の諒解を得ていた。
栲子が向坂と種姫とのやり取りが分からずに首を傾げたのはそのためであった。
一方、そうと気づいた向坂は栲子に命じてここ宇治之間の直ぐ隣の部屋である御次にて控える菊野をここ宇治之間に連れて来させた。
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