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意知、若年寄就任前夜 大奥篇2
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菊野とは御客応答格の表使、それも筆頭であり、田安家よりの公儀奥女遣の接遇を担っていたのがこの菊野であった。
御三卿は元より、御三家や諸大名より大奥へと差し遣わされた公儀奥女遣の接遇を担うのは御客応答の職掌であり、表使のそれではない。
それゆえ本来ならば表使である菊野が田安家よりの公儀奥女遣の接遇を担うのはおかしい。それは明らかに御客応答の職掌を侵すことになるからだ。
にもかかわらず、表使の菊野が田安家よりの公儀奥女遣の接遇を担っていたのは偏に高岳の差配による。
それと言うのも今の御客応答の中に高岳が意を通ずる者がいないということに遠因があった。
ここ江戸城本丸における大奥において御客応答は将軍・家治附のみならず、家治の養女である種姫附や、或いは|家治の側妾である千穂附も存在した。
だがその中でも一番、勢威があるのは何と言っても将軍に附属する御客応答であり、今は初崎がそれであった。
この初崎はかつては家基の乳母を務め、のみならず、家基が健在であった頃には家基に附属する年寄として、家基が住まう西之丸の大奥に君臨した。
それが家基が亡くなったために初崎は外の、家基に附属していた奥女中と共に、いや、西之丸の大奥にて仕えていた奥女中と共にここ本丸の大奥へと引き移って来た。その中には家基の婚約者として西之丸の大奥にて暮らしていた種姫とその種姫に附属していた年寄の向坂を始めとする奥女中も含まれていた。
さて、初崎は本丸大奥へと引き移ると、御客応答のポストを宛がわれた。
本来ならば、家基附の年寄であった初崎には将軍・家治附の年寄のポストを宛がうべきところであったが、しかし、その時…、家基が死を遂げた安永8(1779)年の時点では将軍・家治附の年寄は定員一杯の状態であった。
即ち、高岳・花園・飛鳥井・滝川・花島・野村と5人の年寄が存在していたのだ。
いや、大奥の年寄には厳密な意味での定員は存在せず、それゆえ初崎を加えて6人の年寄体制としても何ら差し支えはなく、事実、家治は初崎に対して年寄のポストを打診したものだが、しかし、それを初崎自身が拝辞したのであった。初崎はその上で、
「身は畏れ多くも上様に仕えし御客応答を望みまする…」
家治附の御客応答になりたいと、家治にそう告げたのであった。
成程、御客応答というポストは年寄に次ぐ重職であり、年寄になるための謂わば、
「キャリアパス…」
そのような側面のあるポストであると同時に、
「年寄を退いた者の隠居役…」
そのような側面もあり、それゆえ家基の年寄を務めていた初崎には打ってつけのポストとも言え、そこで家治は初崎を将軍たる己に附属する御客応答に任じたのであった。
その時…、安永8(1779)年の時点において将軍・家治に附属する御客応答の筆頭は砂野であった。砂野もまた、初崎と同じような経歴を誇っていた。
即ち、砂野は家治の正室、それも愛妻であった倫子に仕える年寄であったが、それが倫子が明和8(1771)年に卒したために、家治附の御客応答へと異動を果たしたのであった。
尤も、砂野の場合は初崎の場合とは些か事情が異なる。それと言うのも倫子が卒した明和8(1771)年の時点で将軍・家治に附属する年寄はと言うと、
「松島・高岳・滝川・梅田・清橋・浦田」
以上の6人体制であり、その上、倫子に上臈年寄として仕えていた花園と飛鳥井が加わったことで将軍・家治に附属する年寄は一挙に8人に膨れ上がった。
如何に年寄には厳密な意味での定員はないとは言え、8人の年寄は如何にも多く、正に、
「定員オーバー」
そのような状態であり、その上、砂野が加わる余地はなかった。
いや、花園と飛鳥井の二人が御客応答へと回れば砂野が年寄へと異動を果たせたやも知れぬが、しかし、それは無理な相談と言うものであった。
何しろ花園と飛鳥井は両者共に、年寄は年寄でも上臈年寄として倫子に仕えていたのだ。
つまりは京の都の公卿の娘であるのだ。花園は西洞院範篤の三女であり、飛鳥井は平松時行の長女であった。
それが閑院宮直仁親王の娘であった倫子が家治の正室として関東、つまりは江戸へと下向するに当たり、公卿の娘である花園と飛鳥井が倫子に御附として江戸へと下向し、上臈年寄に任じられたのであった。
そのような花園と飛鳥井を年寄に次ぐ重職とは言え、あくまで年寄の下位に位置する御客応答に異動させるわけにはゆかない。
それゆえ花園と飛鳥井の異動先は畢竟、将軍・家治附の年寄しかあり得ず、そのために砂野は弾き飛ばされた格好であり、砂野には初崎のように、
「年寄への異動を拝辞し、御客応答のポストを望む…」
そのような選択肢は元よりなかった。
その上、砂野は倫子が卒した明和8(1771)年の時点では33と、調度倫子と同い年であり、隠居するにはまだ若く、そこが初崎との違い、それも最大の違いと言えた。
即ち、家基が卒した安永8(1779)年の時点で初崎は既に51であり、隠居してもおかしくはない年嵩と言えた。
だが砂野はそこまで年嵩ではない。それでも将軍附の年寄が定員オーバーである以上、砂野の落ち着く先が御客応答をおいて外にないのもまた動かし難い事実であった。
いや、同じ年寄は年寄でも家治の側妾である千穂附の年寄、或いは西之丸から本丸へと引き移った種姫附の年寄という異動先もあり得た。この時、そして天明3(1783)年の今もってそうだが、千穂に附属する年寄は玉澤、種姫に附属する年寄は向坂と共に年寄は一人しかおらず、その上、砂野が一人加わったところで何ら差し支えはない。
事実、家治は砂野に対して千穂附の年寄か、或いは種姫附の年寄のポストを打診したものの、しかし、それに対しては砂野がその打診を拝辞した。
「御台様に仕え奉りし身なれば…」
それが砂野が家治の打診を拝辞した理由であった。つまりは、
「将軍・家治の正室であった倫子に仕えていた自分が倫子の養女である種姫や、ましてや側妾である千穂に仕えては倫子に申し訳ない…」
それゆえ、倫子に仕えてきた自分が落ち着く先は倫子の主である将軍・家治附の御役しかあり得ず、そうであれば例え年寄でなくても構わないと、要は倫子への義理立てから砂野は家治の打診を拝辞したのであった。
それに対して家治もそうと察するや、砂野のそのような義理堅さに大いに感じ入り、そこで家治は砂野を己に附属する御客応答へと異動させると同時に、砂野にはその筆頭を命じたのであった。
御客応答筆頭…、つまりは砂野は隠居役として異動してきたわけではなく、年寄への「キャリアパス」として異動してきたのだと、家治は周囲にそうアピールするために砂野に御客応答の筆頭を命じたのであった。
そしてそれから8年後の安永8(1779)年に今度は家基の年寄であった初崎が御客応答へと異動してきた。
いや、異動してきたのは初崎だけではない。初崎の姪に当たる笹岡もそうであった。
笹岡は初崎の姪にして家基附の御客応答を務めていた。
それが初崎が家基附の年寄から将軍・家治附の御客応答へと異動するのに伴い、笹岡も家基附の御客応答から将軍・家治附の御客応答へと異動を果たしたのであった。いや、大栄転を果たしたと言うべきであろう。何しろ次期将軍に附属する御客応答よりも現将軍に附属する御客応答の方が遥かに格式が高いからだ。
そのような大栄転人事を可能たらしめたのは偏に、叔母である初崎の御蔭と言えた。初崎が将軍・家治に対して姪である笹岡も同時に、家治附の御客応答に異動させてやって欲しいと頼んだのであった。
それに対して家治も自ら御客応答へと身を退いた初崎に対する負い目から初崎のこの頼みを聞いてやることにし、初崎共々、将軍たる己に附属する御客応答へと異動させたのであった。
こうして姪の笹岡と共に将軍・家治附の御客応答へと異動を果たした初崎は徐々にだが、御客応答の筆頭である砂野を凌駕するようになった。
初崎は砂野より丁度十上であり、砂野は御客応答の筆頭でありながら、この新たに御客応答に加わった初崎に何かと押され勝ちとなった。
初崎は御客応答の筆頭である砂野よりも十も年嵩であることに加えて、笹岡という強力なる味方がいた。
笹岡は初崎の姪に当たり、かつては書院番士を勤めていた秋山次郎三郎政芳の妻女であったが、安永元(1772)年に離婚すると既に家基附の年寄であった初崎のヒキにより西之丸の大奥入りを果たしたのであった。
爾来、笹岡は西之丸の大奥にて正に、
「とんとん拍子…」
その表現が当て嵌まる程に順調に昇進を遂げた。そこには勿論、叔母である初崎のヒキもあっただろうが、それ以上に笹岡自身の実力、それも政治力の賜物と言えた。
初崎も政治好きな気性であるが、姪の笹岡も初崎に劣らず、いや、初崎以上に政治好きな気性であり、夫・秋山次郎三郎との婚姻関係を破綻させた遠因ともなった。
それゆえ初崎はこの己以上に政治好きな姪の笹岡に随分と助けられ、初崎が家基附きの年寄として大いに権勢を誇れたのも笹岡の御蔭であった。
初崎は家基附の年寄を務めていたが、しかし、家基附の年寄は初崎一人ではなかった。あと一人、野村なる者が家基附の年寄として控えていた。
それゆえ初崎が権勢を振るおうにも野村の存在の所為で自ずから限界があった。
だが笹岡の「政治力」の御蔭で初崎は野村を押し退ける格好で大いに権勢を振るえた。
そして笹岡の「政治力」は弟の昇進にも大いに発揮された。
即ち、初崎にとっては甥に当たる中野監物清翰は弱冠17で中野家を継いでから丁度1年後の安永6(1777)年、18歳で西之丸の小納戸に取り立てられたのであった。
小納戸と言えば従六位の布衣役である。それを僅か18に過ぎぬ、正に若造に過ぎぬ中野清翰が取り立てられたのは叔母である初崎の「政治力」に加えて、実姉である笹岡の「政治力」の賜物と言えた。
初崎はそのような笹岡を頼みとし、笹岡と共に御客応答に異動を果たしたのだ。無論、御客応答として大いに権勢を振るうためであり、笹岡もそんな叔母・初崎の期待に応える格好でやはりと言うべきか、大いにその「政治力」を発揮し、叔母である初崎を御客応答筆頭である砂野と肩を並ばせたのであった。
一方、家治も砂野が初崎と笹岡に押され気味であることは年寄の筆頭である高岳より耳打ちされていたので承知しており、そこで家治は砂野を年寄へと昇格させようとした。高岳にしても将軍・家治に砂野のことを耳打ちしたのは、
「砂野を年寄へと昇格させては…」
その合図に外ならない。そしてそれは年寄の総意とも言えた。
この時…、初崎が姪・笹岡の「政治力」の御蔭により砂野と肩を並べるまでになった天明元(1781)年、将軍・家治に附属する年寄は、
「高岳・花園・飛鳥井・滝川・花島・野村」
以上の6人であり、彼女らは皆、初崎と笹岡の専横ぶり、とりわけ笹岡の専横ぶりには眉を顰めるものがあり、その反作用として、初崎と笹岡に出し抜かれた格好の砂野を大いに憐れんだものである。
高岳たち将軍・家治附の年寄としては本来ならば初崎と笹岡を排除したいところであったが、しかし初崎にしろ笹岡にしろ、家治の御墨付を得て御客応答に異動を果たしたも同然であり、その二人を排除することは二人に御客応答への異動という御墨付を与えた将軍・家治の権威に瑕をつけることにもなりかねず、それ以上に初崎と笹岡には高橋と大崎という味方がいた。
かつて倫子の中年寄を勤めていた高橋と、その高橋と共に萬壽姫の中年寄を勤めていた大崎の二人はこの頃…、一橋治済が実子の豊千代こと家斉が家基に代わる次期将軍として西之丸入りを果たした年でもある天明元(1781)年、高橋と大崎は家斉附の年寄へと栄転を果たしたのだ。
高橋は倫子歿後は萬壽姫附の中年寄へと異動し、大崎と共に萬壽姫の中年寄を勤め、そして萬壽姫までもが歿するや、高橋と大崎は将軍・家治附の御客応答へと異動を果たしたのであった。それが安永2(1773)年のことであり、初崎と笹岡が御客応答へと異動を果たしたのはそれから更に6年後のことであり、初崎と笹岡にとっては高橋と大崎は砂野と同じく「先輩」に当たり、一方、高橋と大崎にとっては「後輩」に当たる初崎と笹岡に与し、初崎と笹岡の謂わば、
「勢力伸張…」
それに大いに役立だったものである。
そしてその高橋と大崎は家斉が家基に代わる次期将軍として西之丸入りを果たすや、家斉たっての希望により…、と言うよりは家斉の実父である一橋治済たっての希望によりと言うべきであろう、ともあれそれにより高橋と大崎は家斉附の年寄へと異動、それも栄転を果たしたのであった。
それにより高橋と大崎は本丸大奥を出て西之丸の大奥へと引き移ったわけだが、初崎・笹岡との謂わば、
「盟友関係…」
それ今でも続いていた。
初崎と笹岡にしてみれば次期将軍・家斉に仕える高橋と大崎を後ろ盾にしているも同然であり、これでは如何に高岳と雖も、そのような初崎と笹岡を御客応答から排除するのは不可能というものであった。
そこで高岳たち年寄は「次善の策」として砂野を年寄へと異動、昇格を果たさせることにした。
とりわけ野村は砂野の年寄昇格を願った。それと言うのも野村は砂野に恩義があるからだ。
恩義…、それは野村が年寄の座を砂野から譲って貰ったことを指している。
野村が将軍・家治附の年寄へと異動・栄転を果たしたのは安永5(1776)年のことであり、御客応答からの異動・栄転であった。
野村はかつては萬壽姫附の御客応答を勤めていたのだが、それが安永2(1773)年に萬壽が歿したことで、将軍・家治附の御客応答へと横滑り人事を果たしたのであった。
その頃にはもう、砂野が御客応答筆頭として控えており、そこへ野村が異動、横滑りを果たしたわけだから、野村にとって砂野は「先輩」に当たる。
そうであれば野村よりも砂野が先に年寄へと昇格を果たすべきであり、事実、野村が御客応答から年寄へと昇格を果たした安永5(1776)年、本来ならば砂野が年寄へと昇格する筈であった。
安永5(1776)年、この年に年寄の一人、清橋が卒したために、年寄は6人から5人へと減った。
大奥の年寄に定員はないとは言え、それでも5人では逆に少なく、そこで新たに年寄を一人、補充することにし、そこで白羽の矢が立ったのが外ならぬ砂野であった。
砂野は年寄に次ぐポストである御客応答のそれも筆頭を勤めていたので、その砂野に白羽の矢が立てられたのは至極当然のことであった。
だがそれを砂野がやはり自ら拝辞し、その上で、
「何卒、野村を先に年寄へと…」
砂野は家治にそう願ったのであった。
「身よりも若き野村の方が…」
それが砂野が拝辞した理由であった。つまりは己よりも将来性のある野村の方が年寄には相応しいということであった。
こうして野村は砂野に譲ってもらう格好で年寄へと昇格を果たすことが出来たのであった。
野村の砂野に対する恩義とはこのことであった。
そして天明元(1781)年、今度は年寄の一人であった花島が卒したために、また一人、年寄を補充する必要性に迫られ、そこで高岳は砂野を救う目的で今度こそ砂野を年寄へと昇格させることにし、それに野村が真っ先に賛意を示したのであった。
それに対して砂野はと言うと、今度もまた年寄を拝辞するつもりでいた。それと言うのも初崎と笹岡に押され気味とは言え、御客応答筆頭として何とか初崎と笹岡の二人の専横を抑えてきた己がここで年寄へと昇格を果たしたならば、初崎と笹岡はいよいよもって御客応答として外の御客応答を随えて専横の限りを尽くすのではあるまいかと、それが砂野に年寄への昇格を躊躇わせた。
一方、高岳は砂野の懸念を知るや、年寄に加わった方が初崎と笹岡の二人の専横を抑えられると、砂野を説き伏せ、結果、今度こそ砂野は年寄へと昇格を果たし、今に至る。
爾来、高岳・花園・飛鳥井・滝川・野村・砂野という6人の年寄が、実際には高岳・滝川・野村・砂野の4人の年寄が御客応答の初崎・笹岡と対峙するという状況が続いている。
御客応答筆頭であった砂野が年寄へと異動、栄転を果たした後、御客応答はすっかり初崎と笹岡の天下となった。
そしてそのような御客応答に田安家よりの公儀奥女遣の接遇を任せた日には、折角、廣敷添番による所持品検査を免れたにもかかわらず、御客応答が所持品検査を強行し、書状を検めないとも限らない。今の、初崎と笹岡によって支配されている御客応答ならば大いにあり得、高岳はそれを危惧っして田安家よりの公儀奥女遣の接遇に限っては御客応答ではなく表使、それも筆頭として御客応答格の菊野に田安家よりの公儀奥女遣の接遇を一任することにしたのであった。
御三卿は元より、御三家や諸大名より大奥へと差し遣わされた公儀奥女遣の接遇を担うのは御客応答の職掌であり、表使のそれではない。
それゆえ本来ならば表使である菊野が田安家よりの公儀奥女遣の接遇を担うのはおかしい。それは明らかに御客応答の職掌を侵すことになるからだ。
にもかかわらず、表使の菊野が田安家よりの公儀奥女遣の接遇を担っていたのは偏に高岳の差配による。
それと言うのも今の御客応答の中に高岳が意を通ずる者がいないということに遠因があった。
ここ江戸城本丸における大奥において御客応答は将軍・家治附のみならず、家治の養女である種姫附や、或いは|家治の側妾である千穂附も存在した。
だがその中でも一番、勢威があるのは何と言っても将軍に附属する御客応答であり、今は初崎がそれであった。
この初崎はかつては家基の乳母を務め、のみならず、家基が健在であった頃には家基に附属する年寄として、家基が住まう西之丸の大奥に君臨した。
それが家基が亡くなったために初崎は外の、家基に附属していた奥女中と共に、いや、西之丸の大奥にて仕えていた奥女中と共にここ本丸の大奥へと引き移って来た。その中には家基の婚約者として西之丸の大奥にて暮らしていた種姫とその種姫に附属していた年寄の向坂を始めとする奥女中も含まれていた。
さて、初崎は本丸大奥へと引き移ると、御客応答のポストを宛がわれた。
本来ならば、家基附の年寄であった初崎には将軍・家治附の年寄のポストを宛がうべきところであったが、しかし、その時…、家基が死を遂げた安永8(1779)年の時点では将軍・家治附の年寄は定員一杯の状態であった。
即ち、高岳・花園・飛鳥井・滝川・花島・野村と5人の年寄が存在していたのだ。
いや、大奥の年寄には厳密な意味での定員は存在せず、それゆえ初崎を加えて6人の年寄体制としても何ら差し支えはなく、事実、家治は初崎に対して年寄のポストを打診したものだが、しかし、それを初崎自身が拝辞したのであった。初崎はその上で、
「身は畏れ多くも上様に仕えし御客応答を望みまする…」
家治附の御客応答になりたいと、家治にそう告げたのであった。
成程、御客応答というポストは年寄に次ぐ重職であり、年寄になるための謂わば、
「キャリアパス…」
そのような側面のあるポストであると同時に、
「年寄を退いた者の隠居役…」
そのような側面もあり、それゆえ家基の年寄を務めていた初崎には打ってつけのポストとも言え、そこで家治は初崎を将軍たる己に附属する御客応答に任じたのであった。
その時…、安永8(1779)年の時点において将軍・家治に附属する御客応答の筆頭は砂野であった。砂野もまた、初崎と同じような経歴を誇っていた。
即ち、砂野は家治の正室、それも愛妻であった倫子に仕える年寄であったが、それが倫子が明和8(1771)年に卒したために、家治附の御客応答へと異動を果たしたのであった。
尤も、砂野の場合は初崎の場合とは些か事情が異なる。それと言うのも倫子が卒した明和8(1771)年の時点で将軍・家治に附属する年寄はと言うと、
「松島・高岳・滝川・梅田・清橋・浦田」
以上の6人体制であり、その上、倫子に上臈年寄として仕えていた花園と飛鳥井が加わったことで将軍・家治に附属する年寄は一挙に8人に膨れ上がった。
如何に年寄には厳密な意味での定員はないとは言え、8人の年寄は如何にも多く、正に、
「定員オーバー」
そのような状態であり、その上、砂野が加わる余地はなかった。
いや、花園と飛鳥井の二人が御客応答へと回れば砂野が年寄へと異動を果たせたやも知れぬが、しかし、それは無理な相談と言うものであった。
何しろ花園と飛鳥井は両者共に、年寄は年寄でも上臈年寄として倫子に仕えていたのだ。
つまりは京の都の公卿の娘であるのだ。花園は西洞院範篤の三女であり、飛鳥井は平松時行の長女であった。
それが閑院宮直仁親王の娘であった倫子が家治の正室として関東、つまりは江戸へと下向するに当たり、公卿の娘である花園と飛鳥井が倫子に御附として江戸へと下向し、上臈年寄に任じられたのであった。
そのような花園と飛鳥井を年寄に次ぐ重職とは言え、あくまで年寄の下位に位置する御客応答に異動させるわけにはゆかない。
それゆえ花園と飛鳥井の異動先は畢竟、将軍・家治附の年寄しかあり得ず、そのために砂野は弾き飛ばされた格好であり、砂野には初崎のように、
「年寄への異動を拝辞し、御客応答のポストを望む…」
そのような選択肢は元よりなかった。
その上、砂野は倫子が卒した明和8(1771)年の時点では33と、調度倫子と同い年であり、隠居するにはまだ若く、そこが初崎との違い、それも最大の違いと言えた。
即ち、家基が卒した安永8(1779)年の時点で初崎は既に51であり、隠居してもおかしくはない年嵩と言えた。
だが砂野はそこまで年嵩ではない。それでも将軍附の年寄が定員オーバーである以上、砂野の落ち着く先が御客応答をおいて外にないのもまた動かし難い事実であった。
いや、同じ年寄は年寄でも家治の側妾である千穂附の年寄、或いは西之丸から本丸へと引き移った種姫附の年寄という異動先もあり得た。この時、そして天明3(1783)年の今もってそうだが、千穂に附属する年寄は玉澤、種姫に附属する年寄は向坂と共に年寄は一人しかおらず、その上、砂野が一人加わったところで何ら差し支えはない。
事実、家治は砂野に対して千穂附の年寄か、或いは種姫附の年寄のポストを打診したものの、しかし、それに対しては砂野がその打診を拝辞した。
「御台様に仕え奉りし身なれば…」
それが砂野が家治の打診を拝辞した理由であった。つまりは、
「将軍・家治の正室であった倫子に仕えていた自分が倫子の養女である種姫や、ましてや側妾である千穂に仕えては倫子に申し訳ない…」
それゆえ、倫子に仕えてきた自分が落ち着く先は倫子の主である将軍・家治附の御役しかあり得ず、そうであれば例え年寄でなくても構わないと、要は倫子への義理立てから砂野は家治の打診を拝辞したのであった。
それに対して家治もそうと察するや、砂野のそのような義理堅さに大いに感じ入り、そこで家治は砂野を己に附属する御客応答へと異動させると同時に、砂野にはその筆頭を命じたのであった。
御客応答筆頭…、つまりは砂野は隠居役として異動してきたわけではなく、年寄への「キャリアパス」として異動してきたのだと、家治は周囲にそうアピールするために砂野に御客応答の筆頭を命じたのであった。
そしてそれから8年後の安永8(1779)年に今度は家基の年寄であった初崎が御客応答へと異動してきた。
いや、異動してきたのは初崎だけではない。初崎の姪に当たる笹岡もそうであった。
笹岡は初崎の姪にして家基附の御客応答を務めていた。
それが初崎が家基附の年寄から将軍・家治附の御客応答へと異動するのに伴い、笹岡も家基附の御客応答から将軍・家治附の御客応答へと異動を果たしたのであった。いや、大栄転を果たしたと言うべきであろう。何しろ次期将軍に附属する御客応答よりも現将軍に附属する御客応答の方が遥かに格式が高いからだ。
そのような大栄転人事を可能たらしめたのは偏に、叔母である初崎の御蔭と言えた。初崎が将軍・家治に対して姪である笹岡も同時に、家治附の御客応答に異動させてやって欲しいと頼んだのであった。
それに対して家治も自ら御客応答へと身を退いた初崎に対する負い目から初崎のこの頼みを聞いてやることにし、初崎共々、将軍たる己に附属する御客応答へと異動させたのであった。
こうして姪の笹岡と共に将軍・家治附の御客応答へと異動を果たした初崎は徐々にだが、御客応答の筆頭である砂野を凌駕するようになった。
初崎は砂野より丁度十上であり、砂野は御客応答の筆頭でありながら、この新たに御客応答に加わった初崎に何かと押され勝ちとなった。
初崎は御客応答の筆頭である砂野よりも十も年嵩であることに加えて、笹岡という強力なる味方がいた。
笹岡は初崎の姪に当たり、かつては書院番士を勤めていた秋山次郎三郎政芳の妻女であったが、安永元(1772)年に離婚すると既に家基附の年寄であった初崎のヒキにより西之丸の大奥入りを果たしたのであった。
爾来、笹岡は西之丸の大奥にて正に、
「とんとん拍子…」
その表現が当て嵌まる程に順調に昇進を遂げた。そこには勿論、叔母である初崎のヒキもあっただろうが、それ以上に笹岡自身の実力、それも政治力の賜物と言えた。
初崎も政治好きな気性であるが、姪の笹岡も初崎に劣らず、いや、初崎以上に政治好きな気性であり、夫・秋山次郎三郎との婚姻関係を破綻させた遠因ともなった。
それゆえ初崎はこの己以上に政治好きな姪の笹岡に随分と助けられ、初崎が家基附きの年寄として大いに権勢を誇れたのも笹岡の御蔭であった。
初崎は家基附の年寄を務めていたが、しかし、家基附の年寄は初崎一人ではなかった。あと一人、野村なる者が家基附の年寄として控えていた。
それゆえ初崎が権勢を振るおうにも野村の存在の所為で自ずから限界があった。
だが笹岡の「政治力」の御蔭で初崎は野村を押し退ける格好で大いに権勢を振るえた。
そして笹岡の「政治力」は弟の昇進にも大いに発揮された。
即ち、初崎にとっては甥に当たる中野監物清翰は弱冠17で中野家を継いでから丁度1年後の安永6(1777)年、18歳で西之丸の小納戸に取り立てられたのであった。
小納戸と言えば従六位の布衣役である。それを僅か18に過ぎぬ、正に若造に過ぎぬ中野清翰が取り立てられたのは叔母である初崎の「政治力」に加えて、実姉である笹岡の「政治力」の賜物と言えた。
初崎はそのような笹岡を頼みとし、笹岡と共に御客応答に異動を果たしたのだ。無論、御客応答として大いに権勢を振るうためであり、笹岡もそんな叔母・初崎の期待に応える格好でやはりと言うべきか、大いにその「政治力」を発揮し、叔母である初崎を御客応答筆頭である砂野と肩を並ばせたのであった。
一方、家治も砂野が初崎と笹岡に押され気味であることは年寄の筆頭である高岳より耳打ちされていたので承知しており、そこで家治は砂野を年寄へと昇格させようとした。高岳にしても将軍・家治に砂野のことを耳打ちしたのは、
「砂野を年寄へと昇格させては…」
その合図に外ならない。そしてそれは年寄の総意とも言えた。
この時…、初崎が姪・笹岡の「政治力」の御蔭により砂野と肩を並べるまでになった天明元(1781)年、将軍・家治に附属する年寄は、
「高岳・花園・飛鳥井・滝川・花島・野村」
以上の6人であり、彼女らは皆、初崎と笹岡の専横ぶり、とりわけ笹岡の専横ぶりには眉を顰めるものがあり、その反作用として、初崎と笹岡に出し抜かれた格好の砂野を大いに憐れんだものである。
高岳たち将軍・家治附の年寄としては本来ならば初崎と笹岡を排除したいところであったが、しかし初崎にしろ笹岡にしろ、家治の御墨付を得て御客応答に異動を果たしたも同然であり、その二人を排除することは二人に御客応答への異動という御墨付を与えた将軍・家治の権威に瑕をつけることにもなりかねず、それ以上に初崎と笹岡には高橋と大崎という味方がいた。
かつて倫子の中年寄を勤めていた高橋と、その高橋と共に萬壽姫の中年寄を勤めていた大崎の二人はこの頃…、一橋治済が実子の豊千代こと家斉が家基に代わる次期将軍として西之丸入りを果たした年でもある天明元(1781)年、高橋と大崎は家斉附の年寄へと栄転を果たしたのだ。
高橋は倫子歿後は萬壽姫附の中年寄へと異動し、大崎と共に萬壽姫の中年寄を勤め、そして萬壽姫までもが歿するや、高橋と大崎は将軍・家治附の御客応答へと異動を果たしたのであった。それが安永2(1773)年のことであり、初崎と笹岡が御客応答へと異動を果たしたのはそれから更に6年後のことであり、初崎と笹岡にとっては高橋と大崎は砂野と同じく「先輩」に当たり、一方、高橋と大崎にとっては「後輩」に当たる初崎と笹岡に与し、初崎と笹岡の謂わば、
「勢力伸張…」
それに大いに役立だったものである。
そしてその高橋と大崎は家斉が家基に代わる次期将軍として西之丸入りを果たすや、家斉たっての希望により…、と言うよりは家斉の実父である一橋治済たっての希望によりと言うべきであろう、ともあれそれにより高橋と大崎は家斉附の年寄へと異動、それも栄転を果たしたのであった。
それにより高橋と大崎は本丸大奥を出て西之丸の大奥へと引き移ったわけだが、初崎・笹岡との謂わば、
「盟友関係…」
それ今でも続いていた。
初崎と笹岡にしてみれば次期将軍・家斉に仕える高橋と大崎を後ろ盾にしているも同然であり、これでは如何に高岳と雖も、そのような初崎と笹岡を御客応答から排除するのは不可能というものであった。
そこで高岳たち年寄は「次善の策」として砂野を年寄へと異動、昇格を果たさせることにした。
とりわけ野村は砂野の年寄昇格を願った。それと言うのも野村は砂野に恩義があるからだ。
恩義…、それは野村が年寄の座を砂野から譲って貰ったことを指している。
野村が将軍・家治附の年寄へと異動・栄転を果たしたのは安永5(1776)年のことであり、御客応答からの異動・栄転であった。
野村はかつては萬壽姫附の御客応答を勤めていたのだが、それが安永2(1773)年に萬壽が歿したことで、将軍・家治附の御客応答へと横滑り人事を果たしたのであった。
その頃にはもう、砂野が御客応答筆頭として控えており、そこへ野村が異動、横滑りを果たしたわけだから、野村にとって砂野は「先輩」に当たる。
そうであれば野村よりも砂野が先に年寄へと昇格を果たすべきであり、事実、野村が御客応答から年寄へと昇格を果たした安永5(1776)年、本来ならば砂野が年寄へと昇格する筈であった。
安永5(1776)年、この年に年寄の一人、清橋が卒したために、年寄は6人から5人へと減った。
大奥の年寄に定員はないとは言え、それでも5人では逆に少なく、そこで新たに年寄を一人、補充することにし、そこで白羽の矢が立ったのが外ならぬ砂野であった。
砂野は年寄に次ぐポストである御客応答のそれも筆頭を勤めていたので、その砂野に白羽の矢が立てられたのは至極当然のことであった。
だがそれを砂野がやはり自ら拝辞し、その上で、
「何卒、野村を先に年寄へと…」
砂野は家治にそう願ったのであった。
「身よりも若き野村の方が…」
それが砂野が拝辞した理由であった。つまりは己よりも将来性のある野村の方が年寄には相応しいということであった。
こうして野村は砂野に譲ってもらう格好で年寄へと昇格を果たすことが出来たのであった。
野村の砂野に対する恩義とはこのことであった。
そして天明元(1781)年、今度は年寄の一人であった花島が卒したために、また一人、年寄を補充する必要性に迫られ、そこで高岳は砂野を救う目的で今度こそ砂野を年寄へと昇格させることにし、それに野村が真っ先に賛意を示したのであった。
それに対して砂野はと言うと、今度もまた年寄を拝辞するつもりでいた。それと言うのも初崎と笹岡に押され気味とは言え、御客応答筆頭として何とか初崎と笹岡の二人の専横を抑えてきた己がここで年寄へと昇格を果たしたならば、初崎と笹岡はいよいよもって御客応答として外の御客応答を随えて専横の限りを尽くすのではあるまいかと、それが砂野に年寄への昇格を躊躇わせた。
一方、高岳は砂野の懸念を知るや、年寄に加わった方が初崎と笹岡の二人の専横を抑えられると、砂野を説き伏せ、結果、今度こそ砂野は年寄へと昇格を果たし、今に至る。
爾来、高岳・花園・飛鳥井・滝川・野村・砂野という6人の年寄が、実際には高岳・滝川・野村・砂野の4人の年寄が御客応答の初崎・笹岡と対峙するという状況が続いている。
御客応答筆頭であった砂野が年寄へと異動、栄転を果たした後、御客応答はすっかり初崎と笹岡の天下となった。
そしてそのような御客応答に田安家よりの公儀奥女遣の接遇を任せた日には、折角、廣敷添番による所持品検査を免れたにもかかわらず、御客応答が所持品検査を強行し、書状を検めないとも限らない。今の、初崎と笹岡によって支配されている御客応答ならば大いにあり得、高岳はそれを危惧っして田安家よりの公儀奥女遣の接遇に限っては御客応答ではなく表使、それも筆頭として御客応答格の菊野に田安家よりの公儀奥女遣の接遇を一任することにしたのであった。
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