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意知、若年寄就任前夜 大奥篇2

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 菊野きくのとは御客おきゃく応答あしらいかく表使おもてづかい、それも筆頭ひっとうであり、田安たやす家よりの公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐうになっていたのがこの菊野きくのであった。

 御三卿ごさんきょうもとより、御三家ごさんけや諸大名より大奥おおおくへとつかわされた公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐうになうのは御客おきゃく応答あしらい職掌しょくしょうであり、表使おもてづかいのそれではない。

 それゆえ本来ほんらいならば表使おもてづかいである菊野きくの田安たやす家よりの公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐうになうのはおかしい。それはあきらかに御客おきゃく応答あしらい職掌しょくしょうおかすことになるからだ。

 にもかかわらず、表使おもてづかい菊野きくの田安たやす家よりの公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐうになっていたのはひとえ高岳たかおか差配さはいによる。

 それと言うのも今の御客おきゃく応答あしらいの中に高岳たかおかつうずる者がいないということに遠因えんいんがあった。

 ここ江戸城本丸ほんまるにおける大奥おおおくにおいて御客おきゃく応答あしらいは将軍・家治づきのみならず、家治の養女ようじょである種姫たねひめづきや、あるいは|家治の側妾そくしょうである千穂ちほづき存在そんざいした。

 だがその中でも一番いちばん勢威せいいがあるのは何と言っても将軍に附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらいであり、今は初崎はつざきがそれであった。

 この初崎はつざきはかつては家基いえもと乳母うばつとめ、のみならず、家基いえもと健在けんざいであったころには家基いえもと附属ふぞくする年寄としよりとして、家基いえもとまう西之丸にしのまる大奥おおおく君臨くんりんした。

 それが家基いえもとくなったために初崎はつざきほかの、家基いえもと附属ふぞくしていた奥女中おくじょちゅうともに、いや、西之丸にしのまる大奥おおおくにてつかえていた奥女中おくうじょちゅうともにここ本丸ほんまる大奥おおおくへとうつって来た。その中には家基いえもと婚約者こんやくしゃとして西之丸にしのまる大奥おおおくにてらしていた種姫たねひめとその種姫たねひめ附属ふぞくしていた年寄としより向坂さきさかはじめとする奥女中おくじょちゅうふくまれていた。

 さて、初崎はつざき本丸ほんまる大奥おおおくへとうつると、御客おきゃく応答あしらいのポストをあてがわれた。

 本来ほんらいならば、家基いえもとづき年寄としよりであった初崎はつざきには将軍・家治づき年寄としよりのポストをあてがうべきところであったが、しかし、その時…、家基いえもとげた安永8(1779)年の時点じてんでは将軍・家治づき年寄としより定員ていいん一杯いっぱい状態じょうたいであった。

 すなわち、高岳たかおか花園はなぞの飛鳥井あすかい滝川たきがわ花島はなしま野村のむらと5人の年寄としより存在そんざいしていたのだ。

 いや、大奥おおおく年寄としよりには厳密げんみつ意味いみでの定員ていいん存在そんざいせず、それゆえ初崎はつざきくわえて6人の年寄としより体制たいせいとしても何らつかえはなく、事実、家治は初崎はつざきに対して年寄としよりのポストを打診だしんしたものだが、しかし、それを初崎はつざき自身じしん拝辞はいじしたのであった。初崎はつざきはそのうえで、

おそおおくも上様うえさまつかえし御客おきゃく応答あしらいのぞみまする…」

 家治づき御客おきゃく応答あしらいになりたいと、家治にそうげたのであった。

 成程なるほど御客おきゃく応答あしらいというポストは年寄としより重職じゅうしょくであり、年寄としよりになるためのわば、

「キャリアパス…」

 そのような側面そくめんのあるポストであると同時どうじに、

年寄としより退しりぞいた者の隠居いんきょ役…」

 そのような側面そくめんもあり、それゆえ家基いえもと年寄としよりつとめていた初崎はつざきには打ってつけのポストとも言え、そこで家治は初崎はつざきを将軍たるおのれ附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらいにんじたのであった。

 その時…、安永8(1779)年の時点じてんにおいて将軍・家治に附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとう砂野いさのであった。砂野いさのもまた、初崎はつざきと同じような経歴けいれきほこっていた。

 すなわち、砂野いさのは家治の正室せいしつ、それも愛妻あいさいであった倫子ともこつかえる年寄としよりであったが、それが倫子ともこが明和8(1771)年にしゅっしたために、家治づき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうたしたのであった。

 もっとも、砂野いさのの場合は初崎はつざきの場合とはいささ事情じじょうことなる。それと言うのも倫子ともこしゅっした明和8(1771)年の時点で将軍・家治に附属ふぞくする年寄としよりはと言うと、

松島まつしま高岳たかおか滝川たきがわ梅田むめだ清橋きよはし浦田うらた

 以上いじょうの6人体制たいせいであり、その上、倫子ともこ上臈じょうろう年寄どしよりとしてつかえていた花園はなぞの飛鳥井あすかいくわわったことで将軍・家治に附属ふぞくする年寄としより一挙いっきょに8人にふくがった。

 如何いか年寄としよりには厳密げんみつ意味いみでの定員ていいんはないとは言え、8人の年寄としより如何いかにも多く、まさに、

定員ていいんオーバー」

 そのような状態じょうたいであり、その上、砂野いさのくわわる余地よちはなかった。

 いや、花園はなぞの飛鳥井あすかいの二人が御客おきゃく応答あしらいへと回れば砂野いさの年寄としよりへと異動いどうたせたやも知れぬが、しかし、それは無理むり相談そうだんと言うものであった。

 何しろ花園はなぞの飛鳥井あすかい両者りょうしゃともに、年寄としより年寄としよりでも上臈じょうろう年寄どしよりとして倫子ともこつかえていたのだ。

 つまりはきょうみやこ公卿くぎょうむすめであるのだ。花園はなぞの西洞院にしのとういん範篤のりあつ三女さんじょであり、飛鳥井あすかい平松ひらまつ時行ときゆき長女ちょうじょであった。

 それが閑院宮かんいんのみや直仁なおひと親王しんのうの娘であった倫子ともこが家治の正室せいしつとして関東かんとう、つまりは江戸えどへと下向げこうするにたり、公卿くぎょうむすめである花園はなぞの飛鳥井あすかい倫子ともこ御附おつきとして江戸えどへと下向げこうし、上臈じょうろう年寄どしよりにんじられたのであった。

 そのような花園はなぞの飛鳥井あすかい年寄としより重職じゅうしょくとは言え、あくまで年寄としより下位かい位置いちする御客おきゃく応答あしらい異動いどうさせるわけにはゆかない。

 それゆえ花園はなぞの飛鳥井あすかい異動いどうさき畢竟ひっきょう、将軍・家治づき年寄としよりしかありず、そのために砂野いさのはじばされた格好かっこうであり、砂野いさのには初崎はつざきのように、

年寄としよりへの異動いどう拝辞はいじし、御客おきゃく応答あしらいのポストをのぞむ…」

 そのような選択肢せんたくしもとよりなかった。

 その上、砂野いさの倫子ともこしゅっした明和8(1771)年の時点では33と、調度ちょうど倫子ともこおなどしであり、隠居いんきょするにはまだわかく、そこが初崎はつざきとのちがい、それも最大さいだいちがいと言えた。

 すなわち、家基いえもとしゅっした安永8(1779)年の時点で初崎はつざきすでに51であり、隠居いんきょしてもおかしくはない年嵩としかさと言えた。

 だが砂野いさのはそこまで年嵩としかさではない。それでも将軍づき年寄としより定員ていいんオーバーである以上いじょう砂野すなのさき御客おきゃく応答あしらいをおいてほかにないのもまたうごかしがたい事実であった。

 いや、おな年寄としより年寄としよりでも家治の側妾そくしょうである千穂ちほづき年寄としよりあるいは西之丸にしのまるから本丸ほんまるへとうつった種姫たねひめづき年寄としよりという異動いどうさきもありた。この時、そして天明3(1783)年の今もってそうだが、千穂ちほ附属ふぞくする年寄としより玉澤たまざわ種姫たねひめ附属ふぞくする年寄としより向坂さきさかとも年寄としよりは一人しかおらず、その上、砂野いさの一人ひとりくわわったところで何らつかえはない。

 事実、家治は砂野いさのに対して千穂ちほづき年寄としよりか、あるいは種姫たねひめづき年寄としよりのポストを打診だしんしたものの、しかし、それに対しては砂野いさのがその打診だしん拝辞はいじした。

御台みだい様につかたてまつりしなれば…」

 それが砂野いさのが家治の打診だしん拝辞はいじした理由わけであった。つまりは、

「将軍・家治の正室せいしつであった倫子ともこつかえていた自分じぶん倫子ともこ養女ようじょである種姫たねひめや、ましてや側妾そくしょうである千穂ちほつかえては倫子ともこもうわけない…」

 それゆえ、倫子ともこつかえてきた自分じぶんさき倫子ともこあるじである将軍・家治づき御役おやくしかありず、そうであれば例え年寄としよりでなくてもかまわないと、よう倫子ともこへの義理ぎりてから砂野いさのは家治の打診だしん拝辞はいじしたのであった。

 それに対して家治もそうとさっするや、砂野いさののそのような義理ぎりがたさにおおいにかんり、そこで家治は砂野いさのおのれ附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうさせると同時どうじに、砂野いさのにはその筆頭ひっとうを命じたのであった。

 御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとう…、つまりは砂野すなの隠居いんきょ役として異動いどうしてきたわけではなく、年寄としよりへの「キャリアパス」として異動いどうしてきたのだと、家治は周囲しゅういにそうアピールするために砂野すなの御客きゃく応答あしらい筆頭ひっとうめいじたのであった。

 そしてそれから8年後の安永8(1779)年に今度は家基いえもと年寄としよりであった初崎はつざき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうしてきた。

 いや、異動いどうしてきたのは初崎はつざきだけではない。初崎はつざきめいたる笹岡ささおかもそうであった。

 笹岡ささおか初崎はつざきめいにして家基いえもとづき御客おきゃく応答あしらいつとめていた。

 それが初崎はつざき家基いえもとづき年寄としよりから将軍・家治づき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうするのにともない、笹岡ささおか家基いえもとづき御客おきゃく応答あしらいから将軍・家治づき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうたしたのであった。いや、大栄転だいえいてんたしたと言うべきであろう。何しろ次期じき将軍に附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらいよりも現将軍に附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらいの方がはるかに格式かくしきたかいからだ。

 そのような大栄転だいえいてん人事じんじ可能かのうたらしめたのはひとえに、叔母おばである初崎はつざき御蔭おかげと言えた。初崎はつざきが将軍・家治に対してめいである笹岡ささおか同時どうじに、家治づき御客おきゃく応答あしらい異動いどうさせてやってしいとたのんだのであった。

 それに対して家治もみずか御客おきゃく応答あしらいへと退いた初崎はつざきに対するから初崎はつざきのこのたのみをいてやることにし、初崎はつざき共々ともども、将軍たるおのれ附属ふぞくする御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうさせたのであった。

 こうしてめい笹岡ささおかともに将軍・家治づき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうたした初崎はつざき徐々じょじょにだが、御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうである砂野いさの凌駕りょうがするようになった。

 初崎はつざき砂野いさのより丁度ちょうどとおうえであり、砂野いさの御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうでありながら、このあらたに御客おきゃく応答あしらいくわわった初崎はつざきに何かとされちとなった。

 初崎はつざき御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうである砂野いさのよりもとお年嵩としかさであることにくわえて、笹岡ささおかという強力きょうりょくなる味方みかたがいた。

 笹岡ささおか初崎はつざきめいたり、かつては書院しょいん番士ばんしつとめていた秋山あきやま次郎三郎じろうさぶろう政芳まさよし妻女さいじょであったが、安永元(1772)年に離婚りこんするとすで家基いえもとづき年寄としよりであった初崎はつざきのヒキにより西之丸にしのまる大奥おおおくりをたしたのであった。

 爾来じらい笹岡ささおか西之丸にしのまる大奥おおおくにてまさに、

「とんとん拍子びょうし…」

 その表現ひょうげんまるほど順調じゅんちょう昇進しょうしんげた。そこには勿論もちろん叔母おばである初崎はつざきのヒキもあっただろうが、それ以上いじょう笹岡ささおか自身じしん実力じつりょく、それも政治力せいじりょく賜物たまものと言えた。

 初崎はつざき政治せいじきな気性きしょうであるが、めい笹岡ささおか初崎はつざきおとらず、いや、初崎はつざき以上いじょう政治せいじきな気性きしょうであり、夫・秋山あきやま次郎三郎じろうさぶろうとの婚姻こんいん関係かんけい破綻はたんさせた遠因えんいんともなった。

 それゆえ初崎はつざきはこのおのれ以上いじょう政治せいじきなめい笹岡ささおか随分ずいぶんたすけられ、初崎はつざき家基いえもときの年寄としよりとしておおいに権勢けんせいほこれたのも笹岡ささおか御蔭おかげであった。

 初崎はつざき家基いえもとづき年寄としよりつとめていたが、しかし、家基いえもとづき年寄としより初崎はつざき一人ではなかった。あと一人ひとり野村のむらなる者が家基いえもとづき年寄としよりとしてひかえていた。

 それゆえ初崎はつざき権勢けんせいるおうにも野村のむら存在そんざい所為せいおのずから限界げんかいがあった。

 だが笹岡ささおかの「政治力せいじりょく」の御蔭おかげ初崎はつざき野村のむら退ける格好かっこうおおいに権勢けんせいるえた。

 そして笹岡ささおかの「政治力せいじりょく」は弟の昇進しょうしんにもおおいに発揮はっきされた。

 すなわち、初崎はつざきにとってはおいたる中野なかの監物けんもつ清翰きよふで弱冠じゃっかん17で中野なかの家をいでから丁度ちょうど1年後の安永6(1777)年、18歳で西之丸にしのまる小納戸こなんどてられたのであった。

 小納戸こなんどと言えば従六位じゅろくい布衣ほい役である。それをわずか18にぎぬ、まさ若造わかぞうぎぬ中野なかの清翰きよふでてられたのは叔母おばである初崎はつざきの「政治力せいじりょく」にくわえて、実姉じっしである笹岡ささおかの「政治力せいじりょく」の賜物たまものと言えた。

 初崎はつざきはそのような笹岡ささおかたのみとし、笹岡ささおかとも御客おきゃく応答あしらい異動いどうたしたのだ。無論むろん御客おきゃく応答あしらいとしておおいに権勢けんせいるうためであり、笹岡ささおかもそんな叔母おば初崎はつざき期待きたいこたえる格好かっこうでやはりと言うべきか、おおいにその「政治力せいじりょく」を発揮はっきし、叔母おばである初崎はつざき御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうである砂野いさのかたならばせたのであった。

 一方、家治も砂野いさの初崎はつざき笹岡ささおかされ気味ぎみであることは年寄としより筆頭ひっとうである高岳たかおかより耳打みみうちされていたので承知しょうちしており、そこで家治は砂野いさの年寄としよりへと昇格しょうかくさせようとした。高岳たかおかにしても将軍・家治に砂野いさののことを耳打みみうちしたのは、

砂野いさの年寄としよりへと昇格しょうかくさせては…」

 その合図シグナルほかならない。そしてそれは年寄としより総意そういとも言えた。

 この時…、初崎はつざきめい笹岡ささおかの「政治力せいじりょく」の御蔭おかげにより砂野いさのかたならべるまでになった天明元(1781)年、将軍・家治に附属ふぞくする年寄としよりは、

高岳たかおか花園はなぞの飛鳥井あすかい滝川たきがわ花島はなしま野村のむら

 以上の6人であり、彼女らはみな初崎はつざき笹岡ささおか専横せんおうぶり、とりわけ笹岡ささおか専横せんおうぶりにはまゆひそめるものがあり、その反作用はんさようとして、初崎はつざき笹岡ささおかかれた格好かっこう砂野いさのおおいにあわれんだものである。

 高岳たかおかたち将軍・家治づき年寄としよりとしては本来ほんらいならば初崎はつざき笹岡ささおか排除はいじょしたいところであったが、しかし初崎はつざきにしろ笹岡ささおかにしろ、家治の御墨付おすみつき御客おきゃく応答あしらい異動いどうたしたも同然どうぜんであり、その二人を排除はいじょすることは二人に御客おきゃく応答あしらいへの異動いどうという御墨付おすみつきあたえた将軍・家治の権威けんいきずをつけることにもなりかねず、それ以上に初崎はつざき笹岡ささおかには高橋たかはし大崎おおさきという味方みかたがいた。

 かつて倫子ともこ中年寄ちゅうどしよりつとめていた高橋たかはしと、その高橋たかはしとも萬壽ますひめ中年寄ちゅうどしよりつとめていた大崎おおさきの二人はこのころ…、一橋ひとつばし治済はるさだ実子じっし豊千代とよちよこと家斉いえなり家基いえもとわる次期じき将軍として西之丸にしのまるりをたした年でもある天明元(1781)年、高橋たかはし大崎おおさき家斉いえなりづき年寄としよりへと栄転えいてんたしたのだ。

 高橋たかはし倫子ともこ歿後ぼつご萬壽ますひめづき中年寄ちゅうどしよりへと異動いどうし、大崎おおさきとも萬壽ますひめ中年寄ちゅうどしよりつとめ、そして萬壽ますひめまでもが歿ぼっするや、高橋たかはし大崎おおさきは将軍・家治づき御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうたしたのであった。それが安永2(1773)年のことであり、初崎はつざき笹岡ささおか御客おきゃく応答あしらいへと異動いどうたしたのはそれからさらに6年後のことであり、初崎はつざき笹岡ささおかにとっては高橋たかはし大崎おおさき砂野いさのおなじく「先輩せんぱい」にたり、一方、高橋たかはし大崎おおさきにとっては「後輩こうはい」にたる初崎はつざき笹岡ささおかくみし、初崎はつざき笹岡ささおかわば、

勢力せいりょく伸張しんちょう…」

 それにおおいに役立やくだったものである。

 そしてその高橋たかはし大崎おおさき家斉いえなり家基いえもとわる次期じき将軍として西之丸にしのまるりをたすや、家斉いえなりたっての希望きぼうにより…、と言うよりは家斉いえなり実父じっぷである一橋ひとつばし治済はるさだたっての希望きぼうによりと言うべきであろう、ともあれそれにより高橋たかはし大崎おおさき家斉いえなりづき年寄としよりへと異動いどう、それも栄転えいてんたしたのであった。

 それにより高橋たかはし大崎おおさき本丸ほんまる大奥おおおくを出て西之丸にしのまる大奥おおおくへとうつったわけだが、初崎はつざき笹岡ささおかとのわば、

盟友めいゆう関係かんけい…」

 それいまでもつづいていた。

 初崎はつざき笹岡ささおかにしてみれば次期じき将軍・家斉いえなりつかえる高橋たかはし大崎おおさきうしだてにしているも同然どうぜんであり、これでは如何いか高岳たかおかいえども、そのような初崎はつざき笹岡ささおか御客おきゃく応答あしらいから排除はいじょするのは不可能ふかのうというものであった。

 そこで高岳たかおかたち年寄としよりは「次善じぜんさく」として砂野いさの年寄としよりへと異動いどう昇格しょかくたさせることにした。

 とりわけ野村のむら砂野いさの年寄としより昇格しょうかくねがった。それと言うのも野村のむら砂野いさの恩義おんぎがあるからだ。

 恩義おんぎ…、それは野村のむら年寄としより砂野いさのからゆずってもらったことをしている。

 野村のむらが将軍・家治づき年寄としよりへと異動いどう栄転えいてんたしたのは安永5(1776)年のことであり、御客おきゃく応答あしらいからの異動いどう栄転えいてんであった。

 野村のむらはかつては萬壽ますひめづき御客おきゃく応答あしらいつとめていたのだが、それが安永2(1773)年に萬壽ますひめ歿ぼっしたことで、将軍・家治づき御客おきゃく応答あしらいへと横滑よこすべ人事じんじたしたのであった。

 そのころにはもう、砂野いさの御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうとしてひかえており、そこへ野村のむら異動いどう横滑よこすべりをたしたわけだから、野村のむらにとって砂野いさのは「先輩せんぱい」にたる。

 そうであれば野村のむらよりも砂野いさのさき年寄としよりへと昇格しょうかくたすべきであり、事実じじつ野村のむら御客おきゃく応答あしらいから年寄としよりへと昇格しょうかくたした安永5(1776)年、本来ほんらいならば砂野いさの年寄としよりへと昇格しょうかくするはずであった。

 安永5(1776)年、この年に年寄としよりの一人、清橋きよはししゅっしたために、年寄としよりは6人から5人へとった。

 大奥おおおく年寄としより定員ていいんはないとは言え、それでも5人ではぎゃくすくなく、そこであらたに年寄としより一人ひとり補充ほじゅうすることにし、そこで白羽しらはったのがほかならぬ砂野いさのであった。

 砂野いさの年寄としよりぐポストである御客おきゃく応答あしらいのそれも筆頭ひっとうつとめていたので、その砂野いさの白羽しらはてられたのは至極しごく当然とうぜんのことであった。

 だがそれを砂野すなのがやはりみずか拝辞はいじし、その上で、

何卒なにとぞ野村のむらさき年寄としよりへと…」

 砂野いさのは家治にそうねがったのであった。

よりもわか野村のむらの方が…」

 それが砂野いさの拝辞はいじした理由わけであった。つまりはおのれよりも将来性しょうらいせいのある野村のむらの方が年寄としよりには相応ふさわしいということであった。

 こうして野村のむら砂野いさのゆずってもらう格好かっこう年寄としよりへと昇格しょうかくたすことが出来できたのであった。

 野村のむら砂野いさのに対する恩義おんぎとはこのことであった。

 そして天明元(1781)年、今度は年寄としより一人ひとりであった花島はなしましゅっしたために、また一人、年寄としより補充ほじゅうする必要性ひつようせいせまられ、そこで高岳たかおか砂野いさのすく目的もくてき今度こんどこそ砂野いさの年寄としよりへと昇格しょうかくさせることにし、それに野村のむらさき賛意さんいしめしたのであった。

 それに対して砂野いさのはと言うと、今度こんどもまた年寄としより拝辞はいじするつもりでいた。それと言うのも初崎はつざき笹岡ささおかされ気味ぎみとは言え、御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうとして何とか初崎はつざき笹岡ささおか二人ふたり専横せんおうおさえてきたおのれがここで年寄としよりへと昇格しょうかくたしたならば、初崎はつざき笹岡ささおかはいよいよもって御客おきゃく応答あしらいとしてほか御客おきゃく応答あしらいしたがえて専横せんおうかぎりをくすのではあるまいかと、それが砂野いさの年寄としよりへの昇格しょうかく躊躇ためらわせた。

 一方、高岳たかおか砂野いさの懸念けねんるや、年寄としよりくわわった方が初崎はつざき笹岡ささおか二人ふたり専横せんおうおさえられると、砂野いさのせ、結果けっか今度こんどこそ砂野いさの年寄としよりへと昇格しょうかくたし、いまいたる。

 爾来じらい高岳たかおか花園はなぞの飛鳥井あすかい滝川たきがわ野村のむら砂野いさのという6人の年寄としよりが、実際には高岳たかおか滝川たきがわ野村のむら砂野いさのの4人の年寄としより御客おきゃく応答あしらい初崎はつざき笹岡ささおか対峙たいじするという状況じょうきょうつづいている。

 御客おきゃく応答あしらい筆頭ひっとうであった砂野いさの年寄としよりへと異動いどう栄転えいてんたしたあと御客おきゃく応答あしらいはすっかり初崎はつざき笹岡ささおか天下てんがとなった。

 そしてそのような御客おきゃく応答あしらい田安たやす家よりの公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐうまかせた日には、折角せっかく廣敷ひろしき添番そえばんによる所持品しょじひん検査けんさまぬがれたにもかかわらず、御客おきゃく応答あしらい所持品しょじひん検査けんさ強行きょうこうし、書状しょじょうあらためないともかぎらない。今の、初崎はつざき笹岡ささおかによって支配しはいされている御客おきゃく応答あしらいならばおおいにあり高岳たかおかはそれを危惧きぐっして田安たやす家よりの公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐうかぎっては御客おきゃく応答あしらいではなく表使おもてづかい、それも筆頭ひっとうとして御客おきゃく応答あしらいかく菊野きくの田安たやす家よりの公儀こうぎおく女遣おんなづかい接遇せつぐう一任いちにんすることにしたのであった。
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