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御三卿の館の中でも一番、アットホームな家風を持つ清水館においても当主たる重好を取り囲んで、意知が若年寄に進む件につき話し合われる。
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その頃、清水館にては一橋館におけるのと同じく、当主が家臣に囲まれながら、意知が若年寄へと進む件について話し合われていた。
尤も、一橋館と違う点もあった。
それはその話し合いの席には二人の家老も含まれていた。
ここ清水館の家風は一言で表すならば、
「アットホーム」
それに尽きるであろう。
本来、御三卿の監視役たる家老もまるで、御三卿が自ら召抱えた、
「抱入…」
そのような存在であり、実際、本多讃岐守昌忠と吉川摂津守従弼の二人の家老は、
「抱入…」
そのような意識にてここ清水館の当主たる重好に仕えていた。とりわけ、重好の近習として仕える弟・六三郎長卿を持つ本多昌忠がそうであり、この点が一橋館との違い、のみならず、田安館との違いでもあった。
その本多昌忠より意知が若年寄へと進む件が打ち明けられるや、やはりと言うべきか、
「もしや…、御三卿潰しの一環ではござりますまいか?」
そこに思い至った者がおり、用人の本目権右衛門親平がそうであった。
本目権右衛門親平は御齢33にて、6人いる用人の中では最年少ではあるものの、しかし、
「目から鼻に抜ける程に…」
頭の回転が早く、それゆえに本目権右衛門親平は直ぐにそこに思い至った。
「御三卿潰しの一環とな?」
そう問い返したのは番頭の杉浦頼母勝明であった。
御三卿に仕える所謂、「八役」の中でも家老に次ぐ、それも番方という点に限って言えば事実上のトップである番頭の中にあって杉浦頼母勝明は何と、「附切」であった。
即ち、旗本の嫡男ではなしに次男以下であり、杉浦頼母勝明は書院番士であった杉浦吉右衛門勝信の次男坊であり、その兄…、杉浦吉右衛門勝信の嫡男である杉浦長門守勝興は軍事部門たる番方の事実上のトップである先手頭、それも鉄砲頭の御役にあった。
その弟である頼母勝明は重好がまだ、
「萬次郎」
その幼名を名乗っていた頃より近習番として江戸城にて仕え、その後…、宝暦9(1759)年9月27日に重好が元服して「萬次郎」から今のその重好へと名を改め、それから2ヵ月後の11月29日に江戸城よりここ清水館へと引き移るに際して杉浦頼母勝明もそれに付き随い、この清水館において用人兼帯の小姓頭に抜擢され、更に用人兼帯の番頭へと栄進を重ね、今に至る。
その杉浦頼母勝明は本目権右衛門親平の舅に当たる。即ち、本目権右衛門親平は杉浦頼母勝明の愛娘を娶っており、そのような事情があって杉浦頼母勝明は婿たる本目権右衛門親平の言葉に真っ先に反応したのであった。
それに対して本目権右衛門親平は杉浦頼母勝明へと顔を向けると、「如何にも」と応えた後、
「されば田沼山城守殿を若年寄に据えて、御三卿潰しの指揮を執らせるご所存ではござりますまいか…」
再び、主君・重好へと顔を向けると、そう告げたのであった。
「そは…、畏れ多くも上様が、という意味かえ?つまりは畏れ多くも上様におかせられては御三卿潰しを狙うておると申すのか?」
重好よりそう問い返された本目権右衛門親平はまずは「御意…」と重好のその言葉を首肯した上で、
「されば…、御三卿はその…、金喰い虫のために、折からのご公儀の財政難から、畏れ多くも上様がその財政難に対処すべく御三卿の整理に御手をつけようと、左様に思し召されても何ら不思議ではござりますまいて…」
そう推量を重ねた。すると重好は流石に苦笑を浮かべたものである。
「成程のう…、余は金喰い虫か…」
それが重好が苦笑を浮かべた理由であり、それで本目権右衛門親平も己の失言に気づいたらしく、
「あっ、これは御無礼仕りましてござりまする…」
慌てて平伏しながら、そう詫びの言葉を並べたのであった。
「口を慎しめ、この愚か者めが…」
平伏する本目権右衛門親平のその後頭部めがけてそう叱責を浴びせたのは実父にして御側御用人の要職にある本目権右衛門親収であった。
御三卿に仕える所謂、「八役」の他にも御側御用人が置かれることがあり、この御三卿に仕える御側御用人は家老の次席に位置づけられ、即ち、番頭の上役に位置づけられる。
しかしこの御側御用人は天明3(1783)年の今はこの清水館にのみ置かれており、田安館や一橋館には置かれていなかった。
当主不在である所謂、明屋形である田安館に御側御用人が置かれていないのは当然、とまでは言わぬにしても致し方のないこととしても、そうではなく清水館と同じく歴とした当主が、一橋治済という当主を戴く一橋館においても御側御用人が置かれても良さそうなものであり、実際、治済は以前、清水館と同じく御側御用人を置きたいと、そう将軍・家治に希ったことがあった。
「清水に負けてなるものか…」
それこそが治済が御側御用人を置きたいと、将軍・家治に希った動機であった。一橋家よりも後れて創設された清水家のその館には御側御用人が置かれているにもかかわらず、一橋館には御側御用人が置かれていないなど、一橋館の当主たる、それも清水家よりも上であるとの自負がある、と言うよりはその意識で凝り固まっていた治済には到底、耐え難いことであった。
しかし、治済のその陳情は将軍・家治に却下されてしまい、周囲から失笑を買う始末であり、のみならず、この一件で、
「将軍・家治は一橋家よりも清水家を重視している…」
そう周囲にアピールすることにもなった。
さて、その御側御用人である本目権右衛門親収は愚息・権右衛門親平の失言を叱責したわけだが、それに対して重好は「よい、よい」と、本目権右衛門親収を宥めた。
「親平が申し条も一理ある…」
重好は鷹揚に構えつつ、本目権右衛門親平の意見を容れた。これもまた、清水館が「アットホーム」である理由の一つであった。
即ち、重好は家臣の意見に対しては基本的にまずは受け容れるのを常としていた。
また、重好は家臣との距離を縮めるべく、家臣を呼ぶ際にはその苗字や、或いは通称ではなしに諱で呼ぶことをも常としており、こうした甲斐あって、この清水館にて仕える者たちは皆、
「抱入である…」
そのような意識で重好に仕えていたのだ。
重好のこのような家臣を思い遣る態度は多分にある種の打算も含まれていたであろう。即ち、
「家臣には抱入であるとの意識を植え付けてやった方が何かと都合が良い…」
その打算が重好にはあったであろうが、しかし、それ以上に兄・家治譲りの優《やさ》しさからであった。
重好は腹違いの兄である将軍・家治と似て、思い遣りがあり、それゆえ家臣にそのような態度を取らせ、結果、それが「アットホーム」な家風へと繋がった。
尤も、一橋館と違う点もあった。
それはその話し合いの席には二人の家老も含まれていた。
ここ清水館の家風は一言で表すならば、
「アットホーム」
それに尽きるであろう。
本来、御三卿の監視役たる家老もまるで、御三卿が自ら召抱えた、
「抱入…」
そのような存在であり、実際、本多讃岐守昌忠と吉川摂津守従弼の二人の家老は、
「抱入…」
そのような意識にてここ清水館の当主たる重好に仕えていた。とりわけ、重好の近習として仕える弟・六三郎長卿を持つ本多昌忠がそうであり、この点が一橋館との違い、のみならず、田安館との違いでもあった。
その本多昌忠より意知が若年寄へと進む件が打ち明けられるや、やはりと言うべきか、
「もしや…、御三卿潰しの一環ではござりますまいか?」
そこに思い至った者がおり、用人の本目権右衛門親平がそうであった。
本目権右衛門親平は御齢33にて、6人いる用人の中では最年少ではあるものの、しかし、
「目から鼻に抜ける程に…」
頭の回転が早く、それゆえに本目権右衛門親平は直ぐにそこに思い至った。
「御三卿潰しの一環とな?」
そう問い返したのは番頭の杉浦頼母勝明であった。
御三卿に仕える所謂、「八役」の中でも家老に次ぐ、それも番方という点に限って言えば事実上のトップである番頭の中にあって杉浦頼母勝明は何と、「附切」であった。
即ち、旗本の嫡男ではなしに次男以下であり、杉浦頼母勝明は書院番士であった杉浦吉右衛門勝信の次男坊であり、その兄…、杉浦吉右衛門勝信の嫡男である杉浦長門守勝興は軍事部門たる番方の事実上のトップである先手頭、それも鉄砲頭の御役にあった。
その弟である頼母勝明は重好がまだ、
「萬次郎」
その幼名を名乗っていた頃より近習番として江戸城にて仕え、その後…、宝暦9(1759)年9月27日に重好が元服して「萬次郎」から今のその重好へと名を改め、それから2ヵ月後の11月29日に江戸城よりここ清水館へと引き移るに際して杉浦頼母勝明もそれに付き随い、この清水館において用人兼帯の小姓頭に抜擢され、更に用人兼帯の番頭へと栄進を重ね、今に至る。
その杉浦頼母勝明は本目権右衛門親平の舅に当たる。即ち、本目権右衛門親平は杉浦頼母勝明の愛娘を娶っており、そのような事情があって杉浦頼母勝明は婿たる本目権右衛門親平の言葉に真っ先に反応したのであった。
それに対して本目権右衛門親平は杉浦頼母勝明へと顔を向けると、「如何にも」と応えた後、
「されば田沼山城守殿を若年寄に据えて、御三卿潰しの指揮を執らせるご所存ではござりますまいか…」
再び、主君・重好へと顔を向けると、そう告げたのであった。
「そは…、畏れ多くも上様が、という意味かえ?つまりは畏れ多くも上様におかせられては御三卿潰しを狙うておると申すのか?」
重好よりそう問い返された本目権右衛門親平はまずは「御意…」と重好のその言葉を首肯した上で、
「されば…、御三卿はその…、金喰い虫のために、折からのご公儀の財政難から、畏れ多くも上様がその財政難に対処すべく御三卿の整理に御手をつけようと、左様に思し召されても何ら不思議ではござりますまいて…」
そう推量を重ねた。すると重好は流石に苦笑を浮かべたものである。
「成程のう…、余は金喰い虫か…」
それが重好が苦笑を浮かべた理由であり、それで本目権右衛門親平も己の失言に気づいたらしく、
「あっ、これは御無礼仕りましてござりまする…」
慌てて平伏しながら、そう詫びの言葉を並べたのであった。
「口を慎しめ、この愚か者めが…」
平伏する本目権右衛門親平のその後頭部めがけてそう叱責を浴びせたのは実父にして御側御用人の要職にある本目権右衛門親収であった。
御三卿に仕える所謂、「八役」の他にも御側御用人が置かれることがあり、この御三卿に仕える御側御用人は家老の次席に位置づけられ、即ち、番頭の上役に位置づけられる。
しかしこの御側御用人は天明3(1783)年の今はこの清水館にのみ置かれており、田安館や一橋館には置かれていなかった。
当主不在である所謂、明屋形である田安館に御側御用人が置かれていないのは当然、とまでは言わぬにしても致し方のないこととしても、そうではなく清水館と同じく歴とした当主が、一橋治済という当主を戴く一橋館においても御側御用人が置かれても良さそうなものであり、実際、治済は以前、清水館と同じく御側御用人を置きたいと、そう将軍・家治に希ったことがあった。
「清水に負けてなるものか…」
それこそが治済が御側御用人を置きたいと、将軍・家治に希った動機であった。一橋家よりも後れて創設された清水家のその館には御側御用人が置かれているにもかかわらず、一橋館には御側御用人が置かれていないなど、一橋館の当主たる、それも清水家よりも上であるとの自負がある、と言うよりはその意識で凝り固まっていた治済には到底、耐え難いことであった。
しかし、治済のその陳情は将軍・家治に却下されてしまい、周囲から失笑を買う始末であり、のみならず、この一件で、
「将軍・家治は一橋家よりも清水家を重視している…」
そう周囲にアピールすることにもなった。
さて、その御側御用人である本目権右衛門親収は愚息・権右衛門親平の失言を叱責したわけだが、それに対して重好は「よい、よい」と、本目権右衛門親収を宥めた。
「親平が申し条も一理ある…」
重好は鷹揚に構えつつ、本目権右衛門親平の意見を容れた。これもまた、清水館が「アットホーム」である理由の一つであった。
即ち、重好は家臣の意見に対しては基本的にまずは受け容れるのを常としていた。
また、重好は家臣との距離を縮めるべく、家臣を呼ぶ際にはその苗字や、或いは通称ではなしに諱で呼ぶことをも常としており、こうした甲斐あって、この清水館にて仕える者たちは皆、
「抱入である…」
そのような意識で重好に仕えていたのだ。
重好のこのような家臣を思い遣る態度は多分にある種の打算も含まれていたであろう。即ち、
「家臣には抱入であるとの意識を植え付けてやった方が何かと都合が良い…」
その打算が重好にはあったであろうが、しかし、それ以上に兄・家治譲りの優《やさ》しさからであった。
重好は腹違いの兄である将軍・家治と似て、思い遣りがあり、それゆえ家臣にそのような態度を取らせ、結果、それが「アットホーム」な家風へと繋がった。
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