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久田縫殿助は田安館の用人らに意知が御三卿潰し、それも手始めに当主不在の田安家を潰す尖兵として若年寄に取り立てられたと吹き込むことを思いつく。

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「されば大前おおまえ孫兵衛まごべえくちふさがれましては…」

 岩本いわもと正利まさとしは実におそろしいことを、

ことげに…」

 サラリと言ってのけたものである。

 それに対して治済はるさだは頭を振った。決して怖気おじけづいたからではない。それが証拠しょうこ治済はるさだ苦笑くしょうかべていた。

 治済はるさだはその上で、「今、大前おおまえ孫兵衛まごべえくちふさぐのはまずい」と答えた。

「なれどこのままでは…」

 大前おおまえ孫兵衛まごべえの口から家基いえもとの死の真相しんそうれるやも知れぬ…、正利まさとしはそう示唆しさした。

 すると治済はるさだも分かっていると言わんばかりにうなずいてみせたので、「されば…」と正利まさとしひざすすめるや、治済はるさだは「まぁ待て」と右手をかかげてそれをせいした。

「口をふさぐべき者は他におろう…」

 治済はるさだのその言葉に正利まさとしは首をかしげさせつつ、

「他に、とは?」

 治済はるさだかえした。

「他でもない、田沼たぬま山城やましろよ…」

 治済はるさだはそう答えると、今しがたまでここにひかえる「六役ろくやく」と話し合ってきた内容、すなわち、

意知おきとも暗殺計画…」

 それを正利まさとしにも打ち明けた上で、その「協力」を求めたのであった。

 それに対して正利まさとしはしかし、意外にもしぶい表情をしてみせたので、これには治済はるさだも意外であった。

「気が進まぬか?かつての相役あいやくやその縁者えんじゃそそのかすは…」

 治済はるさだ正利まさとしにそうたずねるや、正利まさとしあわてて頭をってみせるや、

滅相めっそうもござりませぬ…」

 治済はるさだにそのように即答そくとうしてみせた。

「されば何ゆえに然様さようかぬ顔をする?」

 治済はるさだにはそれが分からなかった。

「さればそれがしがかつての相役あいやく…、小出こいで半十郎はんじゅうろう三賀さんが監物けんもつ、それに縁者えんじゃ高井たかい多宮たみやらは皆、かんが良い者たちばかりにて…」

 正利まさとしおそおそる、そう切り出した。

「それで?」

 治済はるさだいのれた。

「されば…、かりにそれがしめが明日の月次つきなみ御礼おんれいに、それも番頭ばんがしら不在ふざいねらいまして、小出こいで半十郎はんじゅうろう高井たかい多宮たみや三賀さんが監物けんもつらに対して、竹本たけもと九八郎くはちろうめがことを…、若年寄へとすすむことが内定ないていせし田沼たぬま山城やましろめをたさんと、そのことで竹本たけもと九八郎くはちろうめが明日みょうにち、この田安たやすやかたおとずれては相談を持ちかけるに相違そういなく、そのおりには竹本たけもと九八郎くはちろうめの背中せなかを押してやって欲しいと…、然様さようそそのかし申しましたるところで、たして小出こいで半十郎はんじゅうろうらが素直すなおにそれがしが言葉に耳をかたむけ申しますかどうか…」

「そなたが言葉を…、そなたが言葉には何かうらがあると、小出こいで半十郎はんじゅうろうらは然様さよう勘繰かんぐるとでも申すか?」

 治済はるさだ先回さきまわりして正利まさとしにそうたずねるや、正利まさとしは「御意ぎょい…」と答えた。

 正利まさとしはその上で、

「されば小出こいで半十郎はんじゅうろうらはそれがしが…、と申しますよりは上様うえさま漁夫ぎょふねらわれているのではないかと、然様さように…」

 そう付け加えた。それに対して治済はるさだいてみせた。

「何と…、漁夫ぎょふねろうておると?」

 治済はるさだいたまま、正利まさとしにそうかえした。

御意ぎょい…、さればかんの良い小出こいで半十郎はんじゅうろうらのこと…、仮に己らがそれがしが言葉に馬鹿ばか正直しょうじきしたがい、田沼たぬま山城やましろめをたさんと…、たして田沼たぬま山城やましろめをたすべきかいなか、そのことで小出こいで半十郎はんじゅうろうらに相談におとずれし竹本たけもと九八郎くはちろうのその背中せなかを押しましたる結果、竹本たけもと九八郎くはちろうめが田沼たぬま山城やましろめを、あるいは誰ぞ適当てきとうなる者を使嗾しそうして田沼たぬま山城やましろめを見事みごとたせることが出来ましたなればそれで良し、逆に田沼たぬま山城やましろめをらしましたるところで馬鹿を見るのは竹本たけもと九八郎くはちろうあるいは竹本たけもと九八郎くはちろう背中せなかしましたる小出こいで半十郎はんじゅうろう田安たやすやかた面々めんめんということに相成あいなり、そのことに小出こいで半十郎はんじゅうろうらが気づかぬはずがなく、ぎゃくに、一橋ひとつばしきょうさまの方で田沼たぬま山城やましろめをたされてはと、然様さように言いかえされまするおそれ、きにしもあらずと申しますものにて…」

 確かに正利まさとしの言う通りであった。何しろ正利まさとしはかつては田安たやすやかたにて兄・岩本いわもと帯刀たてわき正久まさひさに続いてその始祖しそである宗武むねたけ小姓こしょうとしてつかえていたとは言え、今は一橋ひとつばし治済はるさだとの「えん」の方がはるかに強く、そのこともまた周知しゅうちの事実であり、そうであれば小出こいで半十郎はんじゅうろうらがそれを知らぬはずがなかった。

 そうであれば今になってその岩本いわもと正利まさとしがかつての「勤務先きんむさき」である田安たやすやかたへと不意におとずれてはかつての「同僚どうりょう」であった小出こいで半十郎はんじゅうろうらに対してそのようなことを願ったところで、かんの良い小出こいで半十郎はんじゅうろうらのことである、

まこと田沼たぬま山城やましろめをたしたいとねがっておるは一橋ひとつばし治済はるさだ…、岩本いわもと正利まさとしがわざわざこの田安たやすやかたおとずれしもおそらくは一橋ひとつばし治済はるさだに命じられてのことに相違そういあるまいて…」

 そのことに気づくはずであった。

 正利まさとしがその点を治済はるさだ指摘してきするや、治済はるさだは思わずうめいた。そこまでは考えていなかったからだ。

 しかし正利まさとし指摘してきされて、治済はるさだ納得なっとくすると同時に、それではどうすれば良いかと、頭をなやませたものである。

 するとそこで一橋ひとつばしやかた随一ずいいち知恵者ちえしゃと言っても過言かごんではない久田ひさだ縫殿助ぬいのすけが、「おそれながら…」とってはいったものである。

 すると治済はるさだ縫殿助ぬいのすけが何か絶妙ぜつみょうなる「アイディア」を思いついたにちがいないと、そう確信かくしんするや、

くるしゅうない、腹蔵ふくぞうなく申すが良いぞ…」

 治済はるさだじつうれしげな様子ようすにて、縫殿助ぬいのすけうながしたものである。

 そして治済はるさだのその確信かくしんは正しかった。

「されば田沼たぬま山城やましろめは…、と申しますよりは上様うえさま…、家治公はどうやら御三卿ごさんきょうつぶしを画策かくさくしておるよしにて、そのためにまずは当主とうしゅ不在ふざいの、明屋形あきやかたである田安たやすやかたに目をつけられたよしにて…、なれど如何いか明屋形あきやかたとは申せ、御三卿ごさんきょう筆頭ひっとうである田安たやすやかたつぶすのは今の幕閣ばっかくをもってしても容易よういではなく、そこであらたに老中・田沼たぬま主殿とのもめがそく山城やましろめを幕閣ばっかくに、それも若年寄としてむかれしことで御三卿ごさんきょうつぶしのためのわば万全ばんぜん布陣ふじんくつもりのようだと…、斯様かよう小出こいで半十郎はんじゅうろうらにささやきますれば、竹本たけもと九八郎くはちろう同様どうよう、決して田沼たぬま山城やましろめに好感情こうかんじょういてはおりませぬ…、それどころか悪感情あくかんじょういていると申してもかまいませぬでござりましょう、その小出こいで半十郎はんじゅうろうらのこと、それな田沼たぬま山城やましろめに対する悪感情あくかんじょうとも相俟あいまって、必ずや冷静れいせいなる判断能力を失うと申すものにて…」

 縫殿助ぬいのすけのそのじつ底意地そこいじの悪い「アイディア」に治済はるさだは思わずひざを打ったものであり、正利まさとしにしても心底しんそこ感嘆かんたんした様子ようすにて、「成程なるほど…」と口にした。

 確かに、意知おきとも御三卿ごさんきょうつぶしのためのわば、

尖兵せんぺい…」

 そのために若年寄として幕閣ばっかく入りするとなれば、それもその手始てはじめに、

御三卿ごさんきょう筆頭ひっとうたる田安たやすやかたがターゲットにされているらしい…」

 小出こいで半十郎はんじゅうろうらがそうささやかれれば、田安たやすやかたつかえる身としては大いに危機感ききかんくと同時どうじに、

意知おきともに対する殺意さつい…」

 それを芽生めばえさせるに十分じゅうぶんというものであろう。

 元々もともと悪感情あくかんじょうしかいていなかった意知おきとも相手あいてとなれば尚更なおさら殺意さつい芽生めばえさせるのは容易たやすかろう。

 そこへもってきて竹本たけもと九八郎くはちろうのことを、すなわち、

竹本たけもと九八郎くはちろうが明日の16日に意知おきともを殺す件で田安たやすやかたおとずれるので、その背中せなかを押してやればとりあえず御三卿ごさんきょうつぶし…、それも田安たやすつぶしの動きは止まるに違いない…」

 とでも小出こいで半十郎はんじゅうろうらにささやいてやれば、すで冷静れいせいな判断能力をうしなっているに違いない小出こいで半十郎はんじゅうろうらのことである、正利まさとしの言葉をうたがいもせずに、その言葉、いや、「虚言きょげん」に素直すなおしたがってくれることがおおいに期待きたいできた。

 縫殿助ぬいのすけはそのこともあわせて正利まさとしに「アドバイス」をし、それに対して正利まさとしは何度もうなずきながら正利まさとしのその「アドバイス」に聞き入っていた。
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