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田安館においても用人の小出半十郎の段取りにより田沼意知が若年寄へと進むことについて七役による鳩首会議がもたれる。
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同じ頃、田安館においても、意知が若年寄へと進むことについて、田安館の首脳とも言うべき「八役」との間で話し合いが持たれた。
きっかけは「八役」の筆頭にして、さしずめ「七役」の支配者とも言うべき家老の戸川山城守逵和の何気ない一言であった。
戸川逵和は下城後、田安館へと戻るや、用人の小出半十郎廣則に対して、御側御用取次の横田筑後守準松より聞いた話として、奏者番である田沼意知が若年寄へと進むらしいことを、それも思い出したように打ち明けたのであった。
小出半十郎はここ田安館に仕える用人の中でも一番の若手であり、まだ30代に過ぎなかった。
それに対して戸川逵和はと言うと、御齢64であり、小出半十郎とはそれこそ、
「親子程…」
齢が離れているというものである。
にもかかわらず逵和が用人の中でもこの小出半十郎に対して真っ先に意知の件を打ち明けたのは他でもない、この小出半十郎は逵和の娘の婚家である小出家に仕えていた、謂わば陪臣の流れを汲む者であったからだ。
逵和の娘は使番を勤める小出織部英明の許へと嫁しており、逵和にとっては娘婿に当たるこの小出織部が義理の祖父…、実際には伯父に当たる小出宮内英貴に仕えていたのが他ならぬ小出半十郎廣則が父、半十郎であったのだ。
それが享保16(1731)年に当時、17歳であった小出半十郎は時の将軍であった吉宗に見出されて、極めて異例ではあるものの、小出宮内の陪臣から田安宗武の小納戸へと取り立てられたのであった。宗武とはちょうど同い年でもあった。
今、この田安館にて用人として仕える小出半十郎廣則はそれから…、父・半十郎が田安宗武の小納戸に取り立てられてから20年後の宝暦元(1751)年に生まれ、小出半十郎は明和6(1769)年、18歳の折に元服を済ませるや、父・半十郎と共に田安館にて仕えるようになり、それから2年後の明和8(1771)年、父の隠退に伴い、恩典として用人に取り立てられたのであった。
父・半十郎は田安宗武の小納戸という従六位の布衣役として取り立てられ、そして子の半十郎廣則もまた、田安館の用人というこれまた従六位の布衣役に取り立てられたわけである。
小出半十郎はその出自は旗本ではない、御家人でさえない、一介の旗本の陪臣に過ぎぬ身である。それが父子揃って、旗本にとっては憧れとも言える、まして御家人には高嶺の花とも言うべき従六位の布衣役にそれも父子揃って取り立てられたのだから、これは極めて異例と言えた。
ちなみに今、この田安館にて用人として仕えている小出半十郎が父・半十郎が仕えていた小出宮内英貴であるが、生憎と嫡子に恵まれず、そこで宮内は実の弟である織部英好を養嗣子とし、己の跡を継がせ、この織部英好の嫡子こそが、戸川逵和が娘を嫁がせた小出織部英明の実父であり、小出宮内英貴が織部英明の義理の祖父、実際には伯父に当たるとはつまりはこういう意味であった。
そして小出織部英明が実父、織部英好は小姓組番士であった宝暦13(1763)年4月、当時はまだ、使番として、
「戸川助次郎逵和」
そう名乗っていた逵和と共に、やはりその当時は西之丸の老中であった松平周防守康福に対して岡崎城を引き渡すべく、
「城引渡の役」
それを勤めたことがあり、爾来、逵和は小出織部英好と親しく付き合うようになり、それが娘を織部英明に嫁がせる謂わば、
「伏線…」
となったわけである。
ともあれそのようなわけで、戸川逵和はこの田安館においては、
「親子程…」
齢が離れている用人の小出半十郎廣則と親しくし、のみならず頼みとしており、逵和はその小出半十郎廣則に対して意知のことを真っ先に打ち明けた次第であった。
いや、真っ先にという表現は正しくないかも知れぬ。それと言うのも逵和としてはあくまで、
「何気なく…」
つい思い出した…、その程度の意識しかなかったからだ。
だがそれに対して小出半十郎は仰天したものである。逵和の様子から、
「つい思い出した…」
逵和にはその程度の意識しかなかったのは明らかであり、裏を返せば逵和が思い出さぬ限りは永遠に、と言っては大袈裟に過ぎるであろうが、そのような…、意知が若年寄へと進むらしいとの重要な情報が齎されることはなかったわけだから、小出半十郎が仰天したのも当然であった。
これでは一体、何のために毎日登城しているのか分からぬではないか…、小出半十郎は危うく喉元まで出かかった逵和に対するその文句を何とか飲み込むと、急ぎ「七役」らと、
「鳩首会議…」
それを開くことを思いつき、まずは「七役」の筆頭である番頭の常見文左衛門直與と中田左兵衛正綱の両名に対して、
「家老の戸川逵和より聞いた話…」
として意知の件を伝えたのであった。
それに対して常見文左衛門にしろ中田左兵衛にしろ露骨なまでに不快感を示したものである。
それも無理からぬことではあった。何しろ本来ならばそのような重大事はまずは、番頭に対して耳に入れるべきであるからだ。
それが番頭よりも格下の用人に対して、それも用人の中でも一番の若手、いや、若僧である小出半十郎に対して、
「真っ先に…」
そのような重要な情報が齎されたことが常見文左衛門と中田左兵衛の気に入らぬところであったのだ。
小出半十郎も常見文左衛門と中田左兵衛の様子からそうと察するや、
「斯かる大事は何をおきましても、まずは御番頭様の常見様、中田様のお耳に入れねばならぬところ、それが軽輩の某めが最初に耳に致しましたること、真にもって申し訳なく…」
謝罪してみせ、のみならず、平伏してみせた。
別段、半十郎が謝るべき筋合いのものではなかった。何しろ半十郎に最初に伝えたのは家老の戸川逵和なのだから、仮に謝るべきだとしても、それは半十郎ではなく逵和であろう。
それでもまさかに番頭をも支配する家老の逵和に謝らせるわけにはゆかず…、仮令、お飾りに過ぎぬ家老であるとしてもだ、家老であることには違いなく、ゆえに半十郎が逵和の代わりに番頭である常見文左衛門と中田左兵衛に頭を下げたわけである。
一方、半十郎に頭を下げられた常見文左衛門と中田左兵衛はと言うと、二人とも馬鹿ではないので、そのような半十郎の意図が直ぐに呑み込め、不快感を引っ込めた。
常見文左衛門と中田左兵衛はその上で、半十郎が思いついたのと同じく、「七役」による鳩首会議を開くことにし、半十郎にその段取りを命じたのであった。
こうして半十郎の段取りによりここ田安館においても意知が若年寄へと進むことについて「七役」による鳩首会議がもたれることとなった。
その会議の冒頭、半十郎より家老の戸川逵和より聞いた話として意知が若年寄へと進むことが打ち明けられた。番頭の常見文左衛門と中田左兵衛に促されてのことである。
それに対して番頭を除いた…、無論、半十郎をも除いた「六役」は皆、驚愕した。それはやはり、
「意知が未だ家督を継ぐ前、部屋住の身に過ぎぬ分際で、つまりは大名ですらないにもかかわらず、大名役である若年寄へと進むこと…」
それに尽きるであろう。
きっかけは「八役」の筆頭にして、さしずめ「七役」の支配者とも言うべき家老の戸川山城守逵和の何気ない一言であった。
戸川逵和は下城後、田安館へと戻るや、用人の小出半十郎廣則に対して、御側御用取次の横田筑後守準松より聞いた話として、奏者番である田沼意知が若年寄へと進むらしいことを、それも思い出したように打ち明けたのであった。
小出半十郎はここ田安館に仕える用人の中でも一番の若手であり、まだ30代に過ぎなかった。
それに対して戸川逵和はと言うと、御齢64であり、小出半十郎とはそれこそ、
「親子程…」
齢が離れているというものである。
にもかかわらず逵和が用人の中でもこの小出半十郎に対して真っ先に意知の件を打ち明けたのは他でもない、この小出半十郎は逵和の娘の婚家である小出家に仕えていた、謂わば陪臣の流れを汲む者であったからだ。
逵和の娘は使番を勤める小出織部英明の許へと嫁しており、逵和にとっては娘婿に当たるこの小出織部が義理の祖父…、実際には伯父に当たる小出宮内英貴に仕えていたのが他ならぬ小出半十郎廣則が父、半十郎であったのだ。
それが享保16(1731)年に当時、17歳であった小出半十郎は時の将軍であった吉宗に見出されて、極めて異例ではあるものの、小出宮内の陪臣から田安宗武の小納戸へと取り立てられたのであった。宗武とはちょうど同い年でもあった。
今、この田安館にて用人として仕える小出半十郎廣則はそれから…、父・半十郎が田安宗武の小納戸に取り立てられてから20年後の宝暦元(1751)年に生まれ、小出半十郎は明和6(1769)年、18歳の折に元服を済ませるや、父・半十郎と共に田安館にて仕えるようになり、それから2年後の明和8(1771)年、父の隠退に伴い、恩典として用人に取り立てられたのであった。
父・半十郎は田安宗武の小納戸という従六位の布衣役として取り立てられ、そして子の半十郎廣則もまた、田安館の用人というこれまた従六位の布衣役に取り立てられたわけである。
小出半十郎はその出自は旗本ではない、御家人でさえない、一介の旗本の陪臣に過ぎぬ身である。それが父子揃って、旗本にとっては憧れとも言える、まして御家人には高嶺の花とも言うべき従六位の布衣役にそれも父子揃って取り立てられたのだから、これは極めて異例と言えた。
ちなみに今、この田安館にて用人として仕えている小出半十郎が父・半十郎が仕えていた小出宮内英貴であるが、生憎と嫡子に恵まれず、そこで宮内は実の弟である織部英好を養嗣子とし、己の跡を継がせ、この織部英好の嫡子こそが、戸川逵和が娘を嫁がせた小出織部英明の実父であり、小出宮内英貴が織部英明の義理の祖父、実際には伯父に当たるとはつまりはこういう意味であった。
そして小出織部英明が実父、織部英好は小姓組番士であった宝暦13(1763)年4月、当時はまだ、使番として、
「戸川助次郎逵和」
そう名乗っていた逵和と共に、やはりその当時は西之丸の老中であった松平周防守康福に対して岡崎城を引き渡すべく、
「城引渡の役」
それを勤めたことがあり、爾来、逵和は小出織部英好と親しく付き合うようになり、それが娘を織部英明に嫁がせる謂わば、
「伏線…」
となったわけである。
ともあれそのようなわけで、戸川逵和はこの田安館においては、
「親子程…」
齢が離れている用人の小出半十郎廣則と親しくし、のみならず頼みとしており、逵和はその小出半十郎廣則に対して意知のことを真っ先に打ち明けた次第であった。
いや、真っ先にという表現は正しくないかも知れぬ。それと言うのも逵和としてはあくまで、
「何気なく…」
つい思い出した…、その程度の意識しかなかったからだ。
だがそれに対して小出半十郎は仰天したものである。逵和の様子から、
「つい思い出した…」
逵和にはその程度の意識しかなかったのは明らかであり、裏を返せば逵和が思い出さぬ限りは永遠に、と言っては大袈裟に過ぎるであろうが、そのような…、意知が若年寄へと進むらしいとの重要な情報が齎されることはなかったわけだから、小出半十郎が仰天したのも当然であった。
これでは一体、何のために毎日登城しているのか分からぬではないか…、小出半十郎は危うく喉元まで出かかった逵和に対するその文句を何とか飲み込むと、急ぎ「七役」らと、
「鳩首会議…」
それを開くことを思いつき、まずは「七役」の筆頭である番頭の常見文左衛門直與と中田左兵衛正綱の両名に対して、
「家老の戸川逵和より聞いた話…」
として意知の件を伝えたのであった。
それに対して常見文左衛門にしろ中田左兵衛にしろ露骨なまでに不快感を示したものである。
それも無理からぬことではあった。何しろ本来ならばそのような重大事はまずは、番頭に対して耳に入れるべきであるからだ。
それが番頭よりも格下の用人に対して、それも用人の中でも一番の若手、いや、若僧である小出半十郎に対して、
「真っ先に…」
そのような重要な情報が齎されたことが常見文左衛門と中田左兵衛の気に入らぬところであったのだ。
小出半十郎も常見文左衛門と中田左兵衛の様子からそうと察するや、
「斯かる大事は何をおきましても、まずは御番頭様の常見様、中田様のお耳に入れねばならぬところ、それが軽輩の某めが最初に耳に致しましたること、真にもって申し訳なく…」
謝罪してみせ、のみならず、平伏してみせた。
別段、半十郎が謝るべき筋合いのものではなかった。何しろ半十郎に最初に伝えたのは家老の戸川逵和なのだから、仮に謝るべきだとしても、それは半十郎ではなく逵和であろう。
それでもまさかに番頭をも支配する家老の逵和に謝らせるわけにはゆかず…、仮令、お飾りに過ぎぬ家老であるとしてもだ、家老であることには違いなく、ゆえに半十郎が逵和の代わりに番頭である常見文左衛門と中田左兵衛に頭を下げたわけである。
一方、半十郎に頭を下げられた常見文左衛門と中田左兵衛はと言うと、二人とも馬鹿ではないので、そのような半十郎の意図が直ぐに呑み込め、不快感を引っ込めた。
常見文左衛門と中田左兵衛はその上で、半十郎が思いついたのと同じく、「七役」による鳩首会議を開くことにし、半十郎にその段取りを命じたのであった。
こうして半十郎の段取りによりここ田安館においても意知が若年寄へと進むことについて「七役」による鳩首会議がもたれることとなった。
その会議の冒頭、半十郎より家老の戸川逵和より聞いた話として意知が若年寄へと進むことが打ち明けられた。番頭の常見文左衛門と中田左兵衛に促されてのことである。
それに対して番頭を除いた…、無論、半十郎をも除いた「六役」は皆、驚愕した。それはやはり、
「意知が未だ家督を継ぐ前、部屋住の身に過ぎぬ分際で、つまりは大名ですらないにもかかわらず、大名役である若年寄へと進むこと…」
それに尽きるであろう。
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