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一橋治済もまた、意知の件で一橋館に仕える六役と相談することにする ~六役の中でも用人の花房清左衛門幸佐を密談から除外した理由~

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 それは花房はなぶさ清左衛門せいざえもん幸佐よしすけにもまることであり、花房はなぶさ清左衛門せいざえもんもまた、家基いえもと死後しごに、それも細田ほそだ清左衛門せいざえもん物頭ものがしらより用人ようにんへと異動いどうたした12月に、本丸ほんまる小姓こしょうぐみ番士ばんしより用人ようにんへと異動いどうたし、それゆえこの花房はなぶさ清左衛門せいざえもんもまた、治済はるさだの「秘密ひみつ」を知るよしもなく、細田ほそだ助右衛門すけえもん同様どうよう除外じょがいされたというわけだ。

 もっとも、花房はなぶさ清左衛門せいざえもん名誉めいよのために一言ひとこと付言ふげんしておくならば、清左衛門せいざえもんはあくまで実力にて小姓こしょうぐみ番士ばんしより従六位じゅろくい布衣ほい役である御三卿ごさんきょう用人ようにんへと…、一橋ひとつばしやかた用人ようにんへと異動いどう昇格しょうかくたしたのであり、そこがまったく能力もなく、あるのはただ

治済はるさだとの細いえにし…」

 そう断言だんげん出来る細田ほそだ助右衛門すけえもんとの違いであった。

 いや、それでは花房はなぶさ清左衛門せいざえもんまったくもって、所謂いわゆる

閨閥けいばつ…」

 それにたよることなく、小姓こしょうぐみ番士ばんしより従六位じゅろくい布衣ほい役であるこの御三卿ごさんきょう…、一橋ひとつばしやかたつかえる用人ようにんとして異動いどう昇格しょうかくたせたのかと言うと、それは何とも疑問であった。

 無論むろん花房はなぶさ清左衛門せいざえもん客観的きゃっかんてきに見て、細田ほそだ助右衛門すけえもんよりも有能ゆうのうではあるものの、しかしまったくもって閨閥けいばつとは無縁むえんかと言うと、決してそうではなかった。

 この花房はなぶさ清左衛門せいざえもんもまた、細田ほそだ助右衛門すけえもんにはおよばないものの、

閨閥けいばつ…」

 それを持ち合わせていたのだ。

 すなわち、花房はなぶさ清左衛門せいざえもんは実は定火消じょうびけしつとめた高木たかぎ善左衛門ぜんざえもん守明もりあきらの次男であり、それが西之丸にしのまる書院しょいん番士ばんしであった花房はなぶさ帯刀たてわき幸湛よしより養嗣子ようししとしてむかえられたのであった。花房はなぶさ帯刀たてわき生憎あいにく嫡子ちゃくしめぐまれず、御家おいえ存続そんぞくのためには畢竟ひっきょう他家たけより養嗣子ようししむかえる以外いがいに道はなく、そこで白羽しらはが立ったのがこの、高木たかぎ善左衛門ぜんざえもんの次男であった清左衛門せいざえもん幸佐よしすけというわけだ。

 この花房はなぶさ清左衛門せいざえもん実父じっぷ高木たかぎ善左衛門ぜんざえもんが孫、すなわち、花房はなぶさ清左衛門せいざえもんおいに当たる高木たかぎ善左衛門ぜんざえもん守富もりとみは何と、本丸ほんまる小納戸こなんどとして将軍・家治に近侍きんじしており、のみならず、その善左衛門ぜんざえもん守富もりとみ妻女さいじょは何と、一橋ひとつばし家老かろうはやし忠篤ただあつが娘なのである。

 それゆえ、花房はなぶさ清左衛門せいざえもんがこの一橋ひとつばしやかたへと、それも従六位じゅろくい布衣ほい役である用人ようにんとして異動いどうたした背景はいけいには、清左衛門せいざえもん当人とうにんの実力もさることながら、それ以上にかる閨閥けいばつのおかげではないかと、とりわけ、

一橋ひとつばし家老かろうであるはやし忠篤ただあつとのえにし…」

 そのおかげではないかと、治済はるさだひそかにそうにらんでいたものだ。

 いや、おかげなどと、そのような生易なまやさしいものではなく、

家老かろうはやし忠篤ただあつと共に治済はるさだ監視かんしさせる…」

 将軍・家治のその意思いしがはっきりと感じ取れる人事であった。

 それと言うのも、花房はなぶさ清左衛門せいざえもん小姓こしょうぐみ番士ばんしより一橋ひとつばしやかた用人ようにんへと異動いどうたした天明元(1781)年12月というのはちょうど、忠篤ただあつ浦賀うらが奉行より一橋ひとつばし家老かろうへと異動いどうたしてから半年後に当たるのだ。

 のみならず、この人事は実は将軍・家治の強い意向いこうによるものだと、治済はるさだは己のいきのかかった、当時とうじはまだ奥右筆おくゆうひつ組頭くみがしらであった橋本はしもと喜八郎きはちろうよりそう聞かされたものである。

 御三卿ごさんきょうやかたにてつかえる所謂いわゆる八役はちやくの中でもその筆頭ひっとうとも言うべき家老かろうがあとの七役しちやく支配しはいしており、その七役しちやく支配しはいする家老かろうはと言うと、名目上は老中支配にあり、しかし、実質的には御側御用取次おそばごようとりつぎの支配下にあった。

 そうであれば、家老かろう勿論もちろんのこと、七役しちやくについてもその人事権は御側御用取次おそばごようとりつぎ実質的じっしつてきにぎっていたわけだが、こと、花房はなぶさ清左衛門せいざえもんの人事に関しては…、小姓こしょうぐみ番士ばんしとして将軍・家治につかえる花房はなぶさ清左衛門せいざえもん一橋ひとつばしやかた用人ようにんへと異動いどうさせたその人事に関しては、将軍・家治の強い意向いこうが働いたためと、治済はるさだ当時とうじ奥右筆おくゆうひつ組頭くみがしらであった橋本はしもと喜八郎きはちろうよりそう聞かされたのであった。

 いや、御側御用取次おそばごようとりつぎとしては別に腹案ふくあんもあったようだが、それを将軍・家治がしりぞけてまで、己の意思いしつらぬいたようであり、これは家治にしてはめずらしいことであり、家治は己の意思いしつらぬくに当たり、

治済はるさだ我儘わがままを聞いてやったのだ。されば今度は我儘わがままを聞いても良かろう?」

 細田ほそだ助右衛門すけえもん一件いっけんまで持ち出したのだ。言うまでもなく、大番士おおばんしとしてくすぶっていた細田ほそだ助右衛門すけえもんあわれに思った治済はるさだ一橋ひとつばしやかたの、それも従六位じゅろくい布衣ほい役である用人ようにんへと引き上げてやった一件いっけんであり、それをまさかに家治が切札きりふだに使うとは、さしもの治済はるさだ予期よきしておらず、こんなことになるのなら、助右衛門すけえもんなぞにあわれみをもよおすべきではなかったと、治済はるさだにしてはやはりこれまためずらしく地団駄じだんだんだものである。

 ともあれかる事情があったために治済はるさだとしては本丸ほんまる小姓こしょうぐみ番士ばんしであった花房はなぶさ清左衛門せいざえもん一橋ひとつばしやかた用人ようにんとして異動いどうたしたその背景はいけいには、

家老かろうはやし忠篤ただあつと共に治済はるさだ監視かんしさせる…」

 将軍・家治のそんな強い意思いしめられているのではないかと、治済はるさだ勘繰かんぐったわけである。

 いや、忠篤ただあつはそもそも治済はるさだが望んだ人材じんざいであった。

 すなわち、忠篤ただあつ前任ぜんにん家老かろうであった田沼たぬま意致おきむねが江戸城西之丸にしのまるにて次期将軍たる家斉いえなりつかえる御側衆おそばしゅうとして異動いどうたしたために、その後任こうにんとしてされたわけだが、意致おきむね後任こうにん一橋ひとつばし家老かろう候補者こうほしゃは他にもおり、そんな中、治済はるさだ奥右筆おくゆうひつ組頭くみがしら橋本はしもと喜八郎きはちろうや、さらには御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら工作こうさくして、浦賀うらが奉行であった忠篤ただあつ家老かろうへとわば引き抜くことに成功したわけで、

はやし忠篤ただあつ治済はるさだのぞんだ人材じんざいである…」

 そのことは将軍・家治も稲葉いなば正明まさあき相役あいやく…、同僚どうりょうと言うよりはライバルに当たる御側御用取次おそばごようとりつぎ横田よこた準松のりとしより聞かされて把握はあくしているに違いなく、そうであればこそ、家治はそれから半年後にわざわざ、その忠篤ただあつ遠縁とおえんに当たる花房はなぶさ清左衛門せいざえもん用人ようにんとして一橋ひとつばしやかたへと、つまりは己のもとへとけたのではあるまいかと、治済はるさだは疑っていたのだ。

 家治のその「心」はズバリ、

忠篤ただあつでは…、そなたがのぞんだ忠篤ただあつではおそらく、家老かろうとして御三卿ごさんきょうたるそなたを監視かんしするという役目やくめをロクにたしていないであろうゆえ、そこで忠篤ただあつ遠縁とおえんに当たる花房はなぶさ清左衛門せいざえもんけ、忠篤ただあつわりてそなたを監視かんしさせることにする…」

 それに違いなく、もっと言うならば、

監視かんし役たる忠篤ただあつむことで、少しくでも監視かんしの目をのがれんとほっするそなたのあさはかなるたくらみなぞ、見通みとおしておるぞ…」

 その意思いしが感じ取れた。

 だとするならば花房はなぶさ清左衛門せいざえもんにしても将軍・家治よりこの人事の意味するところを、つまりは、

おそらく家老かろうとしてろくにその役目やくめたしておらぬに相違そういないはやし肥後ひごわり、用人ようにんとして治済はるさだ監視かんしせよ…」

 そのことをよくよくふくめられているおそれがあり、治済はるさだとしては花房はなぶさ清左衛門せいざえもん細田ほそだ助右衛門すけえもん同様どうよう、心を許してはいなかったのだ。いや、心を許していないどころか、警戒けいかいしていた。

 ともあれこのような事情があって、治済はるさだ用人ようにんの中でも細田ほそだ助右衛門すけえもん花房はなぶさ清左衛門せいざえもんの二人は「密談みつだん」から除外じょがいしたのであった。
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