奇文修復師の弟子

赤星 治

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五章 混迷する弟子達

9 何もない世界で

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 ハーネックの目的が打ち明けられた後、ダイクはこれから行おうとする作戦の説明を始めた。
 作戦内容は単純明快。シャイナを救出後に帰還するである。

 モルドは救出を成功させても、ハーネックが自分達をすんなりと返すとは思えないと意見を述べた。するとダイクは、深紅の墨壺を取り出した。
 墨壺に入っている奇文をぶちまけて場を混乱させ、その合間に帰還するのだとという。

 奇文には、作品であれ墨壺に入った状態であれ、状況に応じて質が変異する機能を備えている。修復師達が奇文の見え方が違うのはその変異性質も関係している。
 ダイク曰く、ハーネックの奇文の質と、深紅の墨壺に入っている質は全くの別物であり、ぶちまけた所で総量の多いハーネックの奇文に飲みこまれるのは容易に想像できる。しかしぶちまけた時、質違いの奇文同士の反発が、帰還を邪魔するハーネックの攻勢を妨害出来る。
 よって、帰還に十分な時間を稼げるという理由だった。

「改めて作戦の確認をする」
 ダイクは環具を持ち、エメリアを間にモルドと向かい合うように立った。
「俺かお前、シャイナさんを見つけ次第すぐに救助。俺はこの墨壺をぶちまけ場を混乱させ、どさくさ紛れに帰還する。以上だ」
 モルドは緊張した真剣な眼差しで頷いた。
 何度もハーネックと対峙しているモルドだが、いざ自分から挑むのは初めてで、緊張具合も今までより高い。さらに別の理由が緊張を増徴させた。

 作戦内容がシャイナの救出である事。
 いつも一緒にいるデビッドがいない事。
 管理官長のダイクも手練れの修復師だが、何かが引っかかって安心できない。その理由は説明できない。漠然とした直感だが、これが一番緊張を上げる不安であった。
 ダイクを信用していないのではない。もっと別の、何かを見落としたような不安である。

『君が師匠もその娘も救いたいのなら、私もついでに良い方向へ導いてくれたまえ』

 まるで呪いのようにハーネックの言葉が思い出される。一体何をしてほしいのかがまるで理解出来ない。
「いくぞ」
 モルドは頷いた。
 ダイクは環具でエメリアの肩を叩き、青紫色の波が広がった。

 ◇◇◇◇◇

 エメリアの世界は、あまりに何も無い平地であった。

 天は曇り空のように薄らと灰色染みた白色が一面を染め上げ、地面は草原。
 木も湖も川も家も石も岩も何もない。
 ただ、不自然に存在するのは、二人が向く先に、白い台座に誰か寝かされているものが映った。

「……あれって、もしかして……」
 モルドが呆気に取られていると、背中を軽く叩かれた。
「ぼさっとするな。あれがシャイナさんか確かめに行くぞ」
 先導するダイクについてモルドも駆けた。
 大まかな目測では距離にして一キロほどだと思われる。
 嬉しい事に、半分を過ぎても周囲にはなんの変化も起きなかった。
「何も起きないですね」モルドが訊いた。
「いい事だ。これなら奴が仕掛けてきてもすぐに対応できる。ただ作戦の遂行だけを考えろ」

 二人は只管ひたすら走り、ようやく白い台座へ辿り着いた。

「はぁ、はぁ、はぁ……」(何も無さすぎる)思いつつモルドは周囲を見回した。
 ダイクも周囲に変化が無さすぎる事に違和感を抱いていたが、警戒しつつ作戦遂行に順じた。
「……――何!?」
 台座に寝ている人物を見ると、ダイクは驚いた。
 モルドもその姿を見て疑問を抱き、周囲の変化の無さと照らし合わせて訝しんだ。

 台座には、白い服姿のエメリアが寝ていたのだ。

「何故だ……。確かにここは彼女の世界だが、彼女は聖女の儀の生け贄。なら、ここにシャイナさんがいていい筈だ」
「そうかもしれませんが、何よりこの何も無さ。怖くないですか?」

 モルドはまだ周囲を警戒している。
 何故か、そうしなければ気が落ち着かない。
 ダイクも周囲を見渡し、モルド同様に抱いている違和感の実態を探った。

 聖女の儀。
 ハーネック。
 攫われたシャイナ。
 エメリアとシャイナの関係性。

 あらゆる点で考察を広げたが、最もこの違和感に当てはまる出来事にようやく気づいた。

 街が奇文に塗れている中、エメリアの中へ入ると、もっと窮地に立たされてもおかしくない。それ程に悪質な、ハーネックの奇文が街に蔓延っているのだから。
「戻るぞ。様子がおかし――!?」

 モルドの見つめている一点をダイクも見ると、その変化に驚いた。

 ◇◇◇◇◇

 ギドと共に自宅へ戻ったデビッドは、修復師として適性を判断するための時計塔の絵の前に立った。
 時計塔の絵画の役目は、国がデビッド一家にハーネックが干渉しないための守護絵画の役目を担っている。
 守護の力が強く、その力を利用して適性検査でも役に立つ。
 しかし絵画の守護があっても、現状ではハーネックが蔓延させた奇文の効果が強すぎたためか、守護の効力はかなり消えている。

「意外だな、お前はこの絵画を大事に屋内の装飾として飾っているとは思わなかったぞ。倉庫か物置の奥にしまっていると」
「作品としてみれば見ていて悪くない絵だからな。悪魔や地獄を表現したものなら即座に物置行きだ。それにな、知ってたか? この絵は修復師の適性検査用としても使える」
 ギドは、ほう。とため息を吐くように感心した。

 そんな雑談の最中、修復部屋から何かが落ちる音がした。
 デビッドが音のする方へ向かうと、一冊の小説が開いた状態で落ちていた。

「どうした?」ギドが絵の前から訊いて来た。
「いや、本が落ちただけだ。弟子かシャイナが変な置き方をしてたんだろう」

 開いた頁は、それ程大したことはないが奇文に塗れていた。不意にデビッドは、ある章のタイトルが目に留まった。

『三章 誰もいなくなった静かな部屋で』

 今、モルドもシャイナもいない。
 いつも賑やかであったこの部屋も、今では誰もおらず静かで、状況は切迫しているのにレースのカーテン越しに陽光が柔らかく注がれている。

 ”元の賑やかな状態に戻したい”
 デビッドはその一心であった。

 落とした本を作業用の机の上へ置き、時計塔の絵画の前へと向かった。

「いいか。相手はハーネックだ。用件を済ませたらすぐに戻る。相手してどうこうしようとかは思うなよ」
「安心しろ。そこまで若くない。娘を取り戻せばすぐ戻る」
 デビッドは絵画に環具を当て、ギドは右手で触れた。
 全身に奇文のような刺青をしているギドは、環具を必要としない。
 絵画に触れたギドは、何かに気づいて首をかしげた。
「どうした?」
「あ、ああいや。何でもない、気のせいだ」
 触る場所を少しずらして構えた。
「これでいい。行くぞ」
「ああ」

 デビッドが環具で絵画を叩くと、白い光の波紋が広がり、同時にギドの右手からも同じ波紋が広がった。
 光に包まれ、二人はシャイナのいるところへ向かった。
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