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1巻
1-2
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「廃妃となったばかりの私の傍にいても、悪い噂しか付きませんよ……将来有望な貴方の道が絶えることがあってはいけません」
「俺は……近衛騎士団を気に掛けてくれていた貴方をずっと……」
言葉の途中で、彼に掴まれていた手から抜けだす。
「貴方は……この国の未来に必要な方です。私ではなく、皆のために生きてください」
私はその言葉を最後に、再び歩き出した。
エドワードからの視線を背に感じるが、彼も分かってくれたのか、黙って見送ってくれた。
馬車に辿り着くと、すでに他の荷物は積み込まれおり、後は私の到着待ちだったようだ。
王宮に後ろ髪を引かれながらも、別れは惜しまずに馬車へと乗ろうとした時。
「ようやく、出ていくみたいだな」
聞き覚えのある声と共に、私へと歩む影が見える。
そこには、もう二度と会いたくない、忘れたいと思っていた彼が近づいてきていた。
黄金のように煌めく金髪、若葉のような碧色の瞳を向けるランドルフ。
凛々しい顔立ちは記憶と変わらないが、久しぶりに見た彼の表情に笑みはない。
「ランドルフ……」
「様をつけろ。もう側妃でもないのだぞ、馴れ馴れしい」
ずきりと、胸が痛んだ。
かつて私に愛の言葉をかけてくれていた優しい彼は、もういない事がよく分かった。
「ランドルフ、様……」
「それでいい、やっとこの王宮でお前の顔を見なくて済む。清々するよ」
「な、なぜ……?」
心の声が漏れ出すように、疑問を口にしてしまう。
「ランドルフ……かつての貴方は、私を愛してくれていたはずです」
「様をつけろ。クリスティーナ」
「答えてよ、ランドルフ」
胸が張り裂けそうになって、泣くまいと思っていたのに涙がこぼれ落ちる。
「答えは簡単だろ? お前は妃として役立たずだった。それだけだ。マーガレットは哀れな身の上でありながら献身的に俺のそばに居てくれるのだぞ。お前と違ってな」
悲しみからこぼしていた涙が、ランドルフの言葉によって一瞬にして止まった。
皆から、彼が私をそう評価しているとは聞いていた。だけど実際に聞くのは初めてだ。
顔を上げれば、彼は冗談ではなく本気でそう思っているのだと分かる。
「お前のことは聞き及んでいる。民から嫌われ……仕事もせずに迷惑ばかりかけていたようだな」
「……なにを言っているの。ランドルフ」
ランドルフの言葉に、怒りが収まらない。
私が彼を支えてきた日々は、皆が感謝を伝えてくれたおかげで胸を張って誇れるものだと言える。
だけど彼は、その全て否定するのだ。
それは、感謝と共に忠義を誓ってくれた皆の言葉さえも否定しているのと同じだ。
「貴方は……私が本当に役立たずだと思っているの?」
「あぁ。俺を愛することもなく堕落に過ごし、妃として不十分なお前は要らな――」
言葉を遮るように、私の放った平手が軽快な音を響かせた。
虚を衝かれて驚く彼に、私は思うがままの言葉を吐いた。
「私が貴方を支えてきた日々が、本当に無駄だったと言っているの?」
「……は?」
「人生を捧げ、全ての時間を国のために尽くしてきました。それは全て貴方を支えるためだったというのに……見てくれてもいなかったのですね」
彼や王国に捧げて尽くしてきた半生、それを全て貶されたことが堪らなく悔しい。
どれだけの時間を、勉学に費やしてきただろうか。
どれだけの日々を、彼がすべき政務に費やしてきただろうか。
そのことに後悔はない。
国や民、王宮に居る者達に胸を張れる存在になれたのだから。
だけど……支えてきた彼自身にそれらを否定されることだけは許せなかった。
「見てこなかっただと? 違うな……俺は全てを知った上で、お前が無駄だと評価したまでだ」
「何を言っているのですか。貴方は私の何を知った気でいるの」
「役立たずと言われて図星だったか? 手を出すほどに悔しいのだろう?」
あぁ……もういい。
ランドルフは私を見ておらず、知ろうともしていないのだと分かった。
沸騰しそうな怒りが沸き立つが……握りしめた拳を解く。
今の彼に何を言っても無駄だ。しかし私はこの怒りを鎮めるために、ある覚悟を決めた。
「貴方が私に下した、役立たずという評価が間違いだと……証明してみせます」
「は? できるはずがない。お前が役立たずなのは事実だ」
「……これから貴方がいくら後悔しようとも、もう支えることはありません」
「後悔? するはずがないだろ。もうお前に用はない、さっさと行け……」
言われた通りに馬車に乗り込めば、御者でさえランドルフに怒りの眼差しを向けていた。
行き先を伝え、馬を走らせてもらう。
もうランドルフに振り返ることなんてない、後ろ髪を引かれる気持ちは消えた。
私の全てが否定された今……彼に抱いていた情愛も、献身的な想いも存在しない。
この荒れ狂いそうな怒りを抱え、たった一つの決意を固める。
ランドルフが私に下した『役立たずの妃』という評価。
私の人生は、そんな評価を受けるものではない。
感謝をしてくれた皆と、私自身のためにも、ランドルフの評価が間違いだと証明してみせる。
私という支えを失った末路を必ず見せてあげるわ……ランドルフ。
決意を固めた瞬間、もう私の胸に悲しみはなく、怒りのみが残っていた。
第二章 別離
ガラガラと車輪が回る馬車に揺られ、車窓から外を眺める。
見覚えのある景色に、フィンブル伯爵邸に帰ってきたと分かった。
庭師によって綺麗に手入れされた薔薇の花が広がる庭園と、玄関に灯る明かりが懐かしい。
両親と会うのは年に数度のみだが、記憶に残る二人はいつも優しかった。
すでに私が廃妃になった事は伝えられているが、きっと話を聞いてくれるはず。
そんな期待と共に屋敷の扉を開いた。玄関には、待っていたかのように女性が立っていた。
レイチェル・フィンブル……私のお母様だ。
「お、お母様……」
「おかえりなさい、クリスティーナ」
ふわりと微笑む母を見て安堵する。何を言われるか分からなかったが、その笑顔は記憶の通りに優しいままだ。久々の再会に母へハグをしようと歩き出した時。
「クリスティーナ、まずはお父様に会ってきなさい」
「……え?」
「荷物は使用人達が運びます。二階の書斎にお父様はいらっしゃいますから……早く行きなさい」
有無を言わさないお母様の雰囲気に大人しく頷き、私は二階へ上がる階段に足を載せた。
木造の階段は少し古くて、軋む音が鳴り響き、その音になぜか緊張が高まる。
光が小さく漏れる書斎の扉の前に立ち、久々に会うお父様に不安を抱えつつノックする。
「入りなさい」
「……失礼します」
聞こえた声がひどく冷たく平坦に聞こえたことを、気のせいだと祈りながら書斎へと入る。
無数の本棚が並ぶ部屋の中心に置かれた机で、父が黙々と執務をこなしていた。
書類の上に筆を走らせたまま、私には視線を向けてくれない。
沈黙に立ち尽くしていれば、やがて「はぁ……」と、父がため息を吐いて私を見上げた。
その瞳は……記憶にないほど冷たかった。
「どの面を下げて帰ってきた。クリスティーナ」
「お、お父様?」
「側妃となった際にもお前の不甲斐なさに怒りが浮かんだが……さらに廃妃となったと聞いて呆れたぞ。王家に頭を下げてでも側妃の地位を死守すればよかっただろうに、情けない」
「っ‼」
慰めや憐れみを望んでいた訳じゃない、でもこんな時ぐらいは「おかえり」と言ってほしかった。
しかし、父はそんな言葉を一切かけず、淡々と私を責める。
なによりも悲しいのは、父はもうすでに私から視線を外して執務に戻っていることだった。
側妃であったころの話を何も聞かず、最初から私が悪いと決めつけて父は責め続けるのだ。
「まったく……お前が陛下に見初められるための努力が、全て水の泡だ。我が家の評判がどうなると思っている。王家と関係が親密になるはずだったのに……これでは真逆だ」
見初められる努力……と聞いて思い出すのは、両親が幼い頃から私に言いつけてきた言葉だ。
『男性の言う事はなんでも聞きなさい、それが貴方の幸せになる』
幼き頃から両親のそれらの言いつけは、飽きるほど聞かされていた。
女性ならこうしなさい。男性を立てなさい。役に立つ存在になりなさい。
思い出せばキリがない約束を、幼い頃から私は愚直に守っていた。
だが、今しがた父が発した言葉によって、それが間違っていたと知る。
私の幸せのためと言い聞かせていた言葉は、お父様が成功するためのものだったのだ。
私という個人ではなく、『フィンブル伯爵家』という家だけが守れればよかったのだ。
気付いた瞬間、腸が煮えくり返りそうになった。
しかしお父様は私の怒りに気が付かないまま、書類に向かい続けて、静かに言い放つ。
「次の相手はこちらで決める」
その言葉には、思わず顔を上げて言い返した。
「お父様。私は次の相手なんて考えていません」
「分かっているのか? お前はこのままではフィンブル伯爵家の役立たずだぞ。それに女性として生きていくには夫が必要だろう。これはお前の幸せのためだ」
「役立たず? 私の生まれた意味は、お父様が王家に取り入るための駒になることなの?」
「先程から……口答えするような娘に育てた覚えはないぞ!」
部屋に響いた父の怒声に、肩が震える。
父は立ち上がり、私を見下ろした。
「クリスティーナ。これは親心だ……下手にワガママを言って困らせるな」
「ワガママ……? 散々、貴方達の言いつけを守ってきました。なのに自分の意見を出せば、ワガママと否定して押さえつけるの?」
――バンッ‼
私の後ろの壁を、父の拳が強く叩く。
屋敷中に響いたであろう大きな音の後、お互いに睨み合って沈黙が流れた。
一歩も引かずに見つめ返していると、父は苛立ちを表すように髪をかきむしる。
「言いたくなかったが……クリスティーナ、ランドルフ陛下に廃妃されたという事は……お前は妃として不十分という烙印が押されたと同じことなのだぞ」
「なっ……にを」
「周囲にもすぐ廃妃となった事が広まり、お前は無駄な妃だったと判断されてしまう。そうなればお前を娶ろうと思う相手など居なくなってしまう、だから今は私の言うことを聞いておけ」
――なにを……私は何を言われているの? 廃妃にされただけで、私の今までの人生の価値は崩れてしまうの? 不当に私を「役立たず」と評価を下したランドルフこそが間違っているのに。
「……私の半生が全て無駄だったと、お父様は本気で思うのですか?」
自然とこぼれる涙は、怒りや悲しみではなく呆れからくるものだ。
両親からの言いつけを守り、ランドルフのために全て捧げてきた。
それなのに、そんな私の今までを侮辱してきたのは、他でもない父だったのだ。
「クリスティーナ、お前のためだ。名誉を挽回するために名家に嫁げ……分かるだろう?」
「……分かりません、分かりたくもありません。お父様」
「っ!」
お父様がランドルフと同じく、私を見ずに評価するならもういい。
改めて私は……その評価を覆してみせると決意できたから。
その意味を込めた返答に、父が眉をひそめる。
「生意気な言葉を吐くな。フィンブル家を追い出してもいいのだぞ?」
脅すような声色だが、今の私にはそれは脅しにすらならない。
「どうぞ、ご勝手に……私は、自分のやるべきことを決めましたから」
「なっ……なにを言って」
「たとえ一人となっても、貴方達が間違っていると証明する覚悟ができたのです」
淡々と返すと、父はため息と共に首を横に振り、書斎の扉を指さす。
「……もういい、今日は寝なさい。一晩過ごせば私の言うことが理解できるはずだ」
「理解する気はありません」
もはや何を言っても無駄だ。
父とは言葉を交わさずに書斎を出る。自室へと辿り着けば、お母様が心配そうに佇んでいた。
「ク、クリスティーナ? お父様とはしっかり話せた?」
「お母様……今は一人にしてください」
寝台に腰を下ろし、涙を拭う。そんな私の隣に母が座って、ぎゅっと抱きしめてくる。
「大丈夫、お母様がいますよ……クリスティーナ」
母は私の頭を撫でながらニコリと微笑む。その温もりと声の優しさに思わず涙腺が緩む。
お母様……と呼ぼうとしたけれど、続く母の言葉で息を呑んだ。
「いい? こんな結果になったけれど、反省してこれからは女性らしくしていればいいのよ?」
「っ‼」
「お父様の言いつけは守りなさい。貴方はもっと女性としてランドルフ陛下の役に立つべきだったのよ? もう少しきつく言いつけておけば良かったわね。しっかり反省はしなさいね?」
言葉が出ない。母は父と同じく、私が悪かったと決めつけて話している。
「――でも大丈夫、お母様が貴方を今度こそ男性に好まれる淑女にしてあげるから」
お母様の瞳は……お父様と同じだ。その瞳の奥底は、私を自分達の言いつけに従う人形に仕立て上げることしか考えていない。自分達の教えが絶対に正しいと信じて、疑いもしないのだ。
だから今の私が不幸なのは、教えを守らない不出来な人形だからだと決めつけているのだろう。
滑稽だ、本当に私は……惨めだ。
彼らの言いつけを守り、ランドルフへ尽くした結果が今の惨状だ。
なのに、まだ私に都合の良い人形を強制するのなら……我慢するのは終わりにしよう。
言いつけを守るいい子も、男性に媚びる私も全て終わり。
どちらが間違っているのか、必ず分からせてみせる。
「ありがとう、お母様。また明日、教えてくださいね」
今は母に出ていってほしくて、仮初の笑みを浮かべる。
望み通り、母は素直に応じた私にパッと表情を明るくして去っていった。
あぁ、きっと両親は、これから家を出る準備をする私に気付く事もないのだろう。
だって彼らが見たいのは、言いつけに従う人形だけなのだから。
◇◇◇
屋敷に帰ってきて二週間が経った。
その間、しきりに母が『男性を立てる女性になるための方法』を熱弁するのを笑顔で受け流す。
母には従順に聞いているように見えるだろうが、私の心の内ではそんなことはない。
幼き頃は素直に従っていたが、改めて考えてみれば、この教育は異常だ。
男性を中心にした教えであり、素晴らしい女性人形を作る教育に等しい。
しかもこれは両親だけでなく、この国が長く続けてきた教育なのだから呆れてしまう。
そんな教育の裏で、私は屋敷を出る準備を進めていた。ここに残っても行動はできないからだ。
苦痛に感じた二週間だったが、準備を終えた良いタイミングでお父様が私を呼び出した。
覚悟も計画もすでに決まり、準備すら終えた今、もう彼らに従う必要はないだろう。
そんな訳で、久々に話す父に別れを告げようと気楽な気持ちで書斎に向かった。
「失礼します……お父様」
「遅いぞ!」
「話はなんですか?」
叱責を無視すれば、分かりやすく不機嫌になっている。しかしそれさえも無視して微笑んでみせると、父は一瞬怯んだように言葉を詰まらせた後、重々しく口を開いた。
「縁談の件だが、引き受けてくれる者はいなかったぞ」
「そうですか、それは良かった」
心からそう思った。
父の言う通り、男性達は私を無価値だと見ているのかもしれない。
だけど、そんな男性の隣に立つ気など私にもないのでちょうどいい。
にっこりと微笑みを深めると、父の眉間の皺が深まった。
「軽く答えるな。事の重大さを分かっているのか⁉」
こうして声を荒らげる姿をなぜ昔はあんなに恐れていたのだろうか。
今となっては、言うことを聞かせるためのこけおどしにしか見えないというのに。
「お話はそれだけですか? ……ならお父様、私からもお話があります。私には夫など必要ありませんので、これからは好きに生きてまいります」
そう言った瞬間、目の前の父が怒声と共に立ち上がった。
「は⁉ ふざけるな‼ 好きに生きていくだと? 今までと同じように、ワガママを言っても大切にされるとでも思ったのか⁉ そんな事をすれば私達は一切の面倒を見ないぞ! いいのか⁉」
まったく、想定通りの言葉で助かる。
私は今の生活を手放しても構わないし、なんなら荷物は既にまとめ終わっている。
「はい。それで十分です。では、出ていきますね」
「は? ……は⁉」
動揺して言葉を失った父を置いて、話を続ける。
「今後、フィンブル家からの援助は一切必要ありません。勘当してくださっても構いません、準備も終わっておりますのですぐに出ていきます。私室に今までの生活費を置いておりますので、そちらを手切れ金にしてください」
息を吐き切るようにそう言い切り、父に背を向ける。
一瞬の間を置いて、ガタッと父が椅子を蹴って私へ近寄る音がした。
「――ま、待て待て! クリスティーナ! は、話をしよう、落ち着け……」
「もう遅いです。私が……貴方達やランドルフの間違いを教えてさしあげます」
「な……なにを……」
困惑する父を無視して書斎を勢いよく出ていく。父は慌てて私の肩を掴もうとするが、それを振り切って自室へと走った。そして荷物をまとめたトランクを手に取った時、父の声が屋敷に響いた。
「クリスティーナを屋敷から出すな!」
その声を聞いた屋敷の衛兵が、私の部屋へと走り出したのが分かる。
玄関扉もきっと衛兵が閉じているだろう。でも……それも想定内だ。
「――っ‼」
窓枠に足をかけて、外に身体を出し、トランクを放り投げる。それから屋敷の壁から伸びた木材などに足をかけながら、壁を下っていく。
今までの品行方正な側妃である私を見ていた人間が見たら卒倒してしまうだろうな。
吞気に考えつつ庭の芝生まで下りると、ふわりと風が吹いて私を後押ししてくれたように感じた。
「――クリスティーナ‼」
振り返ると、私が先程まで居た部屋の窓から母が睨んでいた。
「どこに行くのですか! 貴方はフィンブル伯爵家の娘! もっと女性らしくおしとやかに! そんなことをしては、男性に見向きもされませんよ!」
私は立ち止まり、母へと見せつけるように笑みを浮かべる。
そして……地面に転がっていたトランクからナイフを取り出し、それを私自身へ向けた。
「っ⁉ や、やめなさ――」
その声すらも断ち切るように、腰まで伸びていた銀色の髪をバッサリと耳元まで断ち切る。
風に乗って飛んでいく髪を見て、母がよろめき、侍女達に支えられていた。
母は、髪こそ女性の命だから大切にしなさいと言い続けてきた。
だから、母の望む女性から決別する意味を伝えるため、目の前でそれを切り裂いたのだ。
「もう私は貴方達の望み通り動く人形ではなく、好きに生きていきます!」
「クリスティーナ! 待ちなさい!」
母の叫びを無視して、ザクザクと髪を切って整える。
銀色の髪が落ちるたび、「いやぁぁ」と叫ぶ声が聞こえるのは少し面白い。
私なりの決別は、上手くいったようだ。
「待て! クリスティーナ‼ 女一人でなにができる! どうせ娼婦にでもなって暮らすしかなくなる! 戻ってこい! 必ず後悔するぞ!」
今度は父が部屋から顔を出して叫んできた。
母に代わっての説得なのだろうが、相も変わらない侮辱的な言葉が私に響くはずがない。
女性一人では生きていけないなんて、思い上がった言葉には笑ってしまいそうだ。
「後悔するのは、私ではなく貴方達ですよ」
「な……にを!」
「私の人生を無駄だと言った事、ランドルフと共に必ず後悔してもらいます」
「お、お前! その発言は、王家へと反抗でもするというのか⁉」
「お好きに捉えてください」
もう二度と惨めな思いなんてしない。これからは……私が決める人生だ。
「それでは、さようなら」
今まで散々言いつけを守り、両親の望むままランドルフのために半生を捧げた。
その結果「役立たず」と烙印を押されて、否定されたのだ。
ならば、もう両親の言いつけを守るだけの人形は辞めよう。
自分の意志で、「役立たず」なんて評価は間違っていると証明してみせる。
覚悟を決めた私は、両親の制止の声に振り返ることなく走り出した。
屋敷を出るのは今日だと、実は以前から決めていた。
なぜならこの日、フィンブル領内の街で落ち合う人がいたからだ。
賑わっている街道、指定していた露店で待ってくれていた方へと声をかける。
「……お待たせしました。ルイード様」
「っ⁉ クリスティーナ様……」
驚きの声を上げる男性は、大臣のルイード様だ。
王宮内で私をずっと気遣ってくれて、謝罪までしてくれた彼はきっとこれからも頼れると思い、手紙を出して、ここで落ち合う手筈を整えていた。
ルイード様は髪をザックリと切った私を見て、驚きすぎて目がこぼれ落ちそうな様子だ。
「ク、クリスティーナ様……いったいなにが?」
「申し訳ありませんルイード様。今は時間がありませんので、何も聞かずにこれを頼めますか?」
二週間の間に書き溜めておいた紙束をルイード様に渡す。
彼は即座にその中身に目を通し、額から汗を流した後、生唾を呑み込んだ。
「――私でも分かります。この紙に書かれた内容にはきっと皆が従い、ランドルフ陛下は追い詰められるでしょう。本当にこれを、王宮内の者に渡してもよろしいのですね?」
「私が行おうとしているのは、王家に仇成す行為ですが……頼めますか?」
「ええ、もちろん。クリスティーナ様にはお世話になりましたから。……それに私自身、ランドルフ陛下の非礼にはもう耐えられませぬ」
やはり彼に頼って良かった。渡した紙束が王宮に出回れば何が起こるのか、容易に想像できているはずなのに協力を受け入れてくれるのは有難い。
「本当にありがとうございます、ルイード様。もう少し事情をお話したいのですが……今の私はお父様に追われている身です。捜索が来る前にここを離れさせていただきます」
父に連れ戻される前にフィンブル領からは出ていかねばならない。
幸い行く当てが一つだけあるため、路頭に迷うことはないだろう。
すぐに歩き出そうとした私の手を、ルイード様が掴んだ。
「お待ちくださいクリスティーナ様。事情は分かりませんが……せめてこれだけでも」
渡されたのは重たい袋だった。開くと、ぎっしりと金貨が詰まっている。
廃妃にされた私に予算が付くはずもない。これは彼の懐から出たものに違いなかった。
「このようなもの……いただけません!」
「いえ、お願いです。せめてこれをもらってください。これは……私なりの謝罪なのです」
「ルイード様、前にも言いましたが……貴方に謝ってもらう必要は……」
「私がこれまで職務を続けてこられたのは、貴方のお力添えがあったからこそです。だから……」
彼は声を絞り出しながら頭を下げた。その瞳から零れ落ちる涙が、地面に黒い斑点を作る。
「俺は……近衛騎士団を気に掛けてくれていた貴方をずっと……」
言葉の途中で、彼に掴まれていた手から抜けだす。
「貴方は……この国の未来に必要な方です。私ではなく、皆のために生きてください」
私はその言葉を最後に、再び歩き出した。
エドワードからの視線を背に感じるが、彼も分かってくれたのか、黙って見送ってくれた。
馬車に辿り着くと、すでに他の荷物は積み込まれおり、後は私の到着待ちだったようだ。
王宮に後ろ髪を引かれながらも、別れは惜しまずに馬車へと乗ろうとした時。
「ようやく、出ていくみたいだな」
聞き覚えのある声と共に、私へと歩む影が見える。
そこには、もう二度と会いたくない、忘れたいと思っていた彼が近づいてきていた。
黄金のように煌めく金髪、若葉のような碧色の瞳を向けるランドルフ。
凛々しい顔立ちは記憶と変わらないが、久しぶりに見た彼の表情に笑みはない。
「ランドルフ……」
「様をつけろ。もう側妃でもないのだぞ、馴れ馴れしい」
ずきりと、胸が痛んだ。
かつて私に愛の言葉をかけてくれていた優しい彼は、もういない事がよく分かった。
「ランドルフ、様……」
「それでいい、やっとこの王宮でお前の顔を見なくて済む。清々するよ」
「な、なぜ……?」
心の声が漏れ出すように、疑問を口にしてしまう。
「ランドルフ……かつての貴方は、私を愛してくれていたはずです」
「様をつけろ。クリスティーナ」
「答えてよ、ランドルフ」
胸が張り裂けそうになって、泣くまいと思っていたのに涙がこぼれ落ちる。
「答えは簡単だろ? お前は妃として役立たずだった。それだけだ。マーガレットは哀れな身の上でありながら献身的に俺のそばに居てくれるのだぞ。お前と違ってな」
悲しみからこぼしていた涙が、ランドルフの言葉によって一瞬にして止まった。
皆から、彼が私をそう評価しているとは聞いていた。だけど実際に聞くのは初めてだ。
顔を上げれば、彼は冗談ではなく本気でそう思っているのだと分かる。
「お前のことは聞き及んでいる。民から嫌われ……仕事もせずに迷惑ばかりかけていたようだな」
「……なにを言っているの。ランドルフ」
ランドルフの言葉に、怒りが収まらない。
私が彼を支えてきた日々は、皆が感謝を伝えてくれたおかげで胸を張って誇れるものだと言える。
だけど彼は、その全て否定するのだ。
それは、感謝と共に忠義を誓ってくれた皆の言葉さえも否定しているのと同じだ。
「貴方は……私が本当に役立たずだと思っているの?」
「あぁ。俺を愛することもなく堕落に過ごし、妃として不十分なお前は要らな――」
言葉を遮るように、私の放った平手が軽快な音を響かせた。
虚を衝かれて驚く彼に、私は思うがままの言葉を吐いた。
「私が貴方を支えてきた日々が、本当に無駄だったと言っているの?」
「……は?」
「人生を捧げ、全ての時間を国のために尽くしてきました。それは全て貴方を支えるためだったというのに……見てくれてもいなかったのですね」
彼や王国に捧げて尽くしてきた半生、それを全て貶されたことが堪らなく悔しい。
どれだけの時間を、勉学に費やしてきただろうか。
どれだけの日々を、彼がすべき政務に費やしてきただろうか。
そのことに後悔はない。
国や民、王宮に居る者達に胸を張れる存在になれたのだから。
だけど……支えてきた彼自身にそれらを否定されることだけは許せなかった。
「見てこなかっただと? 違うな……俺は全てを知った上で、お前が無駄だと評価したまでだ」
「何を言っているのですか。貴方は私の何を知った気でいるの」
「役立たずと言われて図星だったか? 手を出すほどに悔しいのだろう?」
あぁ……もういい。
ランドルフは私を見ておらず、知ろうともしていないのだと分かった。
沸騰しそうな怒りが沸き立つが……握りしめた拳を解く。
今の彼に何を言っても無駄だ。しかし私はこの怒りを鎮めるために、ある覚悟を決めた。
「貴方が私に下した、役立たずという評価が間違いだと……証明してみせます」
「は? できるはずがない。お前が役立たずなのは事実だ」
「……これから貴方がいくら後悔しようとも、もう支えることはありません」
「後悔? するはずがないだろ。もうお前に用はない、さっさと行け……」
言われた通りに馬車に乗り込めば、御者でさえランドルフに怒りの眼差しを向けていた。
行き先を伝え、馬を走らせてもらう。
もうランドルフに振り返ることなんてない、後ろ髪を引かれる気持ちは消えた。
私の全てが否定された今……彼に抱いていた情愛も、献身的な想いも存在しない。
この荒れ狂いそうな怒りを抱え、たった一つの決意を固める。
ランドルフが私に下した『役立たずの妃』という評価。
私の人生は、そんな評価を受けるものではない。
感謝をしてくれた皆と、私自身のためにも、ランドルフの評価が間違いだと証明してみせる。
私という支えを失った末路を必ず見せてあげるわ……ランドルフ。
決意を固めた瞬間、もう私の胸に悲しみはなく、怒りのみが残っていた。
第二章 別離
ガラガラと車輪が回る馬車に揺られ、車窓から外を眺める。
見覚えのある景色に、フィンブル伯爵邸に帰ってきたと分かった。
庭師によって綺麗に手入れされた薔薇の花が広がる庭園と、玄関に灯る明かりが懐かしい。
両親と会うのは年に数度のみだが、記憶に残る二人はいつも優しかった。
すでに私が廃妃になった事は伝えられているが、きっと話を聞いてくれるはず。
そんな期待と共に屋敷の扉を開いた。玄関には、待っていたかのように女性が立っていた。
レイチェル・フィンブル……私のお母様だ。
「お、お母様……」
「おかえりなさい、クリスティーナ」
ふわりと微笑む母を見て安堵する。何を言われるか分からなかったが、その笑顔は記憶の通りに優しいままだ。久々の再会に母へハグをしようと歩き出した時。
「クリスティーナ、まずはお父様に会ってきなさい」
「……え?」
「荷物は使用人達が運びます。二階の書斎にお父様はいらっしゃいますから……早く行きなさい」
有無を言わさないお母様の雰囲気に大人しく頷き、私は二階へ上がる階段に足を載せた。
木造の階段は少し古くて、軋む音が鳴り響き、その音になぜか緊張が高まる。
光が小さく漏れる書斎の扉の前に立ち、久々に会うお父様に不安を抱えつつノックする。
「入りなさい」
「……失礼します」
聞こえた声がひどく冷たく平坦に聞こえたことを、気のせいだと祈りながら書斎へと入る。
無数の本棚が並ぶ部屋の中心に置かれた机で、父が黙々と執務をこなしていた。
書類の上に筆を走らせたまま、私には視線を向けてくれない。
沈黙に立ち尽くしていれば、やがて「はぁ……」と、父がため息を吐いて私を見上げた。
その瞳は……記憶にないほど冷たかった。
「どの面を下げて帰ってきた。クリスティーナ」
「お、お父様?」
「側妃となった際にもお前の不甲斐なさに怒りが浮かんだが……さらに廃妃となったと聞いて呆れたぞ。王家に頭を下げてでも側妃の地位を死守すればよかっただろうに、情けない」
「っ‼」
慰めや憐れみを望んでいた訳じゃない、でもこんな時ぐらいは「おかえり」と言ってほしかった。
しかし、父はそんな言葉を一切かけず、淡々と私を責める。
なによりも悲しいのは、父はもうすでに私から視線を外して執務に戻っていることだった。
側妃であったころの話を何も聞かず、最初から私が悪いと決めつけて父は責め続けるのだ。
「まったく……お前が陛下に見初められるための努力が、全て水の泡だ。我が家の評判がどうなると思っている。王家と関係が親密になるはずだったのに……これでは真逆だ」
見初められる努力……と聞いて思い出すのは、両親が幼い頃から私に言いつけてきた言葉だ。
『男性の言う事はなんでも聞きなさい、それが貴方の幸せになる』
幼き頃から両親のそれらの言いつけは、飽きるほど聞かされていた。
女性ならこうしなさい。男性を立てなさい。役に立つ存在になりなさい。
思い出せばキリがない約束を、幼い頃から私は愚直に守っていた。
だが、今しがた父が発した言葉によって、それが間違っていたと知る。
私の幸せのためと言い聞かせていた言葉は、お父様が成功するためのものだったのだ。
私という個人ではなく、『フィンブル伯爵家』という家だけが守れればよかったのだ。
気付いた瞬間、腸が煮えくり返りそうになった。
しかしお父様は私の怒りに気が付かないまま、書類に向かい続けて、静かに言い放つ。
「次の相手はこちらで決める」
その言葉には、思わず顔を上げて言い返した。
「お父様。私は次の相手なんて考えていません」
「分かっているのか? お前はこのままではフィンブル伯爵家の役立たずだぞ。それに女性として生きていくには夫が必要だろう。これはお前の幸せのためだ」
「役立たず? 私の生まれた意味は、お父様が王家に取り入るための駒になることなの?」
「先程から……口答えするような娘に育てた覚えはないぞ!」
部屋に響いた父の怒声に、肩が震える。
父は立ち上がり、私を見下ろした。
「クリスティーナ。これは親心だ……下手にワガママを言って困らせるな」
「ワガママ……? 散々、貴方達の言いつけを守ってきました。なのに自分の意見を出せば、ワガママと否定して押さえつけるの?」
――バンッ‼
私の後ろの壁を、父の拳が強く叩く。
屋敷中に響いたであろう大きな音の後、お互いに睨み合って沈黙が流れた。
一歩も引かずに見つめ返していると、父は苛立ちを表すように髪をかきむしる。
「言いたくなかったが……クリスティーナ、ランドルフ陛下に廃妃されたという事は……お前は妃として不十分という烙印が押されたと同じことなのだぞ」
「なっ……にを」
「周囲にもすぐ廃妃となった事が広まり、お前は無駄な妃だったと判断されてしまう。そうなればお前を娶ろうと思う相手など居なくなってしまう、だから今は私の言うことを聞いておけ」
――なにを……私は何を言われているの? 廃妃にされただけで、私の今までの人生の価値は崩れてしまうの? 不当に私を「役立たず」と評価を下したランドルフこそが間違っているのに。
「……私の半生が全て無駄だったと、お父様は本気で思うのですか?」
自然とこぼれる涙は、怒りや悲しみではなく呆れからくるものだ。
両親からの言いつけを守り、ランドルフのために全て捧げてきた。
それなのに、そんな私の今までを侮辱してきたのは、他でもない父だったのだ。
「クリスティーナ、お前のためだ。名誉を挽回するために名家に嫁げ……分かるだろう?」
「……分かりません、分かりたくもありません。お父様」
「っ!」
お父様がランドルフと同じく、私を見ずに評価するならもういい。
改めて私は……その評価を覆してみせると決意できたから。
その意味を込めた返答に、父が眉をひそめる。
「生意気な言葉を吐くな。フィンブル家を追い出してもいいのだぞ?」
脅すような声色だが、今の私にはそれは脅しにすらならない。
「どうぞ、ご勝手に……私は、自分のやるべきことを決めましたから」
「なっ……なにを言って」
「たとえ一人となっても、貴方達が間違っていると証明する覚悟ができたのです」
淡々と返すと、父はため息と共に首を横に振り、書斎の扉を指さす。
「……もういい、今日は寝なさい。一晩過ごせば私の言うことが理解できるはずだ」
「理解する気はありません」
もはや何を言っても無駄だ。
父とは言葉を交わさずに書斎を出る。自室へと辿り着けば、お母様が心配そうに佇んでいた。
「ク、クリスティーナ? お父様とはしっかり話せた?」
「お母様……今は一人にしてください」
寝台に腰を下ろし、涙を拭う。そんな私の隣に母が座って、ぎゅっと抱きしめてくる。
「大丈夫、お母様がいますよ……クリスティーナ」
母は私の頭を撫でながらニコリと微笑む。その温もりと声の優しさに思わず涙腺が緩む。
お母様……と呼ぼうとしたけれど、続く母の言葉で息を呑んだ。
「いい? こんな結果になったけれど、反省してこれからは女性らしくしていればいいのよ?」
「っ‼」
「お父様の言いつけは守りなさい。貴方はもっと女性としてランドルフ陛下の役に立つべきだったのよ? もう少しきつく言いつけておけば良かったわね。しっかり反省はしなさいね?」
言葉が出ない。母は父と同じく、私が悪かったと決めつけて話している。
「――でも大丈夫、お母様が貴方を今度こそ男性に好まれる淑女にしてあげるから」
お母様の瞳は……お父様と同じだ。その瞳の奥底は、私を自分達の言いつけに従う人形に仕立て上げることしか考えていない。自分達の教えが絶対に正しいと信じて、疑いもしないのだ。
だから今の私が不幸なのは、教えを守らない不出来な人形だからだと決めつけているのだろう。
滑稽だ、本当に私は……惨めだ。
彼らの言いつけを守り、ランドルフへ尽くした結果が今の惨状だ。
なのに、まだ私に都合の良い人形を強制するのなら……我慢するのは終わりにしよう。
言いつけを守るいい子も、男性に媚びる私も全て終わり。
どちらが間違っているのか、必ず分からせてみせる。
「ありがとう、お母様。また明日、教えてくださいね」
今は母に出ていってほしくて、仮初の笑みを浮かべる。
望み通り、母は素直に応じた私にパッと表情を明るくして去っていった。
あぁ、きっと両親は、これから家を出る準備をする私に気付く事もないのだろう。
だって彼らが見たいのは、言いつけに従う人形だけなのだから。
◇◇◇
屋敷に帰ってきて二週間が経った。
その間、しきりに母が『男性を立てる女性になるための方法』を熱弁するのを笑顔で受け流す。
母には従順に聞いているように見えるだろうが、私の心の内ではそんなことはない。
幼き頃は素直に従っていたが、改めて考えてみれば、この教育は異常だ。
男性を中心にした教えであり、素晴らしい女性人形を作る教育に等しい。
しかもこれは両親だけでなく、この国が長く続けてきた教育なのだから呆れてしまう。
そんな教育の裏で、私は屋敷を出る準備を進めていた。ここに残っても行動はできないからだ。
苦痛に感じた二週間だったが、準備を終えた良いタイミングでお父様が私を呼び出した。
覚悟も計画もすでに決まり、準備すら終えた今、もう彼らに従う必要はないだろう。
そんな訳で、久々に話す父に別れを告げようと気楽な気持ちで書斎に向かった。
「失礼します……お父様」
「遅いぞ!」
「話はなんですか?」
叱責を無視すれば、分かりやすく不機嫌になっている。しかしそれさえも無視して微笑んでみせると、父は一瞬怯んだように言葉を詰まらせた後、重々しく口を開いた。
「縁談の件だが、引き受けてくれる者はいなかったぞ」
「そうですか、それは良かった」
心からそう思った。
父の言う通り、男性達は私を無価値だと見ているのかもしれない。
だけど、そんな男性の隣に立つ気など私にもないのでちょうどいい。
にっこりと微笑みを深めると、父の眉間の皺が深まった。
「軽く答えるな。事の重大さを分かっているのか⁉」
こうして声を荒らげる姿をなぜ昔はあんなに恐れていたのだろうか。
今となっては、言うことを聞かせるためのこけおどしにしか見えないというのに。
「お話はそれだけですか? ……ならお父様、私からもお話があります。私には夫など必要ありませんので、これからは好きに生きてまいります」
そう言った瞬間、目の前の父が怒声と共に立ち上がった。
「は⁉ ふざけるな‼ 好きに生きていくだと? 今までと同じように、ワガママを言っても大切にされるとでも思ったのか⁉ そんな事をすれば私達は一切の面倒を見ないぞ! いいのか⁉」
まったく、想定通りの言葉で助かる。
私は今の生活を手放しても構わないし、なんなら荷物は既にまとめ終わっている。
「はい。それで十分です。では、出ていきますね」
「は? ……は⁉」
動揺して言葉を失った父を置いて、話を続ける。
「今後、フィンブル家からの援助は一切必要ありません。勘当してくださっても構いません、準備も終わっておりますのですぐに出ていきます。私室に今までの生活費を置いておりますので、そちらを手切れ金にしてください」
息を吐き切るようにそう言い切り、父に背を向ける。
一瞬の間を置いて、ガタッと父が椅子を蹴って私へ近寄る音がした。
「――ま、待て待て! クリスティーナ! は、話をしよう、落ち着け……」
「もう遅いです。私が……貴方達やランドルフの間違いを教えてさしあげます」
「な……なにを……」
困惑する父を無視して書斎を勢いよく出ていく。父は慌てて私の肩を掴もうとするが、それを振り切って自室へと走った。そして荷物をまとめたトランクを手に取った時、父の声が屋敷に響いた。
「クリスティーナを屋敷から出すな!」
その声を聞いた屋敷の衛兵が、私の部屋へと走り出したのが分かる。
玄関扉もきっと衛兵が閉じているだろう。でも……それも想定内だ。
「――っ‼」
窓枠に足をかけて、外に身体を出し、トランクを放り投げる。それから屋敷の壁から伸びた木材などに足をかけながら、壁を下っていく。
今までの品行方正な側妃である私を見ていた人間が見たら卒倒してしまうだろうな。
吞気に考えつつ庭の芝生まで下りると、ふわりと風が吹いて私を後押ししてくれたように感じた。
「――クリスティーナ‼」
振り返ると、私が先程まで居た部屋の窓から母が睨んでいた。
「どこに行くのですか! 貴方はフィンブル伯爵家の娘! もっと女性らしくおしとやかに! そんなことをしては、男性に見向きもされませんよ!」
私は立ち止まり、母へと見せつけるように笑みを浮かべる。
そして……地面に転がっていたトランクからナイフを取り出し、それを私自身へ向けた。
「っ⁉ や、やめなさ――」
その声すらも断ち切るように、腰まで伸びていた銀色の髪をバッサリと耳元まで断ち切る。
風に乗って飛んでいく髪を見て、母がよろめき、侍女達に支えられていた。
母は、髪こそ女性の命だから大切にしなさいと言い続けてきた。
だから、母の望む女性から決別する意味を伝えるため、目の前でそれを切り裂いたのだ。
「もう私は貴方達の望み通り動く人形ではなく、好きに生きていきます!」
「クリスティーナ! 待ちなさい!」
母の叫びを無視して、ザクザクと髪を切って整える。
銀色の髪が落ちるたび、「いやぁぁ」と叫ぶ声が聞こえるのは少し面白い。
私なりの決別は、上手くいったようだ。
「待て! クリスティーナ‼ 女一人でなにができる! どうせ娼婦にでもなって暮らすしかなくなる! 戻ってこい! 必ず後悔するぞ!」
今度は父が部屋から顔を出して叫んできた。
母に代わっての説得なのだろうが、相も変わらない侮辱的な言葉が私に響くはずがない。
女性一人では生きていけないなんて、思い上がった言葉には笑ってしまいそうだ。
「後悔するのは、私ではなく貴方達ですよ」
「な……にを!」
「私の人生を無駄だと言った事、ランドルフと共に必ず後悔してもらいます」
「お、お前! その発言は、王家へと反抗でもするというのか⁉」
「お好きに捉えてください」
もう二度と惨めな思いなんてしない。これからは……私が決める人生だ。
「それでは、さようなら」
今まで散々言いつけを守り、両親の望むままランドルフのために半生を捧げた。
その結果「役立たず」と烙印を押されて、否定されたのだ。
ならば、もう両親の言いつけを守るだけの人形は辞めよう。
自分の意志で、「役立たず」なんて評価は間違っていると証明してみせる。
覚悟を決めた私は、両親の制止の声に振り返ることなく走り出した。
屋敷を出るのは今日だと、実は以前から決めていた。
なぜならこの日、フィンブル領内の街で落ち合う人がいたからだ。
賑わっている街道、指定していた露店で待ってくれていた方へと声をかける。
「……お待たせしました。ルイード様」
「っ⁉ クリスティーナ様……」
驚きの声を上げる男性は、大臣のルイード様だ。
王宮内で私をずっと気遣ってくれて、謝罪までしてくれた彼はきっとこれからも頼れると思い、手紙を出して、ここで落ち合う手筈を整えていた。
ルイード様は髪をザックリと切った私を見て、驚きすぎて目がこぼれ落ちそうな様子だ。
「ク、クリスティーナ様……いったいなにが?」
「申し訳ありませんルイード様。今は時間がありませんので、何も聞かずにこれを頼めますか?」
二週間の間に書き溜めておいた紙束をルイード様に渡す。
彼は即座にその中身に目を通し、額から汗を流した後、生唾を呑み込んだ。
「――私でも分かります。この紙に書かれた内容にはきっと皆が従い、ランドルフ陛下は追い詰められるでしょう。本当にこれを、王宮内の者に渡してもよろしいのですね?」
「私が行おうとしているのは、王家に仇成す行為ですが……頼めますか?」
「ええ、もちろん。クリスティーナ様にはお世話になりましたから。……それに私自身、ランドルフ陛下の非礼にはもう耐えられませぬ」
やはり彼に頼って良かった。渡した紙束が王宮に出回れば何が起こるのか、容易に想像できているはずなのに協力を受け入れてくれるのは有難い。
「本当にありがとうございます、ルイード様。もう少し事情をお話したいのですが……今の私はお父様に追われている身です。捜索が来る前にここを離れさせていただきます」
父に連れ戻される前にフィンブル領からは出ていかねばならない。
幸い行く当てが一つだけあるため、路頭に迷うことはないだろう。
すぐに歩き出そうとした私の手を、ルイード様が掴んだ。
「お待ちくださいクリスティーナ様。事情は分かりませんが……せめてこれだけでも」
渡されたのは重たい袋だった。開くと、ぎっしりと金貨が詰まっている。
廃妃にされた私に予算が付くはずもない。これは彼の懐から出たものに違いなかった。
「このようなもの……いただけません!」
「いえ、お願いです。せめてこれをもらってください。これは……私なりの謝罪なのです」
「ルイード様、前にも言いましたが……貴方に謝ってもらう必要は……」
「私がこれまで職務を続けてこられたのは、貴方のお力添えがあったからこそです。だから……」
彼は声を絞り出しながら頭を下げた。その瞳から零れ落ちる涙が、地面に黒い斑点を作る。
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