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14章 狂った歯車
13話 異界の兄(後)
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「お? なんだよお前、ノックするとか珍し~」
「……ちょっと、聞きたいことが」
元の世界に戻ると決意したはいいが、正直何をどうすればいいか全く分からない。
ひとまず現状を把握することが大事だと考え、俺は兄の部屋へ。
俺の知っている兄とちがいかなりのほほんとしているが、基本的な性格に変わりはないように思う。
たぶん頭もいいし、俺よりは色々物事を考えているはずだ。
何か、戻る手がかりが得られるかもしれない――。
「ふーん。ま、いいけど。怒鳴ったら叩き出すからなー」
「分かってるよ……ごめんって」
そう言うと兄は「分かればいいんだよ」と言ってニヤリと笑った。
なんだかまるで、年上の兄ちゃんみたいだ……って、今は実際そうなのか……。
◇
「……でー? 話ってなんだよ」
「……」
部屋の中に促され、俺はソファーにだらりと横たわった。
兄はそれについて何も言わない。たぶんこっちでも兄のソファーは俺の指定席なんだろう。
……何から聞けばいいんだろう? 何を言えばすんなり話してもらえる?
色んなことをぐるぐる考えながらソファーから半身を起こして兄の方を見ると、兄は机に向かって何か書き物をしていた。
昔と、そしてあっちの"兄"と同じ――。
「……勉強してたの?」
「ああ、うん。勉強っていうか、仕事の一環かなあ」
「仕事……。あ、あのさ……あの……バカにしないで、全部聞いてほしいんだけど」
「ん? うん」
「俺あの……なんか、異世界に飛ばされる夢見て」
「異世界」
「そう。それで……その夢がすごいリアルでさ、登場人物は現実と同じなんだけど、兄ちゃんとか全然別人みたいで……目が覚めても夢に引き摺られそうなんだ」
探り探りで言葉を繰り出す。
兄は冒険ものの小説とかを読むのが好きだった。こういう切り出し方なら、変に思われる可能性がちょっとでも下がるんじゃないだろうか……?
とはいえ、怪訝な顔をしていたらどうしようと思ってしまって、話を聞いている兄の顔は見られない。
「それで、その……こっちの俺とか兄ちゃんがどんなだったか、確認、したくて」
「俺?」
「そう。あの……ここ数年……5、6年くらいのことでいいから」
「5、6年? ふーん……何が知りたい??」
特にひっかかりはなかったのか、兄はすんなりと受け入れてくれた。
想像以上にホッとしてしまう……。
「……あのさ、俺昔よく、兄ちゃんが友達と遊ぶのにやたらとついていこうとしてたじゃない」
「おう。ウザかったぜありゃ」
「う……それであの、嘘の時間言って俺を巻こうとしたこととかなかった?」
「ん? あー、そういや1回あったな。5年前の夏くらいかー」
「!! そ、その時って、俺は」
「さすがにめちゃくちゃ怒ってんじゃねーかと思ってたんだけどさー、帰ってきたらお前寝てたんだよな」
「ね……寝てた?」
「そ。朝から晩までだぜ? 母さんがいくら揺さぶっても全然起きなかったらしくてさー」
「…………」
「結局起きたのは夜の9時くらいだったかなー? そのくせ『なんで置いてくんだよ』ってしっかり絡んできやがって、うぜーのなんの……って」
「…………」
「……おい、大丈夫か?」
「あ、……だい、じょうぶ。……ありがとう」
――5年前の夏。兄は俺に嘘の時間を言って友達の集まりに連れて行かなかった。
だから俺は、ブーブー言いながらも釣りに出かけた。
だがこっちの俺は釣りに行っていない。代わりに、不自然なくらいに長時間眠っていて……。
(そこに干渉したのか……)
イリアスはおそらく、俺が時間を飛んだあの日――1558年の7月13日に飛んだ。
そして俺に催眠魔法か何かをかけて、どこにも出かけないようにした。
あの日の日付は日記に何回も書いたし、スカーフにも縫いつけてある。
まさかそれが奴に行き先を与えることになるなんて……。
――俺は時間を越えていない。
だからこの街でそのまま成人までして、今は……?
「お……俺って、今何してる人なの?」
「えー。それも忘れたのか? ヤバくないか? 病院行った方が……」
「俺は頭おかしくなんかない!!」
「えぇー……またかよ。落ち着けよ、誰も頭おかしいとか言ってないだろー?」
「っ……ご、ごめん……あの」
「お前はこの街の自警団の団員。入ってから3年目だったかな」
「自警団……」
「15歳になってから父さんに剣習いはじめてさ。けっこうな実力者らしいぜー」
「……そう、なんだ。兄ちゃんは、剣とかは……?」
「俺ー? お前が剣習い始めてからは全然触ってないな。身体動かすのは好きだけど、やっぱりあんま性に合わなくてさあ」
「…………」
父は俺がいなくなってから、兄に打ち合いを持ちかけることが増えたという。
兄は自分のせいで弟がいなくなったという罪悪感からそれを断らず、そのおかげで剣の腕も上がった。
だがこちらでは俺が父と剣の打ち合いをしているために、兄は剣を振らない。
その必要性がないからだ。この兄の言葉の通りに、あっちの兄も戦いはあまり好きじゃない。
本当はやりたくないかもしれなかったことを、俺という穴を埋めるために付き合っていたんだ……。
「……兄ちゃんはあの、勉強、すごいするよね」
「ん? まあな」
気まずい気持ちを払拭するため、無理に話をそらした。
兄の机の上には、色んな本とそれをまとめたであろうノートが載っている。
「あの……見ていい?」
「いいけど汚すなよ」
「分かってるよ……」
兄の机に歩み寄り、積み上がったノートを1冊手に取った――あっちの兄と同じ丁寧な字で、綺麗にまとめられたノート。
中に書かれているのは……。
「地理とか歴史が……好きなんだ」
「ああ。まあ、仕事兼趣味だよなー」
「仕事って? 役所の人だよね」
「そ。『歴史文化財課』ってところ」
「そんな課あるんだ……」
「奥が深いだろ」
「そうだね……」
再びノートに目を落とす。
「すごいね……これ。そのまま教科書とかに使えそう」
「ハハッ、言い過ぎ。そんな褒めても何も出ないぞ」
「さすがロイ高だな……」
「んん? ロイコー? って、ロイエンタール高等学院か?? おいおい、俺はそんなすごいとこ出てないぞー」
「えっ?」
「何? お前のその夢ん中では俺はロイ高だったの?」
「あ……うん。首席で卒業したって」
「マジで? ハハッ すげえ~、俺やればできる子なんだなぁ!」
「…………」
無邪気に「もうひとりの自分」を褒める兄に、涙が出そうになってしまう。
『……そうすごくもねえよ。"逃げ"みたいなもんだし』
『"代償行動"っていうんだよなぁ。満たされない何かの為に、別のことをして満たされた気になる』
――そうだよ、兄貴はすごいんだよ。このくらい、もっと自分を認めて誇ってほしいんだよ。
逃げだろうが代償だろうが、すごいことはすごいんだよ。
父さんも母さんも「俺がすねる」とか意味分かんないこと言ってないで、もっと褒めなきゃ駄目だったんだ。
兄は暗い気持ちを抱えていたために闇の剣を拾った。
それは俺に対する罪悪感からだなんて言っていたが、本当にそうなんだろうか?
兄の心を覆っていた闇は、どれだけ成果を上げても評価されない悔しさと無力感からきているんじゃないだろうか?
もしそうなら、兄を追い詰めたのは、両親の態度。だが……そうなるに至った原因を作ったのは俺だ。
俺のせいで、兄貴は闇に堕ちかけたんだ――。
「……っ、これ、見てもいいかな?」
「どーぞ」
泣きそうに歪んだ顔を見られないように兄に背を向け、本棚のスクラップブックらしきものが並んだ列に手を伸ばした。
背表紙に日付と年号が書いてあり、日付順に綺麗にしまってある……。
「読んだら、ちゃんと順番に並べといてくれよー」
「分かってるってば……」
適当に一冊手に取って眺めるが、内容は頭に入ってこない。
(兄貴……)
――俺は元の世界に戻りたい。
だけどそれは、何の闇も抱えていない、自分の好きを突き詰めて穏やかに暮らしているこの"兄"を否定して捨てることを意味する。
それでいいんだろうか。それは正しいことなんだろうか……。
「……あれ? これは?」
スクラップブックの列に一冊、背表紙が銀色に塗られたものがあった。
1559年、3月――5年前のものだ。
「んん? あー、それ。えーと……何だっけな……。あっ、そうだ! 聖女だ」
「!! 聖……女?」
「そうそう。名前と記憶がさあ、封印されちゃうじゃんか。記録に残したっていうことも忘れるんじゃないかと思って色塗っといたんだけど……うーん、やっぱ忘れるんだなー。就任したのいつだっけか」
「……1559年3月15日」
「お? そーなのか? お前よく覚えてるなー」
「…………」
暢気に笑う兄をよそに、スクラップブックを早急にめくる。
聖女……もしイリアスの言葉の通りなら、こっちの聖女はリタではなく、別の……?
「え……っ!?」
1559年3月15日――「新しい聖女様が眠りにつきました」という、聖女の写真入りの記事が貼ってあった。
名前が書かれている部分は消えているが、写真――現身は消えずに残る。
その"現身"の聖女はリタではなかった。そこに写っていたのは……。
(ベルナデッタ……!?)
ベルナデッタ・サンチェス――彼女が、こちらの世界で今眠っている聖女。
5年前の記事だから、俺が知っている彼女より少し幼い。
しかしそれを差し引いても、俺の知っている彼女とは顔が全然ちがう。
目は虚ろだし、全体的に陰鬱な感じが漂って……。
「おー、聖女様の記事ちゃんとあったか」
「あ……」
俺の肩越しにスクラップブックを覗き込んでいた兄が俺の手からそれをサッと取って、アゴに手をやりながらしげしげと見つめる。
「……んー、俺が貼ったはずなのに覚えてないな。それすらも聖女様関連の記憶ってことなのか。……へえ、これが今の聖女様かー」
「…………」
「……うん、やっぱあれだな。美人だなー」
「…………っ、そんな、……そんな、風に……言うなよ……!」
「んー? そっか、そうだな。聖女様をそんな目で見るなんて不敬だよな、ハハッ」
スクラップブックをパタンと閉じて、兄はそれを本棚にしまい込む。
「また忘れそうだな。背表紙に『聖女』って書いたシールでも貼っとこっかなー?」
「………………」
◇
兄に礼を言って、俺は自室に戻った。
まだ聞きたいことがあったが、耐えられなかった。色々考えることがあるのにさっきのことばかり考えてしまう。
こっちの世界の聖女はリタではなく、ベルナデッタ。
なぜそういうことになるのか分からない。
でも、そんなことより――。
『美人だな』
「……なんで……そんなこと言うんだよ……」
"聖女"ベルナデッタの写真を見た兄の言葉に涙がにじんでしまう。
おそらく、こっちの兄とベルナデッタは出会ってすらいない。完全に他人だ。
でも、許容できない。あんな虚ろで死んだような目をした彼女を「美人だ」なんて言わないでほしかった。
こっちの兄は幸せだ。あの兄を切り捨てたくない。
だけどあっちの兄の幸せも諦めたくない。
俺は、俺の知る兄の幸せな姿を見たい。
でもやっぱり、闇を抱えず苦しい思いもしていない兄の方が……。
「っ……なんで……!」
――なんでだよ。
なんで俺はいつもいつも、大事な何かを片方捨てなきゃいけないんだ。
こんな選択、あんまり重すぎるだろう……。
「……ちょっと、聞きたいことが」
元の世界に戻ると決意したはいいが、正直何をどうすればいいか全く分からない。
ひとまず現状を把握することが大事だと考え、俺は兄の部屋へ。
俺の知っている兄とちがいかなりのほほんとしているが、基本的な性格に変わりはないように思う。
たぶん頭もいいし、俺よりは色々物事を考えているはずだ。
何か、戻る手がかりが得られるかもしれない――。
「ふーん。ま、いいけど。怒鳴ったら叩き出すからなー」
「分かってるよ……ごめんって」
そう言うと兄は「分かればいいんだよ」と言ってニヤリと笑った。
なんだかまるで、年上の兄ちゃんみたいだ……って、今は実際そうなのか……。
◇
「……でー? 話ってなんだよ」
「……」
部屋の中に促され、俺はソファーにだらりと横たわった。
兄はそれについて何も言わない。たぶんこっちでも兄のソファーは俺の指定席なんだろう。
……何から聞けばいいんだろう? 何を言えばすんなり話してもらえる?
色んなことをぐるぐる考えながらソファーから半身を起こして兄の方を見ると、兄は机に向かって何か書き物をしていた。
昔と、そしてあっちの"兄"と同じ――。
「……勉強してたの?」
「ああ、うん。勉強っていうか、仕事の一環かなあ」
「仕事……。あ、あのさ……あの……バカにしないで、全部聞いてほしいんだけど」
「ん? うん」
「俺あの……なんか、異世界に飛ばされる夢見て」
「異世界」
「そう。それで……その夢がすごいリアルでさ、登場人物は現実と同じなんだけど、兄ちゃんとか全然別人みたいで……目が覚めても夢に引き摺られそうなんだ」
探り探りで言葉を繰り出す。
兄は冒険ものの小説とかを読むのが好きだった。こういう切り出し方なら、変に思われる可能性がちょっとでも下がるんじゃないだろうか……?
とはいえ、怪訝な顔をしていたらどうしようと思ってしまって、話を聞いている兄の顔は見られない。
「それで、その……こっちの俺とか兄ちゃんがどんなだったか、確認、したくて」
「俺?」
「そう。あの……ここ数年……5、6年くらいのことでいいから」
「5、6年? ふーん……何が知りたい??」
特にひっかかりはなかったのか、兄はすんなりと受け入れてくれた。
想像以上にホッとしてしまう……。
「……あのさ、俺昔よく、兄ちゃんが友達と遊ぶのにやたらとついていこうとしてたじゃない」
「おう。ウザかったぜありゃ」
「う……それであの、嘘の時間言って俺を巻こうとしたこととかなかった?」
「ん? あー、そういや1回あったな。5年前の夏くらいかー」
「!! そ、その時って、俺は」
「さすがにめちゃくちゃ怒ってんじゃねーかと思ってたんだけどさー、帰ってきたらお前寝てたんだよな」
「ね……寝てた?」
「そ。朝から晩までだぜ? 母さんがいくら揺さぶっても全然起きなかったらしくてさー」
「…………」
「結局起きたのは夜の9時くらいだったかなー? そのくせ『なんで置いてくんだよ』ってしっかり絡んできやがって、うぜーのなんの……って」
「…………」
「……おい、大丈夫か?」
「あ、……だい、じょうぶ。……ありがとう」
――5年前の夏。兄は俺に嘘の時間を言って友達の集まりに連れて行かなかった。
だから俺は、ブーブー言いながらも釣りに出かけた。
だがこっちの俺は釣りに行っていない。代わりに、不自然なくらいに長時間眠っていて……。
(そこに干渉したのか……)
イリアスはおそらく、俺が時間を飛んだあの日――1558年の7月13日に飛んだ。
そして俺に催眠魔法か何かをかけて、どこにも出かけないようにした。
あの日の日付は日記に何回も書いたし、スカーフにも縫いつけてある。
まさかそれが奴に行き先を与えることになるなんて……。
――俺は時間を越えていない。
だからこの街でそのまま成人までして、今は……?
「お……俺って、今何してる人なの?」
「えー。それも忘れたのか? ヤバくないか? 病院行った方が……」
「俺は頭おかしくなんかない!!」
「えぇー……またかよ。落ち着けよ、誰も頭おかしいとか言ってないだろー?」
「っ……ご、ごめん……あの」
「お前はこの街の自警団の団員。入ってから3年目だったかな」
「自警団……」
「15歳になってから父さんに剣習いはじめてさ。けっこうな実力者らしいぜー」
「……そう、なんだ。兄ちゃんは、剣とかは……?」
「俺ー? お前が剣習い始めてからは全然触ってないな。身体動かすのは好きだけど、やっぱりあんま性に合わなくてさあ」
「…………」
父は俺がいなくなってから、兄に打ち合いを持ちかけることが増えたという。
兄は自分のせいで弟がいなくなったという罪悪感からそれを断らず、そのおかげで剣の腕も上がった。
だがこちらでは俺が父と剣の打ち合いをしているために、兄は剣を振らない。
その必要性がないからだ。この兄の言葉の通りに、あっちの兄も戦いはあまり好きじゃない。
本当はやりたくないかもしれなかったことを、俺という穴を埋めるために付き合っていたんだ……。
「……兄ちゃんはあの、勉強、すごいするよね」
「ん? まあな」
気まずい気持ちを払拭するため、無理に話をそらした。
兄の机の上には、色んな本とそれをまとめたであろうノートが載っている。
「あの……見ていい?」
「いいけど汚すなよ」
「分かってるよ……」
兄の机に歩み寄り、積み上がったノートを1冊手に取った――あっちの兄と同じ丁寧な字で、綺麗にまとめられたノート。
中に書かれているのは……。
「地理とか歴史が……好きなんだ」
「ああ。まあ、仕事兼趣味だよなー」
「仕事って? 役所の人だよね」
「そ。『歴史文化財課』ってところ」
「そんな課あるんだ……」
「奥が深いだろ」
「そうだね……」
再びノートに目を落とす。
「すごいね……これ。そのまま教科書とかに使えそう」
「ハハッ、言い過ぎ。そんな褒めても何も出ないぞ」
「さすがロイ高だな……」
「んん? ロイコー? って、ロイエンタール高等学院か?? おいおい、俺はそんなすごいとこ出てないぞー」
「えっ?」
「何? お前のその夢ん中では俺はロイ高だったの?」
「あ……うん。首席で卒業したって」
「マジで? ハハッ すげえ~、俺やればできる子なんだなぁ!」
「…………」
無邪気に「もうひとりの自分」を褒める兄に、涙が出そうになってしまう。
『……そうすごくもねえよ。"逃げ"みたいなもんだし』
『"代償行動"っていうんだよなぁ。満たされない何かの為に、別のことをして満たされた気になる』
――そうだよ、兄貴はすごいんだよ。このくらい、もっと自分を認めて誇ってほしいんだよ。
逃げだろうが代償だろうが、すごいことはすごいんだよ。
父さんも母さんも「俺がすねる」とか意味分かんないこと言ってないで、もっと褒めなきゃ駄目だったんだ。
兄は暗い気持ちを抱えていたために闇の剣を拾った。
それは俺に対する罪悪感からだなんて言っていたが、本当にそうなんだろうか?
兄の心を覆っていた闇は、どれだけ成果を上げても評価されない悔しさと無力感からきているんじゃないだろうか?
もしそうなら、兄を追い詰めたのは、両親の態度。だが……そうなるに至った原因を作ったのは俺だ。
俺のせいで、兄貴は闇に堕ちかけたんだ――。
「……っ、これ、見てもいいかな?」
「どーぞ」
泣きそうに歪んだ顔を見られないように兄に背を向け、本棚のスクラップブックらしきものが並んだ列に手を伸ばした。
背表紙に日付と年号が書いてあり、日付順に綺麗にしまってある……。
「読んだら、ちゃんと順番に並べといてくれよー」
「分かってるってば……」
適当に一冊手に取って眺めるが、内容は頭に入ってこない。
(兄貴……)
――俺は元の世界に戻りたい。
だけどそれは、何の闇も抱えていない、自分の好きを突き詰めて穏やかに暮らしているこの"兄"を否定して捨てることを意味する。
それでいいんだろうか。それは正しいことなんだろうか……。
「……あれ? これは?」
スクラップブックの列に一冊、背表紙が銀色に塗られたものがあった。
1559年、3月――5年前のものだ。
「んん? あー、それ。えーと……何だっけな……。あっ、そうだ! 聖女だ」
「!! 聖……女?」
「そうそう。名前と記憶がさあ、封印されちゃうじゃんか。記録に残したっていうことも忘れるんじゃないかと思って色塗っといたんだけど……うーん、やっぱ忘れるんだなー。就任したのいつだっけか」
「……1559年3月15日」
「お? そーなのか? お前よく覚えてるなー」
「…………」
暢気に笑う兄をよそに、スクラップブックを早急にめくる。
聖女……もしイリアスの言葉の通りなら、こっちの聖女はリタではなく、別の……?
「え……っ!?」
1559年3月15日――「新しい聖女様が眠りにつきました」という、聖女の写真入りの記事が貼ってあった。
名前が書かれている部分は消えているが、写真――現身は消えずに残る。
その"現身"の聖女はリタではなかった。そこに写っていたのは……。
(ベルナデッタ……!?)
ベルナデッタ・サンチェス――彼女が、こちらの世界で今眠っている聖女。
5年前の記事だから、俺が知っている彼女より少し幼い。
しかしそれを差し引いても、俺の知っている彼女とは顔が全然ちがう。
目は虚ろだし、全体的に陰鬱な感じが漂って……。
「おー、聖女様の記事ちゃんとあったか」
「あ……」
俺の肩越しにスクラップブックを覗き込んでいた兄が俺の手からそれをサッと取って、アゴに手をやりながらしげしげと見つめる。
「……んー、俺が貼ったはずなのに覚えてないな。それすらも聖女様関連の記憶ってことなのか。……へえ、これが今の聖女様かー」
「…………」
「……うん、やっぱあれだな。美人だなー」
「…………っ、そんな、……そんな、風に……言うなよ……!」
「んー? そっか、そうだな。聖女様をそんな目で見るなんて不敬だよな、ハハッ」
スクラップブックをパタンと閉じて、兄はそれを本棚にしまい込む。
「また忘れそうだな。背表紙に『聖女』って書いたシールでも貼っとこっかなー?」
「………………」
◇
兄に礼を言って、俺は自室に戻った。
まだ聞きたいことがあったが、耐えられなかった。色々考えることがあるのにさっきのことばかり考えてしまう。
こっちの世界の聖女はリタではなく、ベルナデッタ。
なぜそういうことになるのか分からない。
でも、そんなことより――。
『美人だな』
「……なんで……そんなこと言うんだよ……」
"聖女"ベルナデッタの写真を見た兄の言葉に涙がにじんでしまう。
おそらく、こっちの兄とベルナデッタは出会ってすらいない。完全に他人だ。
でも、許容できない。あんな虚ろで死んだような目をした彼女を「美人だ」なんて言わないでほしかった。
こっちの兄は幸せだ。あの兄を切り捨てたくない。
だけどあっちの兄の幸せも諦めたくない。
俺は、俺の知る兄の幸せな姿を見たい。
でもやっぱり、闇を抱えず苦しい思いもしていない兄の方が……。
「っ……なんで……!」
――なんでだよ。
なんで俺はいつもいつも、大事な何かを片方捨てなきゃいけないんだ。
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