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9章 壊れていく日常

◆エピソード―メリア:"あの子"(後)

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「……グレン君から何の連絡もない?」
「ええ……」
 
 ある日、あの子が消えてしまった。
 突然騎士を辞めてしまったらしい。
 誰にも何も言わず……店の前には夫が打った剣と、金が詰まった鞄が置いてあった。手紙もついていなかった。
 街では既に「商家の娘を弄んで捨てた」だの「食事中の給仕を突然殴りつけて暴れ回った」だの好き勝手な噂が流れている。
 真偽はどちらでもいい。真面目なあの子が何もかも投げ出すなんて信じられない。一体何があったのだろう?
 
「俺はちょっと後悔しててね……」
「後悔?」
 
 パン屋の店主が物憂げに呟いた。
 彼はグレンが店に来た時に物乞いだと思ってあの子を追い払ったことがある。
 私が挨拶に行くと渋々ながらも受け入れるようになり、次第にあの子もここへ足を運ぶようになっていた。ここに売っているチョコレートが挟まったパンが好きだった。
 
「グレン君は騎士になるの乗り気じゃなかったみたいだから『ガストンさん達も喜んでくれるし恩返しができる』なんて言っちまって……それが彼を縛ってしまったのかなぁって」
「そうだったの。でも、決めたのはあの子だからね……」
 
 そう、決めたのはあの子。
 だけど恩返しなんて……もし、その為にあの子が騎士になったのなら。
 着たくないはずの黒い服を着て好きじゃないはずの戦いに身を投じたのなら、あの子を縛り付けたのは、私と夫だ。
 
 
 ◇
 
 
 あの子が消えてから醜い噂話が絶えない。
 時折こちらに煮染めたような悪意を直接ぶつけてくる者もいた。
 
「メリアさん……やっぱりこうなったね」
「はい?」
 
 店先で掃除をしていたら、ニヤニヤしながら一人の男が声をかけてきた。
 店の常連でもなければ一度たりとも店に来たこともない、どこの馬の骨ともしれない人間だ。
 
 ――誰? 昔話したことでもあったかしら。あたしも夫に負けず劣らずの人嫌いだから、嫌いな人間をいちいち覚えていない。
 
「やっぱり、カラスってこんなものだよ。将軍にまでなっておきながら全部投げ出して逃げてさぁ、恩知らずだよね全く。あー、ご愁傷様」
「うるさい!! 誰なんだよあんた!!」
 
 男のニヤケた顔に向けて、掃除に使っていた水を思い切りぶっかけてやった。
 
「『恩知らず』? あの子のこともあたしらのことも何一つ知らない人間が、軽々しく"恩"を語らないでちょうだい!! あたしらはそんなもの与えたつもりはないし、あったとしてもそれはとっくに返してもらってる! あの子は立派だ、黒天騎士、それも将軍なんか簡単になれないんだからあたしらよりもよっぽど立派な人間さ! あんたの如き人間があの子を……あたし達の息子を侮辱するんじゃない!!」
 
 男はしばらく呆然としていたが、声を震わせながら「やっぱりカラスの飼い主は頭がおかしい」と捨て台詞を言って走り去った。反撃を想定していなかったらしい……腰抜けめ。
 こんなに感情が昂ぶったのは、数年前、我が子を喪った時以来だろうか。
 
 
 ◇
 
 
 クライブ君にあの子に渡してもらうための手紙を書こうと思っていたのに、頭に血が上って何も考えられない。
 店の留守を預かる気にもなれず、店じまいをしてから飲み物を飲んで気を落ち着かせ、ようやく机に向かうも――。
 
「…………」
 
 何を書けばいいか、分からない。

「帰っておいで」?
「何があったか話してちょうだい」?

 あれもこれも、何か違う。何を書いても白々しく思えてしまう。だって、私達は言葉で思いを伝え合ってこなかった。
 家族のように思っていた、あたしらよりもよっぽど立派な人間、息子を侮辱するんじゃない――そういう言葉を、一度だってあの子にかけてやったことがあっただろうか?
 実の親子でも言葉を尽くさないと思いが通じないことがある。血のつながらない、周りに否定をされ続けてきたあの子にはもっともっと言ってやらなきゃならなかったのに。
 
「……う……っ、……っ」
 
 ペンを走らせることができず、便せんが涙で濡れるばかり。新しいのに書き直さなきゃいけない。
 自分という人間は、いつもこうだ。
 気恥ずかしいから、照れくさいからと、つっけんどんな態度でしか接することができない。
 長い付き合いの夫はそんな自分でも分かってくれる。でもあの子にはそれではいけなかった。
「口では突き放したようなことを言っても行動で示しているから分かるはず」――なぜ、それをあの子に押しつけたの。
 
『将軍にまでなっておきながら全部投げ出して逃げてさぁ、恩知らずだよね全く』
 
 きっとあの子も同じことを考えている。だから帰ってこない。帰ってこられないんだ。
 床に吐いて『ごめん、掃除をするから』と言ったあの子。
 あの子にとってここは今もなお、"吐いたら謝らないといけない場所"。
 "家"じゃない。私達夫婦のことも、家族とは思っていない。

 来たばかりの時『俺を引き取ると助成金が出るのか』なんて聞いてきた。
 店にたまに来たときは必ず金を払っていった。
 あの子は私達に何かを返したかったのかもしれない。でも何を返せばいいか分からないから金を置いていく。

「晩ご飯食べていくかい?」――たまにあの子がここへ来たとき、そんな風に聞いていた。それじゃあ、駄目だった。
 そう聞くとあの子は遠慮して「いらない」と言ってしまう。私が「料理作るのが嫌いだ、面倒だ」としょっちゅうこぼしていたから。
「晩ご飯食べていきな」と、そう言ってやらなければいけなかったのに。
 
「あの屋根裏なんかはもう、あんたには狭すぎるね。騎士の寮の方が立派だろ」
 ――狭いから嫌だなんてあの子は言ったことなかった。
「狭いだろうけど泊まっていきな、ちゃんと綺麗にしてあるから」
 ――なんで、それが言えなかったの。どうして。
 いるだけでいい、それが何より価値があると私達は教えなかった。
 あの子の心を繋げるようなことを言ってこなかった。
 
「メリア、店が閉まってるがどうした、具合でも悪い――」
「…………っ」
「……どうした」
 
 帰宅した夫が、机に突っ伏して嗚咽している私を見て立ち尽くす。
 しかしすぐに私の元へやってきて手を取り立ち上がらせ、私を抱きしめた。
 
「あんた……う……っ、う、う……っ、グレン、グレンは、どこ行っちゃったんだろう……」
「……」
「……なんで、なんにも、言わないで……っ、あんな金なんていらない、恩なんか、返さなくて、いいのに……! うう……っ」
「……」
「あたし……あたしはまた、子供を守れなかった……っ」
「ああ。…………俺達は、ずっと親をできないな」
「……っ、うう……っ」
 
 夫は私を痛いくらいに抱きしめる。夫もまた消えた息子を思うと辛いのだろう。
 じゃあ、あの子は……辛いときに誰に寄りかかるのだろう?
 
 ――ごめんなさい。私達は言葉が圧倒的に足りなかった。
 口下手を理由にして、あんたの心を見て、包んで、満足に愛してやることができなかった。
 私達は、親失格だ。
 
 
『 グレン
 
  今どこで何をしていますか? 
  顔を見せにくければ無理にとは言いません。
  ただ無事であればそれでいいので、返事をちょうだい。
  そしてこれだけは言っておきます。
  私も主人も、あなたのことを信じていますから。
 
     メリア・マードック 』
 
 
 これが私に書ける精一杯。
 あの子は読んでくれるだろうか。
「返事をちょうだい」と書いたけど、別にそれはどちらでもいい。
 どうか、何があっても信じる人間がいることを知って欲しい。
 
 帰ってきて欲しいけれど、この街はあの子に厳しすぎた。
 それよりはどこか差別や偏見のないところで、ありのままのあの子を見てくれる人と出会って、愛して愛されて……そんな当たり前の幸せを手に入れてくれれば――。
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