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同級生
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放課後の校舎は妙に音が響く。
校庭から反響したホイッスルの高い音が、廊下の空気を一瞬振るわせた。
通りがかりに先生に頼まれて保健室の前の掲示板のポスターを張り替えていた私は、それが自分に対する警告のように聞こえた。未成年の飲酒の危険性を訴える一際大きなポスターを掲示板の一番上に貼ろうとつま先立ち、左側を指先で押さえ右側を画鋲で止めようとして、画鋲を落としてしまったところだったから。
薄暗い廊下に転がった画鋲の先端を見て、私はふとその尖り具合がよく似ていた同級生を思い出した。
――あんたみたいなのを偽善者って言うんだよ!
半年前、彼女は私をそう罵った。
二年生になって同じクラスになった彼女の、一学期の間の様子はあまり記憶にない。それほど目立った存在ではなかったから。
それが二学期になると一変していた。
校則違反の変形した制服と派手な色になった髪。荒い言葉遣いと粗野な態度――夏休み明けにありがちな変化と言えばそれまでだけど、周囲を驚かせるには十分な変化だった。
急激に荒れた原因は父親の不倫による家庭不和だという噂を聞いた。そして離婚に際して両親のどちらともが彼女の親権を受け持つのを拒否しているらしい、と。
彼女は自分の居場所の基本となる場所が崩れたのに比例して教師や友人に対する敬意も思いやりも失くしたようで、自分に意見する者は全て気に入らず、居丈高に相手を罵倒した。その一方で、似たように態度の悪い同級生や先輩のいるグループに入り浸り、歪んだ笑い顔を見せていた。
周りも自分も傷付けながら彼女は孤立していった。二学期も終りに近づく頃には、クラスの誰も彼女と視線さえ合わさなくなっていた。
私もみんなと同じように、彼女を避けた。元々彼女と話をするほど親しくもなかったので、特に意識して彼女を遠ざけた感はなかったけれど、積極的に話しかけたいとも思えなくなっていた。
私にとっての彼女は、クラスという同じ囲いの中で息をしているだけ人型に過ぎなかった。
半年前、そんな彼女に声をかけた理由はただ一つ、私が保健委員だったからだ。
体育の授業の後、更衣室で不意に彼女が体調悪そうにしゃがみ込んだ。さすがに傍にいた級友が具合を尋ねたが、彼女は「余計なお世話」と突っぱねた。級友たちはその態度に腹を立てて彼女を置いて更衣室を出て行ったが、うずくまる彼女に私は「保健室へ行こう」と声をかけた。
予想通りの反発が返ってきたけれど、彼女の強がりもそこまでだった。気分悪そうに俯いてしまったのを見て私は体育教師を呼び、無理やり彼女を保健室に連れて行った。
運悪く保健室の先生はどこかに出ていて不在だった。体育教師が先生を探しに行っている間、私が彼女に付き添った。
ベッドに寝かされた彼女に「大丈夫?」と声をかけると、
――白々しい
彼女は私を不機嫌に睨んだ。
――心配してるふりなんかすんな! 本当はあたしのことなんてどうでもいいくせに!
それは、私の本質を見抜いて言ったセリフなのか、単なる八つ当たりだったのかは分からない。
けれど、彼女の言う通りだった。私は彼女の身体をを心配したわけではなく、ただ保健委員という役割を担っていたから、その役目を果たしたかっただけだった。
何より、両親の願った「誰にでも優しくできる人」を演じようとしただけだった。
演じようとするなら反論するべきだったのに、弁解するべきだったのに、私は黙してしまった。彼女を説得できるほどの言葉も誠意も、私は持っていなかったから。
黙したまま立ち尽くす私を見て、彼女は吐き捨てるように言った。
――あんたみたいなのを偽善者って言うんだよ!
私は頷いた。頷くしかなかった。
彼女に言われるまでもなく、私はとっくの昔に自分の中に真の意味での善はないと自覚していた。
誰に優しくしようと、どう優しくしようと、所詮それは紛い物。偽物。
――だったら、あなたを心から心配してくれるのは誰?
私は彼女に聞いた。
――私がその人をここに呼んできてあげる
彼女に対して誠意のある優しさを持った人なら、きっと彼女を癒せるだろう。慰められるだろう。
――例えその人が授業中でも仕事中でも、土下座でも何でもしてここに連れてきてあげる。だから、教えて?
彼女はしばらくの間私の顔を見つめ、
――……いない
呟いて布団をかぶって背を向けた。
――誰もいない! あたしを心配してくれる人間なんて、誰もいない!
布団の中で身を震わせて、彼女は泣いた。
翌日から彼女は学校へ来なくなり、冬休みの間に誰にも別れも告げず、県外へ引っ越して行った。結局彼女の両親は離婚し、母方の叔母の所に身を寄せたらしい話は聞いたけれど、一週間もしないうちに彼女の噂話は立ち消えた。
あの時、心配してくれる人間なんて誰もいないと泣いた彼女に、「そんなことはない」と私は言えなかった。
彼女が誰も信じられないからこそ、何にも傷つけられたくなくて排他的になって行ったのだろうことは想像がついても、彼女が抱えている深い孤独や絶望を同じレベルで感じることができない私が、口先だけの慰めを言っても役に立つとは思えなかった。
なのに、一言だけ、つい正直に言ってしまった。
――それは……淋しいね
すでに彼女が嫌というほど身に沁みている味わっている事実をわざわざ口にするなんて、やはり私には人として大事なものが欠けている。
ため息をついた時、廊下を誰かが走ってくる音がして、私は現実に引き戻された。
「ごめんなさい。そこに画鋲を落としたから、踏まないように気をつけてください」
これか、と大きな人影が屈んで、立ち上がる。
画鋲を拾ってくれたのは、同じクラスの柚木君だった。
クラス替えで今年度初めて同じクラスになったけれど、彼とは未だに話をしたことがなかった。席もアルファベット順のグループ分けも彼とは離れていたし、話すきっかけもなかった。
泥と汗に汚れたトレシャツ姿の彼はズカズカと私に近寄ってきて、ポスターの右側を拾った画鋲で止めてくれた。私より頭一つ背の高い彼には楽な作業だった。
「画鋲、もひとつ」
差し出した画鋲を受け取ると反対側も止める。
「……どうもありがとう」
おう、と笑って彼は保健室に入っていった。
「せんせー、ちょっと腕やっちまったんだけどー」
彼の右上トレシャツが切れて血で盛大に汚れていた。
「せんせー、いないのー」
部屋の中で大声を上げる彼に、
「あの、さっき、用事があるってどこかに行ったけど」
と声をかけると、
「まいったなー。時間ないってのに」
彼は不満げに溜息をついた。
もういいか、とあっさり保健室を出て行こうとして、彼は私の方を見た。
「そうだ。久保田さん、これ、何とかしてくれないか」
と腕を指す。
「このまま戻ったら試合に出してもらえないかもしれないから。チャッチャッと絆創膏でも貼ってくれ」
傷の手当ての薬や包帯のある場所は知っている。私は頷いて保健室に入り、洗面台で手を洗った。
「袖、めくってくれる?」
ワゴンの上に消毒液やガーゼを出しながら言うと、椅子に座って壁の時計を気ぜわしく見ていた彼は、めんどくさい、とトレシャツを脱いだ。
「傷口、水で洗える? 泥だらけだから」
彼は頷いて勢いよく立ち上がり、洗面台で泥を洗い流した。
傷は想像以上に酷かった。何かで切ったような傷はそう深くはなさそうだが、血が止まらない。とりあえずガーゼで傷口を抑えて椅子に座ってもらい、消毒液を浸したコットンで傷を消毒する。溢れる血が瞬く間に白いコットンを真紅に染めた。
生命の美しい赤。
私の血はきっとこんなにきれいな色はしていない。濁り、淀み、腐りかけている。
傷口に薬を塗ったガーゼを厚く当てて包帯を巻こうとすると、それまで何も言わなかった柚木君が慌てたように声を上げた。
「ちょ、待って。包帯なんかいいって。カットバンで十分」
「でも……カットバンで何とかなるような傷じゃないの」
「大げさなのは勘弁して」
彼は左手で拝む仕種をして笑ったけれど、私が困った顔をすると、
「あー、じゃ、巻いといて」
渋々納得した様子で、それっきりまた黙り込んだ。
当てたガーゼにはもう血が染み出ている。結構酷い傷なのに、そういえば彼は痛いの一言も言わない。
『大丈夫?』と聞いてみた方がいいのだろうか。でも、今更? それは最初にかけるべき言葉だったのに。
じゃあ、『痛くない?』……馬鹿馬鹿しい、この傷で痛まない訳がないのに分かりきったことを聞くなんて。第一、全然親しくない私が気遣いをみせても白々しいかもしれない。
私の内側から「偽善者」と罵る声が聞こえた気がした。
何も言えない私と何も言わない彼。
遠く、ランニングする集団の掛け声が聞こえる。放課後の校庭には健康な精神が溢れている。私はそこから遠い場所で、血と傷に向かい合っている。
包帯を巻き終わると、待ちかねたように柚木君が立ち上がった。
「サンキュー。よし、後半戦には間に合う」
彼は包帯を巻いたばかりの腕をグルグル回す。よく鍛えられた上半身が薄く光を弾いてきれいだった。
「久保田さんって、変わってるな」
脱ぎ捨てたシャツを拾いながら、彼がふいに私の方を向いた。
「何が」
「普通、聞かないかな。どうしたのかって」
他人などどうでもいいと思っている私には、こんな思考の穴がある。気を抜けば素の私はこんなにも思いやりがないと露呈する。
どう言い訳しようか口ごもった私を見て、
「久保田さん、あのさ……」
シャツを手にしたまま、柚木君が顔をしかめた。何かを言いたいけれど言葉が見つからない、そんな表情だった。
何? と問い返そうした時、バタバタと騒がしい足音と共に、数人の男子が駆け込んできた。
「柚木、大丈夫か」
一番に入ってきたのは、去年同じクラスだった木下君だった。
「へーキだって。来るなって言っただろう。騒ぐほどのことじゃないって」
柚木君は笑いながら、包帯の腕を見せないようにさり気なく体の向きを変える。
「先輩、すいませんでした」
後ろにいた二年生らしい子が深く頭を下げるのを見て、
「だから平気だって。気にするな、単なる事故だ。お前のせいじゃない」
柚木君は苦笑してシャツを着た。
「今、ハーフタイムか? さっさと戻ろうぜ」
「馬鹿、お前その怪我で出るつもりか」
「やめとけ。今日はもう帰って休めよ」
心配する彼らに、柚木君は元気に笑った。
「なーに言ってんだ。足削られた訳じゃなし。サッカーは手使わないんだから、足さえ怪我してなけりゃ問題ない、ない」
行くぞ、と柚木君は明るく笑い、うなだれた後輩の首を抱えるようにして保健室を出て行った。チームメイトたちも彼を追いかけて出ていく。
「あれ、久保田さん」
木下君がようやく私に気づき、声をかけてきた。
「あ、もしかして、柚木の手当て久保田さんがやってくれたの?」
「うん、保健室の前にいたら、柚木君に先生がいないから代わりに手当してくれって頼まれて……」
「ごめんね、世話かけて」
木下君とは共同学習で同じ班になったよしみで、比較的話した方だった。体育会系にしては穏やかな性格で面倒見がよく、それでキャプテンに選ばれたのだと誰かが言っていた。
「部内で練習試合をやっててね、ディフェンスの奴ともつれて倒れた柚木の腕に、ボール入れの仮修理に巻いてあった針金の先が当たったらしいんだ」
流血したまま試合を続けようとする彼を叱り飛ばして止めさせ、保健室へ連れて行こうとしたが、付き添いは断固として拒否された、と木下君は苦笑いしてみせた。
「あいつの怪我、どうだった? 酷いんじゃないの?」
「病院へ行った方がいいと思う」
そうだろうね、と彼は頷いて溜息をつく。
「僕も言ったんだけど、あいつ、頑固だから。ていうか、周りに気遣ってんだよ。特に柚木を押し倒した形になった後輩、すっごく動揺してたから。これ以上気に病まないように平気なふりをしているんだと思うよ」
「余計なこと言うなよ」
いつの間にか柚木君が引き返して来ていて、しかめ面で入り口に立っていた。
「後半始まるぞ。いつまでしゃべってんだ」
はいはい、木下君は軽く笑って、
「じゃ、久保田さん、ホントにありがとう」
ポン、と私の肩を叩いて行った。
「お前、それセクハラ」
廊下で柚木君が笑って言った。
「上半身裸を見せつけた方がもっと悪質じゃないか」
木下君の切り返しを、柚木君はふんと鼻で笑って済ませた。
彼らの足音が遠ざかっていく。伸びやかな、生気溢れる世界が遠ざかっていく。
ガーゼや薬を片づける私の手に、触ったはずの柚木君の腕の感触や体温は一かけらも残っていなかった。ゴミを捨てて何もかもを元の場所に戻してしまうと、彼がそこにいたことすら現実だったのか分からなくなる。
ポスター貼りの続きするために廊下に出ると、そこに柚木君の存在証明を見つけた。
貼りかけのポスターの右上の画鋲のすぐ横に、彼の泥の指紋がくっきりとついていた。
校庭から反響したホイッスルの高い音が、廊下の空気を一瞬振るわせた。
通りがかりに先生に頼まれて保健室の前の掲示板のポスターを張り替えていた私は、それが自分に対する警告のように聞こえた。未成年の飲酒の危険性を訴える一際大きなポスターを掲示板の一番上に貼ろうとつま先立ち、左側を指先で押さえ右側を画鋲で止めようとして、画鋲を落としてしまったところだったから。
薄暗い廊下に転がった画鋲の先端を見て、私はふとその尖り具合がよく似ていた同級生を思い出した。
――あんたみたいなのを偽善者って言うんだよ!
半年前、彼女は私をそう罵った。
二年生になって同じクラスになった彼女の、一学期の間の様子はあまり記憶にない。それほど目立った存在ではなかったから。
それが二学期になると一変していた。
校則違反の変形した制服と派手な色になった髪。荒い言葉遣いと粗野な態度――夏休み明けにありがちな変化と言えばそれまでだけど、周囲を驚かせるには十分な変化だった。
急激に荒れた原因は父親の不倫による家庭不和だという噂を聞いた。そして離婚に際して両親のどちらともが彼女の親権を受け持つのを拒否しているらしい、と。
彼女は自分の居場所の基本となる場所が崩れたのに比例して教師や友人に対する敬意も思いやりも失くしたようで、自分に意見する者は全て気に入らず、居丈高に相手を罵倒した。その一方で、似たように態度の悪い同級生や先輩のいるグループに入り浸り、歪んだ笑い顔を見せていた。
周りも自分も傷付けながら彼女は孤立していった。二学期も終りに近づく頃には、クラスの誰も彼女と視線さえ合わさなくなっていた。
私もみんなと同じように、彼女を避けた。元々彼女と話をするほど親しくもなかったので、特に意識して彼女を遠ざけた感はなかったけれど、積極的に話しかけたいとも思えなくなっていた。
私にとっての彼女は、クラスという同じ囲いの中で息をしているだけ人型に過ぎなかった。
半年前、そんな彼女に声をかけた理由はただ一つ、私が保健委員だったからだ。
体育の授業の後、更衣室で不意に彼女が体調悪そうにしゃがみ込んだ。さすがに傍にいた級友が具合を尋ねたが、彼女は「余計なお世話」と突っぱねた。級友たちはその態度に腹を立てて彼女を置いて更衣室を出て行ったが、うずくまる彼女に私は「保健室へ行こう」と声をかけた。
予想通りの反発が返ってきたけれど、彼女の強がりもそこまでだった。気分悪そうに俯いてしまったのを見て私は体育教師を呼び、無理やり彼女を保健室に連れて行った。
運悪く保健室の先生はどこかに出ていて不在だった。体育教師が先生を探しに行っている間、私が彼女に付き添った。
ベッドに寝かされた彼女に「大丈夫?」と声をかけると、
――白々しい
彼女は私を不機嫌に睨んだ。
――心配してるふりなんかすんな! 本当はあたしのことなんてどうでもいいくせに!
それは、私の本質を見抜いて言ったセリフなのか、単なる八つ当たりだったのかは分からない。
けれど、彼女の言う通りだった。私は彼女の身体をを心配したわけではなく、ただ保健委員という役割を担っていたから、その役目を果たしたかっただけだった。
何より、両親の願った「誰にでも優しくできる人」を演じようとしただけだった。
演じようとするなら反論するべきだったのに、弁解するべきだったのに、私は黙してしまった。彼女を説得できるほどの言葉も誠意も、私は持っていなかったから。
黙したまま立ち尽くす私を見て、彼女は吐き捨てるように言った。
――あんたみたいなのを偽善者って言うんだよ!
私は頷いた。頷くしかなかった。
彼女に言われるまでもなく、私はとっくの昔に自分の中に真の意味での善はないと自覚していた。
誰に優しくしようと、どう優しくしようと、所詮それは紛い物。偽物。
――だったら、あなたを心から心配してくれるのは誰?
私は彼女に聞いた。
――私がその人をここに呼んできてあげる
彼女に対して誠意のある優しさを持った人なら、きっと彼女を癒せるだろう。慰められるだろう。
――例えその人が授業中でも仕事中でも、土下座でも何でもしてここに連れてきてあげる。だから、教えて?
彼女はしばらくの間私の顔を見つめ、
――……いない
呟いて布団をかぶって背を向けた。
――誰もいない! あたしを心配してくれる人間なんて、誰もいない!
布団の中で身を震わせて、彼女は泣いた。
翌日から彼女は学校へ来なくなり、冬休みの間に誰にも別れも告げず、県外へ引っ越して行った。結局彼女の両親は離婚し、母方の叔母の所に身を寄せたらしい話は聞いたけれど、一週間もしないうちに彼女の噂話は立ち消えた。
あの時、心配してくれる人間なんて誰もいないと泣いた彼女に、「そんなことはない」と私は言えなかった。
彼女が誰も信じられないからこそ、何にも傷つけられたくなくて排他的になって行ったのだろうことは想像がついても、彼女が抱えている深い孤独や絶望を同じレベルで感じることができない私が、口先だけの慰めを言っても役に立つとは思えなかった。
なのに、一言だけ、つい正直に言ってしまった。
――それは……淋しいね
すでに彼女が嫌というほど身に沁みている味わっている事実をわざわざ口にするなんて、やはり私には人として大事なものが欠けている。
ため息をついた時、廊下を誰かが走ってくる音がして、私は現実に引き戻された。
「ごめんなさい。そこに画鋲を落としたから、踏まないように気をつけてください」
これか、と大きな人影が屈んで、立ち上がる。
画鋲を拾ってくれたのは、同じクラスの柚木君だった。
クラス替えで今年度初めて同じクラスになったけれど、彼とは未だに話をしたことがなかった。席もアルファベット順のグループ分けも彼とは離れていたし、話すきっかけもなかった。
泥と汗に汚れたトレシャツ姿の彼はズカズカと私に近寄ってきて、ポスターの右側を拾った画鋲で止めてくれた。私より頭一つ背の高い彼には楽な作業だった。
「画鋲、もひとつ」
差し出した画鋲を受け取ると反対側も止める。
「……どうもありがとう」
おう、と笑って彼は保健室に入っていった。
「せんせー、ちょっと腕やっちまったんだけどー」
彼の右上トレシャツが切れて血で盛大に汚れていた。
「せんせー、いないのー」
部屋の中で大声を上げる彼に、
「あの、さっき、用事があるってどこかに行ったけど」
と声をかけると、
「まいったなー。時間ないってのに」
彼は不満げに溜息をついた。
もういいか、とあっさり保健室を出て行こうとして、彼は私の方を見た。
「そうだ。久保田さん、これ、何とかしてくれないか」
と腕を指す。
「このまま戻ったら試合に出してもらえないかもしれないから。チャッチャッと絆創膏でも貼ってくれ」
傷の手当ての薬や包帯のある場所は知っている。私は頷いて保健室に入り、洗面台で手を洗った。
「袖、めくってくれる?」
ワゴンの上に消毒液やガーゼを出しながら言うと、椅子に座って壁の時計を気ぜわしく見ていた彼は、めんどくさい、とトレシャツを脱いだ。
「傷口、水で洗える? 泥だらけだから」
彼は頷いて勢いよく立ち上がり、洗面台で泥を洗い流した。
傷は想像以上に酷かった。何かで切ったような傷はそう深くはなさそうだが、血が止まらない。とりあえずガーゼで傷口を抑えて椅子に座ってもらい、消毒液を浸したコットンで傷を消毒する。溢れる血が瞬く間に白いコットンを真紅に染めた。
生命の美しい赤。
私の血はきっとこんなにきれいな色はしていない。濁り、淀み、腐りかけている。
傷口に薬を塗ったガーゼを厚く当てて包帯を巻こうとすると、それまで何も言わなかった柚木君が慌てたように声を上げた。
「ちょ、待って。包帯なんかいいって。カットバンで十分」
「でも……カットバンで何とかなるような傷じゃないの」
「大げさなのは勘弁して」
彼は左手で拝む仕種をして笑ったけれど、私が困った顔をすると、
「あー、じゃ、巻いといて」
渋々納得した様子で、それっきりまた黙り込んだ。
当てたガーゼにはもう血が染み出ている。結構酷い傷なのに、そういえば彼は痛いの一言も言わない。
『大丈夫?』と聞いてみた方がいいのだろうか。でも、今更? それは最初にかけるべき言葉だったのに。
じゃあ、『痛くない?』……馬鹿馬鹿しい、この傷で痛まない訳がないのに分かりきったことを聞くなんて。第一、全然親しくない私が気遣いをみせても白々しいかもしれない。
私の内側から「偽善者」と罵る声が聞こえた気がした。
何も言えない私と何も言わない彼。
遠く、ランニングする集団の掛け声が聞こえる。放課後の校庭には健康な精神が溢れている。私はそこから遠い場所で、血と傷に向かい合っている。
包帯を巻き終わると、待ちかねたように柚木君が立ち上がった。
「サンキュー。よし、後半戦には間に合う」
彼は包帯を巻いたばかりの腕をグルグル回す。よく鍛えられた上半身が薄く光を弾いてきれいだった。
「久保田さんって、変わってるな」
脱ぎ捨てたシャツを拾いながら、彼がふいに私の方を向いた。
「何が」
「普通、聞かないかな。どうしたのかって」
他人などどうでもいいと思っている私には、こんな思考の穴がある。気を抜けば素の私はこんなにも思いやりがないと露呈する。
どう言い訳しようか口ごもった私を見て、
「久保田さん、あのさ……」
シャツを手にしたまま、柚木君が顔をしかめた。何かを言いたいけれど言葉が見つからない、そんな表情だった。
何? と問い返そうした時、バタバタと騒がしい足音と共に、数人の男子が駆け込んできた。
「柚木、大丈夫か」
一番に入ってきたのは、去年同じクラスだった木下君だった。
「へーキだって。来るなって言っただろう。騒ぐほどのことじゃないって」
柚木君は笑いながら、包帯の腕を見せないようにさり気なく体の向きを変える。
「先輩、すいませんでした」
後ろにいた二年生らしい子が深く頭を下げるのを見て、
「だから平気だって。気にするな、単なる事故だ。お前のせいじゃない」
柚木君は苦笑してシャツを着た。
「今、ハーフタイムか? さっさと戻ろうぜ」
「馬鹿、お前その怪我で出るつもりか」
「やめとけ。今日はもう帰って休めよ」
心配する彼らに、柚木君は元気に笑った。
「なーに言ってんだ。足削られた訳じゃなし。サッカーは手使わないんだから、足さえ怪我してなけりゃ問題ない、ない」
行くぞ、と柚木君は明るく笑い、うなだれた後輩の首を抱えるようにして保健室を出て行った。チームメイトたちも彼を追いかけて出ていく。
「あれ、久保田さん」
木下君がようやく私に気づき、声をかけてきた。
「あ、もしかして、柚木の手当て久保田さんがやってくれたの?」
「うん、保健室の前にいたら、柚木君に先生がいないから代わりに手当してくれって頼まれて……」
「ごめんね、世話かけて」
木下君とは共同学習で同じ班になったよしみで、比較的話した方だった。体育会系にしては穏やかな性格で面倒見がよく、それでキャプテンに選ばれたのだと誰かが言っていた。
「部内で練習試合をやっててね、ディフェンスの奴ともつれて倒れた柚木の腕に、ボール入れの仮修理に巻いてあった針金の先が当たったらしいんだ」
流血したまま試合を続けようとする彼を叱り飛ばして止めさせ、保健室へ連れて行こうとしたが、付き添いは断固として拒否された、と木下君は苦笑いしてみせた。
「あいつの怪我、どうだった? 酷いんじゃないの?」
「病院へ行った方がいいと思う」
そうだろうね、と彼は頷いて溜息をつく。
「僕も言ったんだけど、あいつ、頑固だから。ていうか、周りに気遣ってんだよ。特に柚木を押し倒した形になった後輩、すっごく動揺してたから。これ以上気に病まないように平気なふりをしているんだと思うよ」
「余計なこと言うなよ」
いつの間にか柚木君が引き返して来ていて、しかめ面で入り口に立っていた。
「後半始まるぞ。いつまでしゃべってんだ」
はいはい、木下君は軽く笑って、
「じゃ、久保田さん、ホントにありがとう」
ポン、と私の肩を叩いて行った。
「お前、それセクハラ」
廊下で柚木君が笑って言った。
「上半身裸を見せつけた方がもっと悪質じゃないか」
木下君の切り返しを、柚木君はふんと鼻で笑って済ませた。
彼らの足音が遠ざかっていく。伸びやかな、生気溢れる世界が遠ざかっていく。
ガーゼや薬を片づける私の手に、触ったはずの柚木君の腕の感触や体温は一かけらも残っていなかった。ゴミを捨てて何もかもを元の場所に戻してしまうと、彼がそこにいたことすら現実だったのか分からなくなる。
ポスター貼りの続きするために廊下に出ると、そこに柚木君の存在証明を見つけた。
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