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新たな暮らしと、皇太子の帰還
新たな暮らしと、皇太子の帰還②
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新居に引っ越してからあっという間に四日過ぎていた。
引っ越しの手伝いに来てくれたイグナーツはいつの間にか住み着いていて、日々マルゴットと嫌味の応酬をしている。ジルにとってはマルゴットの方が大事なのだが、いつまでもイグナーツをホテルに住ませるのも心苦しく、彼が新居を見つけるまでの条件で、渋々許している状況だ。
だが彼が来て良かった事もあった。
家全体の管理をした事の無いジル達は取り敢えず、寝室や厨房の用品等を中心に整えていたのだが、他にも必要な物は山ほどあるらしく、イグナーツはサッサと不足分をリストアップし、用意してくれた。
(イグナーツには家で働いてくれている分の給料もあげるべきよね……)
ジルは目の前のデスクに座り、赤いインクで資料にマークする彼の顔をボンヤリ眺める。
今日は午前に大学へ行き、フェーベル教授を少し手伝った後、『山羊の角物産』に顔を出している。
いつの間にか代表取締役兼会長という役職を任されたジルは、役員室に通され、大きなデスクの前にチョコンと座る。
イグナーツが資料を作り上げるまで、特にやる事も無く、物思いにふける。
今日はハイネが凱旋する日で、オイゲンにはパレードの前に彼に会ってほしいと言われていた。だけど、ジルはそれを断った。ハイネとは公式では何の関係でもないのに、目立つ場にノコノコ行きたくないのだ。将来どうなるか分からないのに、変な噂がたってしまったら、彼が将来困るかもしれない。
目立たない場所からパレードで通るハイネの姿を見るだけにしようと決めている。
「お嬢様、七月度分の業績がまとまったので、ご確認をお願いします」
「え!? あぁ……有難う」
目の前に差し出された資料を慌てて受け取る。
イグナーツに手渡されたのは、月ごとに損益が確認出来る推移表と、資産や負債がザックリとまとまった資料。ジルは先月も同じ種類の資料の六月分を確認していた。
もらった月次の資料を見ると、業績は相変わらず右肩上がりで、驚くような桁の金額がズラリと並ぶ。
資産や負債の方は、資産がかなり多く、負債は商品を仕入れた時に一時的に発生する分くらいしかない。
その中でも、短期的な債権が六月度に比べて妙に増えているのか気になった。
「ねぇ、イグナーツ。お客様からちゃんと代金の回収は出来ているのかしら? ツケで売ったままにしてない? 七月の売り上げに対して、短期で回収するはずの債権の増加分が妙に多い気がするのだけど」
イグナーツは叱られた犬の様な表情で頷く。
「……流石お嬢様。着眼点が素晴らしいです。実は顧客の中に支払いが滞り気味の方がいらっしゃいます」
「あら……」
「うちの会社から錬鉄等の中間材を買っている建設会社なんですよね……」
イグナーツは得意先に対しての売り上げと代金が回収出来てない債権が載った帳簿をジルに持って来てくれた。
「有難う。ちょっと見てみるわね」
「やっぱりお嬢様は公爵様譲りの経営センスをお持ちなのですね」
「え!? 別に大した事言ってないと思うわ! お父様と食事した時のボヤキを何となく覚えてたから、注目しただけじゃないかしら?」
「昔から経営なんて興味無さそうでしたのに、それでも公爵様の言葉を覚えていらっしゃるのが凄いのです!」
「うーん……」
無駄に褒め称える彼を無視し、帳簿を捲る。探し出したページには取引先の名称と金額が載っている。
一番上の――――つまり『山羊の角物産』へ支払う金額が一番大きい企業名は『石の家組』で、全部合わせると、七月度の売上の四分の一相当あるようだ。
「もう少し支払い能力のある会社と取引した方がいいような気がするわ。こんなんじゃ、うちの会社の現金が無くなって、潰れてしまう事になっちゃうと思うのよ」
「申し訳ありません。どうもうちの会社、物が売れればそれで良しと考える者が多いようで、代金を現金で回収するという事に意識が向いてないようです。私が従業員にちゃんと指導いたします」
「有難う。イグナーツ。最初はムッとされてしまうかもしれないけれど、皆にとって大事な事だって理解してもらったら、受け入れてもらえるはずよ」
「その通りだと思います。あの……お嬢様……。従業員を代表する私をきつく叱ってくれませんか?」
「えっと……」
「もっと否定されたいのです!」
イグナーツは危ない眼差しでジルの足元に跪く。まだ夏なのに、寒々しい。あまり二人きりで同じ部屋にいたくない。時間的にもそろそろパレードが始まる頃合いでもあるので、会社を出て行った方がいいだろう。
「私……先に家に帰るわね」
「はい! さっきお嬢様が言っていた事了解いたしました! 従業員にはマリク伯爵家が運営する会社との取引には気を付ける様にと言っておきます」
「え? 『石の家組』はマリク伯爵家がオーナーを務めているの?」
「そうです。貴重な助言有難うございます」
(またマリク伯爵家……何かと縁があるわね)
少し不思議に思うも、ジルの実家シュタウフェンベルク公爵家も母国で幅広く事業等を行っていたので、上位貴族ならそんなものなのかもしれないと考える。
「家まで送らなくて大丈夫ですか?」
「ええ! ちょっと寄り道して帰りたいから」
「そうですか。お気をつけ下さい」
「有難う」
妙に機嫌のいいイグナーツに見送られ、ジルは会社の建物を出た。
そして商業区の通りを西へと進む。凱旋パレードを行う大通りは会社からすぐなので、馬車を使う必要もなく、ノンビリと歩く。
(ハイネ様、元気かしら……?)
パレードを行う予定の大通りへ近付くにしたがい、人の姿が増え、騒めきが大きくなる。
久々に人込みの中に入るジルは辿り着く頃には人に酔ってしまった。
皇族が住む宮殿に続くこの大通りは全長1.5km以上あるのだが、その両側を埋め尽くす人々の数に圧倒される。それに等間隔に衛兵が立ち並ぶ光景は圧巻で、これから行われるパレードの盛大さを予感させられた。
(ここに居る人達は皆、ブラウベルク帝国の国民で、この国の勝利を祝う為にここに集まっているのよね)
これだけ多くのブラウベルク帝国民が集まると、国籍を得たとはいえ、自分が異分子の様に感じられる。
(私、やっぱりここに来るべきじゃなかったのかもしれないわ)
ハイネとはまた後日会い、戦勝を祝えばいいと考え、踵を返す。
だが、後ろを向いた瞬間、大通りの向うから歓声が聞こえ、それが伝染していく。いつのまにか周囲は地を揺らすような大歓声に包まれていた。怖い程の熱狂ぶりに、身がすくむ。こうなってからでは、空気を読まずに集団の中を抜けるのは難しい。
(パレードが始まったの?)
懐中時計を見れば予定より早い時刻だ。
大通りからまず現れたのは、先頭を走る近衛達の姿だった。そしてその後ろからチラリと鮮やかな金髪が見えた。
(ハイネ様……)
彼は黒い馬に跨り、周囲をゆっくりと見回す様に前進する。
皇太子が通りすぎると、彼を称える大声や黄色い声が混じる。
久し振りに見た彼の姿は思ったよりも健康そうだ。そして以前よりも自信に満ちている。
光輝く様な姿を見たジルは、彼の存在が妙に遠く感じられ、下を向いた。
自分と彼の立場の違いを改めて思い知ってしまった。
(来なきゃよかった……)
ハイネはそのまま、俯くジルの前を通りすぎるだろうと思ったが、視線の端で彼の乗る黒い馬が止まるのが見えた。
周囲に居た人々が自分から離れていく。
どうしたのかと顔を上げると、目の前からハイネが近付いて来ていた。
「ハイネ様……?」
不満げな表情の彼は、ジルの間の前で立ち止まる。
「やっと見つけた。何で広場に来ないんだよ!」
「えっと……」
「二か月半会えなくて、手紙だけじゃ足りないって、何週間も前から思ってたのに……。俺だけ直ぐに会いたかったみたいじゃん!」
何千という好奇の視線に視線に晒され、緊張で倒れそうになる。ハイネは一体何を考えているのだろうか? 後退りするが、人の壁がジルの退路を塞ぐ。
会えて嬉しいとは思うものの、早く馬に乗り、走り去ってほしい。こういう形で注目されるのがとてもきつい。
「これからはいつでも会えますから、直ぐに会う必要はないと思って……」
ハイネはイラついた様にジルに手を伸ばす。慌ててその手を避けようとした時にはもう遅かった。
捕まえられたジルは、引き寄せられ、ハイネにどアップで見つめられていた。
これから行われる事を察したらしい観衆達は盛り上がり、声援を送り出す。
(こ、これって……キスされるんじゃ!?)
心臓がうるさく鳴る中、やっとの思いで口を開く。
「あの、放して下さい」
「やだ」
顔がさらに近付く。細められた目はまるで捕食者の様に鋭く、パニックになったジルは、右足を振り上げていた。
「うっ……!?」
思いっきり脛を蹴り、腕から抜け出す。頬をビンタし、両肩を掴んで腹に膝を食らわせた。
「破廉恥です!!」
観衆は静まり返り、皇太子は腹を抑えて地面に転がった。
引っ越しの手伝いに来てくれたイグナーツはいつの間にか住み着いていて、日々マルゴットと嫌味の応酬をしている。ジルにとってはマルゴットの方が大事なのだが、いつまでもイグナーツをホテルに住ませるのも心苦しく、彼が新居を見つけるまでの条件で、渋々許している状況だ。
だが彼が来て良かった事もあった。
家全体の管理をした事の無いジル達は取り敢えず、寝室や厨房の用品等を中心に整えていたのだが、他にも必要な物は山ほどあるらしく、イグナーツはサッサと不足分をリストアップし、用意してくれた。
(イグナーツには家で働いてくれている分の給料もあげるべきよね……)
ジルは目の前のデスクに座り、赤いインクで資料にマークする彼の顔をボンヤリ眺める。
今日は午前に大学へ行き、フェーベル教授を少し手伝った後、『山羊の角物産』に顔を出している。
いつの間にか代表取締役兼会長という役職を任されたジルは、役員室に通され、大きなデスクの前にチョコンと座る。
イグナーツが資料を作り上げるまで、特にやる事も無く、物思いにふける。
今日はハイネが凱旋する日で、オイゲンにはパレードの前に彼に会ってほしいと言われていた。だけど、ジルはそれを断った。ハイネとは公式では何の関係でもないのに、目立つ場にノコノコ行きたくないのだ。将来どうなるか分からないのに、変な噂がたってしまったら、彼が将来困るかもしれない。
目立たない場所からパレードで通るハイネの姿を見るだけにしようと決めている。
「お嬢様、七月度分の業績がまとまったので、ご確認をお願いします」
「え!? あぁ……有難う」
目の前に差し出された資料を慌てて受け取る。
イグナーツに手渡されたのは、月ごとに損益が確認出来る推移表と、資産や負債がザックリとまとまった資料。ジルは先月も同じ種類の資料の六月分を確認していた。
もらった月次の資料を見ると、業績は相変わらず右肩上がりで、驚くような桁の金額がズラリと並ぶ。
資産や負債の方は、資産がかなり多く、負債は商品を仕入れた時に一時的に発生する分くらいしかない。
その中でも、短期的な債権が六月度に比べて妙に増えているのか気になった。
「ねぇ、イグナーツ。お客様からちゃんと代金の回収は出来ているのかしら? ツケで売ったままにしてない? 七月の売り上げに対して、短期で回収するはずの債権の増加分が妙に多い気がするのだけど」
イグナーツは叱られた犬の様な表情で頷く。
「……流石お嬢様。着眼点が素晴らしいです。実は顧客の中に支払いが滞り気味の方がいらっしゃいます」
「あら……」
「うちの会社から錬鉄等の中間材を買っている建設会社なんですよね……」
イグナーツは得意先に対しての売り上げと代金が回収出来てない債権が載った帳簿をジルに持って来てくれた。
「有難う。ちょっと見てみるわね」
「やっぱりお嬢様は公爵様譲りの経営センスをお持ちなのですね」
「え!? 別に大した事言ってないと思うわ! お父様と食事した時のボヤキを何となく覚えてたから、注目しただけじゃないかしら?」
「昔から経営なんて興味無さそうでしたのに、それでも公爵様の言葉を覚えていらっしゃるのが凄いのです!」
「うーん……」
無駄に褒め称える彼を無視し、帳簿を捲る。探し出したページには取引先の名称と金額が載っている。
一番上の――――つまり『山羊の角物産』へ支払う金額が一番大きい企業名は『石の家組』で、全部合わせると、七月度の売上の四分の一相当あるようだ。
「もう少し支払い能力のある会社と取引した方がいいような気がするわ。こんなんじゃ、うちの会社の現金が無くなって、潰れてしまう事になっちゃうと思うのよ」
「申し訳ありません。どうもうちの会社、物が売れればそれで良しと考える者が多いようで、代金を現金で回収するという事に意識が向いてないようです。私が従業員にちゃんと指導いたします」
「有難う。イグナーツ。最初はムッとされてしまうかもしれないけれど、皆にとって大事な事だって理解してもらったら、受け入れてもらえるはずよ」
「その通りだと思います。あの……お嬢様……。従業員を代表する私をきつく叱ってくれませんか?」
「えっと……」
「もっと否定されたいのです!」
イグナーツは危ない眼差しでジルの足元に跪く。まだ夏なのに、寒々しい。あまり二人きりで同じ部屋にいたくない。時間的にもそろそろパレードが始まる頃合いでもあるので、会社を出て行った方がいいだろう。
「私……先に家に帰るわね」
「はい! さっきお嬢様が言っていた事了解いたしました! 従業員にはマリク伯爵家が運営する会社との取引には気を付ける様にと言っておきます」
「え? 『石の家組』はマリク伯爵家がオーナーを務めているの?」
「そうです。貴重な助言有難うございます」
(またマリク伯爵家……何かと縁があるわね)
少し不思議に思うも、ジルの実家シュタウフェンベルク公爵家も母国で幅広く事業等を行っていたので、上位貴族ならそんなものなのかもしれないと考える。
「家まで送らなくて大丈夫ですか?」
「ええ! ちょっと寄り道して帰りたいから」
「そうですか。お気をつけ下さい」
「有難う」
妙に機嫌のいいイグナーツに見送られ、ジルは会社の建物を出た。
そして商業区の通りを西へと進む。凱旋パレードを行う大通りは会社からすぐなので、馬車を使う必要もなく、ノンビリと歩く。
(ハイネ様、元気かしら……?)
パレードを行う予定の大通りへ近付くにしたがい、人の姿が増え、騒めきが大きくなる。
久々に人込みの中に入るジルは辿り着く頃には人に酔ってしまった。
皇族が住む宮殿に続くこの大通りは全長1.5km以上あるのだが、その両側を埋め尽くす人々の数に圧倒される。それに等間隔に衛兵が立ち並ぶ光景は圧巻で、これから行われるパレードの盛大さを予感させられた。
(ここに居る人達は皆、ブラウベルク帝国の国民で、この国の勝利を祝う為にここに集まっているのよね)
これだけ多くのブラウベルク帝国民が集まると、国籍を得たとはいえ、自分が異分子の様に感じられる。
(私、やっぱりここに来るべきじゃなかったのかもしれないわ)
ハイネとはまた後日会い、戦勝を祝えばいいと考え、踵を返す。
だが、後ろを向いた瞬間、大通りの向うから歓声が聞こえ、それが伝染していく。いつのまにか周囲は地を揺らすような大歓声に包まれていた。怖い程の熱狂ぶりに、身がすくむ。こうなってからでは、空気を読まずに集団の中を抜けるのは難しい。
(パレードが始まったの?)
懐中時計を見れば予定より早い時刻だ。
大通りからまず現れたのは、先頭を走る近衛達の姿だった。そしてその後ろからチラリと鮮やかな金髪が見えた。
(ハイネ様……)
彼は黒い馬に跨り、周囲をゆっくりと見回す様に前進する。
皇太子が通りすぎると、彼を称える大声や黄色い声が混じる。
久し振りに見た彼の姿は思ったよりも健康そうだ。そして以前よりも自信に満ちている。
光輝く様な姿を見たジルは、彼の存在が妙に遠く感じられ、下を向いた。
自分と彼の立場の違いを改めて思い知ってしまった。
(来なきゃよかった……)
ハイネはそのまま、俯くジルの前を通りすぎるだろうと思ったが、視線の端で彼の乗る黒い馬が止まるのが見えた。
周囲に居た人々が自分から離れていく。
どうしたのかと顔を上げると、目の前からハイネが近付いて来ていた。
「ハイネ様……?」
不満げな表情の彼は、ジルの間の前で立ち止まる。
「やっと見つけた。何で広場に来ないんだよ!」
「えっと……」
「二か月半会えなくて、手紙だけじゃ足りないって、何週間も前から思ってたのに……。俺だけ直ぐに会いたかったみたいじゃん!」
何千という好奇の視線に視線に晒され、緊張で倒れそうになる。ハイネは一体何を考えているのだろうか? 後退りするが、人の壁がジルの退路を塞ぐ。
会えて嬉しいとは思うものの、早く馬に乗り、走り去ってほしい。こういう形で注目されるのがとてもきつい。
「これからはいつでも会えますから、直ぐに会う必要はないと思って……」
ハイネはイラついた様にジルに手を伸ばす。慌ててその手を避けようとした時にはもう遅かった。
捕まえられたジルは、引き寄せられ、ハイネにどアップで見つめられていた。
これから行われる事を察したらしい観衆達は盛り上がり、声援を送り出す。
(こ、これって……キスされるんじゃ!?)
心臓がうるさく鳴る中、やっとの思いで口を開く。
「あの、放して下さい」
「やだ」
顔がさらに近付く。細められた目はまるで捕食者の様に鋭く、パニックになったジルは、右足を振り上げていた。
「うっ……!?」
思いっきり脛を蹴り、腕から抜け出す。頬をビンタし、両肩を掴んで腹に膝を食らわせた。
「破廉恥です!!」
観衆は静まり返り、皇太子は腹を抑えて地面に転がった。
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