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第10話
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黙々と歩くこと半刻あまり。
だいぶ村外れまで来たと見えて、周囲の景色はだいぶ変化し、所々開墾された茶色い地肌を晒した空き地を除けば、殆どが蔓草の縺れた低木が鬱蒼と茂り、山野特有の青臭くて甘い匂いが辺りの熱気の中に爛熟していた。
僕もここまで歩いてきたのは初めてだった。
だんだん道の勾配も高くなり、野道を歩くというよりも山道を登る態になりつつある。
「姉さまぁ……」
もう何度目かわからない、全く歩調を乱すことなく数歩先を進む姉の背中に呼びかける弟の声に悲壮感漂う疲労の色を読み取ったか、
「もうちょっとの辛抱、あと少しだけ歩くわよ」
と少し歩調を緩めてくれた。
「何処へ行くの?」
これももう何度目かの質問に、もうそろそろ良いかしらね、と初めて姉はにっこり笑って言った。
「神様を見に行くの」
「神様?」
「そう、白蛇の神様。いつかお前にも話したでしょう?」
そう言われて頭を過る去年の初夏の夕暮れの光景。
沈みかけた夕陽を浴びて水面に縹色の影を落とし、川辺で何かを無心に見つめていた姉の姿。
あれは僕を怖がらせようと冗談を言っていたわけではなかったのか。
「もうわかったでしょう? この上をもう少し登っていくと、鎮守の森の祠があるの。そこに行くと、運が良ければ、川を遡って社に帰ってくる神様が見えるのよ? うん、今日はきっと見ることができるわ。とても大きな蛇だから勝太郎もきっと吃驚してよ」
さあ、行きましょう。と姉は僕に背を向け歩調を戻した。
「――でも、可哀想。森に帰ってきても、神様のお家はもう壊されてしまったのだもの」
……歩きながらもひとり何かを呟いている姉の後ろ姿を見ているうちに、再びあの夕暮れの光景が頭に浮かぶ。
大胆に裾を開き、真っ白な裾よけを紅く染め、更に陶磁のように真っ白な太腿を蛇の舌が舐るように流れ伝う赤い血と、一瞬別人のように豹変した姉のわらい。
おもては涼しそうな装いでも、炎天下にこれだけ山道を歩いた姉の着物の後ろには、大きく汗の地図が浮いている。長着も肌襦袢も汗で一緒くたに張り付き、青澄んだ肌の色がそこはかとなく浮かび上がっている。
下半分も鬱陶し気に肌に張り付いて、傾斜のある山道をやや歩幅を開いて歩いているため、普段以上に尻の丸みが強調され、一歩前に進むたび尻や太腿の付け根あたりが肉感的な躍動を繰り返す。
ふと、先ほどすれ違った農夫が、いつまでも姉の後ろを追い続けていた、あの視線を思い出す。
きっとあの百姓の親爺も、すれ違う際姉の美貌に目を奪われ、その後ろ姿を捉えるうちに、娘の尻の躍動を目の当たりにし、つい欲望を虜にされたのだろう。
村の女たちは老若問わず、だいたいは格子縞の渋染物を一長一短に着こなしている。透き通るような薄染の着心地良いものに袖を通せるような女は、僕の母や姉、肝煎りの一家といったごく僅かに限られる。自分たちは死んでも袖を通すことのないだろう洒落た衣装を普段着に与えられているというだけでも同じ年頃の娘たちの妬みやっかみに火が付くのは想像に難くないが、男たちに対しても決して表立てぬ感情に火をつけたことだろう。
普段、袖が余るかつんつるてんの色気もヘチマもない草臥れた格子縞ばかり見慣れていれば、身体の曲線が判るほどぴったり仕立てられ、姉が好んで選ぶ透けるような淡い色柄の夏衣姿が歩いているとなると、妙齢の娘が目の前を裸で出歩いているに等しく見えるかもしれない。
それに、近頃になって性徴の著しい自分の肉体変化に無頓着な姉は、年頃の娘が総じてするように裾やら胸元やらを男の目からそれとなく庇うような動作を知らず、遠くで見ていてもヒヤヒヤするようなことがままある。
あの風呂覗きをしくじって大目玉を食らった喇叭吹きの少年も、無造作な横座りにぱっくりと開いた足の白さや、暑い暑いと胸元を広げて手団扇に仰ぐ半ば露わにされた乳房に、己を熱く滾らせ悶え喘いだ挙句、あのような愚行に走ったに違いない。
あるいは他の友人たちも、あの出歯亀小僧と同じく、高嶺の花の美少女が目の前で肌色をチラつかせる一瞬一瞬に胸をときめかせ、暫しの沈黙のうちに自身の未だ慎ましさの皮を被った内気な思いを熱く火照らせていたのだろうか。
男たちの、まるで何かの渇きを癒すために目の前の女を欲しているような貪欲な目。初めて姉が、周囲を囲む老若すべての男たちに、その貪るような視線を向けられ、淫蕩の果なき欲望の夢の中で何度も裸に剥かれていると思うとき、僕は姉のことよりも、僕自身の身体中に無数の嫌らしい虫が這うような激しい嫌悪感に襲われ、悲鳴を上げて泣いたものだった。
……もし姉が、地元の名士の娘ではなく、何の後ろ盾もない、ただ容姿だけは頗る恵まれた貧しい百姓の娘だったならどうなっていたか。おそらく、ひとたまりもないだろう。
たちまち村中の者たちの様々な嫉妬欲望の餌食にされていたに違いない。
そんな僕の妄想を知ってか知らずか、姉は相変わらず僕の前で健康的なぴちぴちの尻を振り振り数歩先を歩いている。
(姉さま……もしも僕たちが、姉弟じゃなかったら)
もしも自分が、たまたま道中を同伴しつつも、密かに姉の身体を狙う不逞の輩だったらどうするだろう。
僕は姉を……いや、
「さあ、着いた。ここが神様の祠がある場所よ」
ようやく目的地につき、汗を拭いながら朗らかに姉が笑う。
――僕は、姉に……
「勝太郎?」
「……え?」
姉の呼ぶ声に我に返る。
「あっ! そっちは駄目!」
初めて聞く姉の悲鳴に近い声に振り向き、思わず後退りかけた二の足が空を踏んだ。
「ぅあっ……⁉」
「勝――」
ぱっ、と足元の朽葉が宙に舞った。
長い悲鳴と、これも初めて見る、姉の驚愕に目を見開いた顔が、一瞬反転し、頭上に遠ざかる。
「勝太郎っ⁉」
二人同時に伸ばした手は空を切り、僕の身体は崖下に真っ逆さまに落下した。
地面に打ち付けられる衝撃よりも先に、全ての感覚が真っ暗になった。
だいぶ村外れまで来たと見えて、周囲の景色はだいぶ変化し、所々開墾された茶色い地肌を晒した空き地を除けば、殆どが蔓草の縺れた低木が鬱蒼と茂り、山野特有の青臭くて甘い匂いが辺りの熱気の中に爛熟していた。
僕もここまで歩いてきたのは初めてだった。
だんだん道の勾配も高くなり、野道を歩くというよりも山道を登る態になりつつある。
「姉さまぁ……」
もう何度目かわからない、全く歩調を乱すことなく数歩先を進む姉の背中に呼びかける弟の声に悲壮感漂う疲労の色を読み取ったか、
「もうちょっとの辛抱、あと少しだけ歩くわよ」
と少し歩調を緩めてくれた。
「何処へ行くの?」
これももう何度目かの質問に、もうそろそろ良いかしらね、と初めて姉はにっこり笑って言った。
「神様を見に行くの」
「神様?」
「そう、白蛇の神様。いつかお前にも話したでしょう?」
そう言われて頭を過る去年の初夏の夕暮れの光景。
沈みかけた夕陽を浴びて水面に縹色の影を落とし、川辺で何かを無心に見つめていた姉の姿。
あれは僕を怖がらせようと冗談を言っていたわけではなかったのか。
「もうわかったでしょう? この上をもう少し登っていくと、鎮守の森の祠があるの。そこに行くと、運が良ければ、川を遡って社に帰ってくる神様が見えるのよ? うん、今日はきっと見ることができるわ。とても大きな蛇だから勝太郎もきっと吃驚してよ」
さあ、行きましょう。と姉は僕に背を向け歩調を戻した。
「――でも、可哀想。森に帰ってきても、神様のお家はもう壊されてしまったのだもの」
……歩きながらもひとり何かを呟いている姉の後ろ姿を見ているうちに、再びあの夕暮れの光景が頭に浮かぶ。
大胆に裾を開き、真っ白な裾よけを紅く染め、更に陶磁のように真っ白な太腿を蛇の舌が舐るように流れ伝う赤い血と、一瞬別人のように豹変した姉のわらい。
おもては涼しそうな装いでも、炎天下にこれだけ山道を歩いた姉の着物の後ろには、大きく汗の地図が浮いている。長着も肌襦袢も汗で一緒くたに張り付き、青澄んだ肌の色がそこはかとなく浮かび上がっている。
下半分も鬱陶し気に肌に張り付いて、傾斜のある山道をやや歩幅を開いて歩いているため、普段以上に尻の丸みが強調され、一歩前に進むたび尻や太腿の付け根あたりが肉感的な躍動を繰り返す。
ふと、先ほどすれ違った農夫が、いつまでも姉の後ろを追い続けていた、あの視線を思い出す。
きっとあの百姓の親爺も、すれ違う際姉の美貌に目を奪われ、その後ろ姿を捉えるうちに、娘の尻の躍動を目の当たりにし、つい欲望を虜にされたのだろう。
村の女たちは老若問わず、だいたいは格子縞の渋染物を一長一短に着こなしている。透き通るような薄染の着心地良いものに袖を通せるような女は、僕の母や姉、肝煎りの一家といったごく僅かに限られる。自分たちは死んでも袖を通すことのないだろう洒落た衣装を普段着に与えられているというだけでも同じ年頃の娘たちの妬みやっかみに火が付くのは想像に難くないが、男たちに対しても決して表立てぬ感情に火をつけたことだろう。
普段、袖が余るかつんつるてんの色気もヘチマもない草臥れた格子縞ばかり見慣れていれば、身体の曲線が判るほどぴったり仕立てられ、姉が好んで選ぶ透けるような淡い色柄の夏衣姿が歩いているとなると、妙齢の娘が目の前を裸で出歩いているに等しく見えるかもしれない。
それに、近頃になって性徴の著しい自分の肉体変化に無頓着な姉は、年頃の娘が総じてするように裾やら胸元やらを男の目からそれとなく庇うような動作を知らず、遠くで見ていてもヒヤヒヤするようなことがままある。
あの風呂覗きをしくじって大目玉を食らった喇叭吹きの少年も、無造作な横座りにぱっくりと開いた足の白さや、暑い暑いと胸元を広げて手団扇に仰ぐ半ば露わにされた乳房に、己を熱く滾らせ悶え喘いだ挙句、あのような愚行に走ったに違いない。
あるいは他の友人たちも、あの出歯亀小僧と同じく、高嶺の花の美少女が目の前で肌色をチラつかせる一瞬一瞬に胸をときめかせ、暫しの沈黙のうちに自身の未だ慎ましさの皮を被った内気な思いを熱く火照らせていたのだろうか。
男たちの、まるで何かの渇きを癒すために目の前の女を欲しているような貪欲な目。初めて姉が、周囲を囲む老若すべての男たちに、その貪るような視線を向けられ、淫蕩の果なき欲望の夢の中で何度も裸に剥かれていると思うとき、僕は姉のことよりも、僕自身の身体中に無数の嫌らしい虫が這うような激しい嫌悪感に襲われ、悲鳴を上げて泣いたものだった。
……もし姉が、地元の名士の娘ではなく、何の後ろ盾もない、ただ容姿だけは頗る恵まれた貧しい百姓の娘だったならどうなっていたか。おそらく、ひとたまりもないだろう。
たちまち村中の者たちの様々な嫉妬欲望の餌食にされていたに違いない。
そんな僕の妄想を知ってか知らずか、姉は相変わらず僕の前で健康的なぴちぴちの尻を振り振り数歩先を歩いている。
(姉さま……もしも僕たちが、姉弟じゃなかったら)
もしも自分が、たまたま道中を同伴しつつも、密かに姉の身体を狙う不逞の輩だったらどうするだろう。
僕は姉を……いや、
「さあ、着いた。ここが神様の祠がある場所よ」
ようやく目的地につき、汗を拭いながら朗らかに姉が笑う。
――僕は、姉に……
「勝太郎?」
「……え?」
姉の呼ぶ声に我に返る。
「あっ! そっちは駄目!」
初めて聞く姉の悲鳴に近い声に振り向き、思わず後退りかけた二の足が空を踏んだ。
「ぅあっ……⁉」
「勝――」
ぱっ、と足元の朽葉が宙に舞った。
長い悲鳴と、これも初めて見る、姉の驚愕に目を見開いた顔が、一瞬反転し、頭上に遠ざかる。
「勝太郎っ⁉」
二人同時に伸ばした手は空を切り、僕の身体は崖下に真っ逆さまに落下した。
地面に打ち付けられる衝撃よりも先に、全ての感覚が真っ暗になった。
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