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第4章
第34話 悪戯の残影
しおりを挟む――異変に気付いたのは兄だった。
めちゃくちゃというにはあまりにもひどすぎる店の惨状を目に、母はふらふらとした足取りで二階で休んでくると背中を向けた。路地の方から裏手の正面玄関に回り込んで、家に入るらしい。
その後ろを一人の警官が付き添っているのを見るともなしに見て、ハリエットは兄と顔を見合わせた。
時刻は昼過ぎ。低く垂れ込めた雲の隙間から差し込む光は、ほこりを巻き上げた空間を鈍く照らし出し、傷ついた家具や砕けたガラスの破片を白々と浮かび上がらせる。店内の埃の匂いと、かすかに血の鉄臭さが鼻を刺し、重苦しい空気が漂っていた。
通りに行き交う人々の視線が非常に痛く、警護を兼ね親切にも手伝いを申し出てくれているスーツの男達の姿が異質すぎる。ハリエットは兄のシャツの袖をくん、と小さく引っ張った。
「ジェイド、兄さん……」
「これは……。ひどいな」
「帰宅が許されただけでも、感謝すべき、なのよね。きっと」
頬が引きつるのも仕方がない。
二人してガラスに気を付けながら店の中に入り、兄は無事な家具の確認。ハリエットは掃除道具を取りに奥に進んだ。
ハリエットが箒と塵取りを持って店に戻ると、ジェイドはハリエットを見るなり信じられない、と目を見開いた。それはまるで、幽霊でも見たような顔をしていて、明らかに緊張した面持ちになっていた。
「兄さん。どう?」
その表情から、随分状況が悪いことが見て取れて、ハリエットはゆっくりとした足取りで近くまで寄った。困惑したような兄の表情に、そうよね、と同意を示しながら店の中をぐるっと見渡す。
砕けた木の破片に、横倒しになったキャビネット。割れ放題のガラスの中に、おそらくは姿見の鏡が砕けて広がっている。デザインが非常に気に入っていて、売れ残ったら買い取ろうと思っていたアンティークのランプも粉々になっている。
あちこちの床には血痕のような赤黒いものが木目に沿って広がり、箒よりもモップが必要か考え直した時だった。
「ハリエット。手袋はどうした」
「手袋?」
はて、どういうことだろうか。
兄の言葉に従って、いつも嵌めているはずの両手を見下ろした時だった。
箒の柄を固く握りしめる自分の指先は、何の変哲もない――肌色だった。
「うそ」
箒から片手を外し、広げたり閉じたりしていると、カシャンカシャン、と音を立てながら兄が近づいて来た。砕けたガラスの表面にその姿の一部が映り込んでいる。
「問題ないのか?」
心配そうにのぞき込まれ、ハリエットはどう返していいか悩んだ。
問題ないのか、というのは箒を握っても何も視えなかったのか、ということを意味する。けれど、頷くのが正しいかどうかハリエットにはわからなかった。
箒はいつもの掃除道具入れに収まっていた。どこにでもある、非常にありふれた箒だ。強い思いがしみ込んでいるとも思えない。
「別に、……箒だからじゃないかと思うんだけど」
「予備の手袋は、部屋か?」
「うん……」
「いつから付けてない?」
着の身着のままで家から警察署、そしてホテルに移動したので記憶が曖昧だ。けれど、警察署で書類を書くように求められて、署で指紋を取られた時には確か、外していた気がするのだ。
眉間に深く皺を刻み、記憶を手繰り寄せようとするのだが、一体いつから手袋がなかったのか明確にわからない。
「ホテルの、……お風呂を借りた時は、多分外していたのは間違いないし。その後は、多分着けてない」
ルームサービスを頼んでもらって部屋で食事をさせてもらい、フロントに頼んでシャツと女性もののズボンを持って来てもらったのだが、その時も特に何も感じなかった。ホテルというのは様々な人の記憶が色々な場所に滲んで染みついているような場所なのに、ハリエットは特に何を気にすることもなく時間を過ごしていたことに気づく。
「……本当に、視えないのか?」
「わからない。意識して試したことがないから。兄さん、手を握ってみてくれない?」
確かめねばならない、とハリエットは思った。
全くの勘違いなのか。それとも本当に視えなくなったのか。
一時的なことであるかもしれないが、今の状態を知るには、そのあたりの深い記憶に繋がるようなものにうっかり触って数日昏倒するより、まだ同じ時間を共有した肉親である兄の記憶を垣間見た方が被害は少ない。実際、肉親の記憶を覗き見たとしても、少しふらつくだけで数日寝込むようなことにはならない。
「いいのか」
「うん」
しっかりと頷いて、ハリエットは兄を見上げた。
同じ琥珀色の瞳が揺れているのがわかる。
ジェイドはハリエットにゆっくりと指を伸ばし、少しだけ震えるようにしながらそろりとその指先を握り込んだ。
「っ」
「悪い。痛かったか」
パッと慌てて兄が手を放し、ハリエットは自分の指先を薄く開いて兄を見た。
「ハリエット?」
「……視えない。何も。わからない」
指先で感じたのは、大きくて骨ばった兄の手だった。
けれども、それ以上でもそれ以下でもなく。ざらりとした肌の感触と、やや高い体温を感じただけで、それで終わり。
いつものように、何かが頭の中に入り込んで映像を見せてくることも、どことも知れず音が聞こえることも、声が聞こえることもなかった。
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