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第5話

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 その空間は、緊張感に溢れていた。

 例のクランケの状態を胸部内科の進藤先生から詳しい話を聞いて、パジャマ少女こと藤城 陽毬とその家族との初の顔合わせの時だった。

 第二外科病棟に移ってきた少女は、個室で本を読んでいた。
 両親は既に来ており、椅子に座って待っていた。

 陽毬のベッドには、小学生の少女もいる。
 妹さんのようだ。

『トントン』

「はい」

 この間、聞いた奥さんの声がした。
 研修医の赤崎さんがドアを開けて入室する。
 俺はその後に続いた。

 俺の顔を見たクランケの陽毬は、本を読むのをやめて俺を指差した。

「あっ!庭にいた先生だ」

 確かに俺は庭にいました。

「こんにちは。藤城 陽毬ちゃんね。私は研修医の赤崎 久留美です。こちらが、陽毬ちゃんの担当してくれる医集院先生よ」

「よろしく、陽毬ちゃん」
「毛糸の先生が担当なんだ。偶然だね」
「確かにね」

 そして、両親の顔を見る。
 奥さんはニコニコしてたが、旦那さんは気まずそうだ。
 俺も気まずい。
 脳裏にあの時の修羅場が思い出される。

「ご両親には、後でサインをお願いしたい書類があります。この後別室でお願いします」

 赤崎さんはできる女だ。
 俺がいなくても平気なんじゃないか?

 俺は、まず、陽毬ちゃんのそばにより体調はどうか質問する。

「階段とか息切れするし苦しい」
「そうか、ちょっと聴診器を当てるね」

 俺はパジャマの下に聴診器を潜り込ませて胸の音を聴く。

「うん、今度は背中ね」

 陽毬ちゃんは後ろを向いて上着のパジャマの裾を持って広げてくれた。
 その背中に聴診器を当てて心臓の音を聴く。

「うん、ありがとうね」

 このまま、直接胸に手を当てて治してあげたほうが楽なのだが……

「体調が良ければ明後日の木曜日に手術するけど、不安だよね」
「はい、怖いです」
「これから、ご両親に手術の内容をお話しするからね。どのような手術か、どれくらい時間がかかるかお話しするんだよ」

「そうですか……」

「不安なのはみんな同じだから聞きたいことがあったら、その後でゆっくり聞くからね。ここにいる赤崎さんは優秀な研修医だから聞きたいことがあればいろいろ相談するといいよ」

「毛糸の先生じゃダメなの?」
「構わないよ」
「じゃあ、両方の先生にお話しするよ」
「うん、そうしてくれると嬉しいな。では、井上さん、お願いしますね」

 俺達に付き添っていた看護士の井上さんに陽毬ちゃんの様子を見ていてもらう。
 看護士さんの仕事は多い。
 血圧に体温。
 薬の管理や排尿、排泄の回数の聞き取りなど多岐にわたる。

 俺と赤崎さんは、陽毬ちゃんの両親をこの階にあるミーティングルームに案内する。
 6畳ほどの部屋で、白い壁紙に囲まれた部屋の中にテービルと椅子、それと大きめなホワイトボードが置いてあるだけのシンプルな部屋だ。

 両親を椅子に座らせて俺達も着席する。
 赤崎さんが資料を取り出して、両親に配り出した。

 気まずい……

 つい先日、ファミリーレストランで修羅場を演じた俺達だ。
 それぞれ、心中にいろいろな思いを抱いている。

 奥さんは、ニコニコしてた。
 娘の手術を俺に頼んだだけはある。
 噂の天才外科医に手術してもらえる安心感があるのかも知れない。

 因みに、自分で天才外科医と言うのは悪寒が走のだ。

 旦那さんは、鎮痛な顔をしてる。
 誤解だが、奥さんと俺との浮気を疑って俺を殴ってしまった罪悪感。
 そして、本当にこいつで大丈夫なのか、という猜疑心。
 娘の病気を案ずる不安感。
 心中でいろいろな気持ちと葛藤してるのだろう。

 さて、俺はというと、早くこの場から立ち去りたい気持ちで一杯だった。

「それでは、陽毬ちゃんの病気について説明します。陽毬ちゃんは……」

 病気の内容と手術の方法。
 術後の経過などなど。
 およそ30~40分程で説明し終えた。

 両親からの質問も丁寧に答えたつもりだ。
 赤崎さんも補足説明をしてくれた。
 優秀な研修医だ。

 二人に説明内容の書類と手術同意書を提示する。
 なかなかサインをもらえない場合がある。
 何かあった場合の責任の所在が書かれているからだ。

 だが、陽毬ちゃんの両親は説明を聞き書類に目を通してサインをしてくれた。
 このサインがなければ手術はできない。

 これで本日は解散となる。
 旦那さんは何か言いたそうだったが、この間の件はあの場で終わりだ。
 それをわかってくれてるのか、口に出すことはなかったが、手をギューっと握られた。
 そして、一言

「陽毬を頼む」

 と……

 わかってる。
 患者さんやその身内にとって病気と戦うことは覚悟を必要とする。
 それを医者に委ねる時、俺達もその思いと覚悟を受け取るのだ。

「安心してください。医集院先生は天才ですから」

 研修医の赤崎さんのフォローが俺を攻撃する。
 頼むから、これ以上の攻撃は俺の身がもたない。





 救急外来の看護師の間で、不思議な噂話が広まっていた。
 先日の高速道路の多重事故の際、明かに運ばれてきた患者の中に重症患者が数名いたのだ。
 後数分で命を落としても仕方ないほどの状態の者もいた。
 だが、検査をすると骨折程度ですんでいる。

 都内の病院からこの病院に転職してきた福永 美咲は、この状況を不思議に思っていた。
 そんな美咲と近くのお洒落な酒場で二人の看護士は仕事の話を肴にお酒を飲んでいた。

「ねぇ、この間の事故の件なんだけど……」
「何の話かと思えば、またその話?」
「美咲さんは気にし過ぎですよ。みんな助かったのですから良かったじゃないですか」

「いや、いや、そういう話じゃなくってさ。貴女達不思議に思わないの?」

 都内のERで働いていた美咲は、この病院のERは不思議でいっぱいだったようだ。
 以前勤めていた病院は、救急患者の受け入れをしている病院なのだが、担当医がいないといって急患を断っていた。

 断る理由は様々だが、そんな病院都合の医療に嫌気がさしてこの病院に来たのだった。

 この病院は、殆どの急患を受け入れる。
 現場は、忙しくて大変だがやりがいがある。
 美咲には、この病院の体制が合ってたようだ。
 今度は、アメリカから本場のERを学んだ医者も来るそうだ。
 ますます、美咲の腕はなる。

 そんな中、美咲はこの間の事故で納得がいかなかったようだ。
 手術ひとつしないで済むほどの事故じゃなかった。
 だが、結果的にそうなってない。

(おかしい……)

 美咲は、答えの出ないモヤモヤしたものに襲われ、グラスにあったお酒を一気に飲み干すのだった。
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