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第6話

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 その日の夕方には、クランケの藤城 陽毬を担当するスタッフでミーティングを行った。

 胸部内科、麻酔科、手術室担当看護士、人工心肺を扱う臨床工学士たが集まって話し合う。

 問題が無ければ、予定通り木曜日午後1時から手術を行う。

 俺は、それを告げにクランケの個室を訪れた。

 まだ、母親が付き添っていたが旦那さんと妹は帰ったようだ。
 入室と同時に母親にお辞儀された。
 陽毬ちゃんは本を読んでいる。

「あっ、先生」
「どう?」
「身体は今のところ平気です」
「何の本読んでるの?」
「太宰治の『人間失格』です」

『人間失格』まさしく俺の事だ。

「随分と難しい本を読んでるんだね」
「先生は、この本読みました?」
「いいや、題名が自分の事を言われているみたいで手に取ったけど読めなかったよ」
「え~~先生はそんな事ないですよ。でも、何だかわかるような気がします」

 いいえ、この題名は確実に俺の事なんだよ。
 医者を辞めたくてもズルズルと続けてる。
 癒しの能力で誤魔化しながら。

 そして、許せないのは患者さんに対してだ。
 嘘をつきながら誠意のある風を装う。

 まさしく、悪魔の所業。
 人間失格だ。

「本が好きなんだね」
「ええ、でも病気になる前は殆ど読まなかったです」
「スマホとかゲームがあるしね」

 顔色は良さそうだ。
 俺の能力を使って治してしまいたい。

「先生、コーヒー飲みますか?」

 母親が冷蔵庫から缶コーヒーを取り、差し出した。
 断るのが普通だが、俺は今、猛烈に喉が渇いていた。

「いただきます」

 缶を開けてコーヒーを口に含む。
 ほろ苦い香りが口一杯広がった。
 俺は、夢中で一気飲みしてしまった。

「先生、喉渇いてたの?」
「ああ、そうだよね。普通は貰わないし飲まないよね」
「ふふふ、変なの」

 陽毬ちゃんは、笑みを浮かべながら笑っていた。

 この世界に病がある限り、こんな無邪気な笑顔さえも消してしまう。
 神様は、人にどれだけ試練を与えれば気が済むのだろうか?
 会う機会があれば聞いてみたい。

「さて、邪魔しちゃったね。また、来るよ」

 俺は、部屋を出て行く。

 俺は何の為に、この癒しの能力を授かったのだろうか?

 公表して思う存分、力を使えばいいのか?
  わからない……
 いつか俺は、審判を下されるだろう。
 能力に見合った行いをしなかったとして。
 地獄に落とされるのか?
 それは、ちょっとやだな……

 あっ、手術の予定に変わりがない事を伝えるのを忘れてた。
 今更、戻って伝えるのもおかしいし。
 明日、伝えればいいか。

 俺の足取りは重かった。





 手術の調整や他の患者の容態、又必要な書類をまとめてその日は遅くまで医局にいた。
 家に帰る頃には、日付が変わる少し前だった。

 マンションの玄関を開けると、電気がついてる。
 消し忘れたかと思ったが、玄関に乱雑に脱ぎ捨てられた女物のブーツがあり、玄関脇には赤い大型のスーツケースが置かれていた。

「まさか……」

 俺はリビングに向かうと、そこにはソファーに座っている見知った女性が缶ビールを飲んでいた。

「和真、おかえり。先にやってるよ」
「沙織姉、帰ってきたの?」
「ああ、着いたのは少し前だけどな。こっちは空気がいいな」
「何で俺んとこ来てんだよ。家に帰ればいいじゃないか」
「駅にはこっちのが近いんだ。文句言うなよ」

 アメリカから帰ってきた二番目の姉、沙織はとにかく自由な性格だ。
 だが、医者としての腕は上の姉より優ってる。
 経営面では全然劣ってるが……

「こっちのERで働くんだって?」
「そうだ。姉ちゃんが帰ってきて嬉しいだろう、和真」

 返事に困る。
 そんな俺の顔を見て、沙織姉は

「そこは嬉しいって言うのが弟の役目だろう。それとも、何か?プロレスごっこでもやるか?」
「遠慮しとくよ。今日は疲れたんだ」
「そうか、和真もこっちに来て飲もうぜ」

 俺のビールを手渡された。
 仕方なくそのビールを受け取り飲み始める。

「相変わらず暗いな。また、面倒くさい事考えてるのか?」
「性格なんてそう簡単に変わるはずないだろう。俺は子供の時から成長できてない」
「身体だけ大人になったと言いたいわけだ」
「ああ、その通りだよ」

 姉は子供の頃から自室に閉じこもりがちな俺を外に連れ出しては、遊びの最中いつも転がされていた。
 できれば関わりたくない人物の一人だ。

「なあ、和真。まだ、あの能力使えるか?」
「ああ、使いたくないけどね」
「そうか……」

『癒しの手』の能力を知っている姉は、俺にその能力を使うなといつも言っていた。
 子供の頃は理由がわからなかったが、今となってはわかる気がする。

 沙織姉は、酒が随分進んだのか話が途切れない。

「あっちで、たくさんの人の死を見たよ。拳銃で撃たれた奴。手術中に呼吸が止まった幼い子供……」

 そうだろうな。
 医者にとっては人の死は身近すぎる。

「その時、和真がいたらなぁ、って何度も思ったさ」
「沙織姉は、力を使う事を反対してたじゃないか?」
「ああ、その通りだ。その力は脅威だからな。だけど、私は何度も和真を求めたよ。ここに弟がいれば救えたのにってな。矛盾してるよな」

 強気な姉がそう思う程、壮絶な現場だったんだろう。
 こんな半端な俺を求めるほどの……

「いつから病院で働くんだ?」
「明日顔を出して、正式には来週からだ」
「香織姉と喧嘩しないでくれよ。仲裁はまっぴらだ」
「ははは、姉貴は相変わらずか?」
「ああ、病院の経営はもう香織姉さんがいなければ回らない」
「オペはしてないのか?」
「殆どね。しても年に数回だよ」
「そうか、確かに病院経営無くして患者は救えないわな」
「そうだね」

「和真、今夜は一緒に寝るか?」
「はあ、何言ってんの?」
「子供の頃はいつも一緒に寝てただろう?」
「あれは勝手に沙織姉が枕持って押しかけてきただけじゃないか」

 その時、PHSが鳴る。

「もしもし……」
『医集院先生ですか?陽毬ちゃんが急変です』
「わかった。オペの準備と他のスタッフに連絡頼む」
「はい、わかりました」

 夜は、患者の容態が急変する事がある。

「和真、急患か?」
「ああ、担当してる子だ」
「私も行く」

 姉はさっさと支度を済ませて玄関に向かった。
 その行動は、俺よりも早かった。

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