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第十三話
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◆◇◆◇◆◇
雀の囀りが聞こえる。もう朝か……。隣に彼女はいなかった。そういえば、売れっ子だと聞いていたな。ずっと共にいる訳無いか。あの子にもきっと情夫がいるはずだから、そこで一晩過ごしているんだろう。
「もしエ、手水をお使いなんし」
「ああ、どうもありがとうございます」
振り向くと禿が洗面用具を置いて逃げるように去っていった。取って食いやしないのに、なんと不躾な……まあ、こういう扱いには慣れているからもう良いか。
ここはどうやらあの子の部屋のようだ。金具の打ち付けられたかさね箪笥に用箪笥が乗っていた。おかっぱの人形も並べて置かれている。鏡台の横には本が大量に積まれていた。
「源氏物語? こっちは御伽草紙か。竹取物語に伊勢物語……」
驚くほどに物語ばかりだな。挿絵の入った物で子供でも読みやすいものだろう。申し訳ない程度に枕本もあった。ここまでくると、この枕本さえも何か物語の本に見えてしまう。折られている箇所があったので、開いてみる。後取りで女が責められている図だった。
……ふと思い出したが、雪次に後取りでされている時の彼女はとても婀娜っぽかったな。後ろからされるのが好きなんだろうか?
他にも端を折られている箇所があったので開いてみる。男女が互いの下を舐めあっている。相舐か……。こういう事をしてやったら良いのか。
本を元通りに積みなおしていると廊下を急いで歩く音がする。ぱたぱた。少しして、障子が開いた。
「良かった……。小焼様まだ帰ってなかったやの……」
「ここの本を読み耽っておりました」
「……小焼様、物語好き?」
少し息を切らしたような景一は私の目の前に座って、積み上げられた本から一冊を手に取った。
御伽草紙だ。御伽噺か……。昔、母様が寝物語にしてくれたな……。幼い頃だったから断片的にしか覚えていないが、嫌いではないな。
「嫌いではないです」
「ウチ、御伽噺好きやの……。物語が好きやの……」
御伽草紙をぎゅうっと抱き締めながら言う。折れないか気になるところだが、貸本ではなく、彼女自身の物なのだろう。貸本だとしても、雪次が貸しているなら許すだろうしな……。
本が好きなら、貸本屋の若旦那と一緒にいれば良いだろう。
「雪次にねだれば沢山貰えるんじゃないですか」
「え。ち、違うの。ウチは、そんな……」
「何が違うかさっぱりわかりませんが、私はそろそろ帰りますよ」
長居すると居続けの客になってしまう。それだけは避けなければ……。父様は既に朝露屋に行っているだろう。また笑われるに決まっている。
着物を正して立ち上がると、景一は涙ぐんだ目をこちらに向けていた。
さっきまで泣いていなかったのに、また泣いているな……。私が泣かせたのか? 何か彼女を泣かせるような事を言っただろうか? 考えてみても心当たりが全く無い。
「泣かないでください。困りますから」
「うぅ……」
堪えていた涙が一筋零れたと思えば、滝のようにどっと流れ始めた。まだ帰れそうにない。頬に手を添えて、指で拭ってやっても止まらない。舐めるとしょっぱい。どうしようもないので、抱き締めてみる。甘い香りがしてくる。こういった事には慣れていないので、どうすれば良いのかさっぱり見当がつかない。女を泣かせるなと言われているが、勝手に泣いているのだし、私に心当たりがない。
このまま置いて帰るのも悪いだろう。だからって、あやすこともできない。子供ならあやしても良いかもしれないが、彼女は幼い顔をしているだけで子供ではない。そもそも、あやし方を知らない。
目が合う。大きな瞳は濡れたままだ。水饅頭のようにきらきら輝いて見える。
吸い寄せられるようにくちづけを交わす。差し出された舌を吸い、しばらく絡め合う。口を離すと名残惜しそうに唾液が銀色の糸を引いた。
「小焼様ぁ……」
「……もう帰ります」
私がそう言うと景一は着物を掴んでいた手を下ろした。涙は止まっている。元から少し紅潮している顔が朱鷺色に染まっていた。頬を撫でれば、もっと、と言うように擦り寄ってくる。まるで小さな犬のようだな。尻尾があったならば、元気よく左右に振っていただろうに。
階段を下りる。女郎と客が「次はいつ来てくれる?」だの何だの言って溢れかえっている。こんなにも人がいたのか、と感心するほどだ。あまりにも人が多いうえに、じろじろと見てくる輩がいるので、さっさと見世を出る。景一もついてきた。必ず見送りをするんだな……。俯いていたと思えば、私の右手を取り、昨夜結んだ布に唇を落とした。
「小焼様。ウチ、淋しいの……だから……」
「……また来ますよ」
「うん。ウチ、待ってるの」
ふわっと曖昧に笑う。これは……作り笑いだろうか……。
ごうっと風が吹いて、薄桃色の花びらが景一の頭に乗った。ほのかに甘い香りもする。これは彼女の香りではない。空色の髪に薄桃色がよく映えている……。見惚れていないで取ってやろう。このままだと、この子が笑い物にされてしまうだけだ。花びらを摘みあげる。
「ウチの頭に何か乗ってたん?」
「これです。……貴女って、桜がよく似合いますね」
「あっ」
「何ですか?」
「ううん。何でもないやの」
景一は俯いて手遊びを始めた。またこの子は人と話しているというのに下を向いて……まあ良いか。そろそろ私も父様がいるであろう朝露屋に向かわなければ。
「それでは」
「うん。また来てくださいな、やの」
手を振る彼女に手を振り返して、朝露屋へ足を向ける。
案内された座敷には既に父様がいた。私の姿を見るなり笑い始める。何だいったい。
「小焼遅かったなぁ!」
「……別に良いでしょうが」
「はっはっは。いいともいいとも。そんなに景一と別れるのが嫌だったんだな」
「違いますよ」
「そうはっきり言ってやるなよ。またあの子泣いちまうぞぉ」
それは一理あるな……。どうも私はあの子をいつも泣かせてしまう。できればずっと笑っていてもらいたいんだが、作り笑いは嫌だ。どうすればあの子の心からの笑顔を見られるのだろうか……。考えると、こんなに自分勝手なことはないな。
「でもなぁ小焼、女郎はふりが上手いもんだ。お前はすっかり騙されてるかもしれないがな。そこの桜が何で植えられているか知っているか?」
父様は窓から見える桜を指しながら言う。何で植えられているか? 花見をするからではないのか?
「花見をするためでは?」
「それもあるがなぁ。ここの桜は実をつけない」
「は?」
「花は咲くが、実らない。つまりだな、女郎には実が無い。惚れたふりや好いたふりをしているっていう洒落だな。ここでの事はみぃんな嘘だ。ここは嘘の国だ。ここじゃ騙される方が悪い。起請文なんてものもあるが、ありゃあ誰にでも送ってる」
「……で?」
「遊びは遊びだ。姉上は嬉しそうにしていたが、お前はうちの大事な跡取り息子だからな……」
「はぁ」
こんなにも真面目な表情をした父様を見るのは初めてだ。運ばれてきた玉子粥に手を付けながら話の続きを待つ。父様は豆腐をつまみに朝酒をしていた。
「お前、伊勢屋さんを知っているか?」
「ああ、菓子屋ですよね?」
「そうだ。先日、女将さんに会ったんだが……どうしてかお前をたいそう気に入ってるようでな、孫を嫁に貰ってくれないかと言われた」
「はぁ?」
「お孫さんは十六でな、器量はそれほどでもないが、料理の腕は抜群に良いそうだ。伊勢屋の菓子にもその子の作った物があるとか」
「それは、もしかして……豆大福ですか?」
「おお、わかってるな小焼! お前の好物だ!」
「……いえ、豆大福についてはどうでも良いんですが、それで?」
「こういう時のお前は察しが悪いな。見合いをすることになったぞ」
バキッ、と音が鳴った。ああ、噛んでしまったので匙が欠けた。これは弁償する必要があるだろうか。
見合いをすることになったなんて、何を勝手に決めてくれているんだ。我が父ながら勝手過ぎるだろう。
「大店の菓子屋の孫とお前が一緒になれば、互いに安泰だろう。うちの店も大きくなるし、行商する手土産として菓子折りを買わずとも持つことができるようになる。互いに利益しかない」
「しかし……私は……」
「まあまあ! 明々後日の夕刻に港屋で見合いだぞ。絶対に逃げようとするなよ。父様との約束だ。そこで互いに気に入ったなら、そのまましっぽりおしげりな」
「っ」
匙が完全に真っ二つに噛み砕かれた。このまま飯を食うのは難しいな。口の中に残った木屑を吐き出す。こんなにも噛み癖がひどいなんて、自分でも思っていなかった。
「匙を噛み砕くなんてな……。そんなに見合いが嫌か?」
「見合いが嫌と言うよりは……」
「お前、陰間なのか?」
「違います」
「そうかそうか。じゃあ、問題無いな。伊勢屋の孫、名前をはつ。おはつちゃんって呼んでやってくれ」
何を言っても無駄そうだな。とりあえず会うだけ会ってみるか……。無視していると父様の顔に泥を塗ることになる。それに、うちの評判を下げることになる。それだけは避けないといけないな……。客商売なのだから、噂話は悪いようにしかならない。ただでさえ鬼だとか言われているし、港屋で釜を抜いているとか言われているのだから……ああ、頭が痛くなってくる。
朝餉を食べ終えて、店へ戻る。父様は大福帳を捲って算盤を弾いていた。ぱちんっぱちんっ、音を鳴らしながら弾かれていく。宿帳と見比べて荷の送り先を考えている。いつもああなら良いんだがな。
糊売りの声や犬の遠吠えが外から聞こえる。夜は三味線や琴や笛の音で騒がしいが、朝昼は、時間がゆっくり流れているように感じる。
「小焼。夏樹の所に行かないのか?」
「何か荷があるんですか?」
「いや。右手にえらく可愛い布が巻かれているなと思ってなぁ」
父様は笑いながら上ずった声で言う。完全に馬鹿にされているように感じる。殴りたい衝動に駆られたが、殴れば手が痛むに決まっている。握り締めた拳を解き、深く息を吐く。
「痛いなら行った方が良いぞ」
「言われなくともそうしますよ」
「あっはっはっは。そうだなぁ。小焼は言われなくともできるな。あいたっ! 叩くことないだろ!」
「喧しいです!」
算盤で肩を軽く叩くと父様は顔を引きつらせた。まだ笑ったままだ。どうしてこんなに笑っているのだろうか、何がおかしいのだろうか。さっぱりわからない。
「わかったわかった。父様が悪かった。ほら、行ってこい」
「ついでに何か届ける物は無いですか?」
「無いな。たまにはゆっくり散歩でもしてこい。桜も少しずつ咲き始めた頃だしな」
「……では、行ってきます」
店を出て道を行く。五分咲きくらいだろうか。それでも見応えのある桜だ。通りすがりの観光客は私の姿を見ると鬼だ何だと言って逃げていく。いちいち相手する必要も無いだろう。互いに無関心でいた方が良いに決まっている。ここで追いかけ回してみろ、私の方が捕らえられるだろうに……。
普段通りに養生所に辿り着く。中に入ると夏樹がこちらを見た。隣には梅割れに髪を結った少女がいた。
「よっ、小焼。荷を届けに来たんじゃなさそうだなぁ。また爪を割ったか?」
「そうですよ」
人懐こい笑顔を浮かべる夏樹に右手を見せる。兎柄の布を見て更に笑っていた。こんなに笑われるとどうも腹立たしいな。
「こりゃまた可愛い布だな。小焼が巻いたのか?」
「いえ……」
「あいあい、わかったよ。そんな睨むなって」
睨んでいるつもりはないんだが。
夏樹は慣れた手つきで布を取り外し、薬を塗りこむ。沁みて痛い。薬をたっぷり塗り付けた後は再び兎柄の布を巻き付けた。そんな彼の横で女がずぅっとこちらを見てきている。
そんなに私が珍しいのか? 見世物ではないんだが……。
「夏樹。隣の人は?」
「おお。小焼、前にここで豆大福を食べただろ? それを作った――」
「伊勢屋のはつですか?」
「あれ? 知ってたのか?」
「ええ、まあ……」
「おはつちゃんは女将さんの薬を取りに来てくれてんだ。なっ?」
「はい。おばあちゃんのお薬を頂きに来ました。まさか……小焼様にお会いできるなんて思ってなかったので、その、えっと……」
「はぁ?」
おはつは俯いて手遊びを始めてしまった。あまり顔を見れていないが、確かに器量はそれほど……だな。蛙を潰したような顔でも出目金のような顔でもないので、見ていられないというほどではない。
だが、腫れぼったい目に、芋を蒸したような肌、分厚い唇、柘榴の爆ぜたような吹き出物……。
肌の薬を貰った方が良いのではないかと思う。
「夏樹、肌の薬は無いですか?」
「え? ああ、吹き出物でもあんのか?」
「いえ、私ではなく……」
もじもじしたままのおはつに視線を遣る。夏樹は気付いたようで苦笑いをしながら手を横に振った。
「余計な世話だと思うぞ」
「そうですか。……おはつ。貴女の作った豆大福、とても美味でした。いくらでも食べたいと思いました」
「ありがとうございますっ」
「……明々後日にまた」
「はいっ!」
返事は物凄く良いな。まるで呼び込みのようにはっきりした声で応える。
養生所を出て、道を戻る。相変わらず川には舟が浮いている。これから吉原へ向かう客、これから家路を辿る客、様々な者が交差している。港屋の船頭が手を振ってきているので、適当に振り返す。
散歩をしてこいと言われたが目的も無くぶらぶらしていると他人の目が気になる。ここいらに住む者ならまだしも、観光客は私を鬼扱いするのだから……菅笠でも持ってきておけば幾分かましになっただろうか。いや、今更そんな事せずとも良いか。
羅生門河岸の方へ向かう。人だかりができていた。お歯黒ドブから女郎の死体が引き上げられているようだ。下級の女郎の死体がよく投げ込まれていると聞くが、こうしてたまに引き上げることもあると聞く。
私が近付くだけで人が散っていった。取って食いやしないのだからそんなに避ける必要は無いだろう。深く息を吐きながら空いた場所から引き上げの様子を眺める。女郎だけかと思ったが男も一緒だったらしい。心中か……。こんなにも臭くて汚い所を死に場所に選ぶなんてな……。それだけ想い合っていたということなんだろうか。胸のあたりが少し痛んだ。
「あれは角町叶屋の宵町じゃねぇか!」
「こっちは浮世絵師の菊三郎だ!」
「おおうい! 二人の証文が見つかったってよぉ!」
野次馬の中から声があがり、角町の方角から息を切らしながら男が駆けてきた。叶屋といえば中見世だっただろうか。女郎の身元がわかったところで私には全く関係無い話だったな……。男の方も見知らぬ顔だ。ここで知っているような間柄の者だったならば、どうしたものかと思ったが、全く知らない。もう行くか。
気が付けば、昼見世の始まる時刻だったようで籬に女郎達が居並んでいた。ともゑ屋の前にも相方を決めようと品定めをしている男達が幾人もいた。
「ちょいと待ちなんし」
声と共に襟首に何かが引っかかる。振り向くと、錦が煙管を持って微笑んでいた。えらく長い煙管だと思っていたが、こうして人を引っ掛けるために長いのか。
「何か用ですか?」
「そう眉間に皺を寄せないでくんな。宗次郎様に聞いたよ、見合いをするんだってねえ?」
「はぁ。それが何か?」
「それはわっちにゃどうでも良い話でありんす。だが、景一の事でね」
「彼女が何か?」
「あの子はお前さんにほの字でありんす。『次はいつ来る? 次はいつ来る?』と毎日占ってばかり」
「あの子の情夫は雪次でしょう」
「おやまぁ。それはあの子が言いんしたか?」
「いえ」
「あっはっはっは。そいつは違うさね。あの子の――と、ああ、本人が来ちまった。わっちが話すような事ではないね。まあ、女郎の言葉が信じられないってのは仕方ないことでありんすな」
錦は手をひらひらと振りながら笑う。そんな彼女の横に慌てた様子の景一が座る。途端に遠くにいた男達が籬の前まで詰め寄ってきた。彼女が出てくるのを待っていたのか……。
こうして居並んでいる姿を見ると、錦に引けを取らないような可憐さを持った器量をしている。錦の左隣には文乃が座っているが、こちらも錦とも景一とも違った艶やかさがある。ともゑ屋の一番、二番、三番が居並んでいるってことか……。
「小焼様、ウチが出てくるん待っててくれたん?」
「たまたま錦に捕まっただけです」
「そこは『お前を待ってた』と言ってやりなんし。もう、女心のわからない坊ちゃまだねぇ」
「錦さん、そう言うたらあかんわ。坊やは素直なお子なんや」
何で私が女郎にとやかく言われなければいけないんだろうか。錦だけならまだしも文乃までも話に加わっている。昼見世はけっこう暇だという噂は本当だったんだな。
ここで眺めていてもまた馬鹿にされるだけだ。それに、景一の姿を見たがっている男の気配がするので、籬の前から退いた。男達が押し寄せる。……そんなにも私を避けていたのか? 何の冗談だ。全く笑えやしない。人で見えなくなってしまったが、景一に話しかけようとしている男の多さはわかった。
「若旦那ぁ、遊んでいかないんで?」
「えーっと、貴方は……」
「吾介っす。忘れないでくだせぇよぉ!」
「善処します」
「あー……いや、もう何度でも聞き返してくだせぇ。で、あがっていかないんすか? 嬢ちゃん淋しがっておりやすよ」
「昨日会ったばかりですよ」
「好きな相手には四六時中会いたいもんすよ。若旦那だって、好きな女と一緒にいたいと思った事の一つや二つあるでしょ?」
「いいえ?」
「あー……そうっすか……。じゃあ、惚れた男と一緒にいたいって思ったりしやせん?」
「何で私が男に惚れるんですか?」
「へ?」
吾介はまばたきを繰り返す。ぱちくりぱちくり。何を驚いているんだ。おまけにどうして私が男に惚れないといけないんだ。訳がわからない。もしかして、私が陰間だとか港屋で客を取ってるだとかの噂が思うよりも広まっているのか?
しばらく考えていた様子の吾介だったが、急に閃いたかのように手を打った。
「若旦那って恋をした事が無いんすね!」
「……鯉? 鱠にならした事がありますね。鯉を三枚に下ろし、細作りにしてから、煎った鯛の子をまぶしつけた鱠です。切り身の半分には熱くした煎酒酢、また半分には冷やしたわさび酢をかけ、両方を混ぜて供すると美味でした」
「そうじゃないんすよねぇ」
吾介は後ろ頭を掻きながら苦笑いをした。私は何かおかしな事を言っただろうか? 鯉なら鱠の他に刺身や汁、こごりも美味いな。何処かの船宿に立ち寄った時に食べたゐいり汁もなかなか良かった。あの癖になる苦味をもう一度味わいたいものだ。あれは何処で食べたものだったか……。
「ところで、貴方は私と話していて良いんですか?」
「一応これも仕事なんで大丈夫っす。そんでも、若旦那は遊ぶ気が無いようなんで戻りやすよ」
「はあ」
「恋をした事も無いのに、どうして水揚ができたんすか? 女を抱いた事あったんすか?」
「…………」
「まさか、初めてで……?」
「それは違います。……貴方に話すような事ではありません」
「そ、そうっすね。あんまり睨まねぇでくだせぇ。赤い目が怖いんすよ」
「睨んでませんよ」
「ひぃ。野暮な事聞いてすいやせん。そんじゃ、俺は行きやすね」
そう言うと吾介はそそくさと妓夫台に戻った。彼が戻ったところを見計らって客が話しかけている。あの女の名前はなんたらで揚代は何分だとかを教えているようだった。
それにしても、どうして皆「睨まないでくれ」と言うのだろうか。睨んでいるつもりはないんだが……。母様が「人と話をする時は、目を見て話しましょうね」と言っていたから、そうしているだけだが……どうして怖がられないといけないんだ。全く理解ができない。
ふと空を仰げば、突き抜けるように青い。まるであの子の髪の色のようだな……。
「おっ、鬼が散歩か?」
「ちょうど良かった雪次。黙って殴られろ!」
「えっ、なんだよ、痛っ!」
逃げようとした雪次を捕まえて拳骨を落としておく。心の翳っていた部分がすっきりと晴れた。手が少し痛んだが、この際それはどうでも良い。すっきりした。
「いきなり殴るなんて何だよ?」
「貴方、変な噂を流したでしょう。私が陰間だとか港屋で客を取っているだとか」
「な、なんだぁ? 景一にでも聞いたのか?」
「そうですよ」
「はぁー……やっぱりそうかぁ……」
雪次は荷物を地面に下ろす。本なのでけっこうな重量があるのだろう。立ち話をするならば下ろした方が肩への負担も減る。
「そんならお前は客を取ってねぇの? 本当なら一発ヤらせて欲しかったんだけど」
「取ってませんし、釜を抜かせるつもりもない!」
「ンな怒んなって! お前は美丈夫なんだから笑ってた方が良いと思うぜ! たまには冗談の一つでも言ってくれよ。って、おかしくもないのに笑えないとか言うんだろ、わーってるからな!」
こいつは何故一人でべらべら喋っているのだろうか。一発ヤらせて欲しかったなどふざけたことを言っているのが癪に障るので脚を蹴っておいた。雪次は跳びあがって痛がっている。
「あいたた……。ンな怒らなくたって良いだろ?」
「貴方がもし私と同じ事をされても、同じ事を言えるんですか?」
「ひええ、悪かったって! この通り! すまん!」
両手を合わせて頭を下げられてしまっては、許さないわけにもいかないだろう。ここで許さなければ、本当に鬼になってしまう。
「もう許しますんで顔を上げてください。次やったら喉笛を食い千切ってやりますからね」
「ひぇええ! 本当に鬼じゃねぇか!」
「冗談のつもりだったんですが」
「怖ぇよ! お前が言うと冗談に聞こえねぇんだぜ!」
「はぁ?」
「どーでもいいや。どうして景一はお前に惚れてんだか……」
「何おかしなことを言ってるんですか? 景一の情夫は貴方でしょう?」
「いいや。俺じゃないぜ。だってあいつ、俺に『鬼の噺を読みたいの』って言ってきたんだ」
「あの子が鬼の噺を読みたいと言っても私と関係無いでしょうが」
「俺も最初はそう思ってたんだ。まさかお前が景一の客として登楼してるなんて知らなかったしな、でも、ちょいと前に知った。景一が大事にしている長櫛を贈った相手だ」
「私ですね」
「お前、よくも夕餉を奢ってやった時に初対面のようにしてたな! 何回か抱いたことあったんだろ!」
「それほどでも……」
「あーあ、俺が何言っても無駄だとわーったぜ。あいつは俺に懐いているようだから、いつか俺があいつの一番になってやるんだからな!」
「はぁ……」
途中から何を言っているかさっぱりわからないが、ここで一つはっきりした。
景一の情夫が私ということだ。
これは、喜んでおくべきことなのか? 惚れられているというのもよくわからない。ただ、あの子の事を考えると胸のあたりが少し痛む。考え始めると他の事が疎かになってしまう。何かが足りないような、ぽっかり穴の空いたような感覚がする。妙に気になってしまう。今までこんな事無かったのに。どうしてだろうか。どこかおかしいのだろうか。
「話はそんだけか? それならもう俺は行くぜ」
「はい、どうも……」
雪次は荷物を背負うと去っていった。方々の見世を回って籬越しに新刊情報を伝えに行くんだろう。芝居を見に行けない女郎達には良い娯楽と言ったところだ。
仲の町を歩いていると飴細工の店が出ていた。飴はしばらく必要ないだろうか……。
そのまま通り過ぎる。考えてみると、好きな物を聞いた時にあの子は何かを言いかけていたな。途中で切ってしまったが、あれは何だったんだ? 今度会った時に聞いてみるか……。どうして今度なんて考えているんだろうか。しかし「また来る」と言ってしまった手前、行かない訳にもいかないだろう。ここでは嘘を吐くのが普通だとしても、私は嘘を吐きたくない。
考えながら店へ戻る。ちょうど丁稚達が高い場所に荷を積み上げようと踏み台を用意していた。
「無理しないでください。落ちると危ないですよ」
「小焼様おかえりなさいですぅ」
「おかえりなさいなのです」
「これは私に任せて他の荷をお願いします」
「はいですぅ!」
「はいなのです!」
丁稚達は元気よく返事をすると奥へ引っ込んでいった。私は残された荷と貼り紙を見比べる。この荷は港屋へ。この荷は平松屋へ。こちらは阿武屋か。酒樽が届いているので酒臭いな。さっさと運んでしまうか。と思ったが、車を夏樹の所に置いてきていたんだった。奥から別の物を出してこないとな。
「おう小焼、戻ってきたのか。ゆっくりして良いって言ったのに」
「そうもいかないでしょう」
「お前は真面目に働き過ぎなんだ。うちにはきちんと奉公人がいるんだぞ。ほら、見てみろ。番頭も手代も丁稚もいるだろ。奉公人のやる事を若旦那のお前が全部しちまうと、手持ち無沙汰で可哀想だぞ」
「……そうですか」
父様は今までそんな事を一度も言わなかったのに、いったいどうしたんだ。頭でも打ったのか? だが、奉公人の仕事を取るのはまずいな……。せっかく来てくれているのだから何かしてもらわなければ。
私は荷から手を離す。手代の弥太郎が「おいらに任せてくだせぇ!」と言いながら荷を持っていった。
「そういえば父様、錦が見合いの事を知っていましたが」
「おお! 錦に会ったのか! 昼見世が始まる前にこっそり教えておいたんだ。景一には黙っておくように言ってある」
「そうですか」
「小焼、具合でも悪いのか?」
「何故ですか?」
「いや。いつもなら『はぁ』とか言うのに、素直に返事されたからな」
「そんな事で心配しないで頂けますか」
「そうじゃなくともおかしいぞ。何か悩みでもあるのか? 見合いが嫌なのか?」
「勝手に決められては嫌に決まっているでしょう。確かにおはつの器量はそれほどでしたよ……」
「おはつちゃんに会ったのか。心根は良い子そうだったろ?」
「ええ……。喧しくなくて良さそうでしたよ……」
女の器量についてそう考えたこともなかったんだが、どうしてだろうか、さっきからあの青い髪の少女の事ばかりが頭を過っていく。あの子は今夜も私の知らない男に抱かれるんだろう。あんなにも好奇の目で見られて可哀想だな……。
「ははぁ。さては……恋わずらいだな」
「鯉わずらい? 久しく鯉を食べてませんが」
「本気で言ってるのか? 魚の話じゃない。惚れたはれたの恋だ。そうだとしたら一大事だな。何と言っても、恋わずらいは不治の病だ」
「不治の……病…………」
「恋の病はなかなか治らないぞぉ」
「…………」
「他人と慣れ合う事を嫌うお前が、そんな風に他人の事を想えるようになって父様は嬉しいが、少し複雑な気分だなぁ。相手がそこらの娘ならともかく、女郎ときたもんだ」
父様は意気揚々とまるで浪曲を語っているかのように言葉を続けている。恋わずらいか。よくわからないな。なんだか今日はよく恋という言葉を聞いている気がする。吾介にさえも言われたくらいだ。
恋とは何だろうか。
あまりにも疎過ぎてわからない。私は彼女の事が好きなのか? 惚れているのか? いったいどうしたら良いんだろうか。さっぱり見当がつかない。
「父様。私はどうしたら良いんでしょうか」
「景一に会いたいなら会いに行けば良い。もう馴染みなんだから、朝露屋に話を通してもらって呼び出さずとも直接登楼すれば良いだろう」
「……私は、あの子を泣かせてしまうのに」
「へ? ああー……景一は泣き虫だ。おとなしいから、自分の話をなかなかできないとも錦が言ってたな。小焼、話すのが苦手なら景一の話をゆっくり聞いてやったらどうだ? それだけでもあの子は喜んでくれると思うぞ」
「苦手ではありませんよ。少し面倒なだけで」
「そもそもお前は笑わないから怖がられるんだ。ほら、父様の真似をしてみろ」
父様は口角を上げ、にたりにたり笑う。気味が悪い。真似をしてみようにも、おかしくもないのに笑える訳がない。じぃっと見ていると父様は唇を尖らせた。
「全く表情が変わらないじゃないか! ほら、こうだ!」
父様は私の頬を掴んで持ち上げる。痛い。
「いひゃいでふ!」
「うぉっと! すぐに殴ろうとするのも駄目だな。女子供に怖がられるぞ」
「父様が殴られるような事をするからでしょうが」
「そう言うなよ。父様だって、お前の心配をしているんだからな」
父様は私の手から算盤をもぎ取って横に置く。くそっ、殴り損ねた。会話を聞いていた奉公人達がこちらを見て笑っていた。父様はそんな姿を見て、皆に手を振っていた。
雀の囀りが聞こえる。もう朝か……。隣に彼女はいなかった。そういえば、売れっ子だと聞いていたな。ずっと共にいる訳無いか。あの子にもきっと情夫がいるはずだから、そこで一晩過ごしているんだろう。
「もしエ、手水をお使いなんし」
「ああ、どうもありがとうございます」
振り向くと禿が洗面用具を置いて逃げるように去っていった。取って食いやしないのに、なんと不躾な……まあ、こういう扱いには慣れているからもう良いか。
ここはどうやらあの子の部屋のようだ。金具の打ち付けられたかさね箪笥に用箪笥が乗っていた。おかっぱの人形も並べて置かれている。鏡台の横には本が大量に積まれていた。
「源氏物語? こっちは御伽草紙か。竹取物語に伊勢物語……」
驚くほどに物語ばかりだな。挿絵の入った物で子供でも読みやすいものだろう。申し訳ない程度に枕本もあった。ここまでくると、この枕本さえも何か物語の本に見えてしまう。折られている箇所があったので、開いてみる。後取りで女が責められている図だった。
……ふと思い出したが、雪次に後取りでされている時の彼女はとても婀娜っぽかったな。後ろからされるのが好きなんだろうか?
他にも端を折られている箇所があったので開いてみる。男女が互いの下を舐めあっている。相舐か……。こういう事をしてやったら良いのか。
本を元通りに積みなおしていると廊下を急いで歩く音がする。ぱたぱた。少しして、障子が開いた。
「良かった……。小焼様まだ帰ってなかったやの……」
「ここの本を読み耽っておりました」
「……小焼様、物語好き?」
少し息を切らしたような景一は私の目の前に座って、積み上げられた本から一冊を手に取った。
御伽草紙だ。御伽噺か……。昔、母様が寝物語にしてくれたな……。幼い頃だったから断片的にしか覚えていないが、嫌いではないな。
「嫌いではないです」
「ウチ、御伽噺好きやの……。物語が好きやの……」
御伽草紙をぎゅうっと抱き締めながら言う。折れないか気になるところだが、貸本ではなく、彼女自身の物なのだろう。貸本だとしても、雪次が貸しているなら許すだろうしな……。
本が好きなら、貸本屋の若旦那と一緒にいれば良いだろう。
「雪次にねだれば沢山貰えるんじゃないですか」
「え。ち、違うの。ウチは、そんな……」
「何が違うかさっぱりわかりませんが、私はそろそろ帰りますよ」
長居すると居続けの客になってしまう。それだけは避けなければ……。父様は既に朝露屋に行っているだろう。また笑われるに決まっている。
着物を正して立ち上がると、景一は涙ぐんだ目をこちらに向けていた。
さっきまで泣いていなかったのに、また泣いているな……。私が泣かせたのか? 何か彼女を泣かせるような事を言っただろうか? 考えてみても心当たりが全く無い。
「泣かないでください。困りますから」
「うぅ……」
堪えていた涙が一筋零れたと思えば、滝のようにどっと流れ始めた。まだ帰れそうにない。頬に手を添えて、指で拭ってやっても止まらない。舐めるとしょっぱい。どうしようもないので、抱き締めてみる。甘い香りがしてくる。こういった事には慣れていないので、どうすれば良いのかさっぱり見当がつかない。女を泣かせるなと言われているが、勝手に泣いているのだし、私に心当たりがない。
このまま置いて帰るのも悪いだろう。だからって、あやすこともできない。子供ならあやしても良いかもしれないが、彼女は幼い顔をしているだけで子供ではない。そもそも、あやし方を知らない。
目が合う。大きな瞳は濡れたままだ。水饅頭のようにきらきら輝いて見える。
吸い寄せられるようにくちづけを交わす。差し出された舌を吸い、しばらく絡め合う。口を離すと名残惜しそうに唾液が銀色の糸を引いた。
「小焼様ぁ……」
「……もう帰ります」
私がそう言うと景一は着物を掴んでいた手を下ろした。涙は止まっている。元から少し紅潮している顔が朱鷺色に染まっていた。頬を撫でれば、もっと、と言うように擦り寄ってくる。まるで小さな犬のようだな。尻尾があったならば、元気よく左右に振っていただろうに。
階段を下りる。女郎と客が「次はいつ来てくれる?」だの何だの言って溢れかえっている。こんなにも人がいたのか、と感心するほどだ。あまりにも人が多いうえに、じろじろと見てくる輩がいるので、さっさと見世を出る。景一もついてきた。必ず見送りをするんだな……。俯いていたと思えば、私の右手を取り、昨夜結んだ布に唇を落とした。
「小焼様。ウチ、淋しいの……だから……」
「……また来ますよ」
「うん。ウチ、待ってるの」
ふわっと曖昧に笑う。これは……作り笑いだろうか……。
ごうっと風が吹いて、薄桃色の花びらが景一の頭に乗った。ほのかに甘い香りもする。これは彼女の香りではない。空色の髪に薄桃色がよく映えている……。見惚れていないで取ってやろう。このままだと、この子が笑い物にされてしまうだけだ。花びらを摘みあげる。
「ウチの頭に何か乗ってたん?」
「これです。……貴女って、桜がよく似合いますね」
「あっ」
「何ですか?」
「ううん。何でもないやの」
景一は俯いて手遊びを始めた。またこの子は人と話しているというのに下を向いて……まあ良いか。そろそろ私も父様がいるであろう朝露屋に向かわなければ。
「それでは」
「うん。また来てくださいな、やの」
手を振る彼女に手を振り返して、朝露屋へ足を向ける。
案内された座敷には既に父様がいた。私の姿を見るなり笑い始める。何だいったい。
「小焼遅かったなぁ!」
「……別に良いでしょうが」
「はっはっは。いいともいいとも。そんなに景一と別れるのが嫌だったんだな」
「違いますよ」
「そうはっきり言ってやるなよ。またあの子泣いちまうぞぉ」
それは一理あるな……。どうも私はあの子をいつも泣かせてしまう。できればずっと笑っていてもらいたいんだが、作り笑いは嫌だ。どうすればあの子の心からの笑顔を見られるのだろうか……。考えると、こんなに自分勝手なことはないな。
「でもなぁ小焼、女郎はふりが上手いもんだ。お前はすっかり騙されてるかもしれないがな。そこの桜が何で植えられているか知っているか?」
父様は窓から見える桜を指しながら言う。何で植えられているか? 花見をするからではないのか?
「花見をするためでは?」
「それもあるがなぁ。ここの桜は実をつけない」
「は?」
「花は咲くが、実らない。つまりだな、女郎には実が無い。惚れたふりや好いたふりをしているっていう洒落だな。ここでの事はみぃんな嘘だ。ここは嘘の国だ。ここじゃ騙される方が悪い。起請文なんてものもあるが、ありゃあ誰にでも送ってる」
「……で?」
「遊びは遊びだ。姉上は嬉しそうにしていたが、お前はうちの大事な跡取り息子だからな……」
「はぁ」
こんなにも真面目な表情をした父様を見るのは初めてだ。運ばれてきた玉子粥に手を付けながら話の続きを待つ。父様は豆腐をつまみに朝酒をしていた。
「お前、伊勢屋さんを知っているか?」
「ああ、菓子屋ですよね?」
「そうだ。先日、女将さんに会ったんだが……どうしてかお前をたいそう気に入ってるようでな、孫を嫁に貰ってくれないかと言われた」
「はぁ?」
「お孫さんは十六でな、器量はそれほどでもないが、料理の腕は抜群に良いそうだ。伊勢屋の菓子にもその子の作った物があるとか」
「それは、もしかして……豆大福ですか?」
「おお、わかってるな小焼! お前の好物だ!」
「……いえ、豆大福についてはどうでも良いんですが、それで?」
「こういう時のお前は察しが悪いな。見合いをすることになったぞ」
バキッ、と音が鳴った。ああ、噛んでしまったので匙が欠けた。これは弁償する必要があるだろうか。
見合いをすることになったなんて、何を勝手に決めてくれているんだ。我が父ながら勝手過ぎるだろう。
「大店の菓子屋の孫とお前が一緒になれば、互いに安泰だろう。うちの店も大きくなるし、行商する手土産として菓子折りを買わずとも持つことができるようになる。互いに利益しかない」
「しかし……私は……」
「まあまあ! 明々後日の夕刻に港屋で見合いだぞ。絶対に逃げようとするなよ。父様との約束だ。そこで互いに気に入ったなら、そのまましっぽりおしげりな」
「っ」
匙が完全に真っ二つに噛み砕かれた。このまま飯を食うのは難しいな。口の中に残った木屑を吐き出す。こんなにも噛み癖がひどいなんて、自分でも思っていなかった。
「匙を噛み砕くなんてな……。そんなに見合いが嫌か?」
「見合いが嫌と言うよりは……」
「お前、陰間なのか?」
「違います」
「そうかそうか。じゃあ、問題無いな。伊勢屋の孫、名前をはつ。おはつちゃんって呼んでやってくれ」
何を言っても無駄そうだな。とりあえず会うだけ会ってみるか……。無視していると父様の顔に泥を塗ることになる。それに、うちの評判を下げることになる。それだけは避けないといけないな……。客商売なのだから、噂話は悪いようにしかならない。ただでさえ鬼だとか言われているし、港屋で釜を抜いているとか言われているのだから……ああ、頭が痛くなってくる。
朝餉を食べ終えて、店へ戻る。父様は大福帳を捲って算盤を弾いていた。ぱちんっぱちんっ、音を鳴らしながら弾かれていく。宿帳と見比べて荷の送り先を考えている。いつもああなら良いんだがな。
糊売りの声や犬の遠吠えが外から聞こえる。夜は三味線や琴や笛の音で騒がしいが、朝昼は、時間がゆっくり流れているように感じる。
「小焼。夏樹の所に行かないのか?」
「何か荷があるんですか?」
「いや。右手にえらく可愛い布が巻かれているなと思ってなぁ」
父様は笑いながら上ずった声で言う。完全に馬鹿にされているように感じる。殴りたい衝動に駆られたが、殴れば手が痛むに決まっている。握り締めた拳を解き、深く息を吐く。
「痛いなら行った方が良いぞ」
「言われなくともそうしますよ」
「あっはっはっは。そうだなぁ。小焼は言われなくともできるな。あいたっ! 叩くことないだろ!」
「喧しいです!」
算盤で肩を軽く叩くと父様は顔を引きつらせた。まだ笑ったままだ。どうしてこんなに笑っているのだろうか、何がおかしいのだろうか。さっぱりわからない。
「わかったわかった。父様が悪かった。ほら、行ってこい」
「ついでに何か届ける物は無いですか?」
「無いな。たまにはゆっくり散歩でもしてこい。桜も少しずつ咲き始めた頃だしな」
「……では、行ってきます」
店を出て道を行く。五分咲きくらいだろうか。それでも見応えのある桜だ。通りすがりの観光客は私の姿を見ると鬼だ何だと言って逃げていく。いちいち相手する必要も無いだろう。互いに無関心でいた方が良いに決まっている。ここで追いかけ回してみろ、私の方が捕らえられるだろうに……。
普段通りに養生所に辿り着く。中に入ると夏樹がこちらを見た。隣には梅割れに髪を結った少女がいた。
「よっ、小焼。荷を届けに来たんじゃなさそうだなぁ。また爪を割ったか?」
「そうですよ」
人懐こい笑顔を浮かべる夏樹に右手を見せる。兎柄の布を見て更に笑っていた。こんなに笑われるとどうも腹立たしいな。
「こりゃまた可愛い布だな。小焼が巻いたのか?」
「いえ……」
「あいあい、わかったよ。そんな睨むなって」
睨んでいるつもりはないんだが。
夏樹は慣れた手つきで布を取り外し、薬を塗りこむ。沁みて痛い。薬をたっぷり塗り付けた後は再び兎柄の布を巻き付けた。そんな彼の横で女がずぅっとこちらを見てきている。
そんなに私が珍しいのか? 見世物ではないんだが……。
「夏樹。隣の人は?」
「おお。小焼、前にここで豆大福を食べただろ? それを作った――」
「伊勢屋のはつですか?」
「あれ? 知ってたのか?」
「ええ、まあ……」
「おはつちゃんは女将さんの薬を取りに来てくれてんだ。なっ?」
「はい。おばあちゃんのお薬を頂きに来ました。まさか……小焼様にお会いできるなんて思ってなかったので、その、えっと……」
「はぁ?」
おはつは俯いて手遊びを始めてしまった。あまり顔を見れていないが、確かに器量はそれほど……だな。蛙を潰したような顔でも出目金のような顔でもないので、見ていられないというほどではない。
だが、腫れぼったい目に、芋を蒸したような肌、分厚い唇、柘榴の爆ぜたような吹き出物……。
肌の薬を貰った方が良いのではないかと思う。
「夏樹、肌の薬は無いですか?」
「え? ああ、吹き出物でもあんのか?」
「いえ、私ではなく……」
もじもじしたままのおはつに視線を遣る。夏樹は気付いたようで苦笑いをしながら手を横に振った。
「余計な世話だと思うぞ」
「そうですか。……おはつ。貴女の作った豆大福、とても美味でした。いくらでも食べたいと思いました」
「ありがとうございますっ」
「……明々後日にまた」
「はいっ!」
返事は物凄く良いな。まるで呼び込みのようにはっきりした声で応える。
養生所を出て、道を戻る。相変わらず川には舟が浮いている。これから吉原へ向かう客、これから家路を辿る客、様々な者が交差している。港屋の船頭が手を振ってきているので、適当に振り返す。
散歩をしてこいと言われたが目的も無くぶらぶらしていると他人の目が気になる。ここいらに住む者ならまだしも、観光客は私を鬼扱いするのだから……菅笠でも持ってきておけば幾分かましになっただろうか。いや、今更そんな事せずとも良いか。
羅生門河岸の方へ向かう。人だかりができていた。お歯黒ドブから女郎の死体が引き上げられているようだ。下級の女郎の死体がよく投げ込まれていると聞くが、こうしてたまに引き上げることもあると聞く。
私が近付くだけで人が散っていった。取って食いやしないのだからそんなに避ける必要は無いだろう。深く息を吐きながら空いた場所から引き上げの様子を眺める。女郎だけかと思ったが男も一緒だったらしい。心中か……。こんなにも臭くて汚い所を死に場所に選ぶなんてな……。それだけ想い合っていたということなんだろうか。胸のあたりが少し痛んだ。
「あれは角町叶屋の宵町じゃねぇか!」
「こっちは浮世絵師の菊三郎だ!」
「おおうい! 二人の証文が見つかったってよぉ!」
野次馬の中から声があがり、角町の方角から息を切らしながら男が駆けてきた。叶屋といえば中見世だっただろうか。女郎の身元がわかったところで私には全く関係無い話だったな……。男の方も見知らぬ顔だ。ここで知っているような間柄の者だったならば、どうしたものかと思ったが、全く知らない。もう行くか。
気が付けば、昼見世の始まる時刻だったようで籬に女郎達が居並んでいた。ともゑ屋の前にも相方を決めようと品定めをしている男達が幾人もいた。
「ちょいと待ちなんし」
声と共に襟首に何かが引っかかる。振り向くと、錦が煙管を持って微笑んでいた。えらく長い煙管だと思っていたが、こうして人を引っ掛けるために長いのか。
「何か用ですか?」
「そう眉間に皺を寄せないでくんな。宗次郎様に聞いたよ、見合いをするんだってねえ?」
「はぁ。それが何か?」
「それはわっちにゃどうでも良い話でありんす。だが、景一の事でね」
「彼女が何か?」
「あの子はお前さんにほの字でありんす。『次はいつ来る? 次はいつ来る?』と毎日占ってばかり」
「あの子の情夫は雪次でしょう」
「おやまぁ。それはあの子が言いんしたか?」
「いえ」
「あっはっはっは。そいつは違うさね。あの子の――と、ああ、本人が来ちまった。わっちが話すような事ではないね。まあ、女郎の言葉が信じられないってのは仕方ないことでありんすな」
錦は手をひらひらと振りながら笑う。そんな彼女の横に慌てた様子の景一が座る。途端に遠くにいた男達が籬の前まで詰め寄ってきた。彼女が出てくるのを待っていたのか……。
こうして居並んでいる姿を見ると、錦に引けを取らないような可憐さを持った器量をしている。錦の左隣には文乃が座っているが、こちらも錦とも景一とも違った艶やかさがある。ともゑ屋の一番、二番、三番が居並んでいるってことか……。
「小焼様、ウチが出てくるん待っててくれたん?」
「たまたま錦に捕まっただけです」
「そこは『お前を待ってた』と言ってやりなんし。もう、女心のわからない坊ちゃまだねぇ」
「錦さん、そう言うたらあかんわ。坊やは素直なお子なんや」
何で私が女郎にとやかく言われなければいけないんだろうか。錦だけならまだしも文乃までも話に加わっている。昼見世はけっこう暇だという噂は本当だったんだな。
ここで眺めていてもまた馬鹿にされるだけだ。それに、景一の姿を見たがっている男の気配がするので、籬の前から退いた。男達が押し寄せる。……そんなにも私を避けていたのか? 何の冗談だ。全く笑えやしない。人で見えなくなってしまったが、景一に話しかけようとしている男の多さはわかった。
「若旦那ぁ、遊んでいかないんで?」
「えーっと、貴方は……」
「吾介っす。忘れないでくだせぇよぉ!」
「善処します」
「あー……いや、もう何度でも聞き返してくだせぇ。で、あがっていかないんすか? 嬢ちゃん淋しがっておりやすよ」
「昨日会ったばかりですよ」
「好きな相手には四六時中会いたいもんすよ。若旦那だって、好きな女と一緒にいたいと思った事の一つや二つあるでしょ?」
「いいえ?」
「あー……そうっすか……。じゃあ、惚れた男と一緒にいたいって思ったりしやせん?」
「何で私が男に惚れるんですか?」
「へ?」
吾介はまばたきを繰り返す。ぱちくりぱちくり。何を驚いているんだ。おまけにどうして私が男に惚れないといけないんだ。訳がわからない。もしかして、私が陰間だとか港屋で客を取ってるだとかの噂が思うよりも広まっているのか?
しばらく考えていた様子の吾介だったが、急に閃いたかのように手を打った。
「若旦那って恋をした事が無いんすね!」
「……鯉? 鱠にならした事がありますね。鯉を三枚に下ろし、細作りにしてから、煎った鯛の子をまぶしつけた鱠です。切り身の半分には熱くした煎酒酢、また半分には冷やしたわさび酢をかけ、両方を混ぜて供すると美味でした」
「そうじゃないんすよねぇ」
吾介は後ろ頭を掻きながら苦笑いをした。私は何かおかしな事を言っただろうか? 鯉なら鱠の他に刺身や汁、こごりも美味いな。何処かの船宿に立ち寄った時に食べたゐいり汁もなかなか良かった。あの癖になる苦味をもう一度味わいたいものだ。あれは何処で食べたものだったか……。
「ところで、貴方は私と話していて良いんですか?」
「一応これも仕事なんで大丈夫っす。そんでも、若旦那は遊ぶ気が無いようなんで戻りやすよ」
「はあ」
「恋をした事も無いのに、どうして水揚ができたんすか? 女を抱いた事あったんすか?」
「…………」
「まさか、初めてで……?」
「それは違います。……貴方に話すような事ではありません」
「そ、そうっすね。あんまり睨まねぇでくだせぇ。赤い目が怖いんすよ」
「睨んでませんよ」
「ひぃ。野暮な事聞いてすいやせん。そんじゃ、俺は行きやすね」
そう言うと吾介はそそくさと妓夫台に戻った。彼が戻ったところを見計らって客が話しかけている。あの女の名前はなんたらで揚代は何分だとかを教えているようだった。
それにしても、どうして皆「睨まないでくれ」と言うのだろうか。睨んでいるつもりはないんだが……。母様が「人と話をする時は、目を見て話しましょうね」と言っていたから、そうしているだけだが……どうして怖がられないといけないんだ。全く理解ができない。
ふと空を仰げば、突き抜けるように青い。まるであの子の髪の色のようだな……。
「おっ、鬼が散歩か?」
「ちょうど良かった雪次。黙って殴られろ!」
「えっ、なんだよ、痛っ!」
逃げようとした雪次を捕まえて拳骨を落としておく。心の翳っていた部分がすっきりと晴れた。手が少し痛んだが、この際それはどうでも良い。すっきりした。
「いきなり殴るなんて何だよ?」
「貴方、変な噂を流したでしょう。私が陰間だとか港屋で客を取っているだとか」
「な、なんだぁ? 景一にでも聞いたのか?」
「そうですよ」
「はぁー……やっぱりそうかぁ……」
雪次は荷物を地面に下ろす。本なのでけっこうな重量があるのだろう。立ち話をするならば下ろした方が肩への負担も減る。
「そんならお前は客を取ってねぇの? 本当なら一発ヤらせて欲しかったんだけど」
「取ってませんし、釜を抜かせるつもりもない!」
「ンな怒んなって! お前は美丈夫なんだから笑ってた方が良いと思うぜ! たまには冗談の一つでも言ってくれよ。って、おかしくもないのに笑えないとか言うんだろ、わーってるからな!」
こいつは何故一人でべらべら喋っているのだろうか。一発ヤらせて欲しかったなどふざけたことを言っているのが癪に障るので脚を蹴っておいた。雪次は跳びあがって痛がっている。
「あいたた……。ンな怒らなくたって良いだろ?」
「貴方がもし私と同じ事をされても、同じ事を言えるんですか?」
「ひええ、悪かったって! この通り! すまん!」
両手を合わせて頭を下げられてしまっては、許さないわけにもいかないだろう。ここで許さなければ、本当に鬼になってしまう。
「もう許しますんで顔を上げてください。次やったら喉笛を食い千切ってやりますからね」
「ひぇええ! 本当に鬼じゃねぇか!」
「冗談のつもりだったんですが」
「怖ぇよ! お前が言うと冗談に聞こえねぇんだぜ!」
「はぁ?」
「どーでもいいや。どうして景一はお前に惚れてんだか……」
「何おかしなことを言ってるんですか? 景一の情夫は貴方でしょう?」
「いいや。俺じゃないぜ。だってあいつ、俺に『鬼の噺を読みたいの』って言ってきたんだ」
「あの子が鬼の噺を読みたいと言っても私と関係無いでしょうが」
「俺も最初はそう思ってたんだ。まさかお前が景一の客として登楼してるなんて知らなかったしな、でも、ちょいと前に知った。景一が大事にしている長櫛を贈った相手だ」
「私ですね」
「お前、よくも夕餉を奢ってやった時に初対面のようにしてたな! 何回か抱いたことあったんだろ!」
「それほどでも……」
「あーあ、俺が何言っても無駄だとわーったぜ。あいつは俺に懐いているようだから、いつか俺があいつの一番になってやるんだからな!」
「はぁ……」
途中から何を言っているかさっぱりわからないが、ここで一つはっきりした。
景一の情夫が私ということだ。
これは、喜んでおくべきことなのか? 惚れられているというのもよくわからない。ただ、あの子の事を考えると胸のあたりが少し痛む。考え始めると他の事が疎かになってしまう。何かが足りないような、ぽっかり穴の空いたような感覚がする。妙に気になってしまう。今までこんな事無かったのに。どうしてだろうか。どこかおかしいのだろうか。
「話はそんだけか? それならもう俺は行くぜ」
「はい、どうも……」
雪次は荷物を背負うと去っていった。方々の見世を回って籬越しに新刊情報を伝えに行くんだろう。芝居を見に行けない女郎達には良い娯楽と言ったところだ。
仲の町を歩いていると飴細工の店が出ていた。飴はしばらく必要ないだろうか……。
そのまま通り過ぎる。考えてみると、好きな物を聞いた時にあの子は何かを言いかけていたな。途中で切ってしまったが、あれは何だったんだ? 今度会った時に聞いてみるか……。どうして今度なんて考えているんだろうか。しかし「また来る」と言ってしまった手前、行かない訳にもいかないだろう。ここでは嘘を吐くのが普通だとしても、私は嘘を吐きたくない。
考えながら店へ戻る。ちょうど丁稚達が高い場所に荷を積み上げようと踏み台を用意していた。
「無理しないでください。落ちると危ないですよ」
「小焼様おかえりなさいですぅ」
「おかえりなさいなのです」
「これは私に任せて他の荷をお願いします」
「はいですぅ!」
「はいなのです!」
丁稚達は元気よく返事をすると奥へ引っ込んでいった。私は残された荷と貼り紙を見比べる。この荷は港屋へ。この荷は平松屋へ。こちらは阿武屋か。酒樽が届いているので酒臭いな。さっさと運んでしまうか。と思ったが、車を夏樹の所に置いてきていたんだった。奥から別の物を出してこないとな。
「おう小焼、戻ってきたのか。ゆっくりして良いって言ったのに」
「そうもいかないでしょう」
「お前は真面目に働き過ぎなんだ。うちにはきちんと奉公人がいるんだぞ。ほら、見てみろ。番頭も手代も丁稚もいるだろ。奉公人のやる事を若旦那のお前が全部しちまうと、手持ち無沙汰で可哀想だぞ」
「……そうですか」
父様は今までそんな事を一度も言わなかったのに、いったいどうしたんだ。頭でも打ったのか? だが、奉公人の仕事を取るのはまずいな……。せっかく来てくれているのだから何かしてもらわなければ。
私は荷から手を離す。手代の弥太郎が「おいらに任せてくだせぇ!」と言いながら荷を持っていった。
「そういえば父様、錦が見合いの事を知っていましたが」
「おお! 錦に会ったのか! 昼見世が始まる前にこっそり教えておいたんだ。景一には黙っておくように言ってある」
「そうですか」
「小焼、具合でも悪いのか?」
「何故ですか?」
「いや。いつもなら『はぁ』とか言うのに、素直に返事されたからな」
「そんな事で心配しないで頂けますか」
「そうじゃなくともおかしいぞ。何か悩みでもあるのか? 見合いが嫌なのか?」
「勝手に決められては嫌に決まっているでしょう。確かにおはつの器量はそれほどでしたよ……」
「おはつちゃんに会ったのか。心根は良い子そうだったろ?」
「ええ……。喧しくなくて良さそうでしたよ……」
女の器量についてそう考えたこともなかったんだが、どうしてだろうか、さっきからあの青い髪の少女の事ばかりが頭を過っていく。あの子は今夜も私の知らない男に抱かれるんだろう。あんなにも好奇の目で見られて可哀想だな……。
「ははぁ。さては……恋わずらいだな」
「鯉わずらい? 久しく鯉を食べてませんが」
「本気で言ってるのか? 魚の話じゃない。惚れたはれたの恋だ。そうだとしたら一大事だな。何と言っても、恋わずらいは不治の病だ」
「不治の……病…………」
「恋の病はなかなか治らないぞぉ」
「…………」
「他人と慣れ合う事を嫌うお前が、そんな風に他人の事を想えるようになって父様は嬉しいが、少し複雑な気分だなぁ。相手がそこらの娘ならともかく、女郎ときたもんだ」
父様は意気揚々とまるで浪曲を語っているかのように言葉を続けている。恋わずらいか。よくわからないな。なんだか今日はよく恋という言葉を聞いている気がする。吾介にさえも言われたくらいだ。
恋とは何だろうか。
あまりにも疎過ぎてわからない。私は彼女の事が好きなのか? 惚れているのか? いったいどうしたら良いんだろうか。さっぱり見当がつかない。
「父様。私はどうしたら良いんでしょうか」
「景一に会いたいなら会いに行けば良い。もう馴染みなんだから、朝露屋に話を通してもらって呼び出さずとも直接登楼すれば良いだろう」
「……私は、あの子を泣かせてしまうのに」
「へ? ああー……景一は泣き虫だ。おとなしいから、自分の話をなかなかできないとも錦が言ってたな。小焼、話すのが苦手なら景一の話をゆっくり聞いてやったらどうだ? それだけでもあの子は喜んでくれると思うぞ」
「苦手ではありませんよ。少し面倒なだけで」
「そもそもお前は笑わないから怖がられるんだ。ほら、父様の真似をしてみろ」
父様は口角を上げ、にたりにたり笑う。気味が悪い。真似をしてみようにも、おかしくもないのに笑える訳がない。じぃっと見ていると父様は唇を尖らせた。
「全く表情が変わらないじゃないか! ほら、こうだ!」
父様は私の頬を掴んで持ち上げる。痛い。
「いひゃいでふ!」
「うぉっと! すぐに殴ろうとするのも駄目だな。女子供に怖がられるぞ」
「父様が殴られるような事をするからでしょうが」
「そう言うなよ。父様だって、お前の心配をしているんだからな」
父様は私の手から算盤をもぎ取って横に置く。くそっ、殴り損ねた。会話を聞いていた奉公人達がこちらを見て笑っていた。父様はそんな姿を見て、皆に手を振っていた。
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