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53上司の言葉
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「おはようございます」
「おはようございます。今日も一日、頑張っていきましょう」
大学生の私が夏休みということは、当然、小・中学校も夏休みとなる。そのため、塾は午前中も開講されていた。
梅雨は終わり、8月に入って暑い日が続いている。どんよりとした曇り空の日に変わり、太陽がまぶしい日が多くなっている。そんな季節の移り変わりに関係なく、今日も私が働いている塾講師の上司は、黒のスーツ上下をぴっちりと着こんでいた。
「向井さんは良い人材だと思っていたのに、辞めてしまって残念ですね」
「やっぱり辞めてしまったんですね」
「おや、同じ大学で親しそうでしたけど、ご存じなかったんですか?」
「ええと……」
今日は午前中にバイトが入っていた。外は真夏の暑さだが、空調が効いた塾の教室内は快適な温度に保たれていた。しかし、急にその快適な温度が寒く感じてしまう。どう答えたらいいかわからず、言葉に詰まる。今日来る予定の生徒たちの授業内容が書かれたノートに視線を向けてごまかす。急に背筋がぞくぞくとしてきた。じっと私の様子をうかがっていた上司は、そこでふっと微笑んだ。
「彼女は確か、この前病院に入院していた彼女のひ孫、でしたね。なるほど、朔夜さんが言葉に詰まるわけだ」
「わかっているなら、聞かないでください」
「彼女と話すことはできましたか?」
「黙秘します」
死神のくせに、いつまで人間のふりをして、この塾で働くつもりなのだろうか。嫌なことを聞いてくる上司である。とはいえ、目の前の男は、私の知らない彼女の情報を持っているかもしれない。
大学の前期の授業最終日に、向井さんから電話がかかってきたが、ジャスミンに勝手に切られてしまった。その後、彼女たちが帰宅した後、かけなおしてみたが、何度かけても「電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります」という電子音が流れるだけで、一向に向井さんにつながることはなかった。
「向井さんに電話がかからないのは、どうしてでしょうか」
「さあ、僕にはわかりません」
「オレには何も言えない」
「さて、誰のことを言っているのやら」
その日の夜、ふらりと家に帰ってきた九尾たちに尋ねてみたが、理由を教えてもらえなかった。彼らは、向井さんに関しての情報を持っているみたいだが、話すつもりはなさそうだった。
「何を考えているのか知りませんが、彼女についてはもう、関わらない方がいいと思いますよ」
思考の海に沈んでいた私を現実に引き戻した車坂は、なんでもないことのように軽い口調で彼女について言及する。関わらない方がいいということは、彼女の身に何かあったということだ。曾祖母のことで、彼女の身にも不幸が訪れてしまったのだとしたら、あまりにも理不尽だ。
「そうですねえ。なんと言いますか、彼女の家は今、何者かに追われているようでして、夜逃げ?状態で連絡がつかないらしいですよ」
「夜逃げ……」
「どうやら、私が病院で向井さんの曾祖母の魂を回収した後、何者かが彼女の家に押し入ったみたいです。まあ、結局は朔夜さんとは赤の他人であるので、関係はないでしょうが」
衝撃の事実を聞かされた。何者かと言葉を濁しているが、きっと組合の人間が向井さんの家に押し入ったに違いない。とはいえ、前期最後の大学の日に、彼女から電話がかかってきた。その時の彼女の声は、そこまで慌てていなかったような気がする。だが、それでもこちらからかけなおしても応答がないことが、彼女の身に何かあったことを示していた。
「じゃ、じゃあ。向井さんの曾祖母の葬式は」
「行われていないでしょうね。自分たちの危機に、死んだ者の弔いなどできるでしょうか?」
葬式は行われなかった。
目の前の死神が彼女の魂を回収したのだとしたら、この世に彼女がとどまっていることはない。幽霊としてこの世に存在はしていないということだ。しかし、それが葬式を行わなくてよいという理由にはならない。
「面倒くさい人ですね。いつまでもそんなくだらないことで悩んでいるようでしたら、悩みの元凶となる人間たちの記憶を消して差し上げ」
「お断りします」
勝手に人の記憶をいじらないでほしい。今までだって、たくさんの人の死に直面してきた。しかし、それらを乗り越えて今の私がある。いちいち人の死ごときで記憶を消してもらわなくても大丈夫だ。
「だったら、生徒たちが来る前に、さっさと元の表情に戻しなさい。陰気くさい顔をしていたら、授業に差し障ります」
「ワカリマシタ」
午前中は翼君がシフトに入っていなかったため、私と車坂の二人での対応となる。向井さんはビル火災の翌日に、車坂にバイトを辞めたい旨を電話で伝えたそうだ。車坂はすでに生徒たちに彼女が辞めることを話していた。生徒たちは短期間しか関わりがなかったにも関わらず、向井さんのことを寂しがっていた。
「おはようございまーす!」
話しているうちに、生徒が来る時間が来てしまったようだ。元気な声で挨拶してきた声に、頬を軽くたたいて気合を入れる。
「おはようございます」
ドアの前に立ち、生徒を迎え入れる。一番に来たのは、小学生の兄弟だった。午前中は滞りなく仕事を進めることができた。
「おはようございます。今日も一日、頑張っていきましょう」
大学生の私が夏休みということは、当然、小・中学校も夏休みとなる。そのため、塾は午前中も開講されていた。
梅雨は終わり、8月に入って暑い日が続いている。どんよりとした曇り空の日に変わり、太陽がまぶしい日が多くなっている。そんな季節の移り変わりに関係なく、今日も私が働いている塾講師の上司は、黒のスーツ上下をぴっちりと着こんでいた。
「向井さんは良い人材だと思っていたのに、辞めてしまって残念ですね」
「やっぱり辞めてしまったんですね」
「おや、同じ大学で親しそうでしたけど、ご存じなかったんですか?」
「ええと……」
今日は午前中にバイトが入っていた。外は真夏の暑さだが、空調が効いた塾の教室内は快適な温度に保たれていた。しかし、急にその快適な温度が寒く感じてしまう。どう答えたらいいかわからず、言葉に詰まる。今日来る予定の生徒たちの授業内容が書かれたノートに視線を向けてごまかす。急に背筋がぞくぞくとしてきた。じっと私の様子をうかがっていた上司は、そこでふっと微笑んだ。
「彼女は確か、この前病院に入院していた彼女のひ孫、でしたね。なるほど、朔夜さんが言葉に詰まるわけだ」
「わかっているなら、聞かないでください」
「彼女と話すことはできましたか?」
「黙秘します」
死神のくせに、いつまで人間のふりをして、この塾で働くつもりなのだろうか。嫌なことを聞いてくる上司である。とはいえ、目の前の男は、私の知らない彼女の情報を持っているかもしれない。
大学の前期の授業最終日に、向井さんから電話がかかってきたが、ジャスミンに勝手に切られてしまった。その後、彼女たちが帰宅した後、かけなおしてみたが、何度かけても「電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります」という電子音が流れるだけで、一向に向井さんにつながることはなかった。
「向井さんに電話がかからないのは、どうしてでしょうか」
「さあ、僕にはわかりません」
「オレには何も言えない」
「さて、誰のことを言っているのやら」
その日の夜、ふらりと家に帰ってきた九尾たちに尋ねてみたが、理由を教えてもらえなかった。彼らは、向井さんに関しての情報を持っているみたいだが、話すつもりはなさそうだった。
「何を考えているのか知りませんが、彼女についてはもう、関わらない方がいいと思いますよ」
思考の海に沈んでいた私を現実に引き戻した車坂は、なんでもないことのように軽い口調で彼女について言及する。関わらない方がいいということは、彼女の身に何かあったということだ。曾祖母のことで、彼女の身にも不幸が訪れてしまったのだとしたら、あまりにも理不尽だ。
「そうですねえ。なんと言いますか、彼女の家は今、何者かに追われているようでして、夜逃げ?状態で連絡がつかないらしいですよ」
「夜逃げ……」
「どうやら、私が病院で向井さんの曾祖母の魂を回収した後、何者かが彼女の家に押し入ったみたいです。まあ、結局は朔夜さんとは赤の他人であるので、関係はないでしょうが」
衝撃の事実を聞かされた。何者かと言葉を濁しているが、きっと組合の人間が向井さんの家に押し入ったに違いない。とはいえ、前期最後の大学の日に、彼女から電話がかかってきた。その時の彼女の声は、そこまで慌てていなかったような気がする。だが、それでもこちらからかけなおしても応答がないことが、彼女の身に何かあったことを示していた。
「じゃ、じゃあ。向井さんの曾祖母の葬式は」
「行われていないでしょうね。自分たちの危機に、死んだ者の弔いなどできるでしょうか?」
葬式は行われなかった。
目の前の死神が彼女の魂を回収したのだとしたら、この世に彼女がとどまっていることはない。幽霊としてこの世に存在はしていないということだ。しかし、それが葬式を行わなくてよいという理由にはならない。
「面倒くさい人ですね。いつまでもそんなくだらないことで悩んでいるようでしたら、悩みの元凶となる人間たちの記憶を消して差し上げ」
「お断りします」
勝手に人の記憶をいじらないでほしい。今までだって、たくさんの人の死に直面してきた。しかし、それらを乗り越えて今の私がある。いちいち人の死ごときで記憶を消してもらわなくても大丈夫だ。
「だったら、生徒たちが来る前に、さっさと元の表情に戻しなさい。陰気くさい顔をしていたら、授業に差し障ります」
「ワカリマシタ」
午前中は翼君がシフトに入っていなかったため、私と車坂の二人での対応となる。向井さんはビル火災の翌日に、車坂にバイトを辞めたい旨を電話で伝えたそうだ。車坂はすでに生徒たちに彼女が辞めることを話していた。生徒たちは短期間しか関わりがなかったにも関わらず、向井さんのことを寂しがっていた。
「おはようございまーす!」
話しているうちに、生徒が来る時間が来てしまったようだ。元気な声で挨拶してきた声に、頬を軽くたたいて気合を入れる。
「おはようございます」
ドアの前に立ち、生徒を迎え入れる。一番に来たのは、小学生の兄弟だった。午前中は滞りなく仕事を進めることができた。
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