53 / 59
53上司の言葉
しおりを挟む
「おはようございます」
「おはようございます。今日も一日、頑張っていきましょう」
大学生の私が夏休みということは、当然、小・中学校も夏休みとなる。そのため、塾は午前中も開講されていた。
梅雨は終わり、8月に入って暑い日が続いている。どんよりとした曇り空の日に変わり、太陽がまぶしい日が多くなっている。そんな季節の移り変わりに関係なく、今日も私が働いている塾講師の上司は、黒のスーツ上下をぴっちりと着こんでいた。
「向井さんは良い人材だと思っていたのに、辞めてしまって残念ですね」
「やっぱり辞めてしまったんですね」
「おや、同じ大学で親しそうでしたけど、ご存じなかったんですか?」
「ええと……」
今日は午前中にバイトが入っていた。外は真夏の暑さだが、空調が効いた塾の教室内は快適な温度に保たれていた。しかし、急にその快適な温度が寒く感じてしまう。どう答えたらいいかわからず、言葉に詰まる。今日来る予定の生徒たちの授業内容が書かれたノートに視線を向けてごまかす。急に背筋がぞくぞくとしてきた。じっと私の様子をうかがっていた上司は、そこでふっと微笑んだ。
「彼女は確か、この前病院に入院していた彼女のひ孫、でしたね。なるほど、朔夜さんが言葉に詰まるわけだ」
「わかっているなら、聞かないでください」
「彼女と話すことはできましたか?」
「黙秘します」
死神のくせに、いつまで人間のふりをして、この塾で働くつもりなのだろうか。嫌なことを聞いてくる上司である。とはいえ、目の前の男は、私の知らない彼女の情報を持っているかもしれない。
大学の前期の授業最終日に、向井さんから電話がかかってきたが、ジャスミンに勝手に切られてしまった。その後、彼女たちが帰宅した後、かけなおしてみたが、何度かけても「電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります」という電子音が流れるだけで、一向に向井さんにつながることはなかった。
「向井さんに電話がかからないのは、どうしてでしょうか」
「さあ、僕にはわかりません」
「オレには何も言えない」
「さて、誰のことを言っているのやら」
その日の夜、ふらりと家に帰ってきた九尾たちに尋ねてみたが、理由を教えてもらえなかった。彼らは、向井さんに関しての情報を持っているみたいだが、話すつもりはなさそうだった。
「何を考えているのか知りませんが、彼女についてはもう、関わらない方がいいと思いますよ」
思考の海に沈んでいた私を現実に引き戻した車坂は、なんでもないことのように軽い口調で彼女について言及する。関わらない方がいいということは、彼女の身に何かあったということだ。曾祖母のことで、彼女の身にも不幸が訪れてしまったのだとしたら、あまりにも理不尽だ。
「そうですねえ。なんと言いますか、彼女の家は今、何者かに追われているようでして、夜逃げ?状態で連絡がつかないらしいですよ」
「夜逃げ……」
「どうやら、私が病院で向井さんの曾祖母の魂を回収した後、何者かが彼女の家に押し入ったみたいです。まあ、結局は朔夜さんとは赤の他人であるので、関係はないでしょうが」
衝撃の事実を聞かされた。何者かと言葉を濁しているが、きっと組合の人間が向井さんの家に押し入ったに違いない。とはいえ、前期最後の大学の日に、彼女から電話がかかってきた。その時の彼女の声は、そこまで慌てていなかったような気がする。だが、それでもこちらからかけなおしても応答がないことが、彼女の身に何かあったことを示していた。
「じゃ、じゃあ。向井さんの曾祖母の葬式は」
「行われていないでしょうね。自分たちの危機に、死んだ者の弔いなどできるでしょうか?」
葬式は行われなかった。
目の前の死神が彼女の魂を回収したのだとしたら、この世に彼女がとどまっていることはない。幽霊としてこの世に存在はしていないということだ。しかし、それが葬式を行わなくてよいという理由にはならない。
「面倒くさい人ですね。いつまでもそんなくだらないことで悩んでいるようでしたら、悩みの元凶となる人間たちの記憶を消して差し上げ」
「お断りします」
勝手に人の記憶をいじらないでほしい。今までだって、たくさんの人の死に直面してきた。しかし、それらを乗り越えて今の私がある。いちいち人の死ごときで記憶を消してもらわなくても大丈夫だ。
「だったら、生徒たちが来る前に、さっさと元の表情に戻しなさい。陰気くさい顔をしていたら、授業に差し障ります」
「ワカリマシタ」
午前中は翼君がシフトに入っていなかったため、私と車坂の二人での対応となる。向井さんはビル火災の翌日に、車坂にバイトを辞めたい旨を電話で伝えたそうだ。車坂はすでに生徒たちに彼女が辞めることを話していた。生徒たちは短期間しか関わりがなかったにも関わらず、向井さんのことを寂しがっていた。
「おはようございまーす!」
話しているうちに、生徒が来る時間が来てしまったようだ。元気な声で挨拶してきた声に、頬を軽くたたいて気合を入れる。
「おはようございます」
ドアの前に立ち、生徒を迎え入れる。一番に来たのは、小学生の兄弟だった。午前中は滞りなく仕事を進めることができた。
「おはようございます。今日も一日、頑張っていきましょう」
大学生の私が夏休みということは、当然、小・中学校も夏休みとなる。そのため、塾は午前中も開講されていた。
梅雨は終わり、8月に入って暑い日が続いている。どんよりとした曇り空の日に変わり、太陽がまぶしい日が多くなっている。そんな季節の移り変わりに関係なく、今日も私が働いている塾講師の上司は、黒のスーツ上下をぴっちりと着こんでいた。
「向井さんは良い人材だと思っていたのに、辞めてしまって残念ですね」
「やっぱり辞めてしまったんですね」
「おや、同じ大学で親しそうでしたけど、ご存じなかったんですか?」
「ええと……」
今日は午前中にバイトが入っていた。外は真夏の暑さだが、空調が効いた塾の教室内は快適な温度に保たれていた。しかし、急にその快適な温度が寒く感じてしまう。どう答えたらいいかわからず、言葉に詰まる。今日来る予定の生徒たちの授業内容が書かれたノートに視線を向けてごまかす。急に背筋がぞくぞくとしてきた。じっと私の様子をうかがっていた上司は、そこでふっと微笑んだ。
「彼女は確か、この前病院に入院していた彼女のひ孫、でしたね。なるほど、朔夜さんが言葉に詰まるわけだ」
「わかっているなら、聞かないでください」
「彼女と話すことはできましたか?」
「黙秘します」
死神のくせに、いつまで人間のふりをして、この塾で働くつもりなのだろうか。嫌なことを聞いてくる上司である。とはいえ、目の前の男は、私の知らない彼女の情報を持っているかもしれない。
大学の前期の授業最終日に、向井さんから電話がかかってきたが、ジャスミンに勝手に切られてしまった。その後、彼女たちが帰宅した後、かけなおしてみたが、何度かけても「電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります」という電子音が流れるだけで、一向に向井さんにつながることはなかった。
「向井さんに電話がかからないのは、どうしてでしょうか」
「さあ、僕にはわかりません」
「オレには何も言えない」
「さて、誰のことを言っているのやら」
その日の夜、ふらりと家に帰ってきた九尾たちに尋ねてみたが、理由を教えてもらえなかった。彼らは、向井さんに関しての情報を持っているみたいだが、話すつもりはなさそうだった。
「何を考えているのか知りませんが、彼女についてはもう、関わらない方がいいと思いますよ」
思考の海に沈んでいた私を現実に引き戻した車坂は、なんでもないことのように軽い口調で彼女について言及する。関わらない方がいいということは、彼女の身に何かあったということだ。曾祖母のことで、彼女の身にも不幸が訪れてしまったのだとしたら、あまりにも理不尽だ。
「そうですねえ。なんと言いますか、彼女の家は今、何者かに追われているようでして、夜逃げ?状態で連絡がつかないらしいですよ」
「夜逃げ……」
「どうやら、私が病院で向井さんの曾祖母の魂を回収した後、何者かが彼女の家に押し入ったみたいです。まあ、結局は朔夜さんとは赤の他人であるので、関係はないでしょうが」
衝撃の事実を聞かされた。何者かと言葉を濁しているが、きっと組合の人間が向井さんの家に押し入ったに違いない。とはいえ、前期最後の大学の日に、彼女から電話がかかってきた。その時の彼女の声は、そこまで慌てていなかったような気がする。だが、それでもこちらからかけなおしても応答がないことが、彼女の身に何かあったことを示していた。
「じゃ、じゃあ。向井さんの曾祖母の葬式は」
「行われていないでしょうね。自分たちの危機に、死んだ者の弔いなどできるでしょうか?」
葬式は行われなかった。
目の前の死神が彼女の魂を回収したのだとしたら、この世に彼女がとどまっていることはない。幽霊としてこの世に存在はしていないということだ。しかし、それが葬式を行わなくてよいという理由にはならない。
「面倒くさい人ですね。いつまでもそんなくだらないことで悩んでいるようでしたら、悩みの元凶となる人間たちの記憶を消して差し上げ」
「お断りします」
勝手に人の記憶をいじらないでほしい。今までだって、たくさんの人の死に直面してきた。しかし、それらを乗り越えて今の私がある。いちいち人の死ごときで記憶を消してもらわなくても大丈夫だ。
「だったら、生徒たちが来る前に、さっさと元の表情に戻しなさい。陰気くさい顔をしていたら、授業に差し障ります」
「ワカリマシタ」
午前中は翼君がシフトに入っていなかったため、私と車坂の二人での対応となる。向井さんはビル火災の翌日に、車坂にバイトを辞めたい旨を電話で伝えたそうだ。車坂はすでに生徒たちに彼女が辞めることを話していた。生徒たちは短期間しか関わりがなかったにも関わらず、向井さんのことを寂しがっていた。
「おはようございまーす!」
話しているうちに、生徒が来る時間が来てしまったようだ。元気な声で挨拶してきた声に、頬を軽くたたいて気合を入れる。
「おはようございます」
ドアの前に立ち、生徒を迎え入れる。一番に来たのは、小学生の兄弟だった。午前中は滞りなく仕事を進めることができた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
めがさめたら、田舎にいた。
ミックスサンド
キャラ文芸
貧乏コンテストとかあったら優勝できそうなくらいの生活をおくる
女子高校生・「倉田さち」が倒れ、めざめると田舎に住まう少女、「本条 結子」になっていた。
女の子が田舎で狐やら河童やらを相手に食堂でご飯を振る舞う話です。
❉難しい文体ではないので
暇な時にサラッと読んで頂ければ幸 いです。女主人公です。
回りくどい帰結
来条恵夢
キャラ文芸
同級生二人の妙な関係。
殺し屋V.S.サイコパスのようなそうでもないような。
…ていうのから始まって、事件も特になくて日常話のようなそうでもないようなものに…。
*ちなみに最初の話を読んでもらった友人に「商業BLの冒頭みたい」という感想をもらったけど別にそういった方向には行きません…よ?*
**ここまででいったん終了です。続きはあるようなないような…気が向いたら…?
まさか、、お兄ちゃんが私の主治医なんて、、
ならくま。くん
キャラ文芸
おはこんばんにちは!どうも!私は女子中学生の泪川沙織(るいかわさおり)です!私こんなに元気そうに見えるけど実は貧血や喘息、、いっぱい持ってるんだ、、まあ私の主治医はさすがに知人だと思わなかったんだけどそしたら血のつながっていないお兄ちゃんだったんだ、、流石にちょっとこれはおかしいよね!?でもお兄ちゃんが医者なことは事実だし、、
私のおにいちゃんは↓
泪川亮(るいかわりょう)お兄ちゃん、イケメンだし高身長だしもう何もかも完璧って感じなの!お兄ちゃんとは一緒に住んでるんだけどなんでもてきぱきこなすんだよね、、そんな二人の日常をお送りします!
アルファポリスで閲覧者数を増やすための豆プラン
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
エッセイ・ノンフィクション
私がアルファポリスでの活動から得た『誰にでも出来る地道なPV獲得術』を、豆知識的な感じで書いていきます。
※思いついた時に書くので、不定期更新です。
後宮の系譜
つくも茄子
キャラ文芸
故内大臣の姫君。
御年十八歳の姫は何故か五節の舞姫に選ばれ、その舞を気に入った帝から内裏への出仕を命じられた。
妃ではなく、尚侍として。
最高位とはいえ、女官。
ただし、帝の寵愛を得る可能性の高い地位。
さまざまな思惑が渦巻く後宮を舞台に女たちの争いが今、始まろうとしていた。
『有意義』なお金の使い方!~ある日、高1の僕は突然金持ちになっちゃった!?~
平塚冴子
キャラ文芸
イジメられられっ子、母子家庭、不幸だと思っていた僕は自殺まで考えていた。
なのに、突然被験者に選ばれてしまった。
「いくらでも、好きにお金を使って下さい。
ただし、有意義な使い方を心掛けて下さい。
あなたのお金の使い道を、こちら実験結果としてクライアントに提供させて頂きます。」
華京院 奈落と名乗る青年サポーターが、取り敢えず差し出した1千万円に頭が真っ白くなった…。
有意義なお金の使い方って何だ…?
そして…謎の一族…華京院が次々と現れてくる。
同期の御曹司様は浮気がお嫌い
秋葉なな
恋愛
付き合っている恋人が他の女と結婚して、相手がまさかの妊娠!?
不倫扱いされて会社に居場所がなくなり、ボロボロになった私を助けてくれたのは同期入社の御曹司様。
「君が辛そうなのは見ていられない。俺が守るから、そばで笑ってほしい」
強引に同居が始まって甘やかされています。
人生ボロボロOL × 財閥御曹司
甘い生活に突然元カレ不倫男が現れて心が乱される生活に逆戻り。
「俺と浮気して。二番目の男でもいいから君が欲しい」
表紙イラスト
ノーコピーライトガール様 @nocopyrightgirl
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる