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54いつもの日常の平和な光景

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 午前中の授業が終わると、いったん塾を閉めることになっていた。そして、また午後から開講する。午前中の仕事を終えた私は、いったん家に戻り、昼食を食べてつかの間の休憩をとる。

 塾から外に一歩出ると、そこは灼熱の太陽が照り付ける過酷な環境だった。少し歩いただけで汗が全身から噴き出してくる。自転車で帰宅したが、家に着くころには全身汗だくとなっていた。

 家に入ると、九尾たちが出迎えてくれた。先にシャワーを浴びて汗を流すことにした。そして、さっぱりとした状態でリビングに向かい、翼君たちが作ってくれた昼ご飯を食べる。夏も真っ盛りということで、今日の昼食はそうめんだった。テーブルには一人分の食事が用意され、ありがたくいただくことにした。

 九尾たちはソファに座り、まったりと過ごしていた。夏になり、ケモミミ美少年たちは半そで短パン姿で露出度が上がり、私の目の保養となっている。


「午後からは、僕も蒼紗さんと一緒に塾で働きます」

「翼、お前はもう、人間ではないのによくやるな」

「何かやっていないと落ち着かないんです」

「……」

 午後からは翼君が塾に来てくれるようだ。九尾の言う通り、翼君はすでに人間ではないので、わざわざバイトをする必要はない。とはいえ、彼は塾での大事な戦力となっていて、さらには家計の助けになっているので、今更辞めろとは言えなかった。狼貴君は無言を貫いていた。

「そういえば、お主の塾にいる、三つ子はどんな感じだ?あの後、何か言っていたか?」

 翼君から食後に温かい緑茶をもらい、ちびちびすすっていると、九尾が唐突に私に質問してくる。エアコンが効いた室内は快適な温度で、温かいお茶もおいしく飲むことができた。

「すっかり、彼らの存在を忘れていました」

 彼らに組合での仕事の人探しの代役を頼んでいたことを思い出す。結局、彼らの出番はなかった。

「どんな感じだと言われても、今まで通りですよ」

「とりあえず、彼らの出番がなくて良かったですね」

 翼君の言葉に納得する。三つ子のことを今日は気にしてみよう。頭に彼らのことをメモして、私は午後の塾の仕事に向かうのだった。



 塾のシフトが同じときは、目的地が同じため一緒に家を出る。翼君と家を出た私は、雲一つない快晴の空にげんなりする。

「梅雨のどんよりとした天気も嫌でしたが、こんな雲一つない快晴で、太陽が出ている日も嫌になりますね」

「そうですか?僕天気がいいと気分が上がりますけど」

「それは、この暑さがなかったらの話ですよ。ああ、翼君は」

 人間ではないから、暑さを感じないのか。

 口から出かけた言葉を慌てて飲み込む。いくら今は人間ではないと言っても、元は歴っとした人間だった翼君に、告げて良い言葉ではない。

「別に僕は気にしていませんから。とはいえ、季節を肌で感じることができなくなって少し、寂しい気がします。まあ、おかげでこんな日も快適に過ごせますけどね」

 自嘲気味に笑った翼君にかける言葉が見つからない。今の彼は、私と同年代の普通の青年男性にしか見えない。20代の若者の姿をしていた。それなのに、その顔に浮かべる表情は妙に達観していた。



「こんにちは。午後からもお願いします」
「こんにちは。よろしくお願いします」

「朔夜さんは午後からもしっかりと働いてくださいね。宇佐美君は、まあ心配はいらないでしょう」

 私たちが塾に到着すると、すでに車坂が塾のカギを開けて中で生徒たちが来る準備を始めていた。車坂に挨拶したが、どうにも私と翼君の扱いが違う気がした。私だって、心配いらない働きぶりをしているはずだ。

「拗ねていないで、さっさと生徒が来る準備をしてください」

 私の表情を見かねた車坂が口を出す。文句を言っても仕方ないので、態度で自分がいかに有能かを示すことにして、物置から掃除機を取り出して掃除を始める。翼君は生徒たちのためのカリキュラムを書き始めた。

 そんな私たちの様子を見た車坂も、今日来る生徒たちの名簿を見ながらペンを走らせる。各自自分たちの仕事をしながら、生徒たちが来るのを待っていた。


『こんにちはー』

 夏休みということもあり、三つ子は午後の最初の生徒としてやってきた。元気よく挨拶をして塾に入ってくる。相変わらず、三つ子の顔はよく似ていて、よく見ないと誰が誰だかわからない。

「こんにちは。今日も、頑張っていきましょうね」

「ハーイ」

 車坂の言葉に、三つ子は素直に返事をして席に着く。カバンからテキストを取り出して、やる気十分な様子を見ていると、彼らもまだ子供だなとほっこりした気持ちになる。とりあえず、休憩時間まではしっかりと彼らの勉強のサポートに徹しようと心に決めた。


「先生、何か、僕たちに聞きたいことがあるみたいだね」
「陸玖もそう思う?僕もそう思った」
「朔夜先生の顔を見ていたら、すぐわかるけどな」

 しかし、それは開始十分で終わりを告げた。三つ子の方から私に話しかけてきたのだ。三人はいつも、一つの長机を三人で横並びに使っている。左から順番に陸玖(りく)、海威(かい)、宙良(そら)君の順番で座ってもらっている。その順番だと、最初に話しかけてきたのは、長男の陸玖だと思われる。座った時点ですでに入れ替わっていたとしたら、もうお手上げで、誰が誰だか判断ができないが。その後、海威君と宙良君が順番に話し出した。

 どうやら、私は表情作りに失敗していたようだ。心を読まれてしまい、内心で動揺していると、呆れたため息とあきらめの声が聞こえてきた。

「生徒に心を読まれてどうするんですか。中学生相手に情けない」

「まあ、朔夜先生ですからね。仕方ないですよ」

死神と神の眷属に言われてしまっては何も返せない。黙って聞き流していると、思いがけないフォローが入った。 

「朔夜先生を怒らないであげてよ」

「そうそう。朔夜先生が聞きたかったのは、僕たちの能力についてだよね。先生の事情で代役が必要だったみたいだけど、それがなくなって、僕たちの能力が実際にどんなものか見れなくて、残念がっているんだよね?」

「説明も面倒くさいし、かと言って、僕たちの能力を見せる気はないよ。残念でした」

 フォローしてくれるのかと思ったが、そうではなかった。完全に三つ子にからかわれている。三人ほぼ同時に話すので、誰が話しているのかわからなくなってしまう。

車坂は私が中学生にまでからかわれているのがおかしかったのか、肩を震わせて笑いをこらえていた。翼君も同じように笑いを隠そうと必死だった。


 なんとも平和な光景である。幼馴染が亡くなり、その家族が組合に追われているというのに、私の周りはいつも通りの日常が戻ってきた。

 向井さんに電話がつながらないまま、夏休みは過ぎていく。最初は心配していたが、徐々に彼女のことを考える日が少なくなり、荒川結女についても思い出すことはなくなった。

 組合の代表と唐洲という男は、九尾がこの世から消滅させた。どちらの能力が荒川結女を死に追いやったのか、それとも別の人間がやったのかはわからないが、それももう、どうでもよいことだ。

 組合が壊滅したことで、京都から西園寺家の残党がここに攻めてくるとしても、それは今すぐということはないだろう。私は夏休みを満喫することにした。

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