リセット

桐条京介

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第70話 入試当日

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 朝食時のやりとりで、いくらか恋人の少女の緊張を解せたと思っていたが、現実はそう簡単ではなかった。

 ホテルを出発し、食後の運動もかねて、ゆっくりと徒歩で移動する。大学までの距離もそう遠くはないし、受験の二時間前には出発している。

 徒歩であれば渋滞に巻き込まれる危険性も低い。小さな歩幅で進んでいても、十分に間に合う時間配分をしていた。

 およそ想定どおりの時間に受験をする大学に到着し、事前に割り当てられていた教室へ移動する。自らの受験番号が置かれている机に座り、あとは本番を待つだけだった。

 同じ高校からの受験というのもあり、水町玲子とは同じ教室、それも近くの机で入試を受けることになった。それだけでもだいぶ安心したらしく、恋人の少女はホっとした表情を浮かべた。

 だからといって、緊張がいきなり和らいだりはしない。参考書を机の上に広げて最後の追い込みをしつつも、どことなく水町玲子はそわそわしていた。

 落ち着かないと聞くまでもなく、傍から見ているだけで水町玲子の心情をある程度は理解できた。先ほどから繰り返し「大丈夫だよ」と声をかけているが、それさえ届いているか不明だった。

 深呼吸をしてみたり、椅子から立ってみたりするが、結局はどの方法も緊張を緩和させるに至らない。最終的には開き直るしかないのだが、そこまでの境地にはなかなか達せられないでいた。

「大丈夫だよ。玲子なら必ず受かるから」

「う、うん……うん……」

 一生懸命励ましても、返ってくるのは生返事ばかり。次第に哲郎までもが、本当に水町玲子は大丈夫なのかと心配になる。

 最後の手段としては、例のスイッチを使用して過去へ戻り、その上で水町玲子が緊張をしないで済む方法を探せばいい。

 すでに何回もの人生をやり直し、累計すれば百年を超える月日を生きてきた。今さら焦る必要はないのだ。

 それに大学はここだけでなく、少しレベルは落ちるが、他の大学も受験する予定になっている。いわゆる滑り止めである。

 水町玲子と一緒にキャンパスライフを満喫できるのであれば、なにも一流大学にこだわる必要はなかった。

 けれど恋人の少女が罪悪感を覚え、変によそよそしくなるのであれば意味はない。色々と対処を試みるつもりだが、それでも駄目なのであれば、迷わず例のスイッチを使用しようと考えていた。

 そのうちに入試を担当する教員が二名ほどやってきて、いよいよ大学受験が開始となる。

 参考書はもちろんしまわされ、机の上には指定された本数のみの鉛筆と消しゴムだけが置くのを許可される。

 チラリと横目で水町玲子を見るも、やはり緊張で硬くなっている。顔色も少しだけ悪い気がした。

 だがいざ受験が開始すると、よそ見をするのはご法度になる。不正受験の疑いをかけられ、退室させられるような真似は回避しなければならない。

 まだ心配ではあったものの、ひとまず哲郎は自分の答案用紙に集中する。以前の人生でも経験していたおかげで、問題自体の検討はあらかたついていた。

 他の受験生と比べても合格のハードルはずっと低く、鼻歌交じりに答案用紙を埋めていくのも可能だった。

 もちろん水町玲子にも、予想として出題されそうな問題を教えていた。哲郎が自作した模試の精度は、誰もが羨むほど素晴らしかったはずである。

 普段どおりの状態で挑めれば、二人揃っての合格も容易い。要するに、あとは水町玲子の精神的な問題だけが心配の種なのだ。

 時間ごとに科目が変わり、お昼までかけて一気に受験は進行する。集中していれば時間が過ぎるのもあっという間で、気がつけば本日の予定を終えていた。

 お昼になり、水町玲子と売店で購入してきたお弁当を食べようとする。哲郎が背中越しに声をかけると、返ってきたのは「はあ」という大きなため息だった。

   *

「もしかして……あまり手ごたえがよくないのか」

 急速に大きくなる不安が、哲郎にそのような質問をさせた。水町玲子の態度から、状況は深刻だと判断した。

 しかし肝心の恋人の少女は、頭を抱えるどころか満面の笑みを浮かべた。

「受験なら、今のところうまくいってるよ。哲郎君のおかげだね。チェックしてたところが、ほとんど出題されていたもの」

「そ、そうか。それなら、さっきのため息は一体……」

「ああ。テストがひと段落ついたから、伸びをするついでにね」

 なんということはない。哲郎がため息だと思っていたのは、ただの深呼吸だったのである。

 心配をして損をしたとまでは言わないが、なんともしまりのない結果には違いなかった。

「ごめんね。心配させてしまったのね」

「いや、いいんだ。それより、軽めの昼食を済ませてしまおう。午後の試験中に、眠気に襲われたら大変だ」

 哲郎の提案に水町玲子も同意する。実際に試験が開始されたからか、今朝までの強い緊張感は相手から感じられなくなっていた。

 開き直ってくれたのなら何の問題もない。実際に試験も大丈夫だったみたいだし、哲郎と水町玲子の合格確率は急上昇したはずだ。

「でも、やっぱり哲郎君は凄いよね」

 人目も気にせず、二人で食事をしている最中に、小声で水町玲子がそんなことを言ってきた。

 何が凄いのか尋ねてみると、哲郎の問題予想の的中率についてだった。

 一瞬にして、哲郎の喉に昼食が詰まる。たまらず咳き込んでいると、優しい恋人が「大丈夫?」とハンカチを差し出してくれた。

 受け取ったハンカチで口元を拭かせてもらったあと、自分のズボンのポケットにしまう。もちろん「洗って返すから」と相手に伝えている。

 水町玲子は「気にしなくていいのに」と言ってくれたが、こればかりは礼儀の問題でもある。

 本当にまだ18歳の少年ならともかく、累積してきた精神年齢は三桁を超えている。

 だからこそ、試験で出題される内容もわかっていた……などとは、口が裂けても言えない。的中率の高さから、信じてもらえるかもしれないが、それはそれで大きな問題になる。

 繰り返してきた人生で何をしてきたのか。どんな未来を見てきたのか。普通の人間であれば、気になって当然の内容ばかりだ。

 どの道を辿っても幸せが待っているのであれば伝えても構わないが、実際には悲劇的な結末ばかりだった。

「たまたまだよ。とはいえ、大事な時に勘が鋭くなるのなら、大歓迎だけどね」

 やはり無難な受け答えになる。多少のもどかしさを覚えるものの、これが一番だと哲郎自身がよく理解していた。

「本当だよね。私も、哲郎君くらいの直感があったならよかったのにな」

 本気でそう感じてそうな水町玲子を見て、思わず哲郎は笑ってしまう。するとすぐに怪訝そうな視線を向けられた。

「ごめん、ごめん。なんか可愛くてさ。でも気にする必要はないよ。だって、俺がずっと一緒にいるんだから」

 笑顔混じりにそう告げると、相手女性もニコっとして頷いてくれた。それだけで幸せになれる。本当は大学もどうでもよいのだ。

 人生を彩るための手段のひとつでしかなく、絶対に叶えなければならないものではない。あくまで水町玲子と楽しく過ごしたいがゆえに、進学を希望しただけにすぎなかった。

 周囲も大学進学を後押ししてくれたので、高卒すぐに就職ではなくこの道を選んだ。どのような結果が待っていようと、最愛の女性と一緒なら茨も甘美に感じられる。

 照れくさくて直接はなかなか言えないが、水町玲子がこの世界に存在してくれているだけで嬉しかった。心の底からお礼を言いたいぐらいだった。

 ゆえにこれまで積み重ねてきた努力も、決して嫌ではなかった。当然、これからも夢見た未来へ向けて突っ走っていく。そのためにも、まずは目の前の入試をクリアする。

   *

 昼食を終え、午後の部が開始される。水町玲子の緊張も相当に解れており、今朝みたいな心配をする必要もなくなった。

 時間は着実に過ぎていき、哲郎は己の答案用紙をきっちり埋めていく。静かな教室に、鉛筆の芯が紙と擦れ合う音だけが響く。

 軽めの昼食で済ませたため、若干の空腹感はあるが眠気はない。しっかり集中できた。

 初日が終わり、水町玲子とあれこれ会話をしながら宿泊しているホテルへ戻る。

 ホテルへ到着したら、まずは初日の試験の結果をそれぞれの家に電話で報告する。

 幼い頃は珍しかった電話も、ごくごく普通に各家庭に設置されるようになっていた。

 時代の進歩に周囲は驚き、瞳を輝かせては未来について豊かな想像力を働かせる。

 なかには本当に某アニメのようなロボットができるのでは、なんて話もあった。

 数十年先の未来では、確かにロボット犬なんてのも作られていた。完全な夢物語ではないのだから、この国の技術力は凄いと思う。

 ボロがでるのを避けるため、そうした話題に積極的に参加しない哲郎は、周囲からは常にクールで大人びているとの評価を得ていた。

 精神は実際に大人なのは別にして、成績が優秀で知識の幅が広いのも一因だろうと考えている。

「初日が終わっただけで、クタクタだよ」

 宿泊しているホテルの部屋で楽な格好に着替えたあと、水町玲子が哲郎のところへやってきていた。

 両者共に同じ部屋をとっているので、どちらかがより豪華なんてことはない。まったく変わらない内装が施されている。

「ホテルでも、自宅と同じくらいに眠られるものだね。心配しすぎていたみたい」

 ぎこちなさが消えた笑顔は、本来の水町玲子の魅力的なものになっている。

 食欲もあり、睡眠も十分にとれている。何も問題はなく、あとは体調管理に気を配ればいいだけだった。

 ホテルのルームサービスで軽食も頼めるため、不必要な外出はせずに快適な室内で過ごす。ひとりでは退屈かもしれないが、今回は二人で来ているので話相手には困らない。

 とはいえ、悠長に恋人同士の語らいを楽しんでいるわけにもいかない。哲郎たちは大学入試の真っ只中にいる。

 食事の時間を除けば、大半が明日の予習に費やされる。手書きでノートに作った哲郎特製の問題集を二人で解く。

 完全に思い出せるわけではないが、かなりの頻度で同じ系統の問題が出るのは確かだった。このノートをみっちりやりこんでおけば、好成績で大学にも合格できるはずだ。

 初日の今日が手応えばっちりだったので、恋人の少女も哲郎の問題予想への信頼をさらに厚くしていた。

 ここをチェックしておいた方がいいと言えば、すぐに頷いて懸命に自分のノートへ一生懸命に書き込む。そうしてるうちに、あっという間に眠る時間がやってくる。

 レストランでどのような夕食をとったのかさえ、あまり覚えてないくらい勉強に集中していた。これなら二日目も大丈夫だと、哲郎は半ば確信する。

「うふふ」

 そろそろ寝ようかとなった時に、勉強道具を片付けながら不意に水町玲子が笑った。

 どうしたのと尋ねると、顔を赤らめて「今の会話、夫婦みたいだよね」と小さな小さな声で呟いた。

 恐らくは自分で口にして照れたのだろうが、聞かされた哲郎の顔も熱くなるのを感じた。

「無事に入学できた大学を卒業する頃には、本当にそうなってるかもしれないね」

「……うん。色々と楽しみだね。今日はぐっすりと眠れそう」

 屈託のない笑みを浮かべる恋人に「おやすみ」と告げてから、哲郎は自分の部屋へ戻るのだった。
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