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第69話 俺は今、幸せだよ
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立派なホテルで豪華な食事を楽しんだあとは、恋人たちの夜をゆっくりと堪能する。
などという展開には、なるはずもなかった。なにせ哲郎も水町玲子も、明日には大事な大学受験を控えている身なのだ。
常日頃からアルバイト終わりに、水町玲子の部屋で二人きりで過ごしていたのもあり、極端に相手を意識したりはしなかった。
お互い、身を寄せ合いながら一生懸命に勉強する。とはいえ、あまりにやり過ぎても明日に響く。いざ本番という時に、前日の猛勉強による寝不足で、集中できませんでしたでは笑い話にもならない。
加えて哲郎は例のスイッチのおかげで、すでにこの年の同大学の入試を経験していた。さすがにすべては覚えていないものの、問題集を見れば、どのような問題が出されていたかは容易に思い出せる。
だからといって、すべてを教えたのでは何か不正をしたのではと怪しまれる危険性もある。合格ラインに届く程度に、この辺は出題されそうだと恋人の少女にチェックさせる。
あとは水町玲子の学力レベルがあれば、たいして苦戦せずに合格できるはずだ。哲郎ひとりが志望の大学に受かったところで、意味はない。あくまで二人揃っての合格を求めていた。
もちろん恋人の少女も同様の気持ちだった。ゆえに深夜まで、一生懸命に勉強をしたがるのだ。
「もう夜も遅い。勉強はこのくらいにして、そろそろ眠ろう」
哲郎の提案に同意したものの、水町玲子はいまだ参考書を閉じるような素振りを見せない。試験前日となり、いよいよ不安が大きくなっている。
あと半日もしないうちに、大学入試の本番がやってくる。焦りと緊張にまみれている恋人の少女の心情が、哲郎には手に取るようにわかる気がした。
これも長い人生経験のなせる業なのだろうが、いかに年寄りぶろうとも、今の哲郎はどこからどう見ても普通の高校生にすぎない。言葉だけで相手を落ち着かせるのは、難易度が相当に高かった。
「試験中に居眠りしたら、悔やんでも悔やみきれないだろう」
そのあとで「仮に失敗しても、他に受かった大学へ一緒に行けばいい」と言おうとしたが、口にすれば逆効果になるような気がして、喉元まで上がってきたのを懸命に飲み込んだ。
「それは……十分にわかっているのだけどね」
苦笑しながら、ようやく恋人の少女は参考書から目を離した。常に問題を解いてないと、不安で仕方がないといった顔をしている。
「哲郎君はきっと大丈夫。でも、私は……」
「そうだね。不安になるのは当然だ。俺もそうだからさ」
哲郎がそう言うと、意外そうな顔で恋人の少女は「哲郎君も?」と尋ねてきた。
「もちろんさ。こんな大きな関門を前にして、平常心でいろなんて無理な話だよ。実は緊張のしすぎで、レストランで食べたハンバーグの味もよくわからなかったくらいさ」
実際には哲郎はあまり緊張していなかった。けれど、それをそのまま言葉にすると、相手にやはり自分が駄目なのだという結論を出させかねない。
いざとなったら例のスイッチを使用するつもりであっても、あまり頻繁に頼りたくはなかった。何度も人生を繰り返してるうちに、裏技なしでストレートに終わりたい気持ちが何故か強くなっていた。
だが例のスイッチを手放すのは躊躇われる。これが人間の弱さと言われれば、哲郎は素直に納得できた。
「そうなんだ。哲郎君も私と一緒なんだね」
「当たり前だろ。俺を超人か何かだと思ってたの? それはそれで傷つくな。普通の人間なんだからさ」
「あはは。でも本当にそうだよね。……うん、なんだか楽になったような気がする」
水町玲子に、普段に近い感じの笑顔が戻ったのを確認し、哲郎もひと安心する。それでも少しは心配だったため、恋人の少女が眠るまで側にいることにした。
*
顔を洗い、洗面所でパジャマに着替えてきた恋人の少女がベッドに入って数分後。哲郎はサイドテーブルの近くに座っていた。
別に何をしようとも考えていない。単純に愛しい女性が眠るまで、近くにいたかっただけの話だ。
水町玲子も同意してくれたからこそ、哲郎は未だにこの部屋にいる。そして当の恋人の少女は、少しだけ顔を赤らめてこちらを見ていた。
「凄く、変な気分」
ベッドの中で、小さく水町玲子が呟いた。確かに、夜に一緒に勉強する機会は数多くあったけれど、寝る時まで一緒というのは記憶にない。
もっとも、それは今回の人生に限った話だ。繰り返してきた幾つもの過去の中には、同じ布団で眠った夜もあった。
だから哲郎に特別な意識はないのだが、水町玲子の場合は違う。自分が寝るベッドの側に哲郎がいる不思議さと緊張で、余計に目が冴えているみたいだった。
普段は布団で寝ているのに、ホテルに宿泊でベッドを使用しているのも影響してるのかもしれない。とにかく、これでは安心させるどころか逆効果だ。
そう考えた哲郎は退室しようとしたが、他ならぬ水町玲子が引きとめた。理由は、もう少し話がしたかったから。恋人の少女にそこまで言われると、簡単には自分の部屋へ戻られなくなる。
ベッドの中で、どこか意味ありげに水町玲子が「うふふ」と笑う。どのような意図があるのか尋ねてみたかったけれど、それではあまりに野暮だと哲郎は質問するのを止める。
伸ばされた手に、自分の手を重ねる。丁度、握手するような感じになり、哲郎の手のひらに水町玲子の体温が直接伝わってくる。
手を繋いだりするのは初めてではなかったが、今回は普段と違う特別な緊張感があった。
「哲郎君の手……暖かいね。こうしてると、明日の不安がなくなってくるみたい」
微笑む水町玲子の目を正面から見つめながら、哲郎は「よかったね」と応じる。そして、自分もそうだと付け加えた。
決して相手に合わせているわけではなく、本当にそうなのである。心地良い安心感が、哲郎の手から全身に行き渡っている。
ほとんど言葉を交わさないのに、とても幸せな時間に感じられる。ただ黙っていることが、至福なのだ。
もっとも、単純にボーっとしてるのが好きなわけではない。側に水町玲子がいてくれる。あくまでこの事実が大切だった。
「なあ、玲子……」
君は今、幸せか。そんなことを何気なく尋ねようとした哲郎だったが、質問は言葉として宙に舞わずに、再び肺の中へ呼吸として戻ってきた。
ふと恋人の少女の顔を見たら、いつの間にか心地良さそうな寝息を立てていたからだ。とても幸せそうに眠っている。
本来なら哲郎も眠いはずなのに、いつまでもその顔を見ていたい衝動に駆られた。質問をできなかったので、当然のごとく回答も得られていない。けれど現在、抱いている感情だけは確かだった。
「俺は今、幸せだよ」
眠っているはずなのに、その瞬間、水町玲子が少しだけ微笑んだような気がした。
本当は起きてるんだろう、などとは聞かない。真偽も別に気にしない。ただ、自分の感情を口にしただけ。哲郎にとっては、それ以外の何でもなかった。
「おやすみ」
ゆっくりと恋人の少女の手を離し、哲郎は立ち上がる。あとは部屋の電気を消して、少女の代わりに鍵をかけて、自分の宿泊予定の部屋へ戻ればいいだけだ。
廊下に出て、背にしたドアを閉める瞬間、これまた小さな声で「おやすみなさい」と聞こえたような気がした。
ガチャリと音を立てて閉じたドアは、水町玲子が本当に就寝前の挨拶をしてくれたのか、決して教えてくれなかった。まるで知らない方がいいと諭されているみたいである。
「また明日」
きっと部屋の中の女性には聞こえていないだろうけど、あえて哲郎はそう言ってから、自分の部屋へ入るのだった。
*
翌朝。ついに大学受験の当日を迎える。適度な睡眠時間を確保できたおかげで体調も良い。長距離移動の疲れも特に感じていなかった。
繰り返しの人生において何度も経験してきたイベントなので、特別な緊張感も存在しない。普段どおりにしていれば、高確率で合格できる自信が哲郎にはあった。
顔を洗い、身支度を整えていると部屋のドアがノックされた。朝食は決められた食堂でとることになっていたので、ボーイさんでないのはすぐにわかる。
となれば来室するのはひとりしかいない。恋人の少女こと水町玲子である。元気よく返事をしたあとで、哲郎は自身が宿泊している部屋のドアを開ける。
すると見慣れた顔があった。もちろん水町玲子だ。すでに洗顔や着替えは終えており、すぐにでも出発できる状態になっていた。
おはようと挨拶する哲郎に、笑顔で「おはよう」と返してくれる。そのあとで彼女は部屋の鍵が見当たらないと口にした。
当然である。水町玲子の部屋の鍵は、昨夜退室する際に哲郎が持ってきた。そうでなければ、鍵が開いたままの部屋で年頃の女性をひとりで眠らせることになる。
水町玲子の両親は、哲郎を信頼して大事なひとり娘を任せてくれた。だからこそ、問題を発生させるかもしれない迂闊な真似は避ける必要があった。
鍵を持ってきた理由などを説明し、納得してもらった上で返却する。簡単に信じてもらえるあたり、日頃の行いのおかげと胸を張ってもいいかもしれない。
哲郎の準備も終わったところで、水町玲子と一緒に食堂へ向かう。朝食をとって、少しゆっくりしたあとは、いよいよ受験の会場となる大学へ向かう。
「哲郎君はゆっくり眠れた」
尋ねてきた水町玲子の目の下には、少しだけクマができている。ベッドで横になっていたものの、実際にはあまり眠られなかったのだろう。
原因は深く追求するまでもない。もうすぐそこまで迫った大学入試のプレッシャーのせいである。
「実は全然でね。試験中に居眠りしたらどうしようと、今から心配しているところさ」
笑いながら、事実とは異なる台詞を相手に伝える。実際にはよく眠れていたのだが、正直に答えると余計に水町玲子を悩ませる。
やっぱり眠られない私の方が駄目なんだ。大事な試験を前にして、否定的な感情を持たれるのは芳しくない。少しでも、相手が安心できそうな台詞を選んで口にする。
哲郎でさえも寝られなかったのであれば、自分も仕方ないのかもしれない。このように考えてくれれば、前向きになれる余地が少しは残される。
想定したとおりに、食堂のテーブルの向かいに座っている最愛の女性は、安堵したような表情を浮かべた。十分に睡眠時間を確保できなかったのを、相当気にしていたのだろう。
「なんとか眠りについたと思っても、すぐに目が覚めてね。また寝ようとするんだけど、今度は目が冴えたりで大変だったよ」
「そうなんだ。でも、私も似たような感じだったから、哲郎君の今の気持ちがよくわかるな」
「二人して困ったものだね。俺が部屋を出るまでは、とても気持ち良さそうに眠っていたんだけどね」
そのあとで「玲子の寝顔は可愛かったな」と付け加えてみる。当たり前のように、視界に映っている少女は顔を真っ赤にした。
論じるのを避けるように、テーブルの上に置かれている朝食に集中し、急激に会話の頻度を減らす。相手を困らせて喜ぶ趣味はないので、哲郎は笑いながら「ごめん」と謝る。
「でも、少しは緊張が和らいだだろ。たまには、受験以外のことも考えていないとね」
「本当にそうだよね。だけど、恥ずかしすぎるから、さっきみたいな発言はもう控えてね」
「前向きに検討する」
「……もう、哲郎君たら」
若干、呆れたようにしつつも、水町玲子の表情はだいぶ穏やかさを取り戻していた。
などという展開には、なるはずもなかった。なにせ哲郎も水町玲子も、明日には大事な大学受験を控えている身なのだ。
常日頃からアルバイト終わりに、水町玲子の部屋で二人きりで過ごしていたのもあり、極端に相手を意識したりはしなかった。
お互い、身を寄せ合いながら一生懸命に勉強する。とはいえ、あまりにやり過ぎても明日に響く。いざ本番という時に、前日の猛勉強による寝不足で、集中できませんでしたでは笑い話にもならない。
加えて哲郎は例のスイッチのおかげで、すでにこの年の同大学の入試を経験していた。さすがにすべては覚えていないものの、問題集を見れば、どのような問題が出されていたかは容易に思い出せる。
だからといって、すべてを教えたのでは何か不正をしたのではと怪しまれる危険性もある。合格ラインに届く程度に、この辺は出題されそうだと恋人の少女にチェックさせる。
あとは水町玲子の学力レベルがあれば、たいして苦戦せずに合格できるはずだ。哲郎ひとりが志望の大学に受かったところで、意味はない。あくまで二人揃っての合格を求めていた。
もちろん恋人の少女も同様の気持ちだった。ゆえに深夜まで、一生懸命に勉強をしたがるのだ。
「もう夜も遅い。勉強はこのくらいにして、そろそろ眠ろう」
哲郎の提案に同意したものの、水町玲子はいまだ参考書を閉じるような素振りを見せない。試験前日となり、いよいよ不安が大きくなっている。
あと半日もしないうちに、大学入試の本番がやってくる。焦りと緊張にまみれている恋人の少女の心情が、哲郎には手に取るようにわかる気がした。
これも長い人生経験のなせる業なのだろうが、いかに年寄りぶろうとも、今の哲郎はどこからどう見ても普通の高校生にすぎない。言葉だけで相手を落ち着かせるのは、難易度が相当に高かった。
「試験中に居眠りしたら、悔やんでも悔やみきれないだろう」
そのあとで「仮に失敗しても、他に受かった大学へ一緒に行けばいい」と言おうとしたが、口にすれば逆効果になるような気がして、喉元まで上がってきたのを懸命に飲み込んだ。
「それは……十分にわかっているのだけどね」
苦笑しながら、ようやく恋人の少女は参考書から目を離した。常に問題を解いてないと、不安で仕方がないといった顔をしている。
「哲郎君はきっと大丈夫。でも、私は……」
「そうだね。不安になるのは当然だ。俺もそうだからさ」
哲郎がそう言うと、意外そうな顔で恋人の少女は「哲郎君も?」と尋ねてきた。
「もちろんさ。こんな大きな関門を前にして、平常心でいろなんて無理な話だよ。実は緊張のしすぎで、レストランで食べたハンバーグの味もよくわからなかったくらいさ」
実際には哲郎はあまり緊張していなかった。けれど、それをそのまま言葉にすると、相手にやはり自分が駄目なのだという結論を出させかねない。
いざとなったら例のスイッチを使用するつもりであっても、あまり頻繁に頼りたくはなかった。何度も人生を繰り返してるうちに、裏技なしでストレートに終わりたい気持ちが何故か強くなっていた。
だが例のスイッチを手放すのは躊躇われる。これが人間の弱さと言われれば、哲郎は素直に納得できた。
「そうなんだ。哲郎君も私と一緒なんだね」
「当たり前だろ。俺を超人か何かだと思ってたの? それはそれで傷つくな。普通の人間なんだからさ」
「あはは。でも本当にそうだよね。……うん、なんだか楽になったような気がする」
水町玲子に、普段に近い感じの笑顔が戻ったのを確認し、哲郎もひと安心する。それでも少しは心配だったため、恋人の少女が眠るまで側にいることにした。
*
顔を洗い、洗面所でパジャマに着替えてきた恋人の少女がベッドに入って数分後。哲郎はサイドテーブルの近くに座っていた。
別に何をしようとも考えていない。単純に愛しい女性が眠るまで、近くにいたかっただけの話だ。
水町玲子も同意してくれたからこそ、哲郎は未だにこの部屋にいる。そして当の恋人の少女は、少しだけ顔を赤らめてこちらを見ていた。
「凄く、変な気分」
ベッドの中で、小さく水町玲子が呟いた。確かに、夜に一緒に勉強する機会は数多くあったけれど、寝る時まで一緒というのは記憶にない。
もっとも、それは今回の人生に限った話だ。繰り返してきた幾つもの過去の中には、同じ布団で眠った夜もあった。
だから哲郎に特別な意識はないのだが、水町玲子の場合は違う。自分が寝るベッドの側に哲郎がいる不思議さと緊張で、余計に目が冴えているみたいだった。
普段は布団で寝ているのに、ホテルに宿泊でベッドを使用しているのも影響してるのかもしれない。とにかく、これでは安心させるどころか逆効果だ。
そう考えた哲郎は退室しようとしたが、他ならぬ水町玲子が引きとめた。理由は、もう少し話がしたかったから。恋人の少女にそこまで言われると、簡単には自分の部屋へ戻られなくなる。
ベッドの中で、どこか意味ありげに水町玲子が「うふふ」と笑う。どのような意図があるのか尋ねてみたかったけれど、それではあまりに野暮だと哲郎は質問するのを止める。
伸ばされた手に、自分の手を重ねる。丁度、握手するような感じになり、哲郎の手のひらに水町玲子の体温が直接伝わってくる。
手を繋いだりするのは初めてではなかったが、今回は普段と違う特別な緊張感があった。
「哲郎君の手……暖かいね。こうしてると、明日の不安がなくなってくるみたい」
微笑む水町玲子の目を正面から見つめながら、哲郎は「よかったね」と応じる。そして、自分もそうだと付け加えた。
決して相手に合わせているわけではなく、本当にそうなのである。心地良い安心感が、哲郎の手から全身に行き渡っている。
ほとんど言葉を交わさないのに、とても幸せな時間に感じられる。ただ黙っていることが、至福なのだ。
もっとも、単純にボーっとしてるのが好きなわけではない。側に水町玲子がいてくれる。あくまでこの事実が大切だった。
「なあ、玲子……」
君は今、幸せか。そんなことを何気なく尋ねようとした哲郎だったが、質問は言葉として宙に舞わずに、再び肺の中へ呼吸として戻ってきた。
ふと恋人の少女の顔を見たら、いつの間にか心地良さそうな寝息を立てていたからだ。とても幸せそうに眠っている。
本来なら哲郎も眠いはずなのに、いつまでもその顔を見ていたい衝動に駆られた。質問をできなかったので、当然のごとく回答も得られていない。けれど現在、抱いている感情だけは確かだった。
「俺は今、幸せだよ」
眠っているはずなのに、その瞬間、水町玲子が少しだけ微笑んだような気がした。
本当は起きてるんだろう、などとは聞かない。真偽も別に気にしない。ただ、自分の感情を口にしただけ。哲郎にとっては、それ以外の何でもなかった。
「おやすみ」
ゆっくりと恋人の少女の手を離し、哲郎は立ち上がる。あとは部屋の電気を消して、少女の代わりに鍵をかけて、自分の宿泊予定の部屋へ戻ればいいだけだ。
廊下に出て、背にしたドアを閉める瞬間、これまた小さな声で「おやすみなさい」と聞こえたような気がした。
ガチャリと音を立てて閉じたドアは、水町玲子が本当に就寝前の挨拶をしてくれたのか、決して教えてくれなかった。まるで知らない方がいいと諭されているみたいである。
「また明日」
きっと部屋の中の女性には聞こえていないだろうけど、あえて哲郎はそう言ってから、自分の部屋へ入るのだった。
*
翌朝。ついに大学受験の当日を迎える。適度な睡眠時間を確保できたおかげで体調も良い。長距離移動の疲れも特に感じていなかった。
繰り返しの人生において何度も経験してきたイベントなので、特別な緊張感も存在しない。普段どおりにしていれば、高確率で合格できる自信が哲郎にはあった。
顔を洗い、身支度を整えていると部屋のドアがノックされた。朝食は決められた食堂でとることになっていたので、ボーイさんでないのはすぐにわかる。
となれば来室するのはひとりしかいない。恋人の少女こと水町玲子である。元気よく返事をしたあとで、哲郎は自身が宿泊している部屋のドアを開ける。
すると見慣れた顔があった。もちろん水町玲子だ。すでに洗顔や着替えは終えており、すぐにでも出発できる状態になっていた。
おはようと挨拶する哲郎に、笑顔で「おはよう」と返してくれる。そのあとで彼女は部屋の鍵が見当たらないと口にした。
当然である。水町玲子の部屋の鍵は、昨夜退室する際に哲郎が持ってきた。そうでなければ、鍵が開いたままの部屋で年頃の女性をひとりで眠らせることになる。
水町玲子の両親は、哲郎を信頼して大事なひとり娘を任せてくれた。だからこそ、問題を発生させるかもしれない迂闊な真似は避ける必要があった。
鍵を持ってきた理由などを説明し、納得してもらった上で返却する。簡単に信じてもらえるあたり、日頃の行いのおかげと胸を張ってもいいかもしれない。
哲郎の準備も終わったところで、水町玲子と一緒に食堂へ向かう。朝食をとって、少しゆっくりしたあとは、いよいよ受験の会場となる大学へ向かう。
「哲郎君はゆっくり眠れた」
尋ねてきた水町玲子の目の下には、少しだけクマができている。ベッドで横になっていたものの、実際にはあまり眠られなかったのだろう。
原因は深く追求するまでもない。もうすぐそこまで迫った大学入試のプレッシャーのせいである。
「実は全然でね。試験中に居眠りしたらどうしようと、今から心配しているところさ」
笑いながら、事実とは異なる台詞を相手に伝える。実際にはよく眠れていたのだが、正直に答えると余計に水町玲子を悩ませる。
やっぱり眠られない私の方が駄目なんだ。大事な試験を前にして、否定的な感情を持たれるのは芳しくない。少しでも、相手が安心できそうな台詞を選んで口にする。
哲郎でさえも寝られなかったのであれば、自分も仕方ないのかもしれない。このように考えてくれれば、前向きになれる余地が少しは残される。
想定したとおりに、食堂のテーブルの向かいに座っている最愛の女性は、安堵したような表情を浮かべた。十分に睡眠時間を確保できなかったのを、相当気にしていたのだろう。
「なんとか眠りについたと思っても、すぐに目が覚めてね。また寝ようとするんだけど、今度は目が冴えたりで大変だったよ」
「そうなんだ。でも、私も似たような感じだったから、哲郎君の今の気持ちがよくわかるな」
「二人して困ったものだね。俺が部屋を出るまでは、とても気持ち良さそうに眠っていたんだけどね」
そのあとで「玲子の寝顔は可愛かったな」と付け加えてみる。当たり前のように、視界に映っている少女は顔を真っ赤にした。
論じるのを避けるように、テーブルの上に置かれている朝食に集中し、急激に会話の頻度を減らす。相手を困らせて喜ぶ趣味はないので、哲郎は笑いながら「ごめん」と謝る。
「でも、少しは緊張が和らいだだろ。たまには、受験以外のことも考えていないとね」
「本当にそうだよね。だけど、恥ずかしすぎるから、さっきみたいな発言はもう控えてね」
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