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第二部 wildflower
第三十二話
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それからの礼は、子供のそばに寄り添って静かに暮らした。ちょうど耳丸が都に行く機会と重なって岩城の家にいる忠道への遣いに出した。耳丸の姉家族のこととともに旅の準備を進めさせるためだった。
礼は一日でも早く北へと向かいたかった。そのために必要なもの、馬でもなんでも用意するように、金をもたせた。
去は、礼が子供たちに深い愛情を持って日々を過ごしている様子に、安心していた。強情なところのある娘だから、一度こうしたいと決めたら曲げずに押し通してしまうかもしれないと危惧していたのだ。北方の実言のところに行きたいともう一度行ってくるのではないかと心配していた。実言のところに行ってはダメだと言った後は、悲しそうな顔をしていたが、今はだいぶ落ち着いて、ここで子供と共に実言を待つことに決めたのだと思った。
耳丸は都に三日滞在して束蕗原に帰ってきた。去に戻ってきたことを報告しに行った。
「今回は早かったのね」
普通なら五日は都にいるはずなのに、と去は何気なく言った。耳丸は邸の仕事が気になったので急いで戻って来たと言い訳して、その部屋を辞した。礼の部屋に行くと、いつものように子供たち、乳母や侍女たちで賑わっていた。耳丸が簀子縁に現れると、礼一人が輪から外れて耳丸の前にやってきた。
「お帰りなさい。疲れたでしょう」
礼はねぎらいの言葉を言った。耳丸は懐から忠道から預かった手紙を差し出した。礼は受け取ると、手紙の文字に目を落とした。手紙には、耳丸の姉たちのことは万事心得たと書いてあった。
「準備は整った。明日の夜だ」
耳丸は囁くと、礼は頷いた。
「わかった」
礼も囁いて、また皆の輪に戻っていった。耳丸は礼が輪に入って行くのを見届けると、老爺がいる小屋へと向かった。
その夜、出発前夜、耳丸は寝付けなかった。姉家族を助けるために礼と交わした取引は、やはり、命に関わる危険な旅になるはずだ。そんな北方の旅を礼にさせることは果たして本当にいいのか。しかし、旅に同行しなければ、礼はすぐに姉たちへの援助を止めてしまうだろう。礼はこの件に関しては、情け容赦はないはずだ。そこで、実言の顔が思い浮かんだ。実言はなんというだろうか。自分を信頼してくれている乳兄弟は。自分の出自からは考えられないほどに、自分を優遇してくれた。乳兄弟というだけなのに。
実言が自分の憂いを除くために耳丸をここに置いて、礼を守ってくれと言ったのに、その約束を破って礼を連れて行くことになるとは。
耳丸はこの期に及んでまだ、その気にはなれなかった。自分には礼と行く道しかないのに躊躇している。
いやな気持ちの中で少しまどろみ、夜明けとともに起きたが、今夜のことを思うと身震いしてくるのだった。
いつもの仕事……水汲みをしたり、薪割りをしたり、馬に餌をやったりと体を動かしていたら、朝餉の時間になり、台所で食事を摂った。
ここを立つのに、自分が持っていくべきものはなかった。姉家族の心配もなくなり、自分の身だけを考えればよく、何も思い残すことはない。
耳丸の身はいいが、礼のことを考えると、もう一度思いとどまらせた方がいいのではないかと思うのだった。
頭を下げて、姉の受けた恩は一生自分が違う形で払うから、どうか思い直して欲しいというべきか。自分の命が惜しいわけではないが、もし、礼に何かあったときにどうしたらいいだろうか。
あの子たちに再び会わせてやれなかったときに、どのような悲しみがどうしたらいいだろうか。
耳丸の足は自然と礼の住む離れに向かった。
耳丸が離れに通じる庭に来たときには、ちょうど侍女や去の弟子は誰もいなかった。話をするなら、今だと思い、庭から格子をあげた部屋の中を伺った。あげられた格子の内側には御簾が下げられているが、一箇所だけ御簾が上がり、几帳も巡ってない場所があり、部屋の中に礼が座っている姿が見えた。
礼は、広く胸の前をくつろげて、一人子供を抱いて、乳をやっている最中だった。白い肌が見えて、子供の頭が動いているのは、一生懸命吸っているからだろう。もう一人の子供は礼の座った膝元に仰向けに寝かしていて、礼は乳を吸う子とかわるがわるその様子を見ている。膝元に寝た子が手足を動かしているのを礼はにっこりと笑ったり、口を尖らせて表情を変えて気を引いたりしている。
二人をかわるがわる見つめて、優しい愛しさに溢れた表情をしている。
礼はこの我が子との慈しむべき時間を捨ててまで、実言のところに行きたいというのか。どちらが大切か、天秤にかけたのかと耳丸は思った。
子供は乳をたらふく飲んで、礼は子どもの口が離れると子どもを下に下ろした。
今まで子どもが吸い付いていた礼の白く丸い乳房が見えた。
礼はそのまま腕に抱いていた子供を膝元に置いて並べて、双子を眺めた。双子は乳を飲んでご機嫌のようで、手足を動かして可愛らしい笑い声をあげている。礼はじっと、我が子を眺めていたのに、急に双子の上に突っ伏した。その肩が揺れている。
耳丸は、礼は泣いているのだと思った。
愛しい我が子を残して、今夜旅立つことをやめたがっているのではないか。
渡り廊下から足音が聞こえ、その方へ視線をやると、縫が礼の部屋に向かっているところだった。耳丸は樹の陰に隠れて、静かにその場を立ち去った。
午後からも耳丸はいつものように、普段の自分の仕事をした。
いつも一緒のやせ細った老爺は、耳丸が束蕗原に来て重労働の薪割りや馬の世話をしてくれるので、自分の負担が減って嬉しそうだったのに、明日からまた一人でこの仕事をこなしていくのかと思うと、耳丸は申し訳なく思うのだった。
再び礼の部屋の前の庭に行くと、部屋の中には乳母がいて、礼と二人で双子を抱いていた。無言ではあるが、庭に現れた耳丸に礼は気づいて、抱いていた子どもを乳母に預けて、簀子縁へ出てきた。
「どうしたの?」
礼は沓を持ってきて階を下りてきた。そして、耳丸を誘うように、庭へと歩きだした。耳丸は礼に従ってついて行った。秘密の話を聞かれないように、邸から離れるのだ。
「何か、不都合でも起こったの?」
十分に離れから離れた庭の中で、礼は振り返って訊いた。耳丸は首を横に振った。
「……お前は、子どもを置いて、行けるのか。本当に、いいのか。……朝、お前が泣いている姿を見たのだ」
その言葉に礼は、合点がいった。
「もう心は決まっている。……魂を二つに引き裂いて、半分をここに置いていく。あの子たちを見守れるように。残りの半分はこの身とともに実言のところに行くわ」
礼は、少し潤んだ右目でひたと耳丸を見つめた。
「どんなに厳しい旅でも耐えて見せるわ。だから、どうか北の戦場に連れて行って」
「……わかった……恩は忘れない。あの取引には忠実に従う」
礼は、黙って頷いた。二人は今夜の確認をして、庭で別れた。
耳丸と別れた礼は、耳丸が言ったことを反芻していた。
実言のところに行くことは無謀なことだとわかっているけれど、行かないという選択肢はなかった。礼の夢に毎夜現れる実言の弱っていく姿をこのままここで感じるだけなんてできなかった。
この数日で我が子の寝顔、自分の乳首を一生懸命に吸っている姿、笑い顔、泣き顔、全てを心に刻んだ。必ず、またこの子たちの元に帰ってくるのだと思っているが、万が一のことがあっても悔いはないほどに、一つ一つの触れあいに心を込めた。今夜母親は忽然と消えることを知らない我が子は、母親が部屋に現れると、我さきにと先を争って礼の足元へと這って来た。礼は次々と抱き上げて頬ずりをした。子供達はくすぐったそうに、ころころと笑い声をあげて、まだはっきりと言葉を話せない子供たちの「あー」「まー」という声が礼の愛情の返事のように感じだ。
夜が来た。いつものように礼は子供や乳母たちとともに、同じ部屋で休んだ。まんじりともせず、夜が更けるのを待ち、皆が寝静まったのを感じで起き上がった。
すぐそばで眠っている二人の子は寝返りを打って、かけている衾がずれている。礼は、衾を掛け直して、ゆっくりとひとりひとり子の頭を撫でた。柔らかな髪が優しく礼の指にまとわりついてくる。いくらでもそうやって時間が過ぎていきそうなのを、礼は心を鬼にして止めた。
隣の部屋を移って机の前に来ると、礼は箱の中にしたためていた手紙を出した。それは、去宛の手紙で、今から自分がすることと、我が子のことを書いていた。礼は手早く服を着替えた。耳丸と合流したら、旅に合った服装に変えるため、薬草を作るときに着る普段着を身にまとった。そして、用意していた荷物をまとめた袋を腰に巻くと、再び机の前に座った。そばに鏡を置いて、その中を覗く。隻眼の自分の顔が写っている。その表情は
悲しいのか、嬉しいのかわからない。
礼は、後ろ髪を集めたら左肩から胸へ垂らして紐で結ぶと、紐の下をそっと手に持った。
心は夫の元へと駆けて行く。逸って仕方がない。どうか、実言、待っていて、と。
礼は簀子縁から階へと足を忍ばせ、庭を突っ切って耳丸と示し合わせた待ち合わせの場所へ向かった。去の邸は、周りを築地で囲っているところもあれば、小柴垣になっているところもあり、邸の敷地から出るのはたやすかった。注意しなければいけないのは、女が深夜男を邸に入れて逢引きしているかもしれず、そんな男女に見咎められないことだった。
待ち合わせは、束蕗原の庄の外れの丘にある楠の下だ。そこは、束蕗原から北の方角に向かう道に合流する。礼は小走りになってその場所へ急ぐと、雲に隠れていた月がその間から光を落として、楠の下の影を浮き上がらせた。二頭の馬と共に立っている一つの人影だ。礼は無言でその影に近づいた。
朝になった。
去の屋敷は大騒ぎになった。乳母や侍女たちの眠気は一気に吹き飛び、礼を探した。やがて、礼の部屋の机の上を見ることになる。すぐに去が呼ばれた。去は何事かと、慌てふためく侍女や弟子たちを不思議にも疎ましくも感じながら、礼の部屋まで連れてこられた。机の周りにできた侍女たちの垣が、去の入室で道を開けた。去は、驚きながらその中を通って、礼の机の前に来ると、縫が指し示すものを見た。
「……去様!」
侍女たちは去を支えた。去は、驚きのあまり崩れ落ちたのだ。
一瞬で何が起きたのか悟った。
礼の机の上には、射干玉の美しい髪が削ぎ落とされて、置かれている。その上に去宛ての手紙が置いてあり、宛名の筆蹟は礼のものだった。
去は卒倒するしかなかった。
ああ、髪を削ぎ落として行ったのは、礼の決心の表れなのだろう。女が守るべき長い髪を落としてまでも、その旅の先にある人にかけているということを。
去は支えられ横になりながら、やられた!と思った。あの子は、やはりやり通してしまった、と。悲しいことだが、あの子らしいとも思えた。
去は切り替えの早い人で、手紙を読まなくても自分に託されたことを、双子をどうしようか、ともう考え始めていた。
礼は一日でも早く北へと向かいたかった。そのために必要なもの、馬でもなんでも用意するように、金をもたせた。
去は、礼が子供たちに深い愛情を持って日々を過ごしている様子に、安心していた。強情なところのある娘だから、一度こうしたいと決めたら曲げずに押し通してしまうかもしれないと危惧していたのだ。北方の実言のところに行きたいともう一度行ってくるのではないかと心配していた。実言のところに行ってはダメだと言った後は、悲しそうな顔をしていたが、今はだいぶ落ち着いて、ここで子供と共に実言を待つことに決めたのだと思った。
耳丸は都に三日滞在して束蕗原に帰ってきた。去に戻ってきたことを報告しに行った。
「今回は早かったのね」
普通なら五日は都にいるはずなのに、と去は何気なく言った。耳丸は邸の仕事が気になったので急いで戻って来たと言い訳して、その部屋を辞した。礼の部屋に行くと、いつものように子供たち、乳母や侍女たちで賑わっていた。耳丸が簀子縁に現れると、礼一人が輪から外れて耳丸の前にやってきた。
「お帰りなさい。疲れたでしょう」
礼はねぎらいの言葉を言った。耳丸は懐から忠道から預かった手紙を差し出した。礼は受け取ると、手紙の文字に目を落とした。手紙には、耳丸の姉たちのことは万事心得たと書いてあった。
「準備は整った。明日の夜だ」
耳丸は囁くと、礼は頷いた。
「わかった」
礼も囁いて、また皆の輪に戻っていった。耳丸は礼が輪に入って行くのを見届けると、老爺がいる小屋へと向かった。
その夜、出発前夜、耳丸は寝付けなかった。姉家族を助けるために礼と交わした取引は、やはり、命に関わる危険な旅になるはずだ。そんな北方の旅を礼にさせることは果たして本当にいいのか。しかし、旅に同行しなければ、礼はすぐに姉たちへの援助を止めてしまうだろう。礼はこの件に関しては、情け容赦はないはずだ。そこで、実言の顔が思い浮かんだ。実言はなんというだろうか。自分を信頼してくれている乳兄弟は。自分の出自からは考えられないほどに、自分を優遇してくれた。乳兄弟というだけなのに。
実言が自分の憂いを除くために耳丸をここに置いて、礼を守ってくれと言ったのに、その約束を破って礼を連れて行くことになるとは。
耳丸はこの期に及んでまだ、その気にはなれなかった。自分には礼と行く道しかないのに躊躇している。
いやな気持ちの中で少しまどろみ、夜明けとともに起きたが、今夜のことを思うと身震いしてくるのだった。
いつもの仕事……水汲みをしたり、薪割りをしたり、馬に餌をやったりと体を動かしていたら、朝餉の時間になり、台所で食事を摂った。
ここを立つのに、自分が持っていくべきものはなかった。姉家族の心配もなくなり、自分の身だけを考えればよく、何も思い残すことはない。
耳丸の身はいいが、礼のことを考えると、もう一度思いとどまらせた方がいいのではないかと思うのだった。
頭を下げて、姉の受けた恩は一生自分が違う形で払うから、どうか思い直して欲しいというべきか。自分の命が惜しいわけではないが、もし、礼に何かあったときにどうしたらいいだろうか。
あの子たちに再び会わせてやれなかったときに、どのような悲しみがどうしたらいいだろうか。
耳丸の足は自然と礼の住む離れに向かった。
耳丸が離れに通じる庭に来たときには、ちょうど侍女や去の弟子は誰もいなかった。話をするなら、今だと思い、庭から格子をあげた部屋の中を伺った。あげられた格子の内側には御簾が下げられているが、一箇所だけ御簾が上がり、几帳も巡ってない場所があり、部屋の中に礼が座っている姿が見えた。
礼は、広く胸の前をくつろげて、一人子供を抱いて、乳をやっている最中だった。白い肌が見えて、子供の頭が動いているのは、一生懸命吸っているからだろう。もう一人の子供は礼の座った膝元に仰向けに寝かしていて、礼は乳を吸う子とかわるがわるその様子を見ている。膝元に寝た子が手足を動かしているのを礼はにっこりと笑ったり、口を尖らせて表情を変えて気を引いたりしている。
二人をかわるがわる見つめて、優しい愛しさに溢れた表情をしている。
礼はこの我が子との慈しむべき時間を捨ててまで、実言のところに行きたいというのか。どちらが大切か、天秤にかけたのかと耳丸は思った。
子供は乳をたらふく飲んで、礼は子どもの口が離れると子どもを下に下ろした。
今まで子どもが吸い付いていた礼の白く丸い乳房が見えた。
礼はそのまま腕に抱いていた子供を膝元に置いて並べて、双子を眺めた。双子は乳を飲んでご機嫌のようで、手足を動かして可愛らしい笑い声をあげている。礼はじっと、我が子を眺めていたのに、急に双子の上に突っ伏した。その肩が揺れている。
耳丸は、礼は泣いているのだと思った。
愛しい我が子を残して、今夜旅立つことをやめたがっているのではないか。
渡り廊下から足音が聞こえ、その方へ視線をやると、縫が礼の部屋に向かっているところだった。耳丸は樹の陰に隠れて、静かにその場を立ち去った。
午後からも耳丸はいつものように、普段の自分の仕事をした。
いつも一緒のやせ細った老爺は、耳丸が束蕗原に来て重労働の薪割りや馬の世話をしてくれるので、自分の負担が減って嬉しそうだったのに、明日からまた一人でこの仕事をこなしていくのかと思うと、耳丸は申し訳なく思うのだった。
再び礼の部屋の前の庭に行くと、部屋の中には乳母がいて、礼と二人で双子を抱いていた。無言ではあるが、庭に現れた耳丸に礼は気づいて、抱いていた子どもを乳母に預けて、簀子縁へ出てきた。
「どうしたの?」
礼は沓を持ってきて階を下りてきた。そして、耳丸を誘うように、庭へと歩きだした。耳丸は礼に従ってついて行った。秘密の話を聞かれないように、邸から離れるのだ。
「何か、不都合でも起こったの?」
十分に離れから離れた庭の中で、礼は振り返って訊いた。耳丸は首を横に振った。
「……お前は、子どもを置いて、行けるのか。本当に、いいのか。……朝、お前が泣いている姿を見たのだ」
その言葉に礼は、合点がいった。
「もう心は決まっている。……魂を二つに引き裂いて、半分をここに置いていく。あの子たちを見守れるように。残りの半分はこの身とともに実言のところに行くわ」
礼は、少し潤んだ右目でひたと耳丸を見つめた。
「どんなに厳しい旅でも耐えて見せるわ。だから、どうか北の戦場に連れて行って」
「……わかった……恩は忘れない。あの取引には忠実に従う」
礼は、黙って頷いた。二人は今夜の確認をして、庭で別れた。
耳丸と別れた礼は、耳丸が言ったことを反芻していた。
実言のところに行くことは無謀なことだとわかっているけれど、行かないという選択肢はなかった。礼の夢に毎夜現れる実言の弱っていく姿をこのままここで感じるだけなんてできなかった。
この数日で我が子の寝顔、自分の乳首を一生懸命に吸っている姿、笑い顔、泣き顔、全てを心に刻んだ。必ず、またこの子たちの元に帰ってくるのだと思っているが、万が一のことがあっても悔いはないほどに、一つ一つの触れあいに心を込めた。今夜母親は忽然と消えることを知らない我が子は、母親が部屋に現れると、我さきにと先を争って礼の足元へと這って来た。礼は次々と抱き上げて頬ずりをした。子供達はくすぐったそうに、ころころと笑い声をあげて、まだはっきりと言葉を話せない子供たちの「あー」「まー」という声が礼の愛情の返事のように感じだ。
夜が来た。いつものように礼は子供や乳母たちとともに、同じ部屋で休んだ。まんじりともせず、夜が更けるのを待ち、皆が寝静まったのを感じで起き上がった。
すぐそばで眠っている二人の子は寝返りを打って、かけている衾がずれている。礼は、衾を掛け直して、ゆっくりとひとりひとり子の頭を撫でた。柔らかな髪が優しく礼の指にまとわりついてくる。いくらでもそうやって時間が過ぎていきそうなのを、礼は心を鬼にして止めた。
隣の部屋を移って机の前に来ると、礼は箱の中にしたためていた手紙を出した。それは、去宛の手紙で、今から自分がすることと、我が子のことを書いていた。礼は手早く服を着替えた。耳丸と合流したら、旅に合った服装に変えるため、薬草を作るときに着る普段着を身にまとった。そして、用意していた荷物をまとめた袋を腰に巻くと、再び机の前に座った。そばに鏡を置いて、その中を覗く。隻眼の自分の顔が写っている。その表情は
悲しいのか、嬉しいのかわからない。
礼は、後ろ髪を集めたら左肩から胸へ垂らして紐で結ぶと、紐の下をそっと手に持った。
心は夫の元へと駆けて行く。逸って仕方がない。どうか、実言、待っていて、と。
礼は簀子縁から階へと足を忍ばせ、庭を突っ切って耳丸と示し合わせた待ち合わせの場所へ向かった。去の邸は、周りを築地で囲っているところもあれば、小柴垣になっているところもあり、邸の敷地から出るのはたやすかった。注意しなければいけないのは、女が深夜男を邸に入れて逢引きしているかもしれず、そんな男女に見咎められないことだった。
待ち合わせは、束蕗原の庄の外れの丘にある楠の下だ。そこは、束蕗原から北の方角に向かう道に合流する。礼は小走りになってその場所へ急ぐと、雲に隠れていた月がその間から光を落として、楠の下の影を浮き上がらせた。二頭の馬と共に立っている一つの人影だ。礼は無言でその影に近づいた。
朝になった。
去の屋敷は大騒ぎになった。乳母や侍女たちの眠気は一気に吹き飛び、礼を探した。やがて、礼の部屋の机の上を見ることになる。すぐに去が呼ばれた。去は何事かと、慌てふためく侍女や弟子たちを不思議にも疎ましくも感じながら、礼の部屋まで連れてこられた。机の周りにできた侍女たちの垣が、去の入室で道を開けた。去は、驚きながらその中を通って、礼の机の前に来ると、縫が指し示すものを見た。
「……去様!」
侍女たちは去を支えた。去は、驚きのあまり崩れ落ちたのだ。
一瞬で何が起きたのか悟った。
礼の机の上には、射干玉の美しい髪が削ぎ落とされて、置かれている。その上に去宛ての手紙が置いてあり、宛名の筆蹟は礼のものだった。
去は卒倒するしかなかった。
ああ、髪を削ぎ落として行ったのは、礼の決心の表れなのだろう。女が守るべき長い髪を落としてまでも、その旅の先にある人にかけているということを。
去は支えられ横になりながら、やられた!と思った。あの子は、やはりやり通してしまった、と。悲しいことだが、あの子らしいとも思えた。
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