あなた New Romantics1

螺良 羅辣羅

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第1部あなた

第二章13

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 雪と会うことを許すかのように降り続いた雨は止んだ。晴れ渡った青い空が頭上に広がった。いつもの約束の場所に先に来たのは実津瀬だった。稽古場で久しぶりに舞の練習をしてから、速足でここまで来たのだった。
 随分と間が空いたから雪に会えると思うと気持ちが逸る。あたりを見回して雪がまだ来ていないことを確認すると、実津瀬は息を整えた。しばらく待ったが、雪が現れる気配がないので、実津瀬は椿の樹の陰で先ほどまで練習していた舞の方を黙々と舞った。
「実津瀬様…」
 後ろで囁く声が聞こえて、実津瀬は振り返った。
「雪」
「お待たせしましたわね」
「ああ、少しばかり待った。だから、ここであれやこれや話す前にいつもの場所に行こう」
 実津瀬は申し訳なさそうに俯く雪の左手を取ると、庭の中を突き進んだ。
「実津瀬様……!」
 走る実津瀬について行くのが精一杯の雪は、足がもつれそうで実津瀬を制するように声を上げた。
「ああ、悪い……久しぶりに雪に会ったから、気持ちが抑えられないようだ。ここからは歩こうか」
 実津瀬は立ち止まって、雪の息が雪が整うのを待った。その間も手は離さなかった。
「ああ、ごめんなさい」
「いいや、私が悪いのだ。もう歩いてもいいかい」
 雪が頷くと、実津瀬は雪と肩を並べて歩き始めた。
「先ほどは、舞の練習をされていましたわね。背筋が伸びて美しい立ち姿。いつもあなた様の舞を見るのは遠くからですから、あんな近くで見られて嬉しかったですわ」 
「あなたのためならいくらでも舞ってあげるよ。今度、森の中で舞ってもいい」
「まあ、うれしい」
「いくらでも近くで見てよ」
 雪は嬉しそうに笑って頷いた。
 いつもの従者の寝泊まりする館まで来ると、空いている部屋を探した。
「宴が近いですから、人が集められているため部屋が空いていませんわね」
 後ろで雪が言った。実津瀬は妻戸を押して何も置いていない部屋を見つけ、その中に滑り込んだ。
「よかった、空いていたよ」
 雪が後ろ手に妻戸を閉めたところで、実津瀬は振り返った。下から見つめる雪と目が合うと、雪は実津瀬の胸に顔を寄せて、脇の下からその背中に両腕を回した。その勢いが思った以上に強かったので、実津瀬は受け止めきれずにその場に雪と一緒に尻を着いた。
 しばらくの沈黙の後に。
「……お会いしたかった…」
 と吐息のように雪の口から漏れた。その声が聞こえると、実津瀬は雪の頤に指をあてがい、上を向かせると、その唇を吸った。そして、放すと実津瀬は答えた。
「私もだ……あなたと会うのに随分と間が空いてしまったもの」
「ええ、本当に……仕方ないことと思って、日中は仕事をしていても夜に衾を被ってふっとすると、あなた様のことを思い出して寂しさが込み上げていました。あなた様が待ってくださっているとわかっているのだから、今日はいつか来る者ですが、心は早く時よ経てと願って、待ち遠しかったですわ」
 としおらしいことを言うので、実津瀬は腕の中の雪を強く抱き締めた。
「私だって、あなたを思わない日はなかったよ。こうして、今日会えてよかった」
 と、耳元に囁いた。すると、遠くから人の話し声が聞こえた。
 女同士で簀子縁を歩きながら何やら言い合っている。
「どうして早く言ってくれないの!準備が追いつかないじゃないの!」
「私は言ったわよ。でも、あなたがきちんと聞いていなかったのよ!こちらだってもう準備は整っているものと思っていたもの」
 何かの準備ができていないと言い合う宮廷の侍女たちが通り過ぎるのを、実津瀬と雪は身を隠すように寝そべって待った。
 二人とも相手が悪いと言い合って引こうとせず、罵る言葉を言い続けて簀子縁をあっちへと歩いて行った。
 声が聞こえなくなっても二人は用心してすぐにはしゃべらずにいた。しばらくして。
「何の準備ができていないというのだろうね。伝達がきちんとできていないと、困ることが起こるのは必定だ。あなたの仕事も」
「そうですわね……あんなことはよく起こります。どちらも引かずに言い合って、ひどい時は取っ組み合いの喧嘩が起こることもありますわ」
「まあ、そんなことが起こるの。女の人も怖いものだね」
 二人は笑い合って、実津瀬は下に敷いた雪の体に身を沈めた。まだ衣服を着たままだが、久しぶりの抱擁を始めた。

 脱ぎ散らかした衣服の上にお互い自分の腕を枕にして向かい合い寝転がっていると、雪が話し始めた。
「月の宴に、私も手伝いをしに行くことになりました。篝火の中で舞う実津瀬様を見ることができますわ。楽しみ」
「そうか、あなたに見られていると思うと、より一層美しい舞を舞いたいものだ。宴は夜遅くまであるから、あなたは泊まりなの?」
「ええ、泊まってから朝、片づけをして宮廷に帰ることになると思いますわ。警備や世話係の人たちは余ったお酒や料理にあずかれるのが楽しみでしょうからね。夜通し飲んで騒いでいることでしょう。私たち女はその声でゆっくり眠れるかわかりませんわ」
 実津瀬は雪の話を聞いて少しばかり考えた。そして。
「私の舞は宵のうちに始まって、それが終わると邸に帰るのだけど、宴を行う夫沢施(ふたくし)の館は私の邸から遠くない。夜中に宮廷のあなたの部屋を訪ねるよりも、夫沢施のあなたが寝ている部屋を訪ねる方がたやすい。だから、いつか約束した一緒に朝を迎えることを実現させるのはどうだろう……」
「まあ、本当……」
「ああ、あなたの部屋に忍んで行って一緒に朝を迎えよう。こんな機会はないもの。共寝ができるなんて嬉しいよ」
 実津瀬が言うと、雪は腕枕を外して、寝たまま両手で顔を覆った。
「どうしたの?」
 そう実津瀬が訊ねても雪は返事せず、顔を覆ったままである。実津瀬は心配になって左手を伸ばし、雪の右手首を持つと自分の方へ引いた。すると、雪の顔半分が見え、その顔はにこにこと笑っていた。顔を覆っていたのは笑い声が漏れるのを抑えるためだと分かった。
「もう、何も返事をしてくれないから、何か心配事でもあるのかと思ったら、笑っているじゃないか!」
「だって、嬉しいのですもの。でも、へらへらとうれし笑いの顔など、はしたなくて実津瀬様に見せられませんわ」
 そう言って雪は手を下ろして、実津瀬を見た。
「こんなに早くに私の夢を叶えてくださるなんて」
「私にとっても夢だったから、叶える機会をみすみす見過ごすなんてできないよ」
 そして、実津瀬は再び雪の手首に手を伸ばし、引き寄せた。腕だけではなく、雪の体も。
 先ほどまで素肌を合わせていたはずだが、ひんやりした板の上に寝ていたら再び体を合わせたくなった。実津瀬は雪の胸の上に顔を埋めて約束を誓うのだった。


 蓮は薬を作り保管する館から厩に向かって束蕗原から来た助手の蜜という女と並んで歩いていた。連の向かい側から景之亮が馬を引く従者と一緒に門に向かって歩いていた。蓮の姿に気づいた景之亮は立ち止まり、その様子で蓮も目の前の大きな男が景之亮であることに気づいた。
「蓮殿」
 蓮は景之亮の前まで歩いて行った。
「急な用でこちらに参ったのですが、また夜の勤めがあるためこれから宮廷に行かなければなりません。あなたの顔を見ないでおこうとしたわけではないのですが、もう去るという時にあなたと出会えるとは幸運です」
 と言った。蓮は取ってつけたような言葉と思って聞いていた。
「今日は馬を使われるの」
「ええ、ここに来る前に遠出をして、そのまま参ったのですよ。あなたも、馬を乗られるのでしょう。いつか、景色の良いところに一緒に」
 景之亮は言いかけて。
「ああ、急がなければ……いけない。蓮殿、失礼しますね」
 申し訳なさそうな顔をして、急いで駆けて行った。馬を連れた従者が振り返って景之亮を待っている姿が見えた。
 蓮はその後ろ姿を見送った。その時、一緒に歩いていた助手の蜜と目が合った。男にそそくさと逃げられていく姿を見られたような気持ちになった。
 この邸に来た時は、蓮と会って帰ろうというのが景之亮の思いのようだ。しかし、それは実言から自分の娘を妻にと紹介された手前、気持ちとは裏腹であっても、蓮の顔が見たいと言わなければならないのだろう。
 それに、景之亮は蓮が馬に乗れることを知っていた。留学する前に伊緒理に会いたくて、馬に乗って束蕗原まで行くのに、大王に謁見する行列に突っ込んだ事件が耳に入っているのかもしれない。そうであれば、なぜそんな無礼なことをしたのかも知っているのだろう。
 蓮の過去を知っていても景之亮は、それでも岩城家の権力の前に、畏まり本心を隠して対応しなければならいないのかと、考えた。
 可哀そうな人……
 跳ね返りの権力者の娘を受け入れるための試練に耐えている景之亮は可哀そうだと思った。
 父は無理やりを嫌うから、景之亮に自由な判断をさせるだろう。だから、景之亮が岩城実言の娘でも断りを言ってくる可能性もあるのだけど。
 鷹取様……最後の言葉の続きは、一緒に馬で遠乗りをしようと言ってくださったかしら……
 蓮は蜜との視線を外すと、蓮が先に立って厩に向かって縦になって歩いた。


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