上 下
6 / 30

ブルースター 1

しおりを挟む
末永と学の話
………………………




「あなたに割いている時間は、彼にはないの。分かったなら身を引いて。」

こいつは何を言っているんだと思った。
学は大学帰りに通っている花屋のアルバイトで、今日も精を出していた。
進学後、花の勉強を始めてからは芙蓉と木槿の違いもわかるようになり、末永に手解きされながら始めた生花もなんとか見られるようになってきた。

全ては末永との未来を夢見ているからがんばれた。
そう思うだけで自然と優しい気持ちになれたし、そうして努力することができる自分も誇らしかった。

学は大学が終わってからも花の勉強をし、ブーケの作り方や見せ方、花言葉の意味と種類。季節や時期、それはもう凝り性な性格も相まって、花の国家資格と呼ばれる技能検定の勉強までしていた。
根を詰めるなよと心配する末永に、うるせえと照れながら反抗してまでやっていた。

なのに。

「え、まてって…、突然来て何。」
「あなたのせいで、私の人生めちゃめちゃよ!洋平の許嫁として今まで頑張ってきたのに、なんで途中から来たあなたに奪われないといけないわけ!?教えてよ!!ねえ!!」
「ちょ、っ!」

学の目の前に現れた清楚な女性は、その可憐な顔を涙で歪ませながら学の顔めがけて手を振り上げた。
それが顔に当たる前にパシリと止めると、その手首は学の手が回ってしまう程に華奢だった。

「わけわかんねえ、ちょっと落ち着けって。」
「あなたは!!!何年も努力してきた私を惨めにさせるのよ!男のくせに孕めるなんて気持ち悪い!私から洋平を奪うだけじゃなく、女としての矜持まで踏みにじるの!?」
「うわ、っ!」
 
掴んだ手を振り払うかのようにどんと強く押されて、学の体はよろめいた。このままだと花瓶を倒してしまう。慌ててその身を攀じると、花瓶こそ倒さなかったものの、その額を花の展示ケースの角に打ち付けた。

「ぐ、あっ…」

強い衝撃で脳が揺れる。目の前が弾けるようなスパークと共に熱湯を浴びたかのような熱と痛みが襲う。
そのままアスファルトの水はけの良い床にじわりと血が広がると、女性は店先のジョウロを蹴っ飛ばして大きな音を立てながら走り去っていった。

一体何なんだ。学は目の前がふわふわと揺れる酷い痛みと目眩に翻弄されながら、血に濡れた自分の手を見て小さく笑った。
やべえ、今日終わったら会う約束してたのに。
バイトのシフトや、優しい店主、予約されていたブーケも作らなきゃいけなかったのに。ああ、ついていない。そんなことを思いながら、なんだかもう痛いし熱いし眠たいし。

ああもう、全部まとめて起きたらやるから、少しだけ休ませてくれ。なんだかもう、痛すぎて涙すら出ない。あいつが見たら慌てるだろうか、それとも泣く?その様子をみたら笑ってやろう。
俺は多分大丈夫だから、そういってやりたい。そう思いながら、あいつに言いたいことあったんだと思いだして、その報告はお預けかとおもうと、少しだけ残念な気持ちになった。
学は声にならない音を漏らして、意識の泥濘の中に身を投じた。






左手が熱い。なんだか強く握りしめられているような感じだ。これじゃあ寝返りも打てないと、離してもらいたくて擽るようにその手を弄る。

「…、っ」

小さく息を呑む音が聞こえて、なぜだか手のひらを開くようにして指が絡みつく。何だこれ、どんな状況だと思いながらゆっくりと目を開くと、驚くほど顔の整った男が涙で顔を濡らしながら学を見つめていた。

「ゆ、め…?」

なんでイケメンが俺を見て泣いているんだ。学はゆるゆると手を持ち上げると、濡れた頬に触れるようにして、そっと涙を拭った。

「学、っ…」

温かい。夢じゃない。学の手に自分の手を重ねた男は、くしゃりと歪んだ笑みを見せた。
なんだかそんな顔をするのが不思議で、少しだけ可愛い。
俺の目の前にいるこの男の人が助けてくれたのだろうか。

「だれ、」

ふわふわと真綿に包まれるような思考の中、学は何も悪気もなくただ一言呟いた。名前を聞きたかったのだ。けれどたった二文字の言葉に、酷くうろたえた。はくりと唇を震わせて目を見開いたその顔は、まるで信じられないといったような面持ちだ。
何がそうさせるのかわからない。学は握られた手をじっと見つめた。なんだかその顔を、見ていられなかったのだ。



「あなたは頭を打って運ばれてきたんです。頭の傷は既に縫いましたが、気持ち悪いだったり、力が入らないとかはありませんか?」
「ありません。」

白衣を着た真面目そうな医師によって、自分の状況を説明されていた。その後も自分の名前や生年月日、住んでいるところや通っている大学など、当たり前のことを質問されて辟易しつつも、しっかりと答えていく。

なんで頭を売ったのかも覚えていない。大方水で足を滑らせたのだろう。学はバイト先で滑って転ぶたびに店主をひやひやさせていた。
頼むから歩くときは切狭をホルスターに嵌めてとお願いをされるくらいには、そそっかしい認定をされていた。

ああ、また心配かけてしまったなあと眉間にシワを寄せていると、末永というらしい美貌の男が心配そうに覗き込んできた。

「学、どうした。またどこか痛いのか?」
「ああ、ごめん。ちがくて…またやっちゃったなって。」

結局店主の予想は当たってしまったと肩をすくませると、なんとも言えない顔をしながら学を見つめる。そんな真っ直ぐに見つめられると少し照れる。なんだか居心地がわるくて目を逸らすと、明日また検査をすることを医師から告げられた。

「明日また来る。今日はゆっくり寝るといい。」
「え、いいよ。わるいし…末永さんだって仕事あるだろ?」
「…ほんとに、覚えていないのか。」

学は自分の巻いた種で運び込まれた病院で、これ以上末永に迷惑はかけられないと思って遠慮したのだが、何か違ったのか。
その黒い瞳がかすかに揺らいだ気がした。

「…俺は、お前と同じ大学に通っている学生だよ。」
「え、まじで!それは、悪い…」

なんと、同い年だとしたら物凄く落ち着いている。まるでもう、社会人ですと言われても騙される気しかしない。

「むしろ、俺とお前の仲だ。なんにも遠慮することはない。」
「ふは、なんだそれ。あんたやさしいな、モテそう。」
「…寝ろよ。また明日な。」
「あ、うん。」

気に触ったことでも言ってしまっただろうか、褒めたつもりなのに押し黙って辞してしまった。ガランとした一人の病室が少しだけ寂しい。
頭に巻かれた包帯が少しだけ窮屈で、そっと髪を隙間から抜き出しながら、襟足に触れたときだった。

「な、にこれ…。」

首の皮膚とは少し違う、まるで項を囲うようにしてつるりとした修復された傷の表面が指に触れた。

どくりと心臓が跳ねる。なんだこれ、なんだこれなんだこれ。
学は震える指先でそこをなぞると、跳ねる心臓を宥めるようにして深呼吸をした。
ベッドサイドの引き出しから、手鏡を取り出す。
ふらつく足を叱咤しながら、なんとか備え付けの洗面台まで行くと、恐る恐るその項を確認するように鏡を傾けた。

「は、…」

どくん、と一つ心臓がはねた。
学の項に刻まれていたのは、みまごうことなき番の証。深かったのだろうその傷は、それほど執着を受ける相手が自分にいるということを表していた。



翌日、結局昨日のことが気になって眠りが浅かった。出された味気ない病院食をもそもそ食べながら、そこに触れる。思い出さなくてはいけない気がした。そうだ、昨日来た末永は今日も来ると言っていた。ならば聞けばいい。
目を瞑って、深呼吸をする。昔のことを一つずつ思い出していく。何も問題はない、スライドショーのように引き出しからあふれる過去の思い出たちの中に、肝心な番の記憶だけは見当たらなかった。

「エピソード型の健忘症ですね。ある一部分だけ抜け落ちてしまうことを言います。それに関わるなにかに怪我の前後で触れたんでしょう。おそらく、それによるストレスが原因かと思います。」

生真面目そうな医師が言う言葉を聞きながら、そんな漫画みたいな話があるのかと思った。
無理に思い出そうとせず、自然と記憶が戻るまで待ちましょう。そう言われると、退院後一ヶ月は体の不調には気をつけるようにといわれた。
検査をした上で脳震盪を起こしたことと、縫ったこと以外は今のところ問題ないといわれる。
打っていたのが前頭部で良かったですねと言われ、自分の悪運の強さに苦笑いした。

「とりあえず普通に過ごせばいいってよ。まあ無理すんなとは言われたけど。」

約束通り顔を見せた末永は、一緒に大学に通っている俊くんと二人で見舞いに来てくれていた。俊くんは呆れたような目で学を見ると、ため息をはいた。

「まったく、人騒がせな…。きいちにいったらすげえ焦ってたぞ。あいつも凪連れて明日来るっつってたから。ちゃんと、大丈夫ってこと自分の口から言えよ。」
「おうよ。なんか悪いな、妊娠してんのに。」
「妊婦に心配かけたくねえなら気おつけるこった。ま、よかったよ。」

学はぎしりと音を立ててベッドに寄りかかると、そういえばさ、と切り出した。

「俺の番って、誰だか知ってる?」
「は?」
「ん?」

ぴたりと動きを止めた末永と俊くん様子を見て、自分はまたなにか変なことを言ってしまったのだろうかと戸惑う。
俊くんの眉間に深く刻まれたシワが、事の重大さを物語っているようで、尻の座りが悪くなる。

「いや冗談きついだろ。まじで言ってんのか?」
「桑原。」
「だけど、おまえ…」
「大丈夫。一番不安なのは学だ。」

俊くんが真相についてなにかいい掛けたのを、末永か止める。また自分の知らない自分がいる。学は泣きそうな、それでいて取り残されたような怯えた顔で耳を塞ぐと、違う、違うといって見を縮こませた。

「な、に。俺何したの…なんだよ、俺のことなのに、俺がわからないってなんなんだよ…」
「大丈夫だ。大丈夫、学は何も悪くない。」
「…忘れてんのは、悪いことじゃないのか!?」

もう、訳がわからなかった。俊くんの声で、混乱させて悪かった。と謝る声が聞こえる。違う、違うのだ。謝ってほしいわけじゃない。学はじわりと目の奥が熱くなる。不安で不安で押しつぶされそうだった。

肩を抱く末永の手が熱い。この手に縋ってしまいたくなる。もしかしたらとは思ったが、同時にイメージがつかずにその思考を振り払う。
確証の無い、そんな不透明な存在にさせてしまった。己の番に会うことがこんなにも怖い。

「帰って、今日は…ごめん、ちょっと疲れた。」
「…いこう、桑原。またな学。」
「………。」

スライド式の扉の向こうに、二人分の足音が消えていく。取り残された白い部屋で膝を抱えると、くしゃりと髪の毛を握った。
頭を打ち付けたときに溢れた血とともに、思い出まで流してしまったのだろうか。
普通に過ごした一週間だって覚えている。何を食べて、何をしたとか、あの日も花屋でブーケ用の花を選んでいた最中だったのだ。
頼まれたのは、ブルースターの花束だ。信じ合う心という花言葉を持つその小さな花を思い出して、大切なブーケを任されたのに放棄せざる負えなくなってしまった自分を恥じた。

信じることができるのだろうか、今の自分に。
さり、と項に触れた。もう傷は塞がっているはずなのに、まるで共鳴するかのようにジクリと痛みを感じた。


 
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

幸せなΩの幸せの約束

BL / 完結 24h.ポイント:99pt お気に入り:373

ピーナッツバター

BL / 完結 24h.ポイント:234pt お気に入り:1,484

誰がために鼓動は高鳴る

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:12

ジョン=シード

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

誰もシナリオ通りに動いてくれないんですけど!

BL / 連載中 24h.ポイント:25,078pt お気に入り:3,078

魔王さんのガチペット

BL / 連載中 24h.ポイント:1,029pt お気に入り:3,424

がむしゃら三兄弟  第一部・山路弾正忠種常編

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:532pt お気に入り:5

サラリーマン、オークの花嫁になる

BL / 完結 24h.ポイント:113pt お気に入り:231

処理中です...