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第1章 雨宮凛

怪我の功名②

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 連行先は保健室だった。

「失礼します」

 凛がそう言って扉を開けた。
 保健室の中は無人だった。どうやら保健の先生はいないようだった。

「翔くん、背中見せて」
「いや、でも……」

 さすがに女の子と二人きりの保健室で服を脱ぐのは恥ずかしいというか、何というか。

「いいから。でないと、愛梨みたいに叩くよ?」
「それだけはやめてください」

 凛が呆れた口調で、「じゃあ早く」と促した。
 くそ……ゴネようものなら本当に叩かれそうな気がする。
 俺は渋々とブレザーとカッターシャツを脱いで、Tシャツを肩のところまでまくった。めちゃくちゃ恥ずかしい。

「えっ、すごく腫れてる……。こんなに怪我してたんだ……」

 凛はその背中を見て、驚いた声を上げていた。彼女がどんな顔をしているのかわからないが、きっと悲痛な表情をしているのではないかな、と勝手に思っていた。

「これ、あの時にできた傷だよね?」

 凛が人差し指でそっと背中を撫でると、彼女の指の感触より前に激痛が走った。

「いでで……まあ、そうだな」
「どうして黙ってたの?」
「心配かけたくなかったから」

 それに、凛が怪我しなかったなら、それで良いと思えたからだ。

「もう……ばか」

 凛は呻くようにそう呟いて、消毒液を取り出して、ガーゼに浸してから、俺の背中に塗り始めた。

「いってぇ!」
「ちょっとの間、我慢してね。炎症して腫れてるところ以外にも、傷になってるところがあるから」
「はい……いぎぎぎぎ」

 ほったらかしたまま寝たのがまずかったのか、どうやら悪化してしまっているようだった。めちゃくちゃ痛い。
 何とか痛みに耐えつつ背中の消毒が終わると、今度は氷ボックスから氷を取り出してきて、二つの氷袋に入れた。それから水道水を少しだけ入れてから中が零れないようにしっかりとくくる。
 それから、俺の背中にその氷袋を当ててくれた。左の肩甲骨と腰あたりが一気に冷たくなった。

「冷てっ」
「腫れが酷いところだけ、冷やさせて」

 怪我から時間が経ってしまっているが、炎症が続いているので、患部を冷やした方が良いと判断したのだろう。代謝の低下で患部の炎症を抑えられるのだ。アイシングには、血管を収縮させて腫れや痛み、青あざの元になる内出血を緩和する効果もある。
 凛はただ黙って俺の背中と腰に氷袋を当てていた。無音の保健室に、凛と二人きり。氷袋の冷たさとは別の意味で、ドキドキせざるを得ない。

「痛い?」
「今は、冷たい」

 凛は「だよね」と笑ってから、また黙り込んだ。
 そのまま、無音のまま時間が過ぎて、4限目の始業チャイムが鳴ってしまっていた。背中を向けているので、彼女が何を考えていて、どんな顔をしているのか、全く想像がつかない。

「ごめんね……私のせいで」

 暫くの沈黙ののち、彼女はそう呟くように言った。
 やはり昨日の事を悔やませてしまっているようだ。そういう風に思われそうだから、黙っていたのに。

「凛が怪我しなかったなら、それでいいよ」
「でも、それで翔くんがこんなに怪我してたら、意味ないよ」
「あるよ。凛が怪我しなかった」
「そういう事じゃなくて!」
「そういう事だよ」

 そう答えると、凛は黙った。

「凛に怪我をしてほしくなかっただけだし。あとは、凛に……そうやって、自分を責めて欲しくなかっただけだから」
「……そんな事言われたら何も言えなくなっちゃうよ」

 凛が呆れたように、息を吐いた。
 彼女はまた黙ったまま、しばらく氷袋を背中と腰に当てていた。少しずらしてくれたり、浮かせてくれたりと、冷えすぎないように気を遣ってくれているようだ。
 凛は冷たくないのだろうか。もうかれこれ一〇分くらい氷袋を持っているように思うのだけれど。

「やっぱり、翔くんって思ってた通りの人だね。だから、きっと……」

 凛がぽそりと言った

「え?」
「ううん、何でもない」

 だから、の後に何とつなげようとしたのだろうか。今の流れからすると、だから、は合わないように思う。何か変だ。

「何?」
「……最初に会った時のイメージのまんまだなって。優しくて、気配りができて」
「そんな事ないさ」
「そんな事あるよ」

 くすっと背中越しで凛が笑った。
 彼女の息が背中に当たって、少しくすぐったい。

「そろそろ一五分くらいかな。あんまり長く当てるとよくないんだって」

 言ってから、凛は氷袋を離して、横に置いた。
 それから、ぴとっと指で冷やしていた箇所を突いた。

「痛い?」
「いや、今冷やしてたから麻痺してて感覚ない」
「そっか」

 凛がそう言いながら、何故か俺の背中に顔を寄せた気配がした。そして、その時に肩甲骨の患部に何か、小さくて柔らかいものが触れた。先ほどの指とは違う、なにかふっくらとした感触。背中に凛の髪がふわっと触れて、いい匂いが鼻腔を満たすと同時に、凛の吐息が背中を撫でる。何で触れられたのか、わからなかった。

「凛、今……」
「──はい、もういいよ。Tシャツ降ろして」

 俺が訊こうとすると、それを遮るように、凛は言った。
 そのまま氷袋を手に取って、流し場に行ってしまった。
 カッターシャツを羽織りながら凛をこっそり盗み見ると、何故か顔を赤らめていて……そっと、指先で自分の唇に触れていた。

(……まさか、な?)

 さっき触れたのは、彼女の唇だったり、そんな事は……きっとないだろう。うん、ないはずだ。する意味がない。

「さ、帰ろっか」

 凛が何事もなかったかのように氷袋をもとの場所に戻して言う。

「昼休みか五限終わりにもう一回冷やした方がいいかも」
「わかった」

 ブレザーを羽織って、高鳴る心臓を押さえつける。
 不意に彼女の唇に目がいってしまったのだ。

「翔くん」
「なに?」
「……ありがとう」
「もう昨日それは言われたよ」
「うん……それでも、ありがとう」

 凛は顔を少し赤く染めながら、微笑んだ。その笑顔がとても綺麗で、思わず見惚れてしまう。

「でも、もうそういう無茶はしないでね?」
「わかったけど、凛も騒ぎを起こして、もみくちゃにされないようにな」
「……気をつけます」

 言った、お互い噴き出す。
 背中は痛いし、しばらく大変そうだけど……凛のこの笑顔が見れたのなら、怪我の功名だ。
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